第13話 妹夫婦の秘密と契約書

『本当にやるんだな。これを』

『うん。……緊張するけど、思いっきりやってよ』

『良いか? ストップって言ったら中断するから、嫌だと思ったら叫べよ?』

『分かってるって。そっちこそ、中途半端な優しさは捨ててね』

『わかった』 


 動画の内容は、龍世くんの視点で制服姿の薫さんを撮影している動画だった。

 薫さんは何故か龍世くんに背中を向けたまま会話していて、表情がわからない。あと室内なのに、学生カバンを手に取っている。


 映像の隅に姿見が映っていて、龍世くんは紙袋を被って胸元に小型カメラをつけているのが見える。龍世くんの服装は黒のジャケットにズボンと、まるで工場の作業員の出勤時の私服の様な格好で不自然だった。


「このふたり、何をするつもりかしら」

「さぁ。先輩、これ以上見ないほうが」


 どうしてだろう。何かが引っかかる。

 この映像を最後まで見たら、私たちの関係まで変わってしまう気がする。

 見ちゃいけない。けど、止められない。私は直近で怜先輩を止めるよう肩に手をかける。


「でも、薫の家族として、普段あのふたりが何をしているのか気になる」


 だが、先輩は私の顔を見ずに映像を食い入る様にみる。先輩の手は震えている。

 でも、止められないみたいだった。

 ——だったか、今さら気づいたみたいに。


『……どうしたの?忘れ物?』

『いや、心の準備をしないとな。元の関係に戻れないかもしれないからな。見られたらまずいし』


『ふふ、大丈夫だよ。私たちの絆はこんなんじゃ終わらないかなぁ。どうせ、お父さんは仕事に夢中でいないし、お母さんは税理士の研修で東京に出張。お姉ちゃんは一人暮らしで今頃アプリ開発で忙しいし、


『薫……』

『家庭内別居だから気にしないで。龍世のお好きな様に、人想いにやって』

「薫……。そう思ってたの……?」

「私、ちょっとお手洗い行ってきますね」


 私は理由もなく、立ち上がってトイレへと駆け込んだ。

 私はトイレの中で用を済ませてしばらく考える。

 あのラインのメッセージから察するに、武岡龍世は物凄い優しい男性なのだろう。しかし、 桐生家の人間以上に彼女と関わっていけるのは何故だろう。


 桐生薫の眼帯、武岡龍世と先輩をはじめとする桐生家との確執。おそらく、薫さんの右目にまつわる事で起きたものだと私は思った。

 そういえば、ラインのメッセージにあった「玄関にホットココアと羽根つき」が気になった。


 私はトイレから出て玄関に向かうと、ちゃんと紙袋が丁寧に置いてあった。

 紙袋の中は、ホットココア。それに、羽根つきの生理用品とうちのお店で取り扱ってるちょっと良い素材のサニタリーショーツ。そして小さな手紙。


 ……完璧すぎる。


 こんなこと、家族の誰も気にしてなかったのに。

 私は玄関にある紙袋を、薫さんの部屋の前に置こうか迷ったがいじらないで置くことにした。


 私が先輩や桜のアイスケーキの事が気になりテーブルの方へ向かうと、先輩は肩を震わせて ノートPCの画面を観ていた。

 何かが布地を擦る音。 何かを叩いている音。僅かに聞こえるうめき声。

 床に置かれた学生カバンの中身がぶちまけられた映像しか映っていないから、あのふたりに 何が起きているのか分からない。


 画面がかすかに揺れ、その瞬間——


「っ……!」


 映像をみるのを中断してからバチンとノートPCが閉じられた。

 怜先輩の肩が大きく揺れる。

 唇がわずかに開き、何かを言おうとして——止まる。

 沈黙……。

 桜のアイスケーキが、じわじわと溶ける音だけが響く。


「……見なきゃ良かった」


 静寂の中、私の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。


「……な、何が映ってたんですか?」


 怜先輩は言葉に詰まり、少し震えた声で答えた。


「……普通じゃ、なかった」

「そう……ですか。早く部屋に戻ってアイスケーキ食べましょう。それから先輩の話を聞きますから」

「……うん」


 先輩の部屋に戻った私たちは、静かにスプーンを動かす。さっきまでの明るさが嘘みたいに、肩が小さく揺れていた。


 桜のアイスケーキの溶けたピンク色が、じわじわと皿の上に広がる。

 溶けた桜色のアイスケーキの中から、イチゴのソースがドロリと漏れ出る。

 皿の上でじわじわ広がって、まるで消えかけた傷跡みたいだった。


 あれだけ必死になって並んで買ったのに、食欲を無くす様なビジュアルで、口が進まない。

 まるで、さっきの映像のせいで、私たちの時間も一緒に溶かされたみたいだった。


「……あんなの普通じゃない」


 先輩は震えながら、スプーンを持つ手をじっと見つめていた。

 まるで、自分が生きてきた世界が、一瞬で崩れたみたいに。


「大丈夫ですか?先輩」

「大丈夫。いや、めっちゃ美味しいんだけど。食べる気力がないわ。……食べる?」

「はい」


 私は先輩の分を流し込むように食べながら、先輩の肩を寄せて頭を撫でる。よく見ると、先輩の目はドブの様に濁っている。よっぽどショッキングな映像を観たんだろう。


「何があったか分かりませんが、今日はゆっくりしたほうが良いですね」

「……ありがとう」

「ふたりとも仲良しだね」

「ひぃ……!」

「どうしたの? お姉ちゃん。驚きすぎだよ」


 薫さんはニヤリと笑い、私たちをじっと見つめた。よく見ると、龍世くんが置いてきた紙袋を手にしてて、湯気の立っているマグカップのホットココアを飲んでいる。


 目は少し充血していて、さっきまで寝ていたはずなのに、やけに冴えている。

 その視線が、まるで何かを見透かしているみたいで、私たちは思わず目をそらした。

 ……まるで、私たちが何をしていたのか全部知っているみたいに。


「ねぇ、お姉ちゃん……見ちゃった?」

「えっ……!」


 先輩の肩がピクリと跳ねる。もしかして、バレてる?


「まぁ、いいけど。あの契約書、結構真剣に考えてるんだよ?今度、弁護士のお義母さんにも書いてもらうから」

「え、あの……うん」


 何かがすれ違っている。

 でも、それを否定することも、肯定することもできなかった。

 薫は気にせず、自室へ戻る。


 まるで「婚前契約書のことだ」と思っているみたいに——。

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