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@tsukiareci

 一


 川面に映る冬枯れの雑木を背景に、二十羽ほどの鴨が地を這う虫を啄みながら肢をよたよたと送っている。はぐれた子はいないかと仲間を探すつもりで目をやると、鴨たちは互いに見交わすこともなく、そのくせひとかたまりに、律儀に、おなじ方向へ進んでいる。連れとはぐれた自身の境遇の哀れさを鴨に慰められているようでむず痒く、横腹あたりに宿った恥が旅の片割れまで伸びていくようだった。次の瞬間にはその繋がりの糸が宙で融けて私を圧し、脇をすぼめ太腿を寄せ合ってその寒気をこらえていると、孤絶の度合いに反比例して横腹から徐々に温みがひろがっていく。幻と悟ってようやく目をあげると、鴨たちは流れに押し流されながらも緩慢に川を上り、時折飛沫をあげて水中に潜り、ぴしゃぴしゃと閑散な空間に音を響かせていた。川床に沈んだ骨が浮かんだ。白い、川藻におおわれた髑髏の右眼から、ぬるりと蛸のような肢が這い出してきて……。

 死ぬつもりなどない。他人の骸にはちがいない。鮮明な頭蓋骨を思い浮かべていると、温泉街へ通じる電車のなかで窓の外に目やる垣原の白い顔と重なった。

 妻と子を家に置きざりに、別の女と来る予定だった。垣原がそのことを告げたとき、電車は長いトンネルに入ったところだった。車内灯の微弱な光では垣原の表情を見分けることもできず、それが独り言か否かも判然とせず私の応答は遅れ、やがて、いつか死ぬんだから、誰でもよかったんだ、といつもは軽口ばかり吐くその口元が憂鬱に閉ざされた。その鬱気に引き込まれて自身の顔まで硬くこわばっていくのがわかった。

 ——感謝しろよ、訴訟を起こされずに済む

 ——それはそうだ。ありがとうございます、だ

 ——懲りないなあ

 ——ずるずると

 ——この前言ってたろう、女はもうごめんだと、妻も、何もかも

 ——鏡みたいで……付かず離れずだ

 そこでトンネルを抜けてにわかに光がさし、続く言葉は陽を浴びて延々とひろがる海の色に遮られた。

 昨年、式も披露宴もなく婚姻を済ませた私に、それがいい、と同意したのは彼ひとりだった。門出は密やかにするのがいい、花はあとから添えればいい、そうすれば色彩も濃く見えていい、と普段の電子煙草ではなく紙巻きの煙をうまそうに歯の間から漏らしながらいった。うつむけた顔が煙に隠れ、なにもかも吐き出してしまいそうな息の音がした。親族に囲まれて息を引き取る間際の曾祖父の、自分たちの魂まで吸い取りかねないほど深く吸いこむその顔の、こわばりながらほどけていく印象を思い出した。吐き過ぎだ、そんなことがいえるはずもなく、靄に包まれてどこまでも白に塗りつぶされていく垣原の顔を見守るうちに、彼の輪郭はぼんやりとあたりに融け、その虚空のうちから、奥さんの話はちゃんと聞いてあげるんだぞ、と声が渡ってきた。

 


 垣原の故郷に近い北近畿の、四方を山に囲まれた狭苦しい温泉街に降り立つと、予報を裏切って降り溜まった雪が道の脇に山をつくっていた。湿った路地にはやわらかい表情の外国人客や、潜むように身を寄せ合う浴衣姿の男女が行き交い、私たち男二人という説明のつかない距離を隠すように顔を伏せた。昼から開いている居酒屋らしき店から興に入った幾層もの声が閑散とした道に漏れ、顔を上げると屋根屋根から昇る湯気が晴天のもとで空気に溶けていくところだった。

 ——部屋は別に取ってある

 そう言われて女との関係がいよいよ怪しくなったがあえて問い詰める気にもならず旅館に入り、一時間に合流しようとだけ約束して別れた。垣原は三階に、私は二階の部屋にそれぞれ案内された。薄暗い廊下を若い女将について歩くうち、内装からうかがえる高度経済成長期の陽気さはその後の不況の影を溜め込んで黄ばみ、滲み出る崩壊の後ろめたさを隠すように灯りだけを煌々と光らせていた。部屋へはいると、畳の底から煙草のにおいが私を迎えた。すっかり疎外され、なかば犯罪者まがいの扱いを受けている喫煙者の私にとって、それは歓待の徴とも取れたはずだが、どうしてか過去の浮かれた無為の名残りを背負わされたような気がして、上塗りするように火をつけて広縁の籐椅子に腰掛けると、若い女のはしゃぐ声が川沿いの歩道からのぼってきた。三十を越した自身の身体が昨日の夜勤のせいもあって重く、年老いて毛羽立ち肋骨を浮かせた獅子のように思え、もう一歩も無理です、とつぶやいた。

 半年前に生まれた娘と産後の鬱に悩まされる妻を、縁もゆかりもない土地のマンションの一室に置いてきた。垣原から旅行について聞かされたときにも、気晴らしへの期待とともに、こちらは毎日が旅行みたいなもんだ、とひとりつぶやいたものだった。早朝に起きて子供にミルクをやり、勤務を終えたあとには日中の疲れのために鬱々と塞ぎ込む妻を寝室に閉じ込めて、自身の眠気に感じ入ることもできぬまま子供をあやす。

 ——案外、奥さんはお前がいないほうがうまくやるだろう

 その言葉に絆されて、恐る恐る妻に話を振ってみると、意外にも快く受け入れてくれ、たまにはゆっくりしてきてほしい、だってあなたこのごろ変、と私が日頃妻に対し思っていることを懇願の調子で跳ね返された。断るきっかけを塞がれ、垣原に自分も行くと伝えたあとで、胸のあたりで煮え切らない思いが凝った。電話を片手に居間に目をやると、あうあう、と玩具を手にしてはしゃぐ子供のそばで妻がつま先を立てて正座し、内に宿した狂いを発散させながら駆け出す姿が目に浮かんだ。いつもであれば娘を連れて別の部屋に移るところを行為の浅ましさに気づき、恐れを抱いたまま一歩下がって眺めていると、妻の背が震えているのがわかった。どうした、どうしてほしい、と論理で問い詰めたくなる思いを堪え、親のことなど知らずにきゃっきゃっと笑う娘と、泣き崩れて土に還っていきそうな妻のむごい光景を眺めるほかなかった。この時ほど妻子揃って失った故郷を恨めしく思ったことはなかった。土、土さえあれば……と妻の声が聞こえたような気がした。婚姻を済ませて数日が過ぎたある日、根無し草ね、と自嘲気味の妻に対し、家族を作るなどと大言壮語をかました自身の浅ましさが身に沁みた。

 そのにおいなのだ、この客室にあるのは。思えば軽薄な時代の煙草の香りに混じって、赤ん坊の甘いにおいと妻の脂ぎった頭髪のにおいが時折鼻を掠める。共に過ごすときよりもはっきりと。しかし香りの尾のほうで、微かに妻と娘とは異なる、胃液に似た酸っぱいにおい残る。逃げてきたか、と畳の上を見やると一時代前の身なりをした女とその娘らしき影が浮かび、湯気の立つ街並みをその目に映す女の、かつての思い出に浸ろうとして掴めない心許なさが私の内側に迫ってくる。内心の震えは、壁に隔たれた部屋のようにくぐもって響くばかりで決して共振を伴わない。共振れさえすれば、と胸に耳を傾けるうちに、祖母に打ち明けられた戦時中の不遇に対しても泣くことのできなかった自身の姿が浮かび、それでも真剣に耳を傾けていただろう、と自分で自分を慰めたい思いに駆られる。そうでもしなければ私は軽薄な相槌で誤魔化すか、あるいは狂うほかなかった。いつしか客室のなかは、祖母やその女だけでなく、有象無象の人間のざわめきに満たされた。どの嘆きとも融和できず広縁に押し込まれ、そうするうちに自身が余所者だと悟らされて、最後には金を払っているのは俺なんだから、と情けない言い訳をして目を閉じると、押し付けがましい静けさが耳の底から沢の音とともに湧き上がり、妻の冷え切った言葉が聴こえた。

 ──あなたは信じてない、私のことも、娘のことも、誰のことも

 では死んでやろうか、という言葉にもその目の色はいささかもぶれず、私ははじめて妻というものを知った気がした。

 


 突き放された気分で目を醒すと、灯りはじめた街灯が天井に格子を描いており、その鮮明さがむしろ夢遊めいて映った。そのちょうど二分ほど前に垣原からメールが届いていた。浴衣に着替えて一階に降りたが誰もいない。一度部屋に戻ったかと勘ぐり、受付前の椅子に腰をおろして一服していると女将らしき女性がやってきて玄関と私を何度か見比べて、御連れ様ですか、と尋ねた。そうです、と自然に答えていた。垣原は暗い顔をしてここに五分ほど座っていたが、おもむろに立ち上がると首にタオルをかけたまま玄関に向かおうとした。女将は見送りの挨拶をしかけて垣原が椅子に袋を忘れていることに気づき声をかけたという。その時、垣原は玄関扉を開けるのをやめて心持ち首を傾げて女将を見やり、一呼吸おいて舌打ちをした。呆気に取られた女将が言葉を継げずにいると、その表情は次第に柔和になり自然な微笑みとなって彼女の前に立っていた。

 ──何かお気に触ることがあったかと思いまして、気にかかりまして……

 私たちと歳のほとんど変わらない、まだどこかあどけなさの残る女の怯えが哀れで、気のせいですよ、と言い残して私も旅館を出た。はだけた浴衣の隙間から雪を含んだ風がひたりと這い込んで上着も着ずに出てきたことを後悔したが、あの女将がいると思うと戻る気にもなれず川沿いを東に向かった。雪をまとった柳がしなだれかかり、時折音も立てずに背負った雪を投げだすと、そのいきおいで木全体が振れる。道に溜まった雪はなかば溶けだし、歩くたびに跳ねる水が、山から直接降りてくる風といっしょになって容赦なく身体を冷やす。なんの拷問か、とあたりを見回すと、誰も彼も文句も言わずむしろ楽しげに、和気藹々と前後に消えていく。露店の射撃場では子供に混じって大の男が銃を片手に、大人気なく的に向かって目一杯腕を伸ばしている。アイスクリームを売っている茶屋の前で、若い女が携帯で自分たちを撮影していたが、撮影音が鳴った直後にはそれまでの笑みは崩れて、肩から腹、そして立ち姿までだらしなさを纏う。消化不良の淫らさを引き摺る女たちの姿がどこか垣原に通じているような気がして北に向かって伸びる路地に入ると、狭い道は十メートルほどで尽き、断崖じみた急勾配の石段の果てに鳥居がたたずんでいる。外国人の好む神社なのだから装飾のひとつくらいあってもよさそうだったが、どこまでも寂を溜め込んだような空気はあまりに周囲と溶け込んでいて、鳥居の赤もしばらくは目につかなかった。駅のそばにあった神社などは英語にハングルにヘブライ語まであらゆる言語で歓待の言葉を並べていた。その浮き足だった感じは宮内を明るくし、鳥居の外との隔たりも感じさせず、本来は突き放そうとするような雰囲気が掻き消されていた。

 むしろこちらが住民の本尊なのではないか。きめの細かい乳色をした材木を継ぎ合わせ刻々刷新され続ける豪奢な空間では、都市で置き去りにされてきた気分を和らげることなどできず、暗い雑木林を背に黙りこくって時間を抱え込む、もはや朽ちかけた廃屋のほうが彼らの意識を遠のかせ、記憶のなかに包み込む。不遜な思いに至りかけたとき、目の前を歩いていた女たちが手前の煌々と光る土産屋に消え、どこからか響いてくる犬の声のほかは人気が絶えて、それまでは暗がりを抱え込んでいた一筋の道が反転し、ただ一筋そこだけという感じで白く浮かぶ。手摺にすがり、慣れない下駄を狭い石段に咬ませて階段を登り切ると、小ぶりな拝殿の手前に、浴衣が首もなく靄のなかで背を向けて、

 ──ここだ

 と振り返りもしない。

 


 垣原は身体をサウナの熱であたため、なかば朦朧とした意識で浴場の椅子に腰掛けていた。未だ内側で凍え燻る身体の芯を宥めようと冷水に入ったが効果は虚しくそのまま外に出た。白々しい火照りがいやらしく、ほっつき歩いて内と外の均衡を取り戻そうとするうちにここに来ていた。安らかな気分で腰を下ろしていると芯のほうが温みを取り戻して、しかしその分だけ身体のほうは冷え、また温泉に戻ろうかと考えたがまどろんだ身体はろくに動こうともしない。困ったな、とつぶやく垣原の視界に東屋があらわれ、底のほうから湯気とともにちゃぷちゃぷと沸き立つ湯の音が聞こえてきた。

 ──足湯というやつは不思議だ。肩まで浸かっている時よりも寒いのにいつまでも堪えていられる。湯船というのはあれだ、人を蛸にしてしまうんだ。誰も茹蛸にはされたくないだろう

 電灯の灯りをうちに抱え込んだ庇のむこう側を雪がはらはらと落ちていく。背後で風に吹かれる雑木林の葉音が鳴っている。私は、雪のために反響を失った静まりのなかに人の、動物の逢瀬を思いながら垣原の背後に立っていた。動物たちの睦みの合間に断末魔とまではいかない、諦め果てて嘆くともなく嘆く調子の声が聴こえたような気がして、湯に浸かるという行為が浅ましく感じられた。ところが垣原の背には軽薄さも浮き立った色もなく、ただ余儀もなくそこに招かれたという感があって、その必然を羨んだ。たとえ私がどれほど自然に足を踏み出したとしても、彼の隣に座るその仕草はあたりの景色から切り離され、現実に迷い込んだビデオゲームの人物のようにちぐはぐな動作になることは免れず、ただ何者かに規定された反復を繰り返すばかりで一向に誰とも交感することは叶わない。次第に寒さそのものも実感から遠のき、学生時代に部屋に引きこもって日がな一日向き合う壁に浮かんだ荒野がぬっと視界を遮り、無辺の砂地の窒息感がなまなましくよみがえった。広大な、果てのない土地には参照するべきものはなく、ただ焼き払われた街や枯れた草が時とも言えぬ時をこらえているばかりで、ただひとり動く私自身を映し出す鏡はどこにもない。そうして耽る。自分は、自分が、自分の、と我身を推測する。日本には荒地なんてない、という私自身の水差しに反発するだけの強度があった。私にひきくらべて目の前で足湯に浸かる垣原の、恣意から離れて、もはや目的もなくして自然に溶け合うばかりになった姿をあらためて羨ましく思った。

 ──ああ、寒い、寒いな

 背を向けたまま垣原はいう。

 ──うん、寒い、なあ

 私はそう口にしてやっと一歩踏み出すことができた。



 二


 私たちはそこを離れられずにいた。くるぶしまで浸した湯が温みをのぼらせ、やがてこのまま全身を覆うかとみえたが雪と風が連れ去ってしまう。雪解けの雫を受けた頭は冷えを深め、いつしか荒涼とした心地に落ちついた。落とした視線のうちに垣原の足が見え、自身のものと見比べても違いらしい違いといって見出すこともできず、四本足になった気分で水面を並行移動する泡を眺めていた。こんなことはなかった、とこれまでふたりして陰気な逃避のようにして温泉にやってきては語るべき言葉もないまま飯を食らっては風呂に入り、ふやけきった身体を東京に押し戻すという年に一度の因習がにわかに変異をきたしたように思われて、そのくせ自分たちがこれまで以上に似通って、他人の境を越えかけているのではないかという思いが湧いた。

 ──腹が減った

 と、四本足のうちの二本が水面に波紋を起こして縁石のうえに置かれた。

 てっきり旅館で食うつもりだと思い込んでいた私は、当の建物を過ぎても下駄を鳴らして進み続ける垣原の顔を見やり、湯上がりの痴呆じみた表情のうちにあるふたつの目が両脇に並ぶ居酒屋などには目もくれず目の前に伸びる暗がりを捉えているのを見た。すでに八時を過ぎて、温泉街全体が独特の色気を漂わせていた。脇に子供を連れている親の足はどこか急くような調子を帯び、老年の夫婦は黙り込み、若い男は地熱を吐き出すコンクリートのように目覚めかけの興奮をちぐはぐに肌に纏わせている。そんななかで男ふたりが前後に連なって歩く姿を努めて思い浮かべようとしてもどこか滑稽で、そこまで考えると途方に暮れた様子で歩む垣原の姿にも合点がいき、ただ私ひとりが群衆を拒み、自ら強いた孤立無援の状態から立ちあがろうとしているような気分になり、馬鹿馬鹿しい足掻きの悲しさが底から湧いてくるようだった。すでに冷えて硬直しはじめた足に力をこめて垣原を追い抜かした。しばらくそうして歩き、左手にあらわれた古い居酒屋のまえでここに決めたという態度で振り返ると、垣原はそのひとつまえの辻を横切るところだった。



 焼酎を頼み、お通しのおひたしと交互にちびちびと口に運ぶうち、暗がりに沈んでいた自意識がにわかに活気を取り戻し、開き直りに似た態度でふたりして脂っこい飯を頼んだ。垣原は焼きそばと卵焼き、それにもつ煮込みまで頼んでひとりで皿を引き寄せて掻き込むように口に放り込んでいた。それを眺めていると、それまでは痩せ木のように見えていた彼の身体がにわかに三十を過ぎた男特有のふくらみを取り戻して、だらしなく沈んでいく。食べる速度が緩慢ながら速まり、そのだらしなくほどけた口元から投げ出すように言葉が漏れた。

 ──鹿みたいな女で

 頭に思い浮かべたわけでないのに見透かされた感覚に陥り、先ほどまで自身の目が店の隅で黄色い声をあげる若い女に注がれていたことを憶い出した。

 ──若いから、前後がない。捉えられないんだ。俺たちだって中年というにはまだ程遠いだろうが、薄ぼんやりと限りは見える

 ──限り

 ──この世の中にも地図はあるわけで、若い頃はどこにでも自分がいるような勘違いをする。けど気づいてみれば一メートル四方のなかをぐるぐる回ってる。何度も何度も。永遠というやつだ

 ──その円は重なってないか

 ──うん、そうだ。あの女にもそう言ってやった

 ──どこにも重なってない

 ──そのことに気づくのは男だけか。それにしても女には分け入ってくる力はあるな。男は逃げる。逃げるたびに生存圏内を狭くする

 ──どうなる

 ──消えるんだよ、跡形もなく

 ──それなら爽快だ

 すでに客は減り、カウンターに座る常連客らしい中年の男ひとりのほかには誰もおらず、私たち陰気な笑いさえくっきりと響いた。さいわい店主は手持ち無沙汰を嘆く様子もなく、常連の男と並んで座り無言でテレビを眺めており、こちらの声には反応しない。垣原は枝豆を莢からひとつひとつほじくり出しては口に運んでいたが、だんだんと表情は硬くなり、逃れるように顔を窓の外の闇に向け、

 ──自然と消えたいもんだ

 と、通らぬ声でつぶやいた。私は受け止めきれず、はぐらかすような口調で継いだ。

 ──家庭も恋も嫌になったか

 ──いや、どちらも気に入ってる

 ──なら我慢するんだな

 ──お前にはいないのか、恋人は

 〈恋人〉と聞いて私の意識は遠のいて、物も人も掠めずに生誕以前の混沌に不時着した。そこでは〈恋〉も〈愛〉も可能らしいが、〈私〉も〈相手〉もいない。仕方なしに現在へと引き戻して賃貸の一室で泣き叫ぶ娘を呆然と見下ろす妻の姿が見えた。恋と呼ぶにはあまりに鮮烈で、呑気な酔いが醒めかけた。這って逃げる思いで混沌へ傾きかけたが、どうやら内部にそれを厭う何かがあるらしい。

 ──たくさんいるよ、どんな女でも俺の恋人だ

 ──たいそうな態度だ

 ──そのほうが楽だ

 ──精魂尽き果てるぞ、そんなことをしたら

 ──まともにひとりの女を相手にするほうが、混沌だ

 ──女をなんだと思ってる

 ──女は、女だ

 ──あれは、鏡だ

 吐き捨てるように垣原がいうと同時に、外国人の男ふたりが扉を押し開けて入ってきた。店内で沈んでいた男たちの意識は、彼らの満面の笑みと通りの良い声によって破られた。バラエティ番組を観ながら憮然としていた常連客の顔にふっと笑みが浮かび、店主は得意げに包丁を拭きはじめる。空元気に似た陽気さが充満し、私はそれに抗い鬱々とした話題に留めようとした。しかし垣原は、すでに笑っている。いや、それはたしかに笑いにはちがいないが、結局はどんな顔も持ちえないことに対する諦めそのものの微笑みだった。常連客も店主も同様である。そして私は、自分がおなじ顔をしているであろうことに気づき、そっと顔を撫ぜてみた。脂気の減った乾燥した肌に触れていると、

 ──失敗を犯してな

 と、垣原が硬い笑みを浮かべた。

 


 垣原は、二年ほど前に知り合ったその女と世にいう不倫の関係に陥った。皮膚は触れずに会う回数を重ねるほどに取っておいた距離が狭まっていることに気づいたが、近接のためいっそう強まる不確かさのようなものに触れ、いよいよ触れ合うことを願うようになった。

 ──あれは、ふたりして遠くへ行きたいと、そう思ってたんだな。だけど、結局は引き寄せることになる。身動きも取れなくなって、反復を破るつもりの関係が、今度はその反復を防衛するわけだ。女は立派だ。各々、その反復をもってる。それで男を惹きつける。だけど男にそんなものはない。目があるだけだ。目はだましやすい

 垣原の言葉を聴きながら、それでか、と私はうなずいていた。すくなくとも私にとって年に一度の温泉旅行は、世間と家庭との混濁した無辺のなかにあるただ一点の反復であった。もちろん日々の繰り返しはあらゆるところに見出せる。たとえば職場に着いたときに同僚間で交わされる挨拶などはまさに習慣ではあったが、それはこの旅行のような能動を伴わず、むしろ空気に強いられて無意識に生まれる行動だった。男は元来、女よりも習慣に溺れやすい。しかしその習慣というのは、己を忘れるためのものではないか。女は逆である。己から発し、だからこそ常に他人との離反を伴う。能動。私は温泉に来るたびにその能動を演じようとしていたが、根拠があいまいなためにこうしてふたりで遠路はるばるやってきても酒と飯に終始し、結局は反復に終わってしまう。破ろうとするつもりが、守ってしまう。

 ──こうなったら徹底的に眺めてやるつもりだがね、俺は

 垣原はいうと、手を挙げて店主のほうを向いた。いつもであれば皮肉気味に一円単位で折半するところを、私に伝票を押しつけて先に店を出て行ってしまった。垣原とはそれきりだった。

 店を出て人通りの絶えた道に立ち、しばらくは垣原の足音に耳を傾けていたが、内心ではもうすでに遠くに行ったという感があり、探そうと踏み出した一歩もどこか演技めいていた。〈姿を消した友人〉とはなんと優雅か。追う者と追われる者という関係は私たちの個性をかき消し、世間の関心を買う珍事、きわめて抽象的な事件となる。しかし私は警官でないし、彼は犯罪者でもない。仮に私たちが子供であれば、遊戯めいた演技にも自然に寄り添うところはある。足取りも軽くなる。しかし私たちは幼児ではないし、法制度上の関係にはない。ただ二匹の雄というだけである。私の足はそれでも踏み出された。根拠もなしに。にわかに温まりだした身体の底から、あの引きこもりがちの学生生活の、ぬるいまどろみの感覚が湧き上がり、映画を観る垣原の背が窓から漏れる夕陽に照らされる。

 

 私たちはそれまでに何度かすれ違っていた。たとえば授業と授業のあいだに一コマ空きが生じたとき、知人もすくない私はベンチでおにぎりを頬張っていた。和気藹々として行き交う学生たちのなかでひとり過ごす学生は少なくなく、ちぐはぐな所作を悟らせまいと各々内にこもりながら、そのくせ誰よりも周囲に気を配っている。私も澄ました顔をしていたが、あと一時間もすれば脆く崩れていきそうな感覚を抱えて平静を装っていた。外に向かって開けていた意識のうちに、女の手を引く男が周囲から浮き立ってあらわれ、どこにでもいる男女の姿であるにもかかわらず、孤立しているように映った。それほどまでに垣原の歩みには荒っぽいなにかがあった。女のほうも同調できないらしく、歩調が時折乱れてよろけかかり、なんとかついていきながら周囲の目を気にしている。

 私は校内でも外でも何度か彼を見つけたが、どんな時でも彼はそばに知人なり女なりを連れており、一見すると仲睦まじげに言葉を交わしている。食堂では他人のペースも気にかけず一気に飯をたいらげ、話が佳境にいたるタイミングで集団を離れる。のちになって彼にそのことを正直に伝えると、私の観察眼をそれとなく褒めたあと、

 ──あれは引っ越しなんだ、あっちの集団からこっちの集団へ、とな。そうすれば何度も試すうちに自分の生きる範囲が決まるだろう。狭まっていく、どんどん

 友人ひとりもたず、学校と下宿先、アルバイト先との往復を繰り返す当時の私にとって、それはどこか贅沢な試行に思われた。その嬉々とした表情を見せられると、自身の不健全さを正直に認める気になった。ところが垣原は、私との出会いを機にその振子運動を中止し、ねぐらを決めたように私と行動を共にしはじめた。

 垣原の知人伝いに買った情報をもとに最小限の出席と効率的な試験対策を講じ、アルバイトのほかはふたりして部屋に引きこもり、互いに好きなようにして部屋で過ごした。約束はしなかったが、どちらも女を部屋に連れてくることはなかった。私などは縁すらなく、そんな機会は望んでもやってこなかったが、垣原は夜半を過ぎて妙なにおいを纏って帰ってくることがあった。その顔つきに性の漏出のあとの痴呆じみた疲れが残っていた。ベランダで煙草を吸いながら、何を吸われた、とおちょくってやると、

 ──魂だよ

 と、微笑んだ。

 

 大学三年目、私は神経の不如意のために留年し、垣原は予定通り就職活動をはじめた。彼はすんなりメーカーの営業職にありつき、冷や汗を浮かべて面接をこなす学友たちを尻目に早々にスーツを脱いで引きこもり生活に戻った。垣原が卒業する直前の一月、それが彼と初の温泉旅行をした時期にあたる。男ふたりでの旅行などごめん被りたい気持ちだったが、卒業旅行のつもりで付き合ってくれ、ほかに友人がいないと説き伏せられた。

 

 その時も彼は旅行先で姿を消したのではなかったか。

 そんな訝りが残る。あの時もこの温泉地のどこかの店で夜半を過ぎて飲んでいる最中に、酩酊に耽りはじめた私の前からいなくなった。そして彼の纏った女の体臭を頼りに人家の向かい合う狭い道を山に向かって歩く背をみつけたのではなかったか。考えるほどに妄想めいてくるのをおさえて当の路地に向かってみると、ふわりと積もった新雪の、灯りを浴びて青白く地を埋め尽くすさなかに、先ほど踏みしめられたばかりらしい足跡が一筋伸びている。その踏みしめ方の大股で踏み潰すような深さに、垣原らしい急くような調子がたしかにあった。

 辻から辻へと足跡を辿るうちに、雪は止んだ。温泉街の活気とはかけ離れた裏寂しい通りに入ると、灯りひとつ漏らさず眠りを演じる土地に根付こうとする人びとの、余暇のつもりでいる観光客への非難が聴こえるようだった。やがて道はある家の石塀でくの字に遮られ、行き止まりかと足跡の絶えたのを眺めていると左手に聳える山からはらと白い光が見えた。目をやると山道が伸び、足跡もあった。山道沿いに密集した竹林が身を屈めながら雪を背負い、そこにさす月明かりが屈折に屈折を重ねて広々と、道全体をほの白く照らしていた。蛇行する急勾配の道をのぼっていくと、穿たれた窪みに子安地蔵が並び、湿気をはらんで黴を浮かせている赤い涎掛けのうえで、湯に熱ったような安らかな顔をのせている。

 坂をのぼるほどに脇の草丈は高くなり、足で押し分けるたびに浴衣越しに雪が染み、そこだけ濡れて冷えていくはずの膝がむしろ神経の集中のためかあたたかく感じられた。のぼりきると円形の広場のようなところに出た。群生する種々の草のあいまからぽつりぽつりと顔を覗かせる卒塔婆が、暗がりのために延々と果てもなく続くようだった。

 ふう、と息を吐き出す音がして、それが自身のものか垣原のものか判然とせず、音だけが過去と通じ、あの時の感触と重なる。実際、垣原はそこにいたはずである。気配すら感じた。しかしながら私が見たのは、卒塔婆を抱えて揺れる草ばかりであった。



 三


 前後もあいまいな眠りから目覚めると、窓の外では正午を回った陽を浴びて雪が落ちていた。広縁のほうまで這い寄って籐椅子に腰かけ、久しく眠りから遠ざかっていた身体が底のほうから鮮明に覚めていく。快癒に似た感覚のうちで、胃だけがわだかまりを残して、そちらのほうが自身の身体の本命という気がした。街路にはふくれた腹を持て余して歩く人びとの顔に、これ以上満たすあてもないというふうな、快活が頂点を超えて下降にいたるいたたまれなさが滲んで、殊に男女などはおなじ浴衣を纏って髪も顔も綺麗に繕ってはいるが、倦み疲れたような距離が身体と身体を隔てている。稀に先ほど着いたばかりらしい旅行客もいて、二日目の人間にはその無垢な態度が目に辛く、思わず昨日の自身と比べ、このあとの平静の時間への接続方法を探る。もしや昨晩寝て、そのまま死ぬつもりではなかったか、そんな訝りがひとりの女の顔に点じて、みるみるうちに人びとに感染し、凝っていく。

 腰をあげて部屋を出た。狭い木組みの階段をのぼり垣原の部屋をノックしたが反応はなかった。構わずドアノブに手をかけたが鍵がかかっている。とすれば、昨晩ひとりで帰ってきたんだな。そんな安易にすがりたかったが、寝息も聴こえなければ人気も感じられない。外に出かけた可能性だってある。そこで携帯を取りに部屋に向かうと、おかしなことにどこにも見当たらない。旅館の人間にも聞いてみたが落とし物はないという。親切な女将は最寄りの交番に連絡を入れてくれたが、そんなものは預かっていないとのことだった。それからもう一度荷物を掘り返してみたがとうとう見つからず、気を紛らわそうとイヤホンを耳につけたが携帯がなければ聴く方法もないことに気づき、手持ち無沙汰のまま籐椅子に腰かけた。妻や垣原の顔が浮かび、なぜこうまでして面倒をみないといけないのかという忿懣が湧くのをおさえられなかった。すぐに介護など頼まれた覚えのないことに思い至り、ただ自身ひとりが恣意にまかせて駆けずり回っていただけだという気がしてきた。この世界のどこかでふたりは外面の沈鬱など気にかけず、孤独な満足に耽っている。その正当さが自身の浅ましさを嘲笑い、むしろ遠ざけたのではないか。私こそ、ひとりなのではないか。そんな考えが私を垣原の捜索から遠のけ、かといって電車に乗って今日のうちに家に帰るというのは煮え切らぬ、未解決のまま時間だけを消費したという感があってしっくりこない。やがて徒労感だけが身体の底に澱のように残った。私には見るべきものとてなく、二日目の温泉客同様に身を持て余し、行くあてがないのであった。逃げ場のなさに目を閉じると視点は山のほうへ飛び、旅館の一室で腰かける私の姿が浮かび、実際とはほど遠く痩せ細った身体が死んだように静止している。やがてその私の身体は一本の幹となった。幹は次々と枝を生やし、自身と共に成長した。これは嘘だ、と羨みつつ目を開けた。雪が止んでいた。

 

 

 午後一時を過ぎ、手拭いと下着だけを提げて旅館を出、街に設けられた三つの湯を順繰りに巡ってみることにした。すでに苛立ちはおさまって、その分だけ身動きがとれなくなり、垣原を探すという理由なしにはあの幹の自生という空想に拍車をかけるくらいしかやることがなかった。今となってはそれだけが肉体を感じさせる空腹を抱えるようにして凍てついた道を歩いた。途中で地図を忘れたことに気づいたが振り返ることすら怯えがともなった。見られているわけでもないのに視線を感じて顔を伏せ、そうしていても肌を撫ぜる人熱れに混じる硫黄のにおいを頼りに進んでいくと、浴衣姿の人びとが出入りする建物があり、外装こそ和風を装ってはいるがどこにも時のこもらないそのいでたち、そのことに気づかない態度に嫌悪が生じて身体が逸れた。逸れながら、頑なに彼らの動きに倣おうとする影を見たような気がして、彼らほどには馴染みきらず、動きに不協和音を伴って、それでも通じ合おうとするさまを嫌悪の情でもって眺める。しかし影を見る影ということもあり得るのではないか。貧しい運動であったとしても、群衆のなかの個体である限り、ある種の合一、自然との和解も可能ではないか。それにすら反旗を翻す自身の軽薄さと精神的貧困と、なによりも動きの根拠の薄靄として消えかかるようなのを恥じた。次いで、誰に対して恥じる、と声がした。誰がお前など見る、と。そうして自身を詰るほどに、精神はむしろ自足の域にはいり、身体だけが置き去りに、一歩一歩うしろに置かれていくようだった。考えるな、と今度は意識して声には出さずにつぶやいたが、一度置き残された身体は喘ぎ喘ぎついてくるのが精一杯というふうで、ふたつの輪郭の線は重なることも交差することもなかった。しかし私の身体はかねてからそのような、いわば乖離状態にあり、どのような動きにも必然がともなわない。今はそれがくっきりとした絶望の絵として眺められた。これも垣原のおかげなのかもしれない。彼は私に先駆してその現象を語ったことがある。当時の彼は社会人になって三年目で、たった一年の隔たりにもかかわらずその顔は私にはない老いを刻んでいた。

 水曜の明け方、マンションの呼び鈴が鳴った。三年ぶりの再会だった。

 


 ──朝が最適だろうと思ってね

 破れているな、とは口には出さずに、パーカーにスウェットのパンツというラフな格好の彼が玄関前で頭を掻いているのを眺めた。女のにおいを纏っていた。夜半に最高潮を迎えた女との喧嘩が一度は互いの眠りの底に沈めたが、思いもよらぬ夢によって動線に火がつく様を想像したが、ただの思い違いだった。

 ──どうしてここがわかった

 ──いいだろう、そんなこと

 ──女に追い出されたか

 ──ご無沙汰だよ、もう一年も

 その口調に嘘らしい感じはない。

 ──上がれよ

 ──いや……やめとく

 ──寒いだろ、氷点下だ

 ──出かけないか

 ──どこにいく

 ──どこでもいい

 その声にかすかな切迫がこもり、自戒が表情をかすめた。私はすぐに押入れからダウンを二着取り出し片方を羽織り、もう一方を垣原の背に押しつけるようにして外に出た。

 雪のない街の冬は神経にこわばらせる。垣原の背を視界に据えて歩きながらそう考えていた。故郷でもないのに北陸地方に若干の関心とこだわりを持っていた私はその冬もひとり金沢を訪れ、目的らしい目的もなく夜中の市街を歩いていた。淡々と振り続ける雪、除雪され山のように積まれた雪、それらは美景であるよりもまずは節目と感じられた。都会とは異なる寒々しさが皮膚に纏いつき、放っておけば悲惨な孤独に陥りかけるところを、当の雪景色がなだめる、いや押さえつけ労ってくれるようにさえ思われた。街に住む人びとに意識が向き、春夏秋冬昼夜の境のあいまいな都市生活ではなく、自然に積極的に翻弄されて生きる彼らの諦念をうらやんだ。都会では物と物すべてが切り離されているように感じられた。私と垣原は地方出の流入者であり、互いを繋ぎ止めるものは本来何もない。学生時代には誰かのために死ぬということ考えたものだった。それは道徳的美談でもなんでもなく、むしろ混々とつながる血であり、必然であった。私たちはふたりして部屋にこもり、何かに熱中する者を遠方から白けた顔で眺めながら羨み、自身を駆り立てる動機不要の行動を求めていた。やや鬱ぎみの神経を、その神経の内部から探ったわけだが、結局は何ひとつ見つけられずに、滑らかに猥褻に社会に滑り出した。垣原は女と遊び、時折は流行に乗ってレジャーなどに繰り出した。しかし彼の顔はむしろまだ内部にとどまったままで、時の経過のために切迫感はよりむき出しになり、鏡のように私の姿を映し出している。雑踏でぶつかった相手へのわけのわからぬ憎悪、群れのなかにあって自他を関係づけられず起こる焦燥、そうした切断の果ての孤立のやるせなさ。成熟よりも喪失のうちに、私たちの生があった。垣原の背を目に映して歩いていても、時折ふっとその距離がつかめなくなり、互いの身体の過ごす時間にも隔たりが、ふたつの重なりあわない影のように横たわっている。輪郭だけを残した無色透明の私たちには、その線と線の相対でしか自己を測ることができず、手を取り合うこともできずに互いを押し退けあいながら、同時に見失わないように努め、落下の可能性のなかを浮遊するほかない。

 東の空が白みはじめ、ざわめきを消化しきれぬまま明けようとする街の喧騒を避けて、垣原は通りから通りへと無分別に進んでいった。二時間ほど経つころには区の境界をふたつ越して、見知らぬ土地に入っていたが、景観はなにひとつ変わらず清潔な高層建築とその狭間で性懲りもなく時代に抗う家々があるばかり。

 ──長閑だ

 垣原は橋のうえで速度を落とした。弧を描いて下っていく歩道の果てに、みっつの人影が、早朝出勤の優雅さでゆっくりと足を送っている。なるほど三人の背には、どこかだらけたような、外にいながら内にこもるような奔放さがあった。

 ──ああいうのが、いちばん危ないところを渡っている。崖の淵を飛び跳ねるみたいに。仮に落ちてもそうとは気づかないで……

 私には三人の笑みが見えていなかったか。うつむき、過ぎていくアスファルトを眺めるともなく眺め、そこに因果を、楽しみを見出し、ひとりわけもなく笑う。もはや彼らに個体差などない。ひとり〈幸福〉に耽っている。

 ──俺たちは群れを離れることはできない。時間はあっちのものなんだから

 垣原は駅の改札を抜け、ホーム脇のベンチに腰を落とし、走ってもいないのに深く息をついては溺れそうな顔で人の群れを眺めていた。立場の希薄な状況にある私は、にわかに増えた通勤客のつくる雑踏の、その耽り具合に唖然とさせられた。それは侮蔑とも哀れともいえないある漠然とした感覚だった。資本主義への揶揄もそこでは圧倒されるままで、隊列は整然と過去からやってきて各々の惑いを包み込んで未来へ向かう。私たちはここでしか存在し得ない。そう思わせる憂鬱な自足が彼らの顔に翳り、軽蔑しつつ距離を置こうとする態度を担保に、あたかも群衆から独立したと見せかける。しかしそうした態度こそが群衆を群衆として生きながらえさせ、延々と伸びる隊列を形成する。時折あらわれる反逆者にもその態度は認められる。他人を無差別に傷つける場合でも、己を殺す場合でも、彼らが嗅ぎつけるのはその態度を共有する他人との糸なのではないか。断ち切ることは死を意味する、しかし断ち切らねば保てない、そんな境に置かれた彼らははじめて死を克服するが、自然からは見離される。歴史を喪失する。そんなことを垣原はいった。

 ──あいつらもそうだ。影がふたつあるだろう。ひとつの影が前に傾く、ずれる。よく見てみろ、もうひとつの影がほんのすこし遅れてついてくるだろう。しかも重ならない。俺はあいつらの気持ちがよくわかる

 


 閑散とした土産屋の前に立ち、ひとくち吸ったきりの火の消えたタバコを指先に挟み、いつまでも立っていた。不意に重なったように思われた影は、それを機に梃子でも動かぬという態度で群れに戻ろうとする私を拒んだ。今となっては懐かしく、郷愁に似た感慨を催させる温泉客の姿が、後悔の念と重なって浮かび、消えた。身体はそちらへ向かうことを拒んでいた。大学時代のあの停滞を思い出した。

 山川草木を背に堂々と建つ西洋とも東洋ともつかぬ建築は景色にそぐわないまま壊されては建てられて、時の経過を露わそうものなら排斥される怯えをうちに隠している。道路標識もアスファルトの道も、各々が浮き立ち孤立して、そこには連続はなくただ逡巡があるばかり。視野全体が普請中を物語っている。普請中であれば許される。そんな甘えがにおってくるようだった。その向こうで横たわる山は屹然として聳え、こちらの意など通らない。私は恣意をこらえつつその山と温泉街をつなぐ橋まできて、極まりはじめた憂鬱を欄干で支えようとした。幼いころにテレビに映っていた、増水した川に流される木造の橋であれば容易に渡ることができた。なるほど今は雨も降っておらず、川に流される危険性はないが、しかし木造のやわな橋であれば、ある奇跡は期待できる。思いもよらぬ逆鱗に触れた私は、自然の奔放な思いつきで山から下ってきた水に呑み込まれて死ぬ。その想像が私を強くする。ある種の節度を強い、そのために視野は狭まり、同時に無限に広がる。しかし現に目の前にあるのは洪水などものともしない頑健な橋である。私は無事渡り終える、なにがあっても。その事実が途方もない憂鬱に私を閉じ込める。だから、先ほどから絶えず私のなかに湧き上がる、この先に垣原はいる、という確信も揺らぎはじめる。揺らぎが事実になる。思わず後方に目をやるが、戻る道とてすでに潰えたように、白々しく伸びるアスファルトが、歓待の態度で横たわっている。

 橋を渡り終えると気分はすっと晴れ、同時にそれまでなまなましく感じられていた垣原の気配は消え去って、群れのなかにいる安堵が私を覆っていくのがわかった。目を足下に移すとひとり分の足跡が伸びていた。辿っていくと三叉路の突き当たりで足跡は絶え、白い擁壁に囲まれてそこだけむき出した岩の合間から、こぽこぽと喘ぎながら水が湧いている。思わず伸びた手が、冷たさを感じるより早く痛みに転じ、手が細胞の網目になったかのようだった。白くなっていく掌に、石粒が数個沈んだ。石になってみたいと、そう思ったことはないか、と垣原の声がした。

 ──山に埋もれて呼吸すら許されない石、子供に蹴られる石、なんでもいい。石になれば意思なんていうものから解放されるわけだ。意思がない以上、選択はない。選択がなければ、名前は必要ない。俺は消える、が、残るんだ。お前もいるし、あいつもいる。けど、境がないから、存在しない、だけどいる

 垣原のその声が、いつどこで聴いたかも判然としないまま、おそらく一度もそんなことは語らなかったのだろうと確信すると、声自体は奥行きを保ったまま耳に残り、とうに薄まりつつあった彼の気配は前触れもなく消えた。

 濡れた手を浴衣で拭きながら、一日ぶりの空腹が波打つようにやってくるのを感じた。



 四


 カツ丼とうどん、それでも足らずに別の店へ駆け込んで海鮮丼を掻き込むと、腹は素直に突き出るくせに、気分は不服そうにふくらんだ。露天の前を歩いていると、膨張した腹を抱えた三十過ぎの男の姿を遠くから眺める気分になり、懐妊した男の幽霊じみた姿態にもかかわらずさらさらと行き過ぎる人びとはいささかの動揺も翳りも見せない。出っ張った腹は幻として私の頭にあった。漠としてはいるが、身体感のともなう幻だった。私は、見られたい、と思った。今なお失せない空腹感が、そのためではないかと思われるほどの性急な願望だった。胃に圧迫された肺で喘ぎ喘ぎ見境もなく次の店に入り、日替わり定食を頼むと天麩羅の盛られた皿が出され、拒みつつある身体に鞭打って口に運んだ。

 ──あなた、だらしなくなった

 妻の声がした。当時の私は痩せ細っていた。学生時代に蓄えた肉を、社会の波に一年一年刻々と削らせて、三十手前でそれも限界に至ったらしく骨と皮ばかりになっていた。そのくせ食は旺盛で、その時もわたしはインスタントのカレーをふたつ湯煎し、皿に盛られた山を懐に仕舞うようにして掻き込んでいた。

 ──いつからそんなにふてぶてしくなったの

 ──むしろ痩せたけど

 ──だからじゃないの

 妻は顔をカーテンの影に隠し、室内の鈍い光を溜め込んだ目だけをちらちらと震わせていた。腕を後ろにもたれかかるように身体を支え、やがて生まれてくる子を投げやりに、抱えきれないというふうに空に突き出している。差し出している、とも見えた。陽が傾いてその顔の半分が照らされてみると、悪阻のために憔悴した面に子なしのころよりも肉の層を重ね、生の充満ともいえるだらけが堂々と横たわっている。女は影がぶれないな、とそんなことを思ったものだった。すぐに、いや、と打ち消す。女は影を抱え込んでしまうのだ、きっと。ふるえる影を抱え込んで、内側から振れて、その共振を頼りにする。男は影から影への振子運動をあっけらかんとした顔で繰り返しながら、内実は空で、女は次第にそのことに気づく、

 ──どうしてそんなに食べられるの、どこにしまっておくの、そんなに沢山……

 ──頭かな

 ──昨日のご飯も思い出せないんだから、大した大食らいの役立たずね、その頭は

 ──お前は逆だな

 ──あなたたちはなにも食べない、食べても下してしまう

 ──下痢か

 ──消化できないの、垂れ流し

 言い当てられた気まずさを誤魔化そうとカレーに食らいつくと、なるほど満たされない感覚が胃のうちにあるように思われて、食事そのものが無為な営みと映り、もはや自分はスプーンを口に運び箸でつまむという行為そのものに逃げこんでいるのではないかと訝った。

 ──生きなおしなさいよ、ちゃんと

 あけすけな物言いに苛立ちかけたが、妻の言葉が肉感を帯びて迫ってきて、反論に値する言葉などは私のうちにはなく、かといって殴りつけて黙らせるという手段も遠く、努めて存在を消そうと黙ってしまう。

 ──黙ってばかり

 そうした妻の箴言に対する反発は、産後わかりやすい行動となってあらわれた。鬱ぎみの妻が寝ているあいだに家事のほとんどを済ませ、子供をあやしてミルクを飲ませ、荒廃した妻の心室に物音を立てないように細心の注意で距離を置いた。最初は有り難がっていた妻だが、半年を過ぎたころに鬱気はおさまるどころかより深刻になり、子供なんて産まなければよかった、その泣き声をなんとかして、と子に触れることを厭うようになり、仕方なく父子を家に置いて外に出る。帰ってくると、玄関を開けるなり灯りひとつ点けずにいる部屋のなかから娘の金切り声が響き、その奥で壁を殴る妻の叫びが重なった。騒然とした空気に気圧されながら娘をあやし、妻の気分の鎮まるのを待ち、やがてそれなりの落ち着きを取り戻した彼女と三人で食事を済ませても、翌日には似たような状態に陥り解決らしい解決はおとずれない。

 ──あなた、どこかへ、行ってくれませんか

 鬱に耽りきった底からの、沈黙から漏れ出した願望だった。きっと本人にもそれがほんとうの解決をもたらすかどうかもわかっていない。察する、などという身勝手な関係を好まない私は、一言も口を利かずに適当に服を鞄に詰め込んで家を出た。玄関を出るなり頭に妻と娘ふたりの生活の陰惨な情景がよぎった。そんな思いを振り払い風を押し分けて進むうち、家事と子育てを免れた育児休業中の男の、身体の芯から細って浮くような感覚におそわれ、神経を苛むばかりと考えていた重荷がむしろ錨となって身を絆していたのではないか。情人も友人もいない私は行くべき場所もなく、最終的にビジネスホテルの一室を借りてそこで過ごすことにした。

 三日が経ち、妻に電話してみると、すべて良くなった、と明瞭な口調で答えた。何かすべてが解決したような浮き足立つ感じを怪しみながら家に戻ると、期待に反した無惨な光景が、散らかった玩具と衣類のなかでうずくまる妻の顔があった。

 ──なにも言わないで、そこにいて

 と、黒い髪に翳った唇がそこだけ赤く光った。捲り上げたスウェットのしたで片方の乳房があらわになり、まだ唾液の濡れが残った先端から白い液が皮膚を這って落ちた。

 ──この子が泣くとお腹がキュッとして、あなたと会ったころみたいで、自分が情けなくて

 妻と娘のあいだには妙な距離が保たれていた。娘は這うこともできず、微弱な視力で自分を満たしてくれる何かを探している。

 ──動物になったみたいで……ほら、いるでしょ、子供を食べちゃう動物が。でもああいうのはたいてい子供が病弱だったり、親のひもじさからする。あるいは兄弟間の諍いの果てに食うものも分けてもらえず、それを憐れんで親が……でも、私とこの子はどちらも病気でもなければひもじくもない。それなのに私の身体は動物みたいで、それらしいことをしなきゃならない気がする

 ──それらしいこと

 ──育てられない親は、子供を殺してあげるの。身体はこんなに太って、母乳はいくらでも出る。でも、私には無理。わかってる、あと一年もすればこの苦しみはぱっと消えて、ほかのお母さんのようにあっけらかんとして母親になれる。絶対そう

 ──じゃあ、問題ないじゃないか

 ──問題は、ある。私は今すぐ死にたいと思ってるし、この子を食べてこんな世間からおさらばしたいと願ってる

 ──そんなこと、考えなくていい

 ──考えたいの、わかってない、あなた。どうしたの、その顔。なにが嫌なの、怖いの。死んでも、食べてもいい、そういう気持ちでいてください。そうじゃないと、ほんとうに……

 私の楽観的予想とは裏腹に奇妙な具合に屈折した論理で、いや感覚で居処を定めようとする妻は、傷口から内臓が漏れ出すのを手で押さえながら飯を食う動物を思わせ、その静かな立居からはかけ離れて陰惨だった。途端に悪寒が走り、自身の身体の痩せぎすであることに気づいた私は、妻のいう、だらしない、の意味を今さら理解できたような気になった。物を食べて蓄えもしない。腹が空いても嘆かず、遠い企図に耽って、遠い死を空想する。そんな言葉が湧いては消えて、ほとんど反射的に冷蔵庫に向かい卵とソーセージを取り出した。冷凍ご飯をレンジで温め、ひとつの皿に盛って掻き込むと、味というものをわかっていないのだと思わされた。それに、素直に腹に溜まらない。食った物はすべて胃と腸をすり抜けて、浅ましく吐き出される。

 肥えて、妻とのつり合いを取り戻したい、そうしなければどちらかが崩れる、そんな焦りを抱えて空腹感との折り合いを模索しつつ、妻と娘の格闘を手出しせずに眺める日が続いた。一向に変わらない、いやむしろ痩せていく私を置いて、妻は激昂し泣き、時折発狂の発作を見せながらも身体のバランスを取り戻していくようで、徐々に家事をこなせるようになっていった。私が余計な気を遣って早朝に洗濯や洗い物を済ませてしまった日などは、妻の神経は身体の安楽さとは反比例に崩れるらしく、残りの家事や子供の世話をするその背にいつ狂うとも知れない翳りを濃くし、やがてそこにいることを咎めるような目つきをする。妻に仕事に復帰しようかと提案すると、

 ──あなたはそれでいいの。なにかしたいんじゃないの。そんなに仕事に熱心じゃないでしょう。いてくれたらうれしい

 と、あどけない表情でいわれ、半年の予定だった育児休職を一年に伸ばすことにした。根っから怠惰で仕事への執着もない私の性格は、子供が生まれても変わることはなく、できるならば延々と育児に耽って生を終えたいという気になっていたが、家事すらも妻に任せきりになるといよいよ時間を持て余すようになった。怠惰であればあるほどに妻は機嫌が良く、娘との調和を取り戻すようだった。立居にも必然のようなものが寄り添いはじめ、何事もなく終わる一日の寝入り際に、故郷を捨て知人ひとりいない土地に暮らす自分たちにも家庭などいうものがつくれ、血のつながりのない土地と折り合うことができるものかという感慨に耽りかける。すぐに、いや、と癖のように拒絶がはさまる。どこに住んでいてもおなじだ。

 それからしばらくして垣原から連絡があり、温泉に誘われた。

 

 いますぐにでも妻に電話をし、置き残された妻子の安全をたしかめたい想いに駆られたが、意識でそれを抑え抑えして昨晩まで過ごしていた。軽率な行動だと感じていた。下手に手を出せばまた崩れかける。私の一手が妻の束ねかけた生活に水を差すことになる。同時に私は妻の指令を求めていた。温泉に入水して死んでこいと言われれば、喜んでそうしていたかもしれない。愛など知らない、恋もわからない。それでも己を蔑ろにすることは容易に思われた。しかし妻はそんなことを望んでいない。良い人生を送ってほしいとさえ語ったことがある。しかし私には人生の処方こそ学んできてはいたが、感じ分けて味わうことができない。垣原もそうだったのではないか。

 川沿いで鴨を眺めたあと旅館に戻り、追加料金を払って夕方まで客室に居座ることにした。客の絶えた路地を見下ろすと、馴染んできた畳のにおいもあいまって、どこか故郷めいた安堵が染みてくるようだった。ぬるりと睡気が誘う。腹がふくれて重くなったくせに満腹感のともなわない身体を横たえて、広縁の窓から外を眺めるうちに眠っていたらしい。あいまいな眠りの境にあって、垣原の泊まっているはずの部屋から足音が降ってきて、あ、いるな、と感じながら身体は動かない。雲の流れが遅く感じられ、その違和を感じ取った指先が痺れる。垣原の足音は平静と変わらない速度でやってきて部屋のまえで止まると、足踏みするような調子で客のいない建物全体を微かに軋ませる。それから階段を降りてきて、私の客室の前で止まる。

 ──飯を食いに行こう

 いつか聞いた声と感じた。彼は入ってきて畳のうえに座り、学生時代の私の部屋にあったうちわで顔を冷やす。

 ──暑くてたまらん、そろそろ冷房を買え

 ──そんな金ない

 ──じゃあ働け

 ──働くより蒸されて死ぬほうが潔い

 ──ガキみたいなことを言うんだな

 私はやっとの思いで起きあがり、ペットボトルから直に胃に水を流し込むと、疑いもせずに和洋の混然とした部屋を眺めた。

 ──どうして降りてきた

 ──これを読んでね、なつかしくて

 垣原は持っていた文庫本を投げてよこした。黄ばんでなかば黴の生えた表紙には〈羅生門〉と書かれてあった。

 ──婆あから逃げてきたわけだ

 ──なにを追い剥いだ

 ──それが、なにも奪えなくてな。悪あがきに、これを

 女のながい髪が一本、はたと床に落ちて今にも吹かれてしまいそうに揺れていた。

 ──誰の髪かな

 ──何人抱いてきたか、思い出してみろよ

 ──たまに、こう思う、俺は誰も抱いてこなかった、いや、誰と会ってもいなかった

 ──泣かせてきた男の言い訳にしては安っぽいな。世間には届かん声だ

 ──それもそうだ

 垣原は煙草に火をつけて、汗の浮いた顔を扇風機の風に当てながら煙を吐き出した。それから怠惰そうに両手を支えに仰向いて、盆のうえで炭になっていく煙草の先端をじっと眺め、

 ──実家に帰れよたまには

 といって、身を起こす。

 ──うまい飯でも食べてこい

 ──また急だな

 ──子供に戻ってこい

 ──今も子供みたいなもんだ

 ──なおさら良い

 お前こそ帰れ、そういいかけて口を噤んだ。垣原の頭はぐるりと回転してこちらを見やった。

 ──俺に実家はない、それで、ここに来た。頼りなんだ、お前が

 垣原の意図がわからなかった。同じ部屋で過ごしていてもこれほど饒舌になることはなかったし、だからこれは夢なのだ、と合点がいきつつも簡単に断じることができない。

 ──わかった、帰る

 ──そうしろ、報告してくれ

 ──お前は

 ──散歩でもしてくる。蕎麦でも食ってくるよ

 夢はそこで途切れたらしく、垣原はおらず、扉も錠がかかったままだった。客室に響く電話には気づいていたが、彼の好んで吸っていた煙草のにおいが残っている気がしていつまでも横になっていた。日はすでに暮れかけて、西の空はほの赤く照り、底のほうから闇が迫り上がってきた。

 

 電話を取ると、催促ではなかった。時計を見やるとチェックアウトの五時半までにはまだ一時間ほどある。

 ──お客様に会いたいという方がいらしてまして

 あの若い女将らしい、遠慮がちな物言いの背後に立つ垣原を思い浮かべようとしたが像を結ばず、来迎図に描かれた如来の静まった顔がぬっと浮かびかかる。

 ──女性の方で、ご友人だと

 その声音に若干の非難の混じるのが聞き取れた。

 ──わかりました、降ります

 ──はい……あ、え、そうですか

 ──どうしました

 ──そこで待っていてほしいとおっしゃってまして

 受話器を置いてから、落ち着こうと煙草に火をつけて目を閉じた。静まった建物の周囲で溶け出した雪の流れ落ちていく音が聴こえて、その底から木の軋むのが共振れのように内蔵に届いた。足音はいつまでも鳴っていた。こうしていつまでも待つ。やがて自身の骨が畳のうえに残されて、閻魔の使いである女は見届けてほくそ笑む。そんな想像が頭をかすめた。



 五


 垣原の泊まっていた三階の客室に入ると、人が過ごした場所にしては精気のにおってこない部屋のうちに、ぽつんと小ぶりな鞄が置かれていた。女は断りもなく部屋に上がると、その鞄のまえに跪いて顔をかがめた。やがて頭をあげてあたりを見回してから窓のほうを眺めるようにして、一息深く吐き出した。

 ──申し訳ありませんでした。掃除は不要と伺っていたので

 女将は両手を前に添えて頭を下げた。それから携帯を取り出して通話をはじめ、その口調から清掃員がなかなか確保できないらしいことがわかった。通院、という言葉が聞こえて、なるほど若い人間には到底敵わない徹底さで部屋が整えられていたことを思い出した。女将がやり取りを終えて申し訳なさそうな顔を伏せて部屋の入り口に戻ってきても、女は膝立ちのまま振り向こうともせず、一心に耽っているようだった。私は女将を促して扉を開けたまま一階に降りることにした。

 ──このごろはパートのおばさんがなかなか確保できてなくて

 女将は私を受付前の応接間のようなところに座らせ、饅頭と茶をふたり分ていねいに並べ、お盆を抱えたまましばらくうつむいていった。

 ──経営のほうもこの有り様ですから

 詰めていた息を漏らすと同時に表情もほぐれた。旧態然とした木造の内装はむしろ好ましく思われたが、よく見てみると窓枠には埃が残っていて、天井の隅には陽に照らされてきらめく蜘蛛の巣が暖房の風にふるえていた。気にするそぶりも見せない私のせいか、態度は話すほどにあからさまに崩れていき、最後には同年代らしい軽口まで漏らすようになった。

 ──出戻りなんです、東京から。それからすぐに父が入院して……結婚しておくんだった

 私の薬指に目を落とし、慣れない仕事の、溜め込んだ疲れを支えかねるように背を曲げて遠い目つきをする女の、歳の重みに垂れはじめた頬の肉に塗られた化粧がところどころ乾いている。溜めていた言葉も尽きたのか、あるいは不適当な返答しかできない私のためか、私たちは湯気も立たなくなった茶碗を挟んで向き合い、ほとんど相手を意識することもなく雪に閉ざされ音も無くなった時間に浸っていた。女の背後には黒ずんだ木枠の引き戸越しに往来を行き来する浴衣姿の男女の姿があった。賑わいは、底のほうでざわめきとして聴き取れてもこちらへ入ってくることはなく、硝子一枚の隔たりが永遠を兆し、いずれおとずれるであろう解体の時にも透明の膜に遮られている。家を解体された女は、それを背負って歩く。そんな想像を持て余していると、まさに内側からざわめきが起こって、女将もそれを感じ取ったのか背を伸ばして振り向くと、黒いニットにベージュのスカートを着た女が片腕にダウンを垂らして、階段のそばで立っていた。

 ──追加で一泊、いいですか

 ──はい、当館としては問題ございませんが、清掃するためにすこしお時間を頂いてもよろしいでしょうか

 ──掃除は、いいです

 ──え

 ──あのままで。お金は払いますので

 ──かしこまりました。こちらにご記入いただけますか

 女将は受付の裏に入り、用紙を取り出した。女はさっと書き終えると、そのまま二階に戻ろうとしたが、三段ほど階段をのぼったところで踵を返し私のほうに目を向けた。

 ──ちょっと、いいですか

 


 話し相手になって欲しい、そうしたら片づく気がして。垣原のいた部屋の広縁に腰掛けて向かい合い、五分ほど口が開くのを待って過ごすうちに、橋爪といいます、橋爪奈緒と名乗ってから女はいった。私はうなずいて、橋爪も表情崩して視線を窓の外に移し、また黙ってしまった。垣原の相手を手前勝手に若い可憐な女と空想していた私は、腰の肉の厚さを抱えた、揺らぎのおさまりつつある目つきを見てすぐに年上と判断した。頬の肉のふくらみとその重みにこらえようとするかのようにきつく結ばれた口元、それをやめればひとたびに崩れてしまいそうな全身の重みなどを観察し、老化というより成熟と感じたた。自分より成熟した異性を前にして、諭されることもなく、ただ面と向かっている。しばらくそうしていると、今度は彼女の内側からしきりに発散するものがある。隠された幼さのようなもので、私への態度はまさにそうだった。私にこれからどんな予定があるのかも聞かなかったうえ、もし用事があるなら勝手に行けばいい、個人の自由だといわんばかりのあどけなさがあった。彼女にとって、私はなんなのだろう。そんな言葉が浮かんで、私自身も幼くなっていくような気がした。

 ──あなたのことは何度か話に出ました。古い友人だと、数少ない知り合いだと

 ──ぼくたちは異性愛者ですから

 ──それは疑ってはいません。あの人、女好きでしょう

 ──いや、女嫌いでしょう

 ──そうかも

 橋爪は笑みを抑えるように口元に手を当てた。それから、三十六です、と年齢をいった。

 ──年増の私が選ばれたのも、だからかもしれない

 ──年齢は関係ありませんよ、きっと。垣原にとっては、あなたが良かったわけです

 ──そんなロマンチックなものじゃないです、私たち、一度も寝てないんですから

 突然の、露骨な、しかも平板な物言いに反応できなかったが、嘘をつく気のないことにほっとさせられた。

 ──秋に出会うなんて、そもそも寂しいでしょう。何もかも枯れて、たいていの生き物は往生際。私たちも死にかけて、互いに寄りかかった。今となっては誰でもよかったのかもしれない、そうも考えるんです

 


 わけもなく仮病をつかって仕事を休み、高揚する気持ちと相反してやることのない時間をテレビなどを見て過ごすうち、橋爪は午睡に落ちていた。目を覚ますと暮れの早くなった空が青に赤を滲ませて、煮え切らない気分にさせた。腹も空かなければ喉も渇かない。独身、親なし、知人なし。いよいよ退屈そのものとなっていく自身に感じ耽りながら、昨年一方的に別れを切り出してきた男の、涙さえ流して自身の罪悪感を述べながら翌月には若い女を連れて歩く姿を思い出し、次は自生するような相手がいい、とつぶやく。植物みたいに、あるいは木彫りの仏像みたいに。

 青白く発光し、まるで血の気の失せた死体のようなのは、月のもののせいかと鏡に映る自分を眺めていた。下腹部と頭の鈍痛をこらえて化粧を済ませると、どこにでもいる女の姿になった。これで安心だ、男に嗅ぎつけられないで済む、と自分でもわけのわからないことをつぶやいた。着替えるのも気疎い気分をおさえて、それなりの身なりに繕い居間に腰を落とすとまた動けなくなり、窓を見やると、もはや赤みもかすかになった空を街の電灯がほの明るく照らしている。今さら出かけて何をするの、と自分に問いかけていた。もちろん返答はなく、しかし、半日を過ごして煮詰まった部屋から逃避したいという思いだけはあった。ここにはなにもない、その思いは強まっていき、服の華やかさとは裏腹に装飾のない白さ剥き出しの寓居の色気のなさに自身の実相を見せられる思いだった。しかし外にはさらに何もない。その直覚が腰に重みを付け加えていた。持病でうずくまり、身動きが取れなくなり、群れから放り出された鹿を思った。離れていく鹿たちの面に、外傷もないくせに地面にへたりこむ雌鹿への侮蔑と、自身もいずれ落ち込むかもしれない病への不安があらわれ、揃いも揃って似たような顔をしながら自分のなかに沈んでいる。いつだか読んだ聖書の、悪霊の乗り移った豚の群れが崖を落ちていくのを思い出し、あれは嘘ではないかと地平線で小さくなっていく群れを見ながら思った。彼らは生きながらえる、死ぬということも知らずに生きることを自分に強いている。死ねないのなら、生きていないのとおなじだ。

 態度にも自然と崩れがあらわれて、群衆の一匹になろうと背を伸ばしているつもりでも、群れの、特に男たちの目の卑屈な獰猛さを鏡として、そうと知る。かといってどうすることもできず、目的もなく歩いている人間特有の、緩慢な歩きと四肢の緩み、空に差し出すように前のめりになる顎を支えて歩く。もはや自身を守ることなど叶わない、そう思うと気が楽になった。どうせ、目だけなのだ。襲う勇気すら持ち合わせない、弱い種なのだ。

 強い種。それを求めていた。

 こちらを否応なしに屈服させ、卑小な意識を粉微塵に粉砕し、もはや痛みのほかにはなにも残されない。人間でなくとも、猿や熊でもいい。自分の頭を吹き飛ばしてくれるものならなんでもよい。

 そんなことを考えながら歩くうち、一枚の鏡が記憶の底からあらわれた。まだ両親が生きていたころ、祖母の家の、そのころすでに使われなくなっていた納屋の、屋根裏部屋に置かれていた楕円形の大きな鏡。額に沿って飾られた金箔は時の経過にたえられずにぽろぽろと剥げ落ち、ただ鏡面だけが黴も生やさずにまっすぐ小さな身体を映し出していた。歪な、どこか猥褻な四肢と感じた。だからはじめは亡霊にみえた。やがてその歪さが既視感のためだと知り、何の為の腕か、何の為の足かとまるで死体を眺めているような不快な気分で鏡に映る自身の身体に触れた。目に触れた瞬間から鏡に対して抱いていた好感は、どこに立って静かに眺めようと自分の身体を映し出してしまうためにいよいよ穢されていく。なによりはっきり映し出されたのは頭だった。切れ長の目、黒い長髪、高い鼻に薄い唇。それらの部分がよそよそしく、自身と重なり合わず鏡面に浮き出して、そのくせ連動を保っている。そこで妙案を思いつき、鏡に近寄って見下ろす姿勢で立つと、顔は消えて不気味な四肢はいくぶん見られるものになったが、半端な科学の知識のためにそこに生じる動きのひとつひとつが脳の送り出す信号のためだと思い至ると、身体だけになった自分が鏡の人質になったように感じられた。

 鏡の割れる音がして、従兄弟と叔父が駆け上ってきた時、両肩を抱くようにして身を守る体勢でうずくまる自身を、ふたりの男の、いや、あらゆる男の目が一挙に射すくめるのがわかった。割れた鏡とかがみこむ女、その状況が男たちの内奥の、まだ触れたこともない泉の水面に一滴したたるなり、彼らの意思にかまわず波うち、あらわな女を、すでに抱いている。あの時無事に済んだのは、納屋のためではなかったか、と思うことがある。時の蓄積そのものとなって有用無用の基準もなく祖母の頑固さで維持されたその建物が、男たちの血を鎮め、自らと似た血を内側に通わせている女を、まるで自身を鏡で眺めるように嫌悪させた。

 それから十年もしないうちに父が倒れ、五年にわたる看病の末に夫を失った母親は、頭に少々の狂いがではじめたが、半年も経たないうちに習い性になっていた神社参拝の階段の中途で倒れているのが見つかった。彼らの晩年の、医療を駆使した悪あがきのために生を受けた娘は、この世に一人残されたことが儚い恣意の残骸のようにしか考えられなかった。早々に家を売り払って東京に出てきた時も、希薄な生からをより希薄にしたいという思いが背を押した。

 


 ──ずっと、故郷探しなんです

 橋爪はそういったきり黙り、窓の外でまた降りはじめた雪を目で追いながら、重くなっていく身体を支えきれないというふうに椅子に深く腰かけた。夜闇が忍び寄り電灯が灯りはじめ、露店の人間の立居には降りだした雪への苛立ちと、いつまでも終わらない冬への憂鬱が見え、平板な顔をして行き交う観光客との温度差が感じられた。それでも夜が両者を宥めるのか、やり取りの際には首を縮こめあって目を交わし、目にほのあたたかい共有がある。去った時代が一瞬ではあっても蘇ったようなその光景を眺めながら、言葉いらずの人と人の営みから縁遠くなった自分がいよいよ心細くなり、ああ、だからか、とさっきは合点のいかなかった橋爪の話が腑に落ちた。あれは必要な話だった。友人に去られてひとり温泉街に残された自身の境遇とならべて反芻していると、妻と娘の顔がうかび、思わずポケットに手をやる。携帯を失くしたことすら忘れていた。

 ──すみません、長々と

 ──いえ

 私は入り口に置かれた自分の荷物を見やった。

 ──今夜帰るつもりだったんですが

 ──ごめんなさい、引き留めて

 ──いえ、ただ、携帯を貸してもらえませんか

 ──携帯は置いてきました

 まずいな、と考えてから、悪阻のひどい時期に電波が人体に与える影響に関する怪しい噂を聞きつけた妻が携帯を解約したことを思い出し、気抜けしたような笑いを漏れた。そのことを伝えると女は表情も変えずに、そうですか、と顔を伏せた。

 ──じゃあ、今晩はどうなさるんですか

 ──適当に明かすしか

 ──付き合っていただけませんか

 ──何に、です

 ──話に。私は寝ないつもりです、寝れないんです

 ──不眠症、ですか

 ──寝たいわけじゃないので

 ──垣原は、寝てんのかな

 思わず垣原の名が出て、しまった、と思ったが、女の顔色は変わらなかった。ただ、ふっと口角を上げて、

 ──ああ、お腹減った、何か食べたい

 と、腰を上げた。荷物をまさぐりはじめた女の姿が、抱かれる覚悟でいるようにみえた。橋爪ひとりではなく、不特定多数の背が重なって、男を受け入れながら拒み、逃れられない苦に順応しようとする硬さがあった。



 六


 橋爪は湯に関心がないらしく浴衣には着替えず、温泉にも一瞥もくれずに通り過ぎ、孤独な背を街の暗がりに冷ややかに運んでいった。やがて地元の古風をまだ残す、住宅街の隙間に伸びる狭い路地に入り、辻から辻へと慣れたような足取りで進むうち、かがまないと入れないような小料理屋のまえでダウンのポケットに手を入れたまま立ち止まり、それからかがんで店のなかを確認すると臆面もせず引き戸を引いた。

 頼んだビールを一口含んだだけで、あとは突き出しの蛸の酢の物とエイヒレをちびちびと食う女のさまをみて、小さく刻んだ人参や芋をおそるおそる娘の口に運ぶ妻の姿が重なり、この女は己で己を養っているな、と気味の悪い言葉が浮かび、彼女よりよっぽど貧相な身体のくせに脂っこいものをがつがつと口に放り込む自身の身体が浅ましかった。それも年増の女に対する気後れか、とすべて平げ空になった皿を見つめながら、底のほうで女の何かを探ろうとする思いがあるのに気づき、

 ──姉がね

 と、ほとんど意識を介さずに言葉だけが漏れた。女はわずかに目をあげてから、すぐに目を皿に戻して食べもしないタコを突きはじめた。

 ──お姉さんがいるんですか

 ──母の腹で死にましたが

 ──死産

 ──はい

 ──そのお姉さんが、どうかしたんですか

 ──それは僕ではなかったか、と時々思うことがあるんです

 これもほとんど感情や感慨が伴わないまま、言葉が言葉だけになって口から漏れた。

 ──だから僕は一度死んで、もう一度生まれてきた。そうなると転生ということになりますが

 ──男の人らしい考えですね

 ──男らしい

 ──お母さんは苦しまれましたか、そのことで

 ──いや、わかりません。ただひとこと、お姉ちゃんがいたんだよと、それだけで

 ──きっとそれでいいんですよ、忘れるんです。忘れても、どうせ仕舞い込んでるのが女で、その逆があなた

 ──僕

 ──憶えてるのに、なにも知らない

 論理に傾きがちな私の口調のためか、女の顔つきにかすかな疲れが宿り、その手が自然にジョッキ伸びる。心持ちうつむいて髪の翳りに隠れた面が動きもせずに動く。

 ──なにも知らないくせに、憶えてる

 ──垣原はどうでしたか

 女の言葉を噛み砕くより先にいう自分の狡さに嫌気がさした。

 ──あいつは、男でしたか

 ──いや、でも、私ともちがってました。だから遠いんです、一緒にいても。それが落ち着くからと腕を組んで、うとうとしているといつのまにか消えていて。ほんとうにそんなことがありました

 ──これまでにも消えることがあったと

 ──でも、問い詰められない、あの人は

 ──馬鹿といってやりゃいいんですよ

 ──馬鹿は私のほう。そう思わせてしまう人なんですよ、あの人

 女はちびちびと食いちぎっては皿に戻していた蛸を一息に口に放り込むと、口のなかまで晒してあらわな感じで咀嚼した。噛むだけ噛んだあと、ティッシュのなかにそっと吐いて捨てると、拭って口紅の落ちた紫の唇がくっとそこだけ引き攣って、

 ──むかし、襲われたことがあって食べられないんです、蛸

 と、冗談めかした笑いを漏らす。笑いながらも切迫をはらんだ女の表情が、受け止める者もいないまま狭い居酒屋で浮き出して、あたりで騒ぐ男たちの意識が雪崩れるようにして女へと傾くのがわかった。なんだ、こんな女か、俺としたことがと、男たちの顔には落胆と損なわれた尊厳の焦りがあらわれ、会話を再開したはいいものの互いの言葉がどこか行き違う。それで沈黙に、なによりも恐れていた沈黙に各々耽り、そこからある考えが、あの女はかつて抱き合った相手ではないか、という訝りが滲む。自分に恥を与えた女ではないか、と。下腹部から当時の火照りさえ疼きはじめて、底を支える恥のほうが実際であり、目覚めているつもりが眠っていて、ほんとうの女を逃したのではないか、と怪しみが頂点を超えたあたりで熱は引いて、再開した会話のあまりの滑らかさに、その滞りのなさにまたあの沈黙が挟まるのではないかと恐れる。しかし燥ぐほかない。燥いで燥いで、ふっと事切れる。それが最善ではないか、と噪ぎのための噪ぎは螺旋を巻いて昇り、消える。そうしながら耳をそばだてる。女の、蛸について話す口調が妙に艶いて、そのくせどこか清廉な色を帯びはじめるのを自身の笑いと重なったように耽る。

 ──六歳の頃に。母は偽記憶だというんですが、私ははっきり覚えていて。身体中に吸盤で吸いつかれた跡がたくさん残って、でも、追いかけていたのは私だったんです。あれは母だったんではないかと時々考える。もうひとつの母親、ほんとうの母胎。垣原さんにも時々言われました、お前は逆行してる、遡ってる、だから幼くなっていくんだ。それとは逆に彼は突き進んでいく感じでした。お前は特別だ、と甘いようなことも言われたことがありましたが、彼にとってはすべてが通過点に過ぎません。触れて、見て、感じ取ったら相手のことは忘れて、また次を探しに行く。彼が努力やら積み重ねという言葉を嫌ってた理由も、たぶんそのあたりにあるんでしょう。人と出会って自分を知る。ほんとうはそこで知った自分を積み重ねて記憶に蓄えるわけですが、彼の場合は切り捨てる。相通じる部分を発見するなり身体からすべてを取り除く。空っぽになったら、それは死ぬということです

 沈黙がはさまり、私の存在を受け皿か何かと思っている女の、うつむいて耽る姿が、まるで告解する人間のように見えた。

 ──ある時、聞いてみたんです。どうして私のところには長居するの、と。すると彼は、お前はいつ死ぬかわからないから、と言うんです。私にとっても彼はそういう危険を孕んでいました。お互い様だなと笑い合ったあと彼が、でも俺には愛なんぞわからんからな、といいました。私も同じことを考えていました。途端に薄暗いマンションの一室で明け方の光に照らされていた彼の背がその輪郭にそってぐっと近くなって、でも、その輪郭の外はどんどん遠のいた。数キロ先にあるように見える布団の端はすっと握れるのに、目の前にあって触れ合っているように感じられる彼の背中には触れられない。口は自然と噤まされ、はじめての触れ合いに感じ入っていると、そのもどかしさのなかから、ずっと忘れていた出会いの時を思い出したんです。

 

 当時の彼女は次々と結婚しては子供をこしらえる知合いの訳知り顔が我慢ならず、意固地な生活を送っていた。孤独が高じて一時期女性権利向上を路上で訴える団体に所属していたかと思えば、誘われるままに男性擁護を街頭で叫んでいた。生半可ではあるが過去の学生運動の激しさとその内輪の地獄を聞き知っていた彼女は、彼らの人の良さそうな、怯えたような調子に驚かされた。彼らは反抗と怒りでなく、むしろ逃避と孤独によってつながっているように感じられ、だからこそ互いを結ぶ不文律を守り、その法を破る言葉を口にしようものならその者を孤独の輪から追い出し幼稚な沈黙に耽る。語るべき話題や言葉を規定し個を貧相にして集団を固くするというやり方は短期間の情熱には有効で、志願者は出入をともないながらも盛んだった。やがて集団の維持そのものが目的となって、凝り固まった主張を繰り返すばかりになる。だから街頭で叫ぶ言葉のすべてが訴える対象をともなわず、祭りめいたから騒ぎにみえ、活動を終えたあとは通行人の迷惑そうな顔とは正反対に火照って興奮した、いつになく快活そうな顔つきになる。飲み会が終わってみると、いくつかの酒で赤らんだ顔に冷たさが残る。そういう人間はいつのまにか集団を抜ける。そしてまた誰かが入ってくる。どの顔もおなじような各々固有の孤独に耽った顔で入ってきて、活動のさなかに高揚によっておなじような顔になるが、去るときには別々の隔たれた、もはや言葉を交わせあえない孤独を守って出ていく。どこかの時点でそれらが単なる遊戯でしかないと気づいてはいたが、ある明確な真理を信仰する集団に属し活動するということそのものに快楽を見出していた彼女は、仲間内特有の過剰な不文律を信仰もせずに守った。しかし次第にメンバーの顔が剥き出しの孤独をしめしはじめると、その甘えたような態度が許せなくなり距離を置いた。

 それからは徹底的な孤独を自分に強い、植物のように暮らそうと決めた。沈黙し運動も最小限にすると、これまで熱烈にどこかへ向けて行進しようとしていたのが別人のことに思えるほどに静かに後退していくようだった。軽い痴呆のような症状も出て、物忘れを防ごうとノートを買い日記をつけようなどともしてみたが数時間前の出来事が辿れず、かといってその度ごとに感じ分けて書き記そうとしても言葉は嘘めいてくる。いよいよ沈黙と退行のほかにすることもなくなると、必要最小限しか置いていない家具たちの陰影が日の暮れと共に濃くなって立体的になる。軽率な懐かしさだ、と感傷に耽りかける自分をおさえる。何も物と寝たわけでもない、と静かな部屋に苦笑が漏れる。デパートで何の基準もなしに手当たり次第に買ってきたそれらの物が、思い入れも積み重なる前から、一年や二年の同居を経て必然に変わることはあるか。いや、と打ち消す。大量生産大量消費の代物である。安いこともあってか、置き時計は半年で、ポットは一年もしないうちに根をあげ、ネットで調べた情報をもとに修理したりなどしたが、かといって物たちが自分の所有物であるという実感はない。滑り落ちて壊れれば流石の自分も容赦なく捨てる。捨てて、互いに切り離される。その事実が物たちの纏っていた時、そして占有していた空間を空白に、いや、彼らがそこにあったより一層虚ろにしてしまうのではないか。やがておとずれる氷河期は、そうした沈黙する物たちが支えてきた時空が破られることで生じるのではないか。空想に拍車がかかり、物不在のその破れから混沌が煮えたぎる波のように溢れだす。部屋は燃えさかる。しかし自分だけは冷えたまま、そこにうずくまって、死ぬこともできない。

 

 垣原についての話が聞けると思っていて息を詰めていたが、橋爪はまた唐突に沈黙に隠れてしまった。女の話を聞きながら、これは垣原の話ではないか、垣原に聞かされた話を伝承しようとしているのではないか、と思わせるほどに抑制がきいた彼女の声には実感がともなわず、しかしむしろその淡白さのために、私は自身の体験と重なったような気すらした。

 気づくと店内には浴衣を着た高齢の女とその娘らしき女のひと組におらず、私は目の端で浴衣姿の彼女らが談話もせずに日本酒を片手に黙々と肴を口に運ぶのを眺めた。破産の果ての心中か、そんな空想が走りいつか観た西洋の絵を思い出した。救世主を中心にその弟子たちが各々の思惑を胸に、やがて来る恩師の死を待っている。あざやかな色彩と奥行、なにより人物それぞれの表情と四肢の動きで表現された思惑が立体的すぎて、キツい絵だ、と感じた。それに比して心中を待つような親子の顔にはどんな色もなく、その無の表情から身体や背景まで無色透明になり、ただ輪郭のみが墨でなぞったように残る。そこには確かに人はいるし背景もあるのだが、見えない、だが見ている。私はそこに現実を見たような気になった。きっと私にも顔はないのだ、と。

 ところがしばらくして夫であり父親であるらしい男が湯上がりの火照った身体で入ってくると、彼女らの表情は一気に安楽に飛び、会話も跳ねた。その一瞬の変化に置き去りにされた気分で何か食べようと箸をもったが、皿は空だった。空に箸を置き去りに、一度行き詰まった動作のリズムを取り戻そうと息を吐く、目を瞑る。手首を掴まれる。私は何者かに引かれて走る。椅子に足をぶつけ、小石に蹴躓き、傾斜のキツさに息も絶え絶えになりながらこわくなかった。このまま連れ去ってくれればとさえ願った。しかし先導者は私を置き去りにした。手首を握っていた手は離れ、こんどは二の腕をきつく握られている。胸が押しつけられ、慣れない体臭がもろに香った。やがて二の腕から熱とともに痛みが湧いて、目を開けた。

 ──ごめんなさい、揺れて、それで

 徐々に闇に慣れていく目が、垣原と足湯をした境内を、それから顎の下に押しつけられた女のつむじを捉え、続いて耳が街の底で四方から鳴るアラートを聴き取る。誰も彼も携帯を見ながら、その表情には先ほどまでの緩みが残り、地震発生という事実を噛み砕けないまま口を開けて言葉らしい言葉を発さないでいる。そのくせ足は動く。それまでと同じ方向に、速度だけは落としながらも淡々と進む。なるほど揺れたには揺れたが微弱だったようで、携帯の情報に触れたあとしばらくすると、人びとの顔は観光客らしい安楽さにもどっていった。しかしそのうちの数名の、特に女性の口調や動作がにわかに崩れ、ある者は震度の弱さを知ってか知らぬか携帯越しに涙を流し、またある者は欄干に手をついてかがみこみ、誰にも声をかけられぬまま、雪に触れる手の冷たさにも思い至らないまま静止していた。

 ──来てくれませんか、部屋に、一緒に。私、だめなんです、揺れは

 一瞬、私の頭に、女の誘い、ということが艶かしく響きかけたものの、腕の痛みともろにもたれかかられる体重に、抱え込まされた、とあらためた。うなずけば一生相手にしなければいけない。病になっても老けても、たとえ死のうとも面倒を見ないといけない。しかし私は無我夢中でうなずいていた。

 女に縋られて、かすかに傾いでいた視界が平衡をとりもどし、もし女を拒んだならその途端に倒れるのではないかという恐れが湧いた。それに、ひとりで立つということの空恐ろしさもあった。街も、その外も、自分自身ですらもはや抱えきれない、投げ打ちたい、そんな焦りが、女に嘆願された瞬間に錨を下ろされたように静まった。

 人、という字が浮かんだ。中学時代に担任の教師がその字について説明してくれた。人は助け合っている、支えっているのだと。学生の誰ひとりとして信じていなかったであろうその安っぽい説明に表面上は嫌悪を感じながらも必死に肯定してきたのは私だったのだと知った。今となってはその文字は、ひとり立ち、いまにも崩れて伏してしまうのを堪えている単独の人間にしか見えない。伏してしまえば、一、になる。死ねばただの空白が横たわる。その空白が橋爪の語った、物の消えた空白と重なって雪崩かかる。なす術もなく流されて、たどり着くあてもなく浮遊するうちに境の消えていることを知る。


 

 七

 

 しなだれかかる女を抱え、周囲から注がれる奇異のまなざしから逃れるように旅館に戻ってくると、三階の部屋にはふたり分の布団が敷かれていた。私たち以外に宿泊客のいない旅館のうちで、この部屋だけが建物全体の生命感を背負わされているようだった。その切迫感に身体がついていかず思わず崩れそうになるのをこらえて橋爪を布団に横たえる。女は首から手を離さず、腕を支えに全身をだらりと垂らす。預けきるその体勢が、二年前の祖母の姿と重なった。寝たきりの祖母の、皮膚から発散される薬のにおいまでよみがえり、思わず突き放しそうになるのを抑え、風呂に入ってこいよ、と垣原のような物言いになった。

 ──無理です

 ──じゃあ運びますから。温めたほうがいい

 ──まだ揺れてる

 そういって橋爪は頤を突き出し、暗い部屋に瞳孔の開いた目を拡散させていたが、ガラスの嵌った窓枠は微動だにせず、建物の下方からざわめきが起こることもなかった。私も感じ分けようと目を閉じたが揺れは感じなかった。橋爪の身体だけがゆらゆらと横に波打って、やがて倒れかけた身体を投げ打つようにして私に寄りかかった。疲れているんですよ、と私がいいかけたとき、建物内部からカタカタと物の触れ合う音がして、ひとつひとつ重なり合ってやがて部屋のうちまで達したかと思うと、窓枠がふるえだした。長い横揺れのあいだ、私の身体は対応に詰まって硬直し、支えているつもりの女の身体にむしろ縋っていた。視界のうちで傾いで崩れかかる部屋から浮き立った女の身体は、安定した静止のなかにとどまって死んだように動かず、内側に揺れを溜め込んでいた。

 


 さほど大きな揺れではなかったが、抑えていた恐れがふっと湧き出すのを感じた私は、知らぬうちに女を組み敷いていた。取り繕うように女の身体を起こし、部屋の隅にあった鞄を片手に女を湯船のある地下まで引き摺っていき、女風呂の前で支えを外す瞬間、女の倒れる不安を拭えなかったが、橋爪は鞄をさっと奪って涼しげに暖簾のなかに消えた。その一方で私は、手持ち無沙汰になった身体をどう扱えばよいかもわからず、女風呂と書かれた暖簾の揺れがおさまるのを眺め、身体では感じられない振動を暖簾に託して見定めていた。

 貸切状態の白濁の湯に身を浸し、未だに揺れを感じ測ろうとする身体が、強張り、温みに融けあわないでいた。そうするうちに視界の静止と釣り合わない、妙に噪ぐ揺れがうちから起こり、のぼせたか、と見下ろす気分で感じ入っていると、湯けむりの奥に背があった。垣原だと即座にわかり、おい、と声をかけると、抱いてやれ、と返ってきた。湯を掻き分けて近づこうとすると、その見覚えのある背の、皺が寄り肉の垂れた有り様が煙を割ってあらわれ、伸びて首に張り付いた白髪から落ちる水滴がぽつぽつと壁に反響した。両手を湯船の縁に置き、肉の落ちた腰と上半身を支えようとしながらも、背負ったものにこらえられないというふうに心持ち前傾姿勢になった身体から声が、そこだけ若く鳴った。

 ──抱え込んだんだろう、一度は

 ──お前の女だ

 ──嘘くさいことをいうな。女は誰のものにもならない

 ──妻子持ちに押しつけるのか

 ──倫理的なつもりか、動物のくせに

 ──動物だけど、人間でもある

 ──人間とは

 ──大馬鹿

 ──なるほど、それなら馬鹿でいろ。男が馬鹿でいられなくなると、皺寄せは女にくるからな。俺はだめだった

 その物言いに遠い過去を思い馳せるような、耽るとも感じ入るとも異なる、眺めているような調子がともなった。思わず、死んだのかお前は、と問うたが垣原は答えない。

 ──俺には抱けなかった。二度目はな。一度は動物でいい。だけど二度目からはそうはいかない。繰り返すほかない。求めに応じて何度も何度も、性欲も擦り切れて、身体を応じさせる、奮い立たせる、痩せ細って飢え死ぬまで。そうしたら次の男に託せばいい

 ──じゃあ俺は死ぬまであの女の面倒を見ないといけない

 ──それ以外にすることがあるか

 ──でも、どうやって

 ──お前と俺じゃあなにも変わらんよ

 ──においがちがう。嗅ぎ分けられる

 ──女の、男にはないあの過集中は、嗅ぎ分けるより先に、すっと過去に女たちを引き戻すからな。お前との根拠のほうを優先するさ。それに祖先はおなじなんだから。猿だか神だか知らないが

 白髪の髭を生やした猿顔の神が、情欲も知らぬ冷めた面持ちで女のうえに被さっている絵が浮かんだ。茶色の体毛に触れられる女のほうも冷めきった顔で、身体だけを波うたせ、時折身を捩りながら仰ぎ見る猿の表情が、漂白の果てに空白となり、音も立てずに女を吸い取る。やがて役割を預けた男たちは飢え死に、女たちもひとり残らず吸い尽くされる。天地創造、とその絵の題まで浮かんだ。

 ──せめて、俺でもお前でもないと知らせてやればいい。そうすれば、世のいう自立というものがいかに嘘か女にもわかるだろ。まあしばらくは時間がかかるだろうが、いつかはきっと去る。男をあきらめて、別のなにかに縋る。そうすれば一気に強くなるからな、女は

 ──男はどうなる

 ──消費されてやるんだ、潔く

 ──なんのために

 声を待つうちに、年老いたその背から、うう、と老人らしい声が零れて、それきり垣原の声は消えた。

 サウナに入り、膝に手を置いて眉間に皺を寄せるその男性の隣に座っていると、

 ──どこからです

 と声をかけられた。都内からだというと、へえ遠いなあ、と笑い、それから心配げな顔で私を覗き込んだ。

 ──昔そのあたりに住んでいたことがあって、苦しいでしょう、あのあたりは。息が詰まる、いや、吸えるのは吸えるんだけど、吐ききれないんだ。わかる

 ──ああ、まあ

 ──だからって田舎はねえ……移住して三年になるけど、こっちはこっちで因習がね。先がないのに

 近隣に住んでいて、風呂だけを借りにきたというその男はそれからもしばらく話していたが、火照った頭では意味まで聞き取れず、歳を経た人間特有の口調の滑らかさが淡々と耳を過ぎていく。その謳うような調子が短歌じみた律動をともなって響き、また荒野の光景がうち広がっていく。まばらに伸びる枯草と砂埃のほかにはなにもない、蜃気楼に霞む景色の果てに鏡が、陽の光を四方に散らしながら佇み、そのうちに私の影が白い棒人形のように立っていた。

 

 

 風呂場の待合の、一段高くなった畳の間に女は座り、私があらわれると男風呂側に傾けていた身体がやや前に傾いだ。手を貸してくれ、とその白い顔が言葉なしで訴えて、私を引いてやる。女は私の腕を掴んで窓の外を眺めている。

 待合全体に暖色の灯りが間隔をあけて灯されて、芯まで温もりそうな薄暗さが広がっている。畳の間には本棚が置かれ、読み古された文庫本が並んでいた。LEDらしい冷めた、影の濃い灯りが頭上から降って、私たちのいる場所だけが暗がりから妙に浮き上がる。視界の奥にはマッサージ機や自販機のそばで古臭いゲーム機が煌々と光を放ちながら、無人のままに混み合った音を流している。窓の外は庭になっていて、小ぶりな竹林が地上から漏れる街灯に照らされ、白々と降る雪が鹿威しを白く隠してしまっている。そのガラス面に、足を崩して庭に眺めいる女の、右腕だけ釣り合いを破って私の腕に伸ばされている様が、たとえ正規の関係であっても苦しいほどに陰惨に映った。

 ──垣原がいました

 ──どこに

 ──風呂場に、きっと幻ですが。寝不足で

 ──何か言っていましたか

 ──……あなたを抱け、と

 女の腕の力は瞬間強まり、身体は私から逃れようとするのか傾いで離れようとし、面もわずかに背ける。しかし私の次の言葉に反応して、その顔が関心をあらわした。

 ──二度目はお前だと、一度目は俺が背負ったから、あとはお前の役目だと言われましたよ

 ──どうして知っているんです

 ──いや、偶然か、あるいは聞かされたことを忘れていたのかもしれません。僕はぼんやりしてるから。あいつにもよく注意されました

 ──嘘つきです、あの人は。私は一度も抱かれてない

 女の腕に引かれて部屋に戻ると、畳に敷かれた布団が暗がりの底で放置された一組の死体のように浮かび上がり、題名も忘れた写真集のなかの、フランス西岸に置き忘れられた、布に覆われた兵士の死体を思い出した。

 女は腕を引いて冷めた布団に入っていく。私の腕だけを必要とし、男性もその身体も不要だと言わんばかりの荒っぽさで引き摺られ、冷えた布に火照りを奪われるのを待つうちにゆっくりと暖まる。布団と布団のあいだにはわずかな隙間があり、そこだけ冷えていく私の腕が、眠気をはぐらかす。背を向けた女は肩まで律儀に布団を羽織り、枕から垂らした濡れ髪からシャンプーのにおいをただよわせている。その背の向こうにカーテンのかけられていない窓があり、闇に沈んだ空と山を背景に雪がはらはらと落ちていった。

 ──身を守る必要があったんです。私はひとりだから。これも運命だとは思っていましたが、それでも心許なくて。ひとりだと男全員を相手にしなくてはいけない。誰か、どんな男の人でもいいから、向き合って立っていてほしい。そうすると、あたりは暗くなって、集中できる。誰でもよかったんです、最初は

 


 春先の、草花の生命感がなまなましく発露し、こちらの神経を逆撫でする時期、橋爪は仕事終わりの足を早々と送りながら、業務中にやたらと感じられた男たちの目線から逃れようと駅へ急いでいた。電車に乗ろうとしたがそこにいる男たちもこちらを見ているように感じられ、出発直前にホームに戻って改札も出た。家との往復のほかには外出しない彼女には安らげる店など見当がつかず、会社とは逆の方向ということだけを意識して歩いた。

 自分の罪、と感じていた。職場には自分より若い女はいくらでもいて、男たちはあからさまな優しさをそちらに費やし、自分などはむしろ近づき難い暗さのために事務的な用がなければ話しかけられることもない。自分でなくとも古参の三十を過ぎた女に向けられる目線はいつでもどこか暴力的で、気遣いであっても単なる雑談でも、男の側がこらえて相手している、あるいは余暇としてやっているという感が伝わる。女の側は相手をせず適当にあしらって軽口でも飛ばし、仲間だと、男たちのことはよくわかっていると教えてやれば済む。しかしそれは既婚者に限るのではないか、と橋爪は考えた。彼女の目に既婚者の女は謎めいて映った。きっと職場で男に合わせたその皺寄せを家で解消しているにちがいない。しかし家庭に居場所のない者や、単身である女は、持ち帰った男たちの目線を背負ってひとり処理せねばならないのだが、それも限界があると悟ったときには自然と男の目を避けようと女らしさを自分から取り除き、容姿は反女性的にさえなる。運動への参加も、そこにたしかにあるはずの性を喪失した女性の、生存手段のひとつなのではないか。

 しかし男たちの無意識は、その消失点を嗅ぎ分ける。女のにおいの絶えた底から、厚くわだかまる、かすかな音が鳴り、男たちの内部の鏡面に映り込み、自身の虚栄と、不埒さとを憎悪し、あの女さえ消えてくれればと洞穴の奥で目を光らせている。しかし臆病な獣のうちのある一頭に、ほかの獣たちの狂気が一気に流れ込み、強がりに隠れた弱さが暴力という形をとって襲いかかる。

 そんな一点のおとずれる恐怖のために、橋爪は人気のない道ばかり選んだが、どこに行っても付き纏うビル群の、隙間や物陰からふたつの眼光がこちらを窺っている。結局、都市に逃げる場所などない、と人通りの絶えた暗い歩道を歩きながら、恐怖が頂点を越そうという一点で、異様な人恋しさが湧きあがって知り合いの女に電話をかけた。

 就職活動中、互いに両親のいないことを知って連絡先を交換したその女とは、むしろ暗い過去を想起させ合わないという配慮から年に一度、互いに孤独になる年末年始にのみ会う間柄だった。電話に出た彼女の声は背後のざわつきと融け合って、酔いのまわった陽気さがあったが、話すうちに相手が橋爪だとわかるといくらか抑えた口調になり、会いたいという女友達の声に親身に耳を傾けた。

 指定された店に着くと電話口に鳴っていたざわめきはどこにも見当たらず、洒落たバーの奥で友達らしい茶髪が別のふたつの頭と並んでいた。すでにずいぶん酔っているらしい彼女はカウンターに右肘をついて、赤くふくれた顔を支えながら、もう一方の腕を友達の背に回し、どうしたん、と関西訛りにいった。ちょっとここにいさせてほしい、そう伝えると、机に向けて視線を交差させながらうなずくその首のあたりから、さきほどまで彼女を取り囲んでいた男たちの脂のにおいが香水に混じって香った。橋爪は酔いに弄ばれて光っていたその目が次第に自分に似た暗さを宿すのを申し訳なく思いながらも恐れの薄れていくのを感じた。

 ──この子がね、友達が呼んでるからって急に飛び出してね、それで話が盛り上がってたし、なんだか心配だから私たちもついてきちゃった

 しばらくして彼女の向こうに座っていた別の女がいった。どうやら同僚らしい。

 ──せっかく久しぶりの合コンだったのに、ねえ

 その女の背後で男がこちらには興味なさげにうなずいていた。それが垣原だった。人数合わせの妻帯者として参加し、ほかの男とは違って距離を保って接する様子からそのことを言い当てたのが橋爪の友人であり、しかし会話はそれを機にむしろ盛り上がり、男ひとり女ふたりで話し込むうちに電話が鳴った。

 ──正直はずれだったし、まあいいんだけどね。この人には罪滅ぼしで来てもらったの。この子は酔ってるから私が寮に連れて帰らないといけないし。手、出すなよ

 男は諌められても顔色ひとつ変えず、どこまでも聞き役に徹しているらしかった。かといって女たちを馬鹿にしているわけでもない。ただ、目の前に並んでいる酒瓶をぼうっと眺めるその目の暗さが気にかかった。

 そうするうちに橋爪は酔いに負けて机に突っ伏した。



 八


 そこだけ布団からはみだした私の腕は、胴の温みを伝え切らぬまま橋爪の冷えた寝床に入り込み、爪を立てて握る女の手に汗ばむ。最初はなにかに急き立てられ、事実を淡々と述べるようだった口調は、垣原の登場あたりから一節ごとに間を置くようになり、夢を描写する色に変わった。間がはさまるごとに、女の手と私の腕の触れ合う一点が一層水気を帯びていく。

 


 橋爪の友人は同僚に肩を支えられて終電過ぎの閑散な街路をもたもたと進み、それを眺める背後のふたりに時折手を振りながら、やがて橋の手前までくると途端に背を伸ばしすっと立ち、またね、といった。しかしすぐに倒れ込みそうになった彼女を同僚が支え、なにやら卑猥な叫びが、その姿が橋の弧を越えてからも聴こえ、いつしか川の音が勝った。

 ──送りますよ、どっちですか

 西を指さした橋爪に先立って歩きはじめた垣原は煙草に火をつけて、副流煙など気にせぬ様子で煙を吐き出して歩く。そうしてついて歩くうち、人恋しさも恐れも消えて、動かす足の温もりに耽りながら煙の甘い香りを嗅いで、ああ、明日も生きられる、と橋爪は妙な充足に触れた。友人の紹介とはいえ他人の男のあとを無警戒についていく自分が、ほんの数時間前の自分とは遠く隔たっているようで、その原因不明の距離が互いに耽りこんだ孤独に安堵して居座らせる。今後つきあいつづける必要ない無害な関係、互いに己に没入して文句を言いあわないで済む関係。それなら、と橋爪は思った。もし孤独がこれほど満たされるのであれば、この男は必要ないのではないか。しかしひとり夜道を歩くことを想像すると、より一層の耽溺への期待とは裏腹に、外ではなく内から崩れ、一足遅れで外景が油絵のように輪郭をほぐし、一歩も、もう一歩も歩けないのではないかと恐れが先立つ。そうした疑いのさしはさまる度ごとに、内の、すでに癒えたはずの第二の臓器がにわかに外へ押し出そうと、やがて皮膚を突き破って弾け飛び、外との融和というただその一点のために身体を消し飛ばすのではないかと恐れる。その新たな恐れが刻一刻と滲むのを抑えようと、すっと立って涼しげに歩く男の姿を見失わないように足を送り続けた。

 過度に切なさをふくんだ懸命な歩みを自身でも意識して、運動そのものになろうという努めのために、男を追い抜いていることに橋爪はしばらく気づかないでいたが、やがて闇に耽る視界の底から緩慢になっていく足音が苛立たしく響き、ほとんど憤怒に近い形相で振り返っていた。背が高く、痩せぎすではあるが体幹を感じさせる垣原の身体が、今しも崩れそうに前傾し、しかし顔だけは白く、まるで白粉を塗りたくった芸者のようにそこだけ輪郭をとどめて浮き上がる。周囲から浮いて紅をさしたような濃い唇がぱくぱくと動き、

 ──この辺で死んだのか

 と、ほとんど独りごちるように零した。我に帰った橋爪は強張った表情をなんとか宥め、踵を返して思わず男に触れそうになるのを抑えて背後にまわり、その背を捉えた。緩慢な歩みに付き添っていると、内に流れていた性急な流れが滞り、澱み、それから鎮まった。自然と言葉を返している自分が自分ではないようだった。

 ──ご家族ですか

 ──曽祖母。会ったこともないし、写真を見たこともない。ほとんど身勝手に二度も結婚から逃げて、その果てに安い賃金でいいからと頼み込んで奉公していた屋敷で空襲に遭って、主人とその家族は助かりながら、あの人だけは焼けた。僕の母の母の母。祖母は、父親と自分たち兄弟を置いて家を去った母親を憎んでいて、私の母などは死ぬまでキツくいわれ続けて……逃げたらダメだと何度も何度も。逃げられなくなって、ほんとうは子供が嫌いなのに俺からも逃げられなくて、それで引き寄せた病を利用して早々に辞退した

 すくなくともこのあたりではさらに多くの男女が火を纏うか瓦礫の下敷きになり息を絶った。自身の踏みしだくコンクリートの下でいくつもの影が横たわり、すでに戦災の記憶も薄まり、誠実な顔をして世に溶け込んで過去も振り返らず、むしろ踏みつける無数の人びとを見上げている。それも未来の世代を憂うとか、過去礼賛といったふうではなく、若い女を羨んで身悶えする女であったり、名誉虚しく散った男の泣き言の類で、むしろ野卑そのものの態度である。その剥き出しの感じが土地を支えていると感じられた。底に沈んだそうした声は橋爪の内からも鳴り、霞んでいた街の風景がにわかに輪郭をきつく浮かべ、見知らぬ表情でこちらを覗いている。繁華とは真逆な、むしろ打ち捨てられて静まり返った周囲の土地が声の重なりをともなって、生きている者の調和の合唱の、その内実の隠蔽を詰るようで、橋爪は努めて男との距離を保とうとした。地から湧く声がまるで歌のように、始点と終点とを失った楽の音となって響くほどに、垣原の言葉と言葉のあいだに挟まる緊張と停滞が聴こえてくるようで、ただ点々とつながりを失って群れをはぐれた単音が刻々と吐き出されるばかり。平明でありながら意味をつかむことができない。いっそ黙ってくれれば悲痛な音を聴かずに済む、と身勝手なことを思いながら、同時に音のともなわない孤立した言葉を耳にしていなければ、その隙間に閉じこもる沈黙の、彼とのわずかなつながりを感じ取れなくなるのではないかと恐れた。

 ──別の親類もこのすこし先で死んだみたいです。空襲じゃなくて震災だったみたい。倒れた梁の下敷きになって、家ごと炭になって。ずいぶん人望のある人だったみたいで、茶屋をやっていたそうです。鶏鍋なんかを客に食わせて、稼ぎもけっこうなものだった。だけど家計はいつも火の車で、それもたいてい地方から出稼ぎにきた若い女の人を匿うように無理に雇っていたからみたいで。揺れの来た時も、自分より客や従業員を優先して、十分に逃げる余裕はあったはずなのに誰もいなくなった燃える家に駆け戻って……手には簪があったみたいです、黄色い鼈甲の、桜を模した、素朴な。祖父の叔母にあたるその人は口が硬く、いわゆる聞き上手というやつで、本人の語るところによるとそれはむしろ語るところの少なさを補うための処世術に過ぎないとのことで、彼女を慕う者こそ多けれどその実相知る人少なしというのが本人にとっても他人にとっても自然と感じられたようです。一生を商いに身を捧げ、一度も結婚しなかったその人が、かといって思いを寄せる相手が皆無だったかといえばそんなこともなくて、不様な失恋に一人涙する姿をみたと証言する雇われの女もいたそうで。そもそも上州のほうから身売り同然に上京し就職した、いわば根無草だったのでその寂しさはひとしおだった。同情する同業者と従業員に支えられ、栄達を果たしたといっても差し支えない老後に入った彼女は、しかし職を離れた途端に震災に襲われた。だから

 垣原はそこで言葉を止めて、はっとした顔で振り向くと、こっちで合っていますか、と距離を途端にひろげ、橋爪の腹の底から空腹感が突きあげてきた。合っています、と確認もせず返答した。しかしその性急さに勘付いたのか、垣原は納得のともなわない目つきでうなずいてから、冷たい目線でこちらの顔をまともに見下ろした。それからわずかに間をはさんで、さっきの話どう思います、といった。

 ──ぼくたちとは無関係ですかね

 ──いや

 ──ごめんなさい。いや、ただ、こわくてね。いつか、思いもよらない時期に、なんの前触れもなく地が割れるんじゃないかって。噴き出して、それで……弁明したいのにできない

 ──できませんよ、誰にも

 自嘲に濡れた垣原の表情が電灯の影にうごめいて、誰とも知れない顔になっていくのを眺めるうちに、その顔がいつかの自分と重なって、いつしかふたつの輪郭が完全に重ね合わさると、部屋の隅に置かれた母の姿見の鏡面に卑屈な笑みを浮かべている自身を、鏡面越しに咎める顔が母の柩のそばで座っていた。非難するつもりだな、と感触はつかめながらも、喪服姿の女の顔は丸くくり抜かれたように表情をもたず、周囲の景色と調和していた。あの女もおなじだ、と非難を投げ返す気持ちで、あたりでしくしくと響く嗚咽の声の白々しさのなかで、あの女は綺麗に膝を折って背筋を伸ばしている。自分たちの立場はおなじで、ただ、取り合っている。いっそ泣いてやろうかとも思った。意味のない張り合いを続ける意味もない。明日にはこの部屋も契約終了。自分は根無草として東京を彷徨うことになる。だからすべて意味がない、それなら女のその頑固な態度に付き合ってやり、こちらは女の周囲そのものとなって泣き崩れてやろうかと考えたが、思いとどまった。こちとらその死者と長年ふたりで暮らしてきた。重さがちがった。だからこそ泣けなかった。喪失はあとからすっと忍び寄り、自分を蹴躓かせようとするだろう。転ぶ時は転ぶし、無事で済むはずもない。今できることといっては静かに、未来で沈んでいく自身に思いを馳せて笑うほかない。死はまだやってきていない。覚悟が定まると、顔だけでなく四肢もゆるんだようになって、喪の席に列するものとしてはいささか淫らな、あまりに露わな姿態になり、女は鏡越しに目を背け焼香を焚く客に頭を下げた。女とはこういうものかと悟ると同時に、絶えず相対のなかに身を置いて互いの位置を確かめあう不毛の果てにそこから退き母に徹した母親の、死は早けれども安らかだった晩年が胸に沁み、いつどこにいてもひとりきりで無口だったその背がすっと景色に融けこんで消えていった。それから橋爪自身の影も消えて、その白地の景色から男の背が、垣原の細い体躯が浮かび上がってきて、思わず知らず腕を伸ばす。わざとらしい、と咎めがはさまり触れるまでに至らず中空に置き残された腕が白く霞んで母の面影に融けていった。

 


 ──そこからはあいまいで

 橋爪の心身の強張りは話すほどにほぐれ、やがて惰気を纏いはじめた。垣原が抱いたのか否かという一点に自身の関心があつまっていたことに気づいた私は、軽薄さに自己嫌悪に陥りかけながらも頭のなかで先ほどの語りを反芻していた。筋をしっかり辿っても居酒屋のあとあたりから言葉が像を結ばず、いつどことも知れない空間を前後していく男女の姿が、切実な触れ合いの希求に逆らって距離を離していく。その距離が欲への反発か、あるいは欲を探るためにあらわれた感覚の乱れなのか見分けられず、しかしこの男女の触れ合う時を想像すると、それはやはり火焔のなかであろうと結論づける。しかし現代では火焔というほどの強い火を拝むことは難しい。男と女もその火を求めて歩いている。ふたつに分かれた身体をふたたび結びつける否応なしの火を、痛みを。

 そのあとの語りで、ふたりはそれぞれ別の場所で、明け方の道を歩いていた。

 ──彼とも一度話したんですが、たしかにあの時、急に朝がきました。眩しくて、目を瞑って、また開けると、誰もいなくて

 垣原は荻窪を、橋爪は三鷹のあたりを歩いており、どちらも住まいや勤務地からは遠く、縁もない土地だった。バーのあった中野区あたりからは徒歩で移動したにしては距離が開きすぎていたし、目覚めてしばらくするとふたりして路上に立ち尽くし、互いの身体からのぼってくる他人のにおいに触れ、記憶とはつながらない感覚が、たしかに抱き抱かれたという皮膚の訴えを拒むことができない。すると、切なる、もはやそれしか残されていない、確かめたいという思いがふたりのうちに湧き、あてもない彷徨に導いた。会えるという見当もないままに。

 あとになって当時の記憶の断片をふたりで繋ぎ合わせていくと、抽象の極まった漠とした風景とその底の時間的連なりが共通していることに気づいた。それをふたりは、自分がどこにもいない、と表現し納得しあった。ほんとうはその場で倒れていたかったけれど、刻々とそこに立つ自分から逃れるようにして歩く。しかし直前の自分は影をひきながらすぐに張り付いて離れない。必死になるほどに先ほどまでの没我の感覚は薄れ、安堵とともに自分たちがまた会えるという確信が芽生え、そのぶんだけ自分たちの出会いが単なる恣意の結果と思えてくる。耐え難い、とふたりは思った。会えるという可能性が、つながりの根拠を弱め、身体だけは近づくようでいながら、その実刻々と引き離されていく。その場で倒れていれば、あれは必然だったのだと感じ入ることはできただろうが、もはやその選択さえ頭に強いられた非現実的なものに思えた。

 考えることを、辿り着くことをあきらめて足を送るうち、ふたりの身体にまたひとつの共通した感覚が、途方もない空腹がおこり、そのくせどんな種類の食べ物を想像しても吐気をともなう拒絶が壁のように立ちはだかり、やがて何ひとつ食えない、と飢餓感そのものとなって歩いた。歩くための足がかりになっていた風景の輪郭が徐々にほぐれ、その線がうねうねとうごめいて融け、やがて一幅の白地が目の前にひろがり、前後も左右もないまま歩きながら静止しているという矛盾に陥りながら、苦しくはない。

 ──私たち、抱えておくことにしたんです。徒労から離れて、一度空っぽになってみようと、そう決めたんです

 生半可ながら没我状態でいると、まるで機械人形になったように仕事や日常の雑誌をこなしていることに気づく。すると、それまではあちらから無条件にやってくると感じられたさまざまな問題が、実際には自分で選んでいたように思われて、あらゆる些事が白地のうえに色を帯びてあらわれ、妙な実感だけを残して去っていく。ああ、こうしていて、いつか死ぬんだ。

 そんなふうに耽りながら半年ほどを過ごすうち、友人伝いに垣原から連絡があり、返したいものがある、といわれた。



 九


 ──忘れてしまった。あの人はそういって、困っていました

 橋爪は帯の解けかけた浴衣を引き摺って布団から這い出ようとしたが、私の腕をつかんでいたためにうしろにのけぞって、あやうく倒れそうになりかかるのをこちらが先に立ち引っ張るようにして支えた。その一連の動作のあいだ、身体は慣性にまかせて振り回されながらも表情だけは静まりかえり、やがて私の腕を引いて広縁に座り街灯に照らされた湯けむりを眺めた。

 ──あの人はあれからの半年間になにがあったか事細かく聞き出して、こっちはほとんど空白そのものでしたから、女っ気も男っ気もない淡白な日常をそのまま伝えました。すると、あなたは僕になにか渡したでしょう、それで後悔していたんじゃないか、そう問い詰めるんです。いったい何の話かと尋ね返すと、わからないって

 ──それは、ほんとうにわからないんでしょう

 ──男の人にはわかるんですか

 ──いえ

 ──それからも定期的に会うようになって、もちろん外で、普通の男女のように会話をするようになりました。会社でこんなことがあったとか、そんな日々の他愛もないこと。私は安心していました。彼がどんどん遠のいていくようで。でもある日、いつものように駅まで見送ると聞かない彼の隣を歩いていると、いつのまにかその姿が消えて、ずいぶんうしろのほうで壁に寄りかかって……踏まえもなく関係をもった祟りだと、抱かれる覚悟になりました

 橋爪に身体を支えられながらホテルに入った垣原は、部屋に着くなり女の身体をやさしく突き放してから、ベッドに伏せった。青ざめた顔がそこだけ白い。橋爪はどこに腰を落ち着けていいかもわからず、壁に背を寄せてバッグの持ち手を握りしめ、それからもう一方の手で頬に触れ、なんのために化粧をしてきた、と自分の行為の根拠がつかめないでいた。一度抱かれたようなものなんだ、二度目がなんだ。頭ではそう理解していても、身体が拒否し、今となっては世の有象無象の男と変わらなくなった垣原を醜いとさえ思った。しかし自分は抱かれるつもりでここにきた、なんのために、と凝っていく身体にもろに垣原の言葉が突き刺さった。

 ──間違いだった、あれは

 妻帯者の後悔とは別の、男性そのものを背負い込んだような重い口調が、ホテルの狭い空間のなかで底知れぬ疎外を、より無垢な罪となって響いた。

 ──その考えが、離れない

 垣原は頭をあげた。まるで子供のような丸い瞳が、少年らしい輝きを宿したまま剥き出しにこちらに向けられて、橋爪は抱きとめたい衝動に駆られたが押しとどめた。生半可な妥協は共倒れになる、とそんな予感があった。

 ──教えてほしい、あの日、なにが

 ──覚えてない。けど、においは残ってた。きっと、あなたの

 ──おなじだ。皮膚に、こびりついて、今も残ってる。でも、このにおいがあんたのものか、わからない

 橋爪も気にかかった点ではあった。男の皮脂を感じさせる濃いにおいではあったが、それがたとえ別の見知らぬ男の匂いだったとしても、それを嗅ぎ分けるだけの根拠を橋爪の身体はもたなかった。

 ──前の日に、風呂は入ってたか

 ──きちんと

 ──そうか。酢のようなにおいで、でもやわらかかった。キツイとも感じた。どんな抱き方をした、と自分を詰った

 ──どういうこと

 ──やり方が間違っていた、そう思った。きっと恐ろしいほど静まってたんだ。興奮というほどもいかない。白々とした、もう欲も尽きた老人同士みたいに

 ──たしかに、そうかも

 ──思い出してほしい、なにかあったろう。男を引き寄せなかったか

 反復の日々を顧みても、五感そのものとなってうちに閉じこもって過ごしていたので、あの日以来人の影を感じ分けにくくなっていた。人で混む道を歩いていてもひとりで歩いているような気がして、前はやたらとぶつかりぶつかられることの多かった通勤時間も、自分も他人もするするも互いを避けていく。群れの一匹になったというには人との距離はむしろ開いたと感じられたし、時折は置き残されて、あるいは置き残して歩いていた。しかしその孤立が人との距離を保ち、それはあの日以来消え去った幼い自意識のためだったろうと橋爪は結論づけていた。それまでは身勝手で独断的な解釈で人を眺め、評することで遠ざけようとする営みが、むしろ相手を引き寄せていたが、今となってはその他人との境界がつかめなくなり、男女かかわらず相手の癖や動き、態度に至るまで自身の一部分と重なる。

 ──まるで、鏡みたいで、だから、避けられるようになった、人も自分も

 ──それも同じだ。家庭でも仕事でも嫌に従順になって、これまではついぞなかった機知がはたらいて、賛同されたり賞賛されたり。妻には、あなた変わった、なんて喜ばれて

 ──後ろ暗いの

 ──そこまでお人好しじゃない。それに君とは寝ていない

 その物言いにわずかな疑念がはさまるのを橋爪は見逃さなかった。それは彼女にも心当たりのある疑いだった。あれ以来、会わないでいた半年間も、再開してからのプラトニックともいえる関係のなかでも、自分たちは絶えず抱き合っていたのではないか、世間との均衡はそのためではなかったか、と。道を歩いていると絶えず見かける〈自立〉という言葉、また〈自由〉や〈個性〉という俗な文言に触れるたびにその軽はずみな推奨に苛立ったのは、自分を支えている何者かに対する遠慮があったのではないか。そのことを伝えると垣原は、俺に神通力はないよ、と笑った。

 ──神ではないからな、俺は

 ──それは私も

 ──薄れていないか

 ──そうかもしれない。最近悪い夢をみる

 ──どんな

 ──地震がきて、押し流される。死ぬこともできないまま、濁流のなかでもがいてるの

 ──それは、悪い夢だ、怖い夢だ

 橋爪は何者かの支えが日々の摩擦により減少し綻んでいる気がして、途端に垣原の身体を引き寄せたい想いに駆られた。思いとどまって、芯のあたりでそれが人であるはずがない、神でもない、より身近なものであると自分に言い聞かせた。しかしその否定を繰り返すうちに漂着するのは能面のような垣原の顔で、その捉えがたい表情の果てになにかしらが覗くかもしれないと凝視する。身体が男のほうに傾いて、自分ではその根拠が辿れないまま流される。あぐらをかく男の腕にもたれかかる自身の姿が、力尽きたように横倒れ、顔だけを仰向けに空に晒して、四肢はちぐはぐにまるで蛸のように伏せっているのを見下ろしている。

 最初、男の目は怯えを帯びて惑い、探るような手つきで彼女の皮膚を撫ぜ、それから矯めつ眇めつ不感症じみた女の顔を窺いながら、最後には身体に目を注いで、乾いた、冷たい手を伸ばした。その冷えた指先が身体をめぐるうちに、彼女のなかで自然と湧き上がる熱があって、頭は冷えたまま温度の高まっていく身体をもてあまし、布団に顔を埋めて荒くなる息の音が男の耳に入ることを避けようとする。融けきれないまま凝って、耽ることもできないまま、ゆっくり迫ってくる男の怯えが、触れる点から伝わって、窶れた獣の姿で白髪をゆらめかせている。臆病なまま、目つきには獰猛さの影があり、一点の見誤りによってどちらにも転びうる。橋爪は触れられながら結局これも単純な興奮に終わるのだろうと思うと、急に顔も知らない垣原の妻の存在の確かさに思い到る。このまま進めばきっと押し負けるだろう。夫と娘を抱えて主婦を名乗る女のおだやかな笑みの奥には、本人でさえ身の程知らずと思えてしまうほどの家に対する憎しみと外への憧憬が煮えたぎっており、それらは生活の平穏の演出のためになんとか抑えられている。舞台の演出家である彼女らは夫や子供が自身の規定した通りに動くことに快感を見出し、いつしか役者としての家族のほうが実相だと考える。だから、興奮のために別の女と寝たという態度を夫から嗅ぎ取るなり、それが男の実相だったとしても妻には裏切りと感じられる。その妻に拮抗するためには、こちらもそれなりの演出を用意しなければならない。しかしこちらには舞台がない。仕切られてもいない空間のなかで、役柄もないままに対抗することは無理に等しく、加えて時間的支えもないために一瞬一瞬の行動を何かに委ねることもできないまま、不確かさばかりを内側に蓄積していく。どうなっても負けるだろう、いや、はなから負けている。あちらは婚姻という制度を味方につけている。こちらにはそれがない。高まりつつあった熱は途端に引き、敗者であるという自任が強い反発の思いを湧き上がらせ、ここを舞台にしてみせるという無為な企みのために自分の動きはどんどん淫らになっていく。男は女に合わせて、臆病さを置いて、獰猛に耽っていく。やってしまった、そうは思いながら、橋爪にはそれ以外の手段がなかった。

 あとに残ったのは虚脱感だった。仕上げた舞台は、行為の終わりとともにどことも繋がりを失って、触れ合っている男女の距離を途方もなく広げていく。同時に、さきほどまで正当と感じられていた垣原の妻の立場がその造形の鮮明さとは裏腹にハリボテに思えた。はじめて始点に立ったような手応えもあり、それが優越感となり、しかしこの優越には底の不確かな罪がともなって、信仰ももたず血縁もほとんど絶えて親族との紐帯も切れた自分のどこにその根拠があるのかと疑い、やはり群れの一匹なんだ、と合点する。

 


 すでに白みはじめた空に薄い雲がたなびいて、その途方もないひろがりを背景に横を向いた橋爪の輪郭がくっきりと浮く。沈黙を固く纏い、掴んだ私の腕のあたりから上半身へ絞るように迫る強張りが、肩から顎へとあつまっている。なにかを推し量るような目つきは、群れを探す小山羊のようにも、そこから一刻も早く抜け出そうとするように見えた。とにかく測り難い、そんな思いが伝わってくるようだった。生きることの焦燥が私の身体に伝い、踏ん切りをつけるつもりで今日中に東京に帰る旨を伝えた。妻と幼児がいて心配であることも。すると橋爪は一度私の顔を見やってから足下を見下ろして、自らを嘲るような表情をした。

 ──地震がきますよ

 遠回しな物言いに思えて、どういう意味か探りかけたが、そうではなかった。

 ──たぶん北のほう。南は関係ないから大丈夫、きっと

 ──あなたはどうするんです

 ──もう一泊。暇つぶしにあの人を探してみようかな

 ──会えたら教えてください

 ──また会ってくれますか

 ──なんのために

 そう言いかけたとき、橋爪の身体が強張り、立ち上がると、部屋の中央まで私の手を引き、冷えた布団をかぶった。わけがわからず、もはや女の狂いに付き合うつもりになっている自分の顔が、その女と同様の自嘲を滲ませるのを眺める気分でふたつの吐息を聴いていた。

 まず襖や扉、照明器具のカタカタと鳴る音が耳につき、なんのことかと見当もつかずにいるうちに強い横揺れが襲い、仄暗い布団のなかで橋爪が私に抱きついた。私自身も我を忘れて女を抱いていた。どうしようか、と小賢しい考えを巡らしても、生まれてこのかたこれほどの揺れに遭ったこともなければ、警戒したこともない私は恐れを注視するほかなく、そうするうちにやがて生きることをあきらめて、死ぬつもりになっていた。その安らかな諦念の底から妻や娘の姿があらわれるかと思ったがそんなことはなく、痺れた頭ははたらくことをやめたらしく、ただ女に触れた身体だけが情欲らしい情欲もともなわずに外に広がっていく。揺れが最大に達したときには、女との境が消えて、自分の身体の在処もつかめないまま揺れそのものになり、むしろざわめくのは内側で、一刻一刻の変化についていけず右往左往し、一向に死を受け入れない。そのあまりに素朴な恐れの影にかすかにちらつくのは、遭ったことも見たこともない、自他の境もつかめぬまま胎のなかで生き絶えた姉だった。生と死が数珠のようにひと繋ぎになった姉をうらやんだ。私も橋爪も、いや誰であってもそのふたつの離別とそこからうまれる矛盾によって、永遠に生きるつもりの心臓をもてあます。生ける屍は姿もにおいもあらわらさず、死んでもなお永遠を背負って地上を彷徨い、目的もないまま沈殿する。涼しい顔をしてみようとしたが、身体は自然と女の身体にかぶさって、守ろうとした。その姿が組み敷く獣じみて映った。しかしそこだけが唯一、内と外の重なった一点だと、今となっては思われる。たとえそこにいたのが橋爪ではなく、妻や娘であっても、他人やペットの類であってもおなじ気持ちでそうしていただろう。

 結局、死はあっけなく私たちを過ぎ去り、乾いたような身体だけが残されて、抱き合っていた。もう一度揺れてくれ、とさえ思いながら、抱き合いながら刻々引き離されていく自身の身体の、冷えの底から女にかける言葉を探すが見つからぬまま、今となってはそうするほかなんの関係も保ち得ない身体を引き離し、荷物をもって部屋を出た。出る間際、部屋を見やる私の目に、自身の身を抱き包むようにして膝を崩した女の姿が陽を浴びて赤く染まっていた。

 

 

 いまだ運転再開の目処もたたない電車のなかで、もはや恐れも遠のいて苛立ちと倦怠をみせはじめた客たちのあいだで座っていると、散歩日和のあまりに晴れやかな外の景色のうちに、犬種もはっきりしない一匹の犬が、飼い主と紐で繋がれて歩いているのが見えた。一人と一匹は、きっとそれまでの日々でもそうであったように、同じ道を同じ時間をかけて、心に惑いもなく進んでいく。彼らの身体は地面やアスファルトと、背後を流れる川と調和して見え、すでに死んでいるように思われた。きっと亡霊というのはそれほど安らかなのだ。あらゆる境を消し去って、生前も死後もないのだ。身体から冷えが抜けてまどろみ、いつしか眠っていた。



 十


 目覚めたころには電車はずいぶん南下していた。いつしか乗客のうちには退勤客も混じりはじめ、誰も彼も暮れかけた陽を浴びながら携帯を覗き込んでいる。本も携帯もない私はやることもなく呆然と景色に目をやっていたが、駅に停まるたびにその目つきを奇異なもののように見返すホームに立つ人の目に射すくめられて、直視も許されないのかと観念して足元に目を落とした。途端にそこまで持続していた感覚が落ち、あの旅館で起こったことをつかめなくなり、手繰ろうとするほどに遠のいていった。

 夜中に東京に着いたころには私はすっかり元通りになっていた。マンションに着いて部屋の玄関の前に五分ほど立ち尽くしていたが、顔だけ見知った隣人から妙なものを見るような顔をされて鍵を開けた。気分も定まらないまま扉を開くと、静まった部屋の奥から光が漏れた。

 ──寝てくれるようになってね

 荷物を持ったまま立ち尽くす私に横目をくれて妻はつぶやいた。

 ──十二時間も。急でびっくり

 ──そうか

 ──どうだった

 ──うん

 答えられず、荷物を放ってから床に座り込むと、未だ鼻に馴染まない家のにおいを辿っていた。そのうち、もっともらしいことをいった。

 ──なくした

 ──なにを

 ──携帯を

 ──また買えばいいよ

 ──たしかに

 急な旅行の延長にもかかわらず安らかにまどろむ妻の姿は、私からずいぶん遠のいたような気がした。張り合いの抜けたような感覚があった。妻のかぶる毛布に分け入って、その背を抱くように横になり、今さら今朝まで別の女と寝ていたことに気づいた。すでに気づいている。考えることをやめて、言い咎められるのを待っていると、

 ──ありがとうね、いなくなってくれて

 と妻は零した。別れの言葉だと、聞き流した。

 ──助かりました、ほんとうに

 ──変わりないか

 ──今は静かだけど、また明日から迷惑かけると思う

 ──かけろ。仕事なんだから、それが

 ──まぶしい

 妻は立って居間の隅の壁まで歩き灯を消し、完全な闇のなかを慣れた足取りで戻ってきた。腰を落とした妻は私の身体に倒れかかるようにして身を預けた。昇ってくる乳と汗の混ざったようなにおいがなまなましく鼻をかすめ、束の間生活から離脱していた者の身体の衰退を感じた。また馴染まなくてはならない。そう思うと憂鬱だったが、この鬱気のほかに寄る辺などなく、休職し職を離れて国の金で妻子を養う生活の味わいを押し測ろうとした。ただその流れのなかにあって、こなすことしかできないとあきらめる。では記憶はどうか、と甘えた心が傾きかけたが、すぐにおさえる。過去と区切ってしまえばその途端に時間は融けて、爛れてはいたが豊かだったその流れが、いかにも虚ろに帰着して、戯言を繰り出すことになる気がした。もしそうなれば、また足場が狂い、かすかながらあると感じられていた轍も消えて、無辺の荒野が口をあんぐりと開けて手招きもしない。

 ──あなたは、どうだった。解決したの

 ──何も解決なんてしない。携帯をなくした。垣原が消えた。報酬もなく帰還した、無能の騎士

 ──忘れてるんじゃない

 ──なにを

 ──どこにいて、なにをしたか。堪能したの、だから忘れるの

 ──そういう考えは有難いな

 ──あの子ね、ちゃんと目を見るようになったの。じっと、笑いもせずに、笑わせないといけないって焦ると、余計にぶっきらぼうな顔になる。私みたいに

 ──俺みたいに

 ──嫌な気分になる

 ──どうして

 ──ほら、広告とかだと子供はみんな笑ってるでしょ。何もかも満たされて、馬鹿みたいに笑って

 ──広告だからな

 ──でも、あの子の顔は、問いかけてるみたいだった。お前たちが産んだんだぞ、さあ、どうする。こっちは望んで生まれてきたわけじゃない……言い返してやった、親の私だって生まれてきたくなかったって。そうしたら笑って、けたけたって、それで私も笑えた。だから大丈夫、今は

 目が暗さに慣れてくると、外から漏れてくる信号の明滅が見慣れたはずの妻の顔の輪郭を浮かびあがらせ、出会ったころから遠くかけ離れて浮かび、他人めいて映る。婚姻を済ませ、子供を設けて、そうしてやっと互いの孤立を知る。これまで見てきた大人たちと似たような道を辿ろうとしている自身にぞっとしつつ、火花といえるほどの華麗な出来事も経ずに男女の仲になり、式などの世のしきたりに絶えず金が関わっていることの嘘くささのために目を背け、契機もないまま家族と呼ばれるようになった自分たちの暮らしが、橋爪のいっていた始点という言葉とどこが重なって、それから底という文字に読みかえて、生きるほかない、と軽快なあきらめに転じた。まるで危険物を扱うようにして子供に触れて、その疲弊で気の狂いかける妻の姿は、あれはまさに底からの声ではなかったか。底にあっては嘆くほかには手の打ちようもない。しかしその嘆きのみが自身の在処を確かにする。世間で教えこまれた供託された嘘を目の前の小さな生き物が否定し、そのたびに身体があげる悲鳴に苦しみながら、もっと、もっと、とさらに沈んでいく。

 ──寝てくれるようになって、ほんとうに助かった。十二時間。びっくり。すこし前までは二時間も寝かせてくれなかったのに。ちょっと寂しいくらい

 ──やっと寝られるな

 ──それが、まだ身体がついていかなくてうまく寝れないの。すごく疲れてるのに、やり残したことがあるみたいで。胸も張るし

 ──疲れるな

 ──あの子と二人でずっと家にいるでしょう。あなたと違って無職の私には復職のあてもないし、そうなるとこれは永遠に続くんじゃないかって思えてくる。自分は食い尽くされて、あの娘ばかりが大きくなる。その時のために準備しておかないと

 ──なにを

 ──母親以外の自分を。わかってる、あなたは言うでしょ、お前はお前以外の何者にもなれない。他人にはなれないって。でも、大丈夫。すこし前までは本気だったけど、今ではなんとなく眺めてる気分。バカだなあって。人間は、別の生き物を食い散らかす排泄装置、その程度。あれほど嫌いだったあなたの言葉が、やさしく響くの。そこからはじめようって、死んでもう一度生き返る、初心者の気分

 ──もう死にたいとは考えないか

 ──ううん。でも、それが当たり前のことで、自分が特別とは思わなくなった。むしろほかの人もそう思ってると思えば、慰めになる。死にたいと思いながら生きることはできる

 妻は身体を捩って私のふくれた腹に頭を沈めながら、

 ──ああ、もう昨日も今日もない

 とほとんど聞こえないような声でいうと、このまま寝かせてほしいといって、寝息を立てはじめた。夫が帰ってくると身構えていたのか、化粧をしている。玩具と衣類の散らかった部屋を月明かりがぼうっと照らし、カーテンレールに干された服が隙間風に揺れていた。妻に電源ケーブルを切断されたテレビにはX字の養生テープが貼られ、今や用途を行使できないまま部屋に居座っている。おそらく棚から落ちてそのままにしているらしいミルクの缶は、白い粉を吐き出して生き絶えたように口をひらいている。ミルクを拭いたタオルや、ゴミ袋に山となってにおいを放つオムツ、飾りのつもりで買って今では腐って萎んでしまった観葉植物、シンクに積み重ねられた汚れた食器と放置された排水口が放つ悪臭。

 これは、ずいぶん底だな。思わず零してから妻の頭のしたに枕を敷き、シンクで脂の固まった皿を湯で洗い、スポンジで磨いた。空が白むまでそうしていると、やがてひとすじ鋭い声が土地そのものから響き、こんな時間に男が黙々と洗い物をすることへの神の戒めか、と驚くこともせずに洗い物を続ける。その声は娘のものだった。私はミルクをつくって隣の部屋へ駆けていった。その姿の、滑稽でどこか俗に通じるさまが誰かの姿と重なった。

 

 

 揺れが北陸のものだったことも、稀にみる巨大さで人を呑み込み、家屋を押しつぶすまでの津波を起こしたことを、テレビも持たず世間にも疎い私たち夫婦は、翌々日の午後になってから知った。頬を濡らして嘆く人びとやマイク片手に詰め寄る報道陣の、舞台めいた悲劇を観せられた妻は、気持ち悪い、といってまた月のものの再開した毛疎い身体をそろそろと布団まで運んでいった。私も同感だった。やたらと感情移入を煽るテレビの演出が、それに添いきれない私の頭を焦がし、チャンネルからチャンネルへと切り替えて、果てには通販番組に落ち着いた。しかしそれも観るのに苦しくて、電源を消して娘の部屋にいくと、はじめて息をつく気分になる。釣り合いがとれた、とその寝顔のふっくらと自他の境界も気にせず眠りに耽るさまが、たった今親族や友人を失ったばかりの被災者とつながった。

 ところが夜になると胸のざわつきはなく、あたりは静まっているにもかかわらず、神経は報道に傾いた。携帯で撮影した当初の映像のなかで慌てふためく人びとの、津波から逃げ惑い、家屋が水に浸されていく様子を見ても、私のなかには興奮以外のなにものもなかった。被災者はこれからどうしていけばいいかと取材陣に問われて、真正直なぶんだけ追い詰められて、やっとのことで無辺の感慨に耽りかける身体を奮い立たせ、喧伝された感情を演じ、テレビはそれを真実らしく伝えていた。あるいはそうなのかもしれない、と観る自分を疑いきれぬまま次から次へと映される情報を、すでに脚色された映画か何かのように遠く眺める気分になっていた。画角の中心で取材を受ける人の、その周囲を意識して観ているうちに、微笑みを探していた。

 その顔からは着の身着のままで被災地から逃げてきた焦燥は影を潜め、他の人より早めにやってきた疲れの意識も通り越し、もはや倦怠そのものに沈みかける底から、ほの明るい笑みが漏れる。得心の微笑みではないか。視点も定まらぬまま、微笑みに引き摺られるようにして歩くその男女の区別もつかない身体は、緩慢な動きとは裏腹に自身の家ではなく火事で焼け野原となった土地を彷徨いながら必死に、切実に、己の身体の居所を見定めようとする。同時に、虚心にここが居所と決め込んで蹲りそうな気配もある。また、ここでどう暮らしていく、また地震にやられて、延命するだけだ。そんな声もした。どちらにせよその顔を、未だ燻り続けるその瓦礫の山は妙に故郷めいた色で迎え、それはどんなに清潔な避難所よりも心を鎮める。いつかは避難し、国や他人の庇護を受け、頭を垂れて復興復興と繰り返すことになる自身を思い浮かべながら、不謹慎にもその破壊自体がすでに復興なのではないかと疑い、記憶の風化と再建の手が入らぬうちに何かを掴もうと同じような顔がいくつも彷徨っている。

 そんな想像に耽っている私の耳に、男性の声がすっと入ってきた。

 ──あかんわあかんわ。もうこんなところ住めんもん

 あまりに淡々と、陽気ささえ混えた口調でそういわれ、インタビュアーはただ、ああ、とだけ返した。それでもプロ根性で、これからが大変ですね、と不躾な言葉を浴びせても、初老の男性は笑うばかりであった。

 ──んなもん考えてもしゃあない。なんとか飯食うて逃げるしかない

 その被災者はインタビューの終わったあとも、後ろに手を組んで呑気そうに焼け野原を眺めていた。その目つきには夜景を眺める人が景色に打たれる時に似た安らかさがあり、ああ、この老人はいつもこうして見ていたのだと悟った。彼の目を通して眺められる風景には、潜在的な焼け野原が、瓦礫の山が、無辺の荒野が重層的にあり、街がどれほど破壊と建設を繰り返そうと、消えるどころか時の積み重ねによってなお一層くっきりと浮かび上がる。土地の歴史に耽るというのとは異なり、彼がたとえ他県の見知らぬ街を眺めていても、その陰惨な情景からは逃れられない。しかし陰惨なものも繰り返せば普遍となり、他の人からどれほど悲劇と説得されようと、本人にとっては実相でしかない。有り難がることもないかわりに、底知れぬ安堵が後方から前方へと絶えず伸び、自分の立っている一点さえ呑み込んで、気づいたころには自身の在処は単にその連続のひとつでしないと悟る。しかしそれを幸福と感じても、そうは叫べない世間だと知っているのでただ黙って、それでも漏れてくる顔の綻びにも気づかず世間に合わせているつもりでいる。清潔になろうとする世間は、対極にある清潔には気づかず、逃げ口上のように哀れみの言葉を漏らしてやり過ごす。しかし彼にそんな思いは届かず、陥没したようなその顔は笑みに濡れている。

 この興奮を伝えるには垣原が適していたが、紛失した携帯とともにデータはすべて消えていたので、電話番号も新居の住所も知らない私には連絡を取る手段がなかった。そこで思い出したように橋爪から渡された紙片のことを憶いだし、何を話そうか決めるより早く通話ボタンを押した。もしもし、と答える女の背後で、帰るの、と見知らぬ男の声がした。ちょっと、と橋爪の声がして、足音のバタバタと駆ける音のあとで静かになると、

 ──徒労みたいに、抱かれてしまって

 と言い訳めいた口調でいう。

 ──お悔やみなら結構です、妻でもないんだから

 そうして私は、垣原の死を知った。被災ではなかった。温泉地の北の山の麓で見つかったという。心不全で、急性のもので、怪しい点はなかった。ただひとつだけ、登山の格好もせず登ったという点が家族や警察を不審がらせたが、気の迷いということで片付けられざるを得なかった。コンビニで食糧と水だけは買っており、死体のそばに転がっていたバッグのなかで食い尽くされずに残っていた。

 垣原の妻は死体のそばに落ちていた携帯の、発信履歴の最後尾に橋爪の名を見つけ、自分の知らぬ夫の影を追うようにやみくもに通話ボタンを押した。彼女は橋爪に何を聞き出していいかもわからないまま事実を伝え終わると、一方的に電話を切ったという。



 十一


 橋爪から垣原の死を知らされた時、彼の身体はすでに灰になっていた。私がそのことを知る三日前に死亡が確認がされ、二日後には通夜を、その翌日には身内だけで葬式を済ませたという。

 ──一週間も経ってないのにあんなふうに焼くなんて。後ろめたいことがあるみたいで、嫌じゃないですか

 橋爪の背後で男が文句めいたことをぶつぶついっていたが、橋爪は淡々と言葉を繋いでいった。

 ──殺した、そう思えてくるんですよ、あの人たちは。だから処理する。生々しいものは堪えられないから、さっさと消してしまう。あとは夢を見ていれば済みますから

 ──仕方ないでしょう

 ──あなたもおなじですか。魂とか、身体とか、そんなふうに分けてしまうんですか。私を抱いたのは、身体のほうだったのに。魂を焼く覚悟もないくせに

 ──忘れないと、堪えられない人もいるんです

 ──忘れていくんです。どんな顔をして、どんなにおいがしていたか、何を話して、何を話さなかったか。そのくせ傷だけは残って。けど、ほかの人とは別なんです。傷が大きい分だけ、血が止まっても跡が残って、それもかなり馴染んでしまったので、そのせいで忘れる

 彼女が垣原について語るほどに、なるほど私のなかで彼の輪郭は鮮明になっていったが、その分だけ互いに通じる言葉は喪失し、次第に相手の言葉に反応もしなくなり、その印象に耽りつつ別の角度から輪郭を辿る。

 ──痩せてて、背筋は曲がって、やさしい猫みたいに

 ──煙草臭かった

 ──首は太かったです。腕をまわしても、平気だと思えた

 ──髪は綺麗で羨ましかったな、さらさらで

 ──手も大きくて、首を絞められたらと思うと怖かった

 ──海よりも山が好きだった

 そうして言葉を繰り出すうちに、私たちの記憶の交点が垣間見えるようだった。生者の、死者に対する無邪気な冒涜かもしれなかった。いくら垣原の輪郭が鮮明になろうと、それが真に垣原を形づくるわけではなく、むしろ彼をおぼろにさせる。その浅ましさと空疎さを感じ取ったのか、橋爪は恍惚としていた口調を一気に落とした。

 ──あの人にいわれたんです。俺は抱いてない、と。結局、抱けずしまいだって。だから俺が死んだら、妻と会ってほしい。どういう意味かきいても答えてもらえなくて

 ──わからないな

 私の背後では先ほどから娘の甲高い泣き声が響き、神経を苛まれた妻の癇性な足音がし、やがて奥の部屋から低い呻き声が響いた。もはや眺める気分で、手を出すまいとは思いながらも、家の支配者である妻の緊張が家のうちにひろがるにつれて、私の身体も同調するように焦燥し、手立てなどないにもかかわらず動かなければと焦る。そのどうしようもない現実のにおいが、私の恍惚を抑え、垣原の捏造という淫らな行為から引き離し、やがて寡黙になっていく。おそらくそれを気取られたのだろう。語るほどに幻想めいてくる橋爪の言葉は、私の呼応の乏しさに塞がれて、限界を迎えたその頂点のあたりから下降しようと現実的な着地点を求めた。しかし言葉は空を踊り続けるばかりで、私も助け舟を出したいとは思いながら、背後からの嘲弄がそれを許さなかった。携帯を耳に当てたまま、空転する言葉を遠ざけて意固地に沈黙を守っていたのは、橋爪の着地点を見届けねばならないと感じていたからではなかったか。あの旅館での夜、私が聞き手に徹したがために幻に分け入り過ぎた女が、身体をそこに置き残して戻ってきてしまった。そのためにすべてが白々と映る都会の風景のなかで、相手が誰とも知らぬまま抱かれてしまった。単に女の誇りを保つため、あるいは遊びという可能性もあったが、どちらにせよ空しい試みであることは変わらなかった。

 背後の緊張は佳境に入りつつあった。娘の泣き声は張りつめた線が鳴るように甲高く響き、妻の呻きは男めいた低音で布団を飛び出し外に漏れかける。おなじ屋根の下で他人同様の女の言葉を待つ男の背が、嫌な湿り気を帯びていく。

 ──会ってください。また連絡します。あなた以外にいなくて

 触れた相手がか、それならそばの男に頼めばいいのに、と通話が切れてしばらく考え耽っていた。妻と娘の叫喚は徐々にではあるが尾根を越え、私とは離れて自立して、やがてふたりとも完全に寝入ったらしい。私は居間に移動し、フローリングの床の冷たいのもかまわずに腰を落とし、窓の外で今にも雪に変化しそうな雨粒の落ちていくのを眺めていた。しばらくして夫婦の寝室から勢いよく飛び出してきた妻は、死んでやる死んでやる、と呟きながら外に出ていった。妻の混迷が、混濁しながらも身体に切迫をもたらす惑いが、橋爪との記憶を一息に消し飛ばすのではないかという勢いで背後を過ぎる。しかし手段はすでにない。とうに男特有の救世主的な態度を非難され、その逆効果をとうとうと説明された挙句、何もしないで、と方法ともつかぬ方法を要求されていた。私はそれを実践しようと距離を置いて、家のうちの騒ぎに浸るともなく浸って、まるで家具のひとつにでもなったように、休職中の身体をもてあましていた。努めて介入し家の騒ぎそのものになろうとするのではなく、それとは個別にそこにあろうとすると、今まで私の頭のなかにあった妻の輪郭があいまいになり、予想にない動きをする。まず、その細やかさがなにより際立って目に映った。苛立ちと混乱のなかにあっても、その厳しい顔つきが、内に宿した平静を頼りに掃除や片付けをひとつひとつ規則的にこなしていく。点から点への反復に見えていたものが、その内容の充実によりひと続きになる。女は線なのだ、と知らされた気分で羨ましかった。同時に点的な対処を講じていた自分が馬鹿らしく思え、合点のいかなかった妻の反論も腑に落ちた。しかし妻の苦しみは、おそらくその点に起因していた。衣服を仕舞う時、皿を並べる時、娘を抱いてあやす時、にわかに妻の顔が翳り自身の行動に対する疑惑が身体を凝らせる。やり過ごそうとする意思だけはある。しかし無意識に蓄えられた正誤への問いが湧いてくるのをとめられない。線的にしか捉えられない以上、点の区分の見分けがつかず、永遠の遡及か推測かを強いられて、運良くその一点を見出したとしても現在と繋げられない。あとに残るのは頭の重みばかりで、捉えていた点もあいまいに線に融ける。そこに不用意な私が点について尋ね、男特有の悪癖に倣って対策などといいだす。至極迷惑な話であり、的を外したその態度が恨めしく、いつかは寄りかかってやろうとさえ思っていたその大きいだけの身体が途端にハリボテに見え、嫌悪を抑えて、離れて、という。

 ──でも、ああしてあなたに眺められているのは気分がいい。舞台に立ってるみたいで。きっと私は役者のつもりでいるの。あなたの目には悲惨に見えるでしょうけど、楽しんでる。だから気にしないで

 ──死にたくなるほど

 ──憑依型なの、だからその時は苦しい。けど、あとになってみると爽快なほど憶い出せない

 娘の寝静まった夜半過ぎ、妻は床のうちから零した。翌朝、またも妻は枕に顔を埋めて娘への、夫への、自分への呪詛を吐いていた。言葉はやがて対象を失って全体への呪いめいて、その憎しみの極まったあたりで自殺を仄めかし散々暴れた挙句、そのために目覚めた娘を愛おしげに抱く。私はなす術もなく、その一連の流れのなかに点を見出そうとしたが、刻々と裏切り変形するその線に気圧されて、ただ黙っていた。いずれ安楽が、妻にもおとずれるのだろう。それは点的な楽観に過ぎず、次の瞬間にはまったく別の危機をはらんだ妻と向かい合って、あらゆる手段は空を切って無駄骨となり、線の一点に加わりたいという私の目論見は、常に失敗する。不在をもって対処を講じてみようともするのだが、破れかけながらもしっかりと紡いでいく妻のその線が、私のものと妙に食い違う。私が腰を上げようとしたり、手を出そうとすると、線は波を打って悶え、妻の神経は沈むか、あるいは途方もなく昂る。かといって沈黙してうつむいていると、行動の妨げになるらしく神経は乱れる。出来る限り自然に動こうと私も努めたが、結局はうまくいかず離れた部屋に閉じこもるようになった。家全体の神経の昂りのために本を読むことにすらに集中できず、黙々と時間に意識を傾けていると、それでもなんとか母娘ふたりで自足していく家が、これは立派な自立なのではないかとさえ思った。その流れを滞らせるのはほかでもない私だった。妻と娘の身体の芯のあたりに共通してあるほの白い中心のようなものが、振子運動を繰り返す感情にとっての錘の役目をなし、ふたりをかすかながらつなげる。娘が泣き喚こうが、妻がこの世のものとは思えない慟哭で家を震わそうと共感が伴わなかったのは、そうした芯の欠如のためではないか。借り物の、恣意的な対処に講じることしかできない。どれほど綿密で正確な対応を試みようと、それは母娘の芯にはまったく触れず、そのはずれで一人踊りを繰り返しているような不様な有様になる。自室にこもっていてもそれは変わらなかった。なにもしなくても、なにかしているのだとわかるようになると、私は一日の半分を外出に費やすようになった。不安を押しこらえて半日歩き回って帰ってくると、妻は全身に疲れを宿しながらも表情を緩く解いて、気圧の低い夕暮れの陽を浴びながら娘を前にして充足した沈黙に浸っていた。その目つきには線を眺めるような客観がともなって、その分動きは緩慢だったが、ありがとう、と一言零されて、何が正解かもわからなくなる。

 会うべき人もおらず、用もない私は、思いつきに任せて近隣の通りを歩いていたが、三十分としないうちに家のことを忘れ、その忘却を起点として内側が呈した焦燥のために動きのひとつひとつが自身から遠のいて、自然と目は表情なく行き交う他人に傾いた。だが他人には妻や娘同様に芯らしきものがあって、こちらが不用意に目を向けなどすると期待していたような画一的な反応ではなく、嫌悪を示す者もいれば友好的に頭を下げる者もいた。そのたびに私は相手の芯に自分の芯の空白を適応し、いや、偽装し、振る舞いを真似る。そうして相手の鏡に仮装することを繰り返すうち、私の空白は萎んでいった。四時間以上を外で過ごして家に帰って来ると、妻は私の顔の妙に黒ずんでいることを心配した。弱って横たわっている時だけは、妻と娘の線と繋がっていられるような気がした。しかしいい気分で午睡から起きると、家のなかにはふたたび緊張が、今にも切れて散らばってしまいそうな張り詰めた線の気配が満ちて、やがて妻の叫びが遠くで鳴る。

 外との釣り合いを保てるだけの内を、闘争のための強い芯を拵えようとも考えたが、そんな方法が見つかるわけもなく、居酒屋とか映画館といったありきたりな目的地を決めるだけで精一杯であった。電車で最寄駅までやってきて、見知らぬ土地で一歩一歩足を送るそのたびに、尽きぬ恣意が身体を凝らせ、まるで跳ねるような頓狂な調子になっている自身を危ぶんだが、行き交う人びとの目の色はあくまで平静である。それが無関心のためだとわかり、なお一層自身を戒めたい気持ちが強まる。しかしどれほど注意しても動きの端で自然と食い違い、芯の空白を意識させられる。意識すればするほどに欠如は肥大していく。数時間も経つとその循環もほつれて、私はすっかり擦り切れた死人のようになって、もはや死人のつもりで歩いている。仮に死人が歩いていたとしても人びとは気にしないだろう。

 映画なり飲酒なり、苦し紛れに型通りの目的を済ませて帰路につくころには、空になった内側に外側がもろに流れ込んでくるようで、もはや適応という態度も忘れて、崖に向かって駆け出す群れについていく気分になっていた。同時にそれを抑えようという、身体の切ないような抵抗が細く低く鳴って、今にも白く塗りつぶされそうな前景のうちをその不快を頼りに外へ外へと外れていく。しかし群れに乗じなくては、帰宅すらままならない。道や路線は群れをつくり、群れはそれを道だと思い込む。道はそこ以外にはなく、あるいは存在するとしても、人との交通を可能にするのはそうした群れの道ばかりである。自分も群れの一匹に過ぎない、そう感じたという橋爪の言葉を憶い出し、慰められる思いだった。その画一的で視野の狭まった動きから一歩だけ身を離そうと努める。その努力すら群れの模範的行動であるのは理解しながら、そうすることで手応えをつかもうと合流と離反を繰り返すうち、なんとか家の最寄駅まで帰ってきていることに気づく。郊外の、見慣れた街並みのなかを歩くうち、それまで自身を導いていた群れの気配が絶えて、道が漠としたひろがりをみせる。道ではなく、もはや広大な平野となったところで、私は立ち尽くす。

 鏡を探していた。妻と娘はそれに似ていたが、あまりに澄んでいたために、私はむしろぼやけてしまう。やっと人体の輪郭が掴める程度で、その内にはあいまいさで埋まっていた。

 ──おかえりなさい

 穏和な笑みを浮かべて出迎える妻の顔を眺めながら、ああよかった、と嘆息しつつ、自身の処理に気が向く。

 ある夜、久しぶりに穏やかな妻と娘と無為の時間をやり過ごしていると、電話が鳴った。

 ──明日、会えませんか

 不活性な声帯から押し出された声音が、あまりに自分のものと似ていたために、私から電話がかかってきたのだと思った。橋爪の声は切迫をはらんでいた。私とおなじように無為も尽きたところから吐き出されたような、求めの気配を含んで、背後には雨の音を背負って。




 十二


 電車の吐き出す群れに押し流されて改札を抜け、川の流れめいたうねりからうねりへと身を任せた。構内を見渡すと女は多くいて、どの女も橋爪のように見えた。

 なんのために会う。そんな訝りとは反対に、妻の回復と相反して行き詰まりかけている自身に目的を与えてくれたことは有り難かった。約半年ぶりの再会になり、橋爪の顔も出たちもすでにおぼろになって、憶いだせることといえば、あの夜強く握られてしばらく痣を残していた腕の、今にも疼きだしそうな痛みだけだった。その痛みがなんの助けになる。滑稽にも目をきょろきょろとさせて、無臭の集団のなかから、女のにおいを辿ろうとした。

 日時と場所を決めることすら恣意めいて、そんな些細なことが私たちの関係の不作を招くのではないかと恐れながらも取り決めた。見渡せば綺麗に繕った身体のうえに化粧をした女が、置き残されたような表情で周囲に目線をやっている。時折その目つきが他人の私に無遠慮に注がれて、すぐにそらす。ある若い女は感じ分けようとする迷いを外に剥き出したまま、横切っていく私の顔を目で追っていたが、こちらが目もやらずに過ぎると、迷いだけが募っていく顔をうつむけて、それからまた雑踏のなかに誰かを見出そうとする。やがてひとりの男と、すでにかなり睦みを重ねてきたらしい雰囲気で腕を組んだときも、その顔には雑踏に引き込まれそうな惑いが残った。別の女は、生後紡いできた線がこの場にふっと乱されたような不快を全身に滲ませ、もう一度その張りを取り戻そうとする頑固な意思が男たちの目を引いた。女はそのことに気づいており、自身の拡散したにおいとそれに群がる男の目線に抗おうと口をきつく結ぶ。それだけでは足りないと感じて、男たちを睨み返すことで拒絶しようとするが、それがむしろ男を誘う。そうして堪えるうちに相手が到着し、なんやかんやと言い訳を漏らすのを、遠いような気分で聴きながら、顔だけ恋人らしい色気に満たして去っていく。一度疑いだすと、橋爪との出会いのあいまいさと記憶の薄さが浮き彫りになり、繋がりの薄い男女がこんな場で会うことは不可能とさえ思えてくる。

 集合時間から十五分が過ぎて、橋爪から電話がかかり、携帯の奥から抑えて零す女の声が他人めいて響いた。

 ──どこにいますか

 その問いを発することの恥辱が伝わってくるようだった。

 ──あなた、どんな風ですか

 ──ベージュのパンツ。白いシャツにカロのセーター

 ──そうじゃなくて

 物言いに苛立ちがこもり、抑えが崩れかかる。

 ──どんなふうに立ってますか

 ──僕が迎えにいくので、場所を

 ──嫌なんです、それは

 ──どうして

 ──なんだか振り出しにもどったみたいで、あなただと判断できる自信がありません。声をかけられると誰でもついていってしまいそうで

 ──この前の男もそうだった

 ──はい

 ──どうしたらいい

 ──じっとしていてください。間違っても手をあげたりしないでください

 電話をかけると決めるまでは、周囲の女と歩調を合わせて私を私を引き寄せるつもりでいたという。その誘いが無数の男を誘いそうになるのをこらえながら、それでも待つことにした。こらえてこらえて私に見つけられれば、最近の陰々と浮ついた身体を鎮められると踏んだ。しかし男の視線に晒されれば晒されるほどに、色気を帯びた可能性がいくつも浮かびあがり、最初の記憶が途切れかかる。中肉中背の、特徴の希薄な男。たいていの男がそうであるように私もそうだった。彼女のなかにはそれでも記憶に留まるだけの気配のようなものが残っていたが、それさえ消えかかる。そうして捨て鉢の気分で電話をかけた。屈辱を感じたという。その屈辱をこそ克服せねばならないとも感じていた。

 しかし一歩目を踏み出した瞬間から身体は崩れかかり、そうして支えのなさを補うようにまた一歩踏み出す。歩くことばかりに気がいって周囲は遠のき、調和は損なわれ、やたらと他人の身体とぶつかりながら、下支えとなる感覚を求めて送り越すうちに、鮮明な輪郭をした構内の隙の無さが身に迫ってくる。反発する心だけを頼りに人の姿までも人工めいてくる景色を睨み、線を紡ぎながらそのもとを辿ろうと想いは過去に退いていく。どれほど辿ろうと私の姿を見出せず、かわりにあらわれたのは親や親族、友達ですらない、ひとりの老男だった。

 

 

 温泉街の安旅館の一室で、男ふたりに去られた手応えもないままに籐椅子に腰掛けていた橋爪は、自分がここに来た理由もあいまいになり、その自由の軽やかさに導かれるように外にでた。街を見渡すと、旧家然とした風貌の家屋にもところどころに現代建築の意匠が潜んでいて、それがすぐにおとずれる崩壊を予感させた。どれもこれも心に嵌らず横目に過ぎるままに、逃れるようにして折れた街路の脇に米屋の前で止まった。彼女の目に留まったのは米ではなく、その軒先に控えめに並べられた鳥だった。木彫りの、水彩で彩られた鴨の彫り物。

 寒気にもかかわらず半袖のシャツ姿で米を運ぶ老男は、店の前で佇む女の姿を認めるや否や作業をとめて手前に置かれていた椅子に座って、自作でね、と照れ隠しのように笑った。翡翠色の首元から茶がかって白へと移っていく彩色の、自然な変化が決して達人とはいえない仕事ながらに彼女の記憶とどこか結び合うところがあり、しゃがんで見入っていた。やがて申し訳なさから、また単純にそれが欲しいと感じたからでもあるが、ひとつくださいと現金を出し、それからつがいでないと哀れだと感じてもう一羽分の金を渡した。老男はボール箱に新聞紙を敷き詰め包装した。橋爪はそれを抱いた途端、思いもよらぬ自足の感覚に耽り、知らず知らずのうちに立ち尽くしていた。

 ──これね、実は浮かぶんよ

 老男は相手の反応も見ずに二羽分の彫り物を持ち上げると、店の斜向かいの辻のほうへ進んだ。ひらけた公園を過ぎ、山の傾斜に沿って階段を登っていくと境内があらわれ、その隅のほうからちょろちょろと水の音がしていた。老男は水の音のほうへひょこひょこと歩いていき、苔むして枯れ葉の浮く寂びた小池の、空の青さを宿す波紋のそばにかがみこんだ。

 ──お風呂なんかに浮かばすと子どもは喜ぶみたいや。お礼の電話なんかもらってね

 そんな訛りのきいた物言いも不躾とは感じられず、自然に聴いていた。

 二羽の鴨は水面に浮かべられると、身体を上下させながらそれぞれ別の方向へ揺蕩っていった。山から下ってきた雨水がちろちろとした水滴となって池に落ち、反対側の窪みに向かってかすかな流れをつくる。排水量の乏しさのために大半の水は池のうちを循環し、鴨は周回しつつ行き交う。生きてはいないその姿の、硬直と流される受動が一層生き物めいて、はあ、と溜息をついた橋爪の顔を老男はにやりと覗き込んだ。

 ──なんとも言えんやろ

 ──ええ……はい

 ──嘘つきやいうてな、地元の子供にいびられてな

 ──いびる

 ──いじめ

 ──ああ

 ──わしにとっては本物やった。夢かもわからん。けんど確かに見た。この池につがいの鴨が泳いどった。お母が証人やった。あれはお父とお母やって、喜んでくれた。あの頃の住まいは全部焼けてしもうて、それで疎開してここに来て、そのままや

 枝のように痩せた老男の、染みにおおわれた皺の深い顔とは対照的に、目だけが爛々と光る。その目つきは刻々変化し、怒りとも諦めともいえぬ色になる。父は戦争で狂うてしもうて、と彼はいい、表情だけふっとやわらかくなったが目には混沌が翳る。

 ──神経症になって、わしのことも忘れてもうて。怖い人やったのに、支那から帰ってきたら別人や。子供を見るだけで怯えてしまうようになってな。自殺したと警察に言われた時、救われた、そう思うた。お母はお父のこと好きやったさかい。暗に決めとったんかもしれん、一緒に死のうと。でも、わしはどうなるねん

 ──子鴨は作らないんですか

 ──せやな、それもええけど、違う気もしてな

 ──違う

 ──別に蘇ってほしいわけでもないさかい。わしはただ想像するだけで。お父とお母も小さい時分があって、恋愛なんて言葉も縁遠いなかで小さいころから丁稚奉公して、仕事先で出会った男女が、相手を想う余裕もないまま籍を入れて子供を産む。鴨が踊ってるみたいや

 ──ああ

 ──わからんか、最近の子には

 ──いえ

 ──遠いのよ、なんでこんな離れてしもうたんや、そう思うほどに。写真もたいしてない時代やったさかい、面影も歳を取るほど薄まって。でも、残っとる気もする。血というほどのことでもない。もっと低いところでじっと残って響くもんがある

 よう使うて遊んだってや、壊してもいいさかい、そういって階段を降りていく老男の脇に二羽の鴨が担がれていた。手摺を握って一歩一歩慎重に足を送る、得失の観念の薄まった老境の背が景色に融けていくようで、階段を降り切るころにははっきりと捉えられなくなった。

 


 その解釈を拒むようなちいさな記憶が、橋爪の足を支え、外との膜になって彼女を守る。歩みの調子に必然がともなってくると、もはや私のことなど気にせずに改札に戻っていた。私を置き残して家の最寄り駅まで戻ってきた橋爪は、ボール紙に包まれた鴨を部屋からとってまた外に出た。都市流入者であり、土地のことにも疎い彼女だったが、水気のあるところくらいは心得ていた。しかしどの川も浅い。池という池はほとんどなく、多額の賽銭で新調された寺の池などはあっても、浅ましいようでやり過ごした。拘りに苦しめられて地図ももたずに都内をあちこち移動するうちに、駅で感じた漠とした離人感と過剰な自意識は薄まって、奉公の気分になって解放されていった。しかしその二羽の鴨が自分にとって何なのかという問いだけが凝って、頭のなかで親類や知人、私や垣原の顔を思い馳せてみても感じはともなわない。代わりにそうと意図せずとも、表情のくり抜かれた白い顔がいくつも足元から見上げているのがわかり、要求も非難もしない死者の顔が知り合いなどよりもよっぽど親しく感じられ、そのひとつの島田結の能面が時代の隔たりを越えて、あの老男の母と通ずる。彼らが自身を支えている。しかし同時に遠ざけられてもいる。その板挟みの、足の動きと感じられた。ここにはいられない。しかしどこへ行くあてもない。確かなのは遠ざかろうとする身体だけで、その頭も四肢も、もはや自身の持ち物という感じがつかめず、仮初の寓居として刻々居を追われる気配に晒されながら、むしろ立体感を強めていく。その訝りも体温の高まりに絆されてしまうと、無為な問いとなって静まる。

 いよいよ生きているということも遠のいて、四方から押し潰そうとしてくるビル群も消え、閑静な住宅街の影に田んぼがあらわれた。山もかすかながら見える。

 ──田んぼの畦道の、辻の交わるあたりで、コポコポと湧くみたいに水が滞って、そこに決めたんです

 翌週になって、橋爪は会えなかったことには触れずそのことを話した。

 ──鴨はいつまでもくるくるしていて、それで、あきらめて帰ってきました

 ──今ごろ流れてる

 ──もうこの辺りも過ぎてしまったかも

 ──もう海に

 ──楽しかった

 ──それから

 ──それから、こんな言い方はあれですけど、普通になりました。墓参りも

 ──垣原の

 ──はい。型通りに

 その声音はいつになく落ち着いていた。

 ──私、きっと抱かれなかったんです、あの人に。でっちあげたんです

 ──どうして

 ──私も彼もあまりに生活から遠ざかっていたから

 ──そんなもの

 ──対極にいると感じていたんです。だから捏造したんです……今日はお願いがあって

 ──なんです

 ──あの人の奥さんに会ってもらえませんか

 ──どうして僕が

 ──あなただけだと、あの人が言っていたので。自分を知らない、ただひとりの

 ──知らない人間がどうして

 ──知らないつもりでいるから、知っているんですよ

 ──わからないな

 ──奥さんの窓になってあげてください。それから

 ──それから

 ──それが済んだら会ってください、私と、最後に

 ──なんのために

 ──忘れるためです

 終始淡々と、抽象的なわりに惑いのない言葉を聞かされた私は、すでに遠いことになっていた女の姿が眺めながら、ただ職務をこなすつもりになっていた。隣の部屋で妻が娘とじゃれあう声が聞こえていた。この一週間ほどで娘はつかまり立ちができるようになり、喃語が増えた。それにともなってか、妻の錯乱も徐々に頻度が減り、どこかで見たような母親らしい調和の取れたにおいを纏いはじめ、その分だけ私には他の女と見分けがつかなくなった。あるいはそこで娘をあやしているのが別の女だったとして、私はそれをやり過ごして夫らしく声をかけ、会話をし、互いに誰でもなくなって抱きあうのではないか。そんな疑いが涼しく流れた。夜になって尋ねていた。

 ──それは、あなたがいなくなれば、さっさと乗り換えるかも。いい男はいくらでもいるし、そこに男女のちがいはないでしょう。けど、時間は断たれるわけだから、それはつらい。忘れられたくないんでしょう。忘れませんよ。そんなこと、できない

 そこにかすかでも情愛や色気の含まれないのが、私の耳には爽快だった。



 十三


 ──百合といいます

 窓越しにさす春めいた午後の光を背に受けながら、垣原の妻はいった。

 マンションは都内の影に隠れるようにして涼しげに立ち、その面に高度経済成長期からの度重なる修繕の影をうっすら浮かばせ、長年の疲れの底から徐々に自立するかのようにやけに風景に馴染んでみえた。棟の合間には駐車場と公園を囲むように銀杏や桜の木が植えられ、老境の女性ふたりが午後の砕けた空気を持て余すようにしてベンチに深く腰掛け空を仰いでいた。散歩したり立ち話をする、すでに年金生活にはいった老人たちは、底を尽きた人生の残り香を噛み締めるように季節や政治について語り、言葉も尽きてくると以前よりもずいぶん少なくなった親子連れに目を惹かれ、恐れもせずに声をかける。おそらく共に団地の住人であるにもかかわらず、初対面らしく娘を抱いて老婦人と話す垣原百合は、三歳に満たない娘を膝のうえに置いて、爽やかに言葉を交わしていた。悔やみの言葉は聞こえない、おそらく知らないのだろう。私は離れたところのベンチに腰掛け、その姿を眺めていた。そうしていると、ふっと春らしい風の吹いた気がして見上げると、膨らんではち切れそうな蕾を抱えた桜の木が揺れていた。まだ肌寒い。

 ──とりあえず半年は預金で凌ぐつもりですが……ローンは完済済みで、この娘が三歳になったら私も働く予定です

 垣原の妻はコーヒーを汲み菓子を並べながら、先手を打つように何度も繰り返したであろうその言葉を流暢に吐き、それから居間で玩具を触る娘に一瞥くれてから自分も椅子に座った。テレビに映る子供番組に見入る娘の背後で、先ほどあげたばかりの線香が燻って風のない部屋のなかで停滞していた。

 ──だから大丈夫です

 生前お世話になったとか、そんなありきたりな話を済ませると、互いに孤独に引きこもりそうなのをこらえるようにして言葉を探した。初七日、四十九日と想定外の行事が、それらをこなしながらも淡々と生きている生活が、垣原の妻の顔に翳りを帯びさせた。

 ──垣原は、あなたにはどんな人でしたか

 思わずいった私の言葉に、助け舟を得たように表情をほぐした彼女は、垣原の遺骨の置いてある和室に向かうと、一枚のアルバムを取り出してきた。半分ほどは垣原の幼少期から高校卒業までを撮ったもので、祖母の手らしい達筆で日時と場所が書き添えられていた。新生児期の泣き顔のほかは、どの垣原も静かな顔をしていた。その静けさに撮り手を慮る薄い笑みが加わっているのが、なんとも垣原らしく思われた。歳を重ねるほど身長は伸び、思春期らしい肌荒れなども写真には残っていたが、その顔つきには歳をとりながらも不変の自意識のようなものが滲み、若さゆえかと眺めるうちにアルバムの半分あたりで年が一気に飛び、ほんの五年前に夫婦ふたりで撮った写真にも、その落ち着きは見出された。後半はどうやら妻が記録したものらしく、前半の張り詰めたような文字が、丸みを帯びたやさしげな筆跡に変わった。愛されていた、そんな確信が緊張を和らげた。

 ──このあたりから、死を匂わすようになって、あからさまじゃないんですけど

 まだ籍を入れていない二十五を過ぎた男女の、ホテルの部屋の広縁で向かい合って座り、背後には紀州の枯木灘の薄暗い空を背負ってこちらに向ける顔が、カメラの調子が悪く翳って、結婚への踏まえがつかめずに戸惑っている。

 ──あのころ、夫は暗い方向に惹かれるようで、繁華な観光地を嫌がるようになりました。代わりに連れて行かれるのが郊外からさらに奥まった、誰にも忘れられたような土地ばかりで。でも私も実は心地よくて。長い間、お互いに騙し合っていたんだ、とふたりで笑いました

 紀州から山陰、それから北陸のほうへ足を伸ばしたふたりは、垣原が密かに気に入っていた金沢県の安旅館で、女のほうから婚姻を切り出し、男はうなずいた。指輪もないまま夫と妻になったことが、世間からずれた寂しさを与えないではなかったが、元来本居のあいまいさを感じていた彼女にとっては、不確かさを確かめあうことそれ自体が地に足がつけるための作業だった。影の薄い互いの人生は、繋ぎ止めようという努力なしに成り立たないこともわかっていた。

 ──Tというお偉い方が金沢にいて、彼はそこの記念館がずっと気に入っていたので、観覧したり。海鮮を食べたり、型通りに兼六園を眺めたりして。思えばあの日からでした。これまで戯れに口にしてきた死のことを抱え込むようになったのは。不思議なのはそれがむしろ彼を落ち着かせたようなんです。崖の下にいる気分だといったこともあります。崖の下で、呑気に家族を営みながら、ふとした時にその崖の崩れかかる不安がよぎる。落盤するのではなく押し潰される、そういっていました

 垣原百合の口調は晩年の悲観的な夫の言葉にもそう影響されなかった女の強さを感じさせた。時折目元を押さえることもあったが、それは今と引き合わせて嘆くというよりは、むしろ遠いままの過去に浸る感傷に近かった。責め立てられることも覚悟していた私は、そこにきてやっと垣原がこの女性を妻にしたいと思った理由がわかった気がした。彼女には、簡潔で直接ながら芯に届くような、私たちには持ち得ない固い線があった。

 帰り際にもういちど仏壇に手を合わせ、お暇しようと靴を履いていると、垣原百合は娘を抱いて、すこし歩きませんか、といった。断る理由もなくうなずいて、子供を着替えさす女をなんとなしに眺めていると、娘に笑いかけて崩れるその顔の口元だけがきっと結ばれて、崩すまいという依怙地な我慢がみえた。化粧を忘れた白い、切れ長の目は時折とろんと垂れかける。惑う母親に、娘は無邪気にきゃっきゃっと声をあげる。

 ──産後、私が参っていた時、仕事を休んで彼がよく外に連れ出してくれたんです。ノイローゼ気味だったからだと思うんですけど、寝かしつけが終わった後に子どもをひとり残していくのが怖くて、彼を冷たいと詰ったこともありました。でも、日がな一日、散歩する余裕もなく育児をこなした私にとって、急に決まったような結婚の、苦しい青春を取り戻すみたいで、なんだか……

 団地に沿って歩くと、車道の喧しさはありながら、家屋はなんとも言えない静けさを纏って、歩道を境に別の時間が流れているようだった。垣原の娘は時折こちらの顔を見上げ何が面白いのか、母親に抱きついて報告するように笑い、最後には空いていた方の手で私の手を握ってきた。

 ──ここにもよく来ました

 女の指し示したのは石垣の下を流れる小川で、舗装されぬままの土手には間隔をおいてベンチが設けられ、水面を見下ろしながら休めるようになっていた。

 ──のぼっていこう。彼はそういってずんずん進みました。一時間もすれば娘はまた起きてしまいますからその呑気さに呆れて。きっと私も逃げ出したかったんだと思います。故郷でもない土地で根無草のような暮らしでしたから。父親はいましたけど、母親はいなかったし、転勤族でしたから。川に沿って坂を上っていくと、いつか故郷に辿り着けるんじゃないか、そんな妄想もあったのかも

 三十分ほどかけて川沿いを歩いても、左右に立ち並ぶ家々の見映えは一様で、景色の変化らしいものはなかった。時折、石碑などが立っていてなんとなしにその文面を読んだが、私たちの歴史とは切り離されている感じがした。たえず建築と解体を繰り返し、ひとしなみにならされた家や店の顔はのっぺりとして、それは人びとの顔にも感染り、前後のない表情にさせた。いつだったかニュースで報道されていた無差別通り魔事件の、人の良さそうな平凡な男の顔が浮かび、呑気に行き交う私たちの顔との見分けがつかない。もし今刺し殺されたとしても、刺したその男の顔に自身を見出してまともに憎むこともできず、そのために殺人者のほうもこちらの反応の手応えのなさに逡巡し、まさに手応えの希求のために縁もゆかりもない他人をまたひとり刺すのではないか。痛みに悶え苦しみ、黒いアスファルトの道を赤く染める凄惨な事態であるはずなのに、各々の顔つきは日々の色から外れない。目つきだけが喘いで、自身を取り囲む建物群を睨むが、どの記憶とも結びつかない。やがて生まれてからずっとそこにいたように思われて、一歩も動かぬままに死がやってくる。せめてここで腐って痕跡でも残せればと、英雄じみた考えが巡るが、火葬されて灰になり、この想いもそれと同時に絶えると知る。

 風に揺れる雑草が妄想から私を引きはがし、すこし先を歩いている親子の背に目を向けさせた。その凄惨と静謐の混濁した世に、どうして妻子を持ちえたか垣原に尋ねたかった。私自身のこととなるとひどくあいまいになり、世の習慣も踏まずにここまでやってきた分いくらか手応えはあったが、彼はどうだったか。家族のひとりを失って片輪のようになった母娘の心が気にかかり、その背に陰惨な物語を焼き付けようとするのだが、刻一刻とあたらしい表情をつくる。

 ──甘いものでも食べませんか

 そういって彼女は子供の手を引いてファミリーレストランに入っていった。

 ──彼に連れ出された夜、たいていはここに落ち着いて、この子が目覚める間際まで居座っていました

 娘は皿に盛られたアイスクリームをスプーンで突いた。

 ──彼はコーヒーだけ頼んで、私はデザートをたくさん食べました。夜中はほとんど人が来ませんから、店内に私の泣き声が響いて、店員さんも慣れてしまったみたいで。恥ずかしいですけど

 ──出会いは

 ──友達からの紹介です。けど、どうして付き合ったのか、あれだけ豪華な式を挙げて何が残ったのか、よくわからなくて。あの時は彼を見誤っていた気もして。気づいたらこの子がいて、あの人は死んでしまった

 ──彼はあなたのことが大切だったんだと思います

 余計なことを、という思いが彼女の顔をかすめ、すぐに笑顔を繕い窓の外へ向けられ、次の手を見出せぬまま固まって、娘のスプーンの皿に当たるカチカチという音だけが響いていた。

 ──なんだか、置き去りにされたみたいで。いつもそうでした。あの人はいつも先回りして。その代わり損ねるということがなかった。だから死んだのも、私たちの得になるように仕組まれてる気がして、その身勝手さに腹が立つ。その腹立ちさえ見透かされてるみたいで、いつかこの悔しさも忘れて別の人に縋る自分が想像できてしまうんです

 ──縋って、なにが悪いんです。このご飯も、水道も道もあなたが拵えたものじゃない。縋ってるんですよ、誰もが。あいつもそんなことをいってた

 ──わかっています。だから私はきっと大丈夫なんです。でも彼は誰に

 ──それを探しにいったんですよ

 ──見つかったと思いますか

 ──その態度がすでに見つけていたんだと思います

 ふっと和らいだ女の顔が窓のほうからこちらに向き直った。

 

 来た道を戻り、団地の前ですぐに別れるつもりだったが娘が急にぐずりだし、仕方なしに三人で公園のほうへ足を向けた。砂を弄る娘を屈んで見下ろしていると、女はごめんなさいと謝った。こちらも謝ると、でも話を聞けて良かったです、と娘の手元に目を落としたままいう。

 ──彼はあなたのことだけは話していましたから。友達とはいわなかったけど

 娘は笑いを漏らす大人の顔を真剣に見比べていた。

 ──なんといっていました

 ──気味が悪いくらい自分に似てる、殺してやりたくなる、と

 ──そう思いますか

 ──全然、男の人はなにも見ていないんですね

 ──どんなふうに違いますか

 ──あなたはコーヒーじゃなくて、紅茶を飲んでいました

 ──ああ

 ──些細なことなんですよ、違いなんていうのは。簡単に大きく区別できるもんじゃない。だから私にいわせれば、あなたと夫はまったく別人です

 疲れて砂のうえに座り込んだ娘に倣って私たちもあぐらをかいた。

 ──でも

 女は砂を触りながらいう。

 ──ふたりとも女みたいだな、とは思いました。世の男性とは異なって、好んで後退していくような。女にとっては有難いんですよ、それは……奥さんはどんな人ですか

 ──女です、まさに

 ──それなら良かった

 ──良かった、とは

 ──せめて女でいさせてほしい、今の世の中ではそれが数少ない望みのひとつですから。時々、名前で呼ばれるのが嫌になるくらいで、女とそう簡潔に呼ばれれば、誰にでもついていく気になるのに、男はいない。そういう意味ではあなたも彼も未熟

 未熟といわれて、いつか至ることができるその男というあいまいな形態を思った。自身がそうなれなくとも、そうなった男に出会ってみたい、ついていきたいという気持ちが女のほうから流れだし、内を満たし、そのうつけたような感慨のうちにかすかに凝るのが気になり、追ううちに橋爪の濃い生毛の生えた横顔が浮かんだ。上がったこともない彼女の部屋のカーテンを背後に、女は身体を横に向けて座りこんでいる。抱かれるそのたびに男になっていく自身の身体を想っている。その孤独が胸に差し込んで、私は目が醒めた。

 駅まで送るという垣原百合の言葉を断って、辻を折れたあとで橋爪に電話をかけた。



 十四


 橋爪は私の電話にでるなり、今はごめんなさい、と通話を切った。

 翌日、翌週と待ってみても連絡はなく、落ち着きはじめた妻の精神のそばで梅雨をやり過ごし、夏になると仕事に復帰した。生の悉くが濃く騒ぐなか、私たち家族は暮れ方のような乾いた日々を過ごした。秋になり世界が一様に枯れて、どこか鬱気をはらんで色を落としていくころ、むしろ私たちは陽気になり、一歳を過ぎて反応の盛んになった娘を連れて動物園などに出かけた。妻の身体は私から遠く離れて、かといって互いに疎むわけでもなく、並行して流れるようになった。冬にはいり、都市には珍しい雪がはらはらと落ちるのをベランダで三人並んでいつまで眺めることもあった。ビルと家屋の立ち並ぶその遠景にかすかな記憶の重なりができて、圧迫するような厭わしい景色がほんのり色気を帯びる。師走になり仕事も休みに入ると、人気を溜め込んで活気に満ちていく家々を傍目に、局外者のような気分で暮れの街をいつまでも歩いていたが、以前は外との緊張を保っていた私と妻の皮膚も、娘の姿を契機に話しかけてくれる老人たちの情に絆されて土地に馴染んでいくようだった。儀式を遠ざけていた私たちは氏神に賽銭を投げ、注連縄を買い、無料で配られるぜんざいを食うなどして、我慢しがちな腹を満たした。

 ──すこしだけ会えませんか

 晦日の朝、寝不足のまま早朝に起きると夜半に着信履歴が残っていた。携帯に表示された橋爪奈緒という名が遠く感じられた。電話をかけると、色の変わった女の声音が、過ぎた過去を辿るような余裕をもって響いた。

 ──それじゃあ、私の家に

 出かけてくると妻にいうと、どこにともいつ帰るとも尋ねずに、お達者で、と背を向けたまま反応した。久しぶりに着替えた私の姿がおもしろいのか、娘は手を振って笑っていた。

 


 女の住むアパートの最寄り駅に降りると、私の住む土地と似たような風景がひろがり、その近似は駅から離れれば離れるほどに甚だしく、画一的な家屋に埋められた升目のうちに崩れかけた廃屋などがあると、やっと息をつける気分になった。橋爪の住むアパートは山を造成してつくられたニュータウンのその麓に位置し、傾斜にしがみつくように立つ二階建てのそれは、時の経過をこらえているようでみるのも苦しい感じだった。山を下ってくる土のにおいを嗅ぎながら部屋の呼び鈴を鳴らした。

 ──どうぞ

 年末だからというわけではなく、日常から整理の行き届いている部屋という印象だった。六畳半ほどの居間と隅に設けられたキッチンという最小限の部屋でさえ、女の所有物、たとえば鏡であるとか衣服では充しきれず、持て余している。唯一広がりを感じさせるはずの窓も迫ってくる山肌に遮られ、屈まないと空も見えない。閉じ込められ、外から隔てられ、女のにおいが凝って熟している。

 ──どうでした、奥さんは

 娘とふたり、強いて垣原のことを忘れようともせず過ごしているということ、なにより片親ながらつながりを保っていることなどを話すと、そうですか、と息をついた。

 ──あなたは

 ──特に。妻もすこしは落ち着きました

 ──あの時はすみませんでした、腕を掴んだりして

 ──ああ

 ──もう大丈夫です

 ──大丈夫

 ──毒気が落ちたみたいで、あの人のことも遠くなりました。あれは正統な睦みだったと今ならそう思える

 ──そうですか

 ──抱かれもせずろくに触れ合いもしなかったのに、残ってしまって困ったな。そんなことを考えながら過ごしていました

 ──解決しましたか

 ──いえ、全然。その代わり、最近では触れ合いへの拘りがとれて、あの人の顔や口調がありありと思い出せて、なんだか未亡人みたいな気分で。浅ましいとは思うんですけど、次から次に記憶からのぼってくるんです

 ──どんな

 ──歩いていました、よくふたりで。横には並ばずに、私が前を歩いて、彼はうしろからついてきてくれた

 垣原が背後にいると思うだけで気分は落ち着いて、日々男を誘いがちな身体も静まって、外との距離を保つことができた、と橋爪はいった。同時にそれが垣原ではなく、別の誰かであってもかまわないという妙な感覚もあった。男という男が外に立って、粘り気のある目つきでこちらを見ながら、そのくせ顔は白々とさせている。そういった男と話す機会などがあると、垣原よりむしろ柔和で、表面的にはこちらに阿った態度の底に、本能を盾に組み敷く機会を狙う目つきが走りかける。抱かれることなどどうということはない。しかし、男たちの浅はかな、前後を知らぬまま自分自身も女も消費しようとする態度や罪の意識の欠落が許せずに、まさにその彼女の拒絶の意識そのものが男を誘う。

 ──だからあれは、私のせいでもあったんです

 孤立してうなだれた男の群れが一気呵成に雪崩れ込むのをこらえるうち、その捌け口として隔絶を求めるのは自然なことである、と橋爪はいう。垣原には罪の意識があり、その防壁が日々己を殺すのだと彼自身が語った。しかしそれが女にとってどれほど有難いか、橋爪は垣原を説得しようと試みたこともあったが、まさにその罪悪感のためにその言葉すら拒否し、輪郭を失い、男女の境も取れ、漂白されていくひとりの人間の姿が彼女の背を支え、同時になんとか自立せねば彼がもたないと思ったという。

 ──あの人はどんどん透明になっていくみたいで、有り難くて、私はずんずん歩けるんだけど、釣り合いがとれるほどにその透明さが慣れはじめた景色のなかに馴染まない。それで、あの人はずいぶん危険な状態にあると、そう直感しました

 そのことは垣原自身が誰よりも感じ取っており、そのあとに俗な感覚を取り戻そうとありきたりな男女の交わりを努めてみたりもしたが、そうした努力は月並みに辿ることはできても最後の最後で違和に突き当たることになる。失敗し尽くしたところで最後の試みと誘われた温泉旅行について聞かされた時、断れなかったのは垣原に対する哀れみのためであり、同様の理由であとになって誘いを断った。すでに離別の構えでアパートでひとり過ごし忘れようと努めるほどに、これまでの支えに対する有り難さが強く湧き出して、奪うだけ奪って都合よく去る罪がのしかかる。それで追うようにして都会を出た。ところが、電車が山間に入り北国の暗澹とした低い雲を垂れこめてくると、帳を下ろしていたはずの想いは漠と視界にひろがって、融けた。一切が無駄であることを知った彼女は、しかし目的を失ったために終着駅まで電車を降りないで済んだ。改札を抜ける心は、すでに旅人の色を帯びていた。ところが旅館に別の男がいた。彼の友人。警戒したが、垣原より一層生気の乏しいその様子にすぐさま絆されて、いっそ上塗りしてもらおうかとすら考えた。しかし、こちらは誘うつもりでいても、あちらは反応しない。ああ、この人もおなじだ、と感じるなり、自分の甘え方が子供じみてきた。

 


 ──今日は最後のお願いがあって。決心がついたんです、試してみようと

 そういって橋爪は、私をアパートの外に連れ出した。晦日で温みを内に溜め込んだ家々のあいだを抜け、山沿いの坂道の辺りまで来ると、

 ──ついてきてください。そうしてもう大丈夫だと思ったら離れて、あとはお好きに

 ──どうして

 ──見極めたいんです

 要領を得ない私を置いて、橋爪は歩きはじめた。高い標高から東のほうを見やると、青く冷えた空の下で次第に高まっていくビル群の、霞を纏って聳えるのが見えた。女は二十代にはない三十代の、節々の丸みと重たるさからくる素直な立居で進んでいった。切ないような背の伸びは固定されたまま動かず、腕と足だけが前後する。背と一緒に硬くなった首もまっすぐ据えられ、姿勢全体に方向性がともなわない。そのために女の意識がたえず周囲に発散されているのがわかった。通行人が向こうからやってくると女は自分のほうから身を避けて、相手は気配も察知できず、普段なら頭を下げるところが、すっと通り過ぎてしまう。何かとすれ違ったという感覚だけがしばらく残り、振り返ってみてももうそこに女はいない。私も何度か見失いそうになった。住宅街の見分けのつかない辻に近づくたびに、女の背には惑いが宿る。歩く速度も落ちて、止まるのではないかとすら感じられて、こちらも速度を落として距離をとる。その一瞬、瞬きひとつぶんの時間に永遠が含まれたように女との距離は隔てられる。辻まで追いつくと、通りをずいぶん進んだ女の背が何もかもあらたまったように遠のいていく。辻にさしかかるたびにそれが繰り返され、しかも単に都心を目指すならまだしも規則性はなく、一度来た道を戻ることもある。しかし効能は体感できた。似通った家々と、白々しく伸びるアスファルトの道も、記憶を重ねるほどに色づいていくようだった。記憶にもない焼け野原に、立ち並ぶ家々の朽ちて崩れていく様が重なって、割れたアスファルトから剥き出しになった土が、崩れた家屋の合間を縫ってそこだけ道のように伸びる。女の足取りにはそれを辿ろうとするような感じがあった。だから電柱にぶつかりそうになることもあれば、なにもないところで急に立ち止まり、避けるように弧を描き、目つきを強張らせて冷たいアスファルトに見入ることもあった。何を見ていた、と後を追ってその場所を睨んでみると、平たくならされた道のその地面が、過去とも未来ともつかない地点からの嘆きを含んでいるように思え、知らず知らずのうちに女とおなじ動きになっている。駅に着く頃には、午後になっていた。

 山があるうちは、それでもまだ恣意を感じず、女とともに導かれているという感覚すらあった。霞んでいく山を背に住宅街を抜け電車に乗るころには、女の身体の状態が逆転し、群れに突き動かされて自動化する腕と足に反比例して、首と背ばかりが置き残されて刻々凝っていく。殊に車内で揺られているあいだ、携帯を置いてきた橋爪は周囲の画面を覗き込む動作に合わせることができず、一心に人の顔を眺めそうになったり、窓外に目をやるなどして恣意から逃れようとしたが、最後には膝のあたりに手を置いてうつむき、刻々と透過していく身体とは逆にいくつかの無遠慮な偏見の凝った視線に耐える。一部の客はその視線が長く保てずに目を逸らし、女の孤独がいつのまにか感染ったように内に目を凝らし、顔は惚けたようになる。しかししばらくするとまた習慣のなかに戻り、身体に兆したその疑いも、流されていった。そうこうするうちに女のほうは拘りがほぐれて、圧迫されながらも露わになりかける内を守ろうと決め、周囲から浮くままになっていく。

 私も女を真似、幼年期の、身体を母に預けて座る心地が根拠もないままに蘇るのに感じ耽っていた。母の顔を確かめたい想いに駆られながら、心のどこかでそれが母でないことを知っていて、振り返ることを恐れている。きっと幾つもの顔の折り重なった能面のような顔が、空白で私を迎えるだろう。そんな顔が単に優しく私を抱くはずがない。次の瞬間には突き飛ばされることも覚悟した。しかし恐怖は恐怖としてありながら、安堵が底にたなびき、その残酷な抱擁からは逃れられないと悟る。機械のような顔をした他の乗客たちにもその手が及んでいるが、見猿聞か猿言わ猿の態度も度を越して、私などよりよっぽど無我に耽っている。この作り物めいた顔たちは、たとえ今電車が大破して身体が切断されようと、表情を変えず、嘆きのひとつもあげないまま事切れるのではないか。そう思うと、あれほど重たるかった妻の憂鬱が有り難く感じられて、布団に向かって嗚咽を漏らす静かな狂奔をもう一度拝みたくなる。

 女は内にこもり、臨界点に達する間際の状態を長らく維持していたが、到着のアナウンスを耳にしてすっと顔を上げると、何食わぬ顔で腰を上げて扉のほうへ歩いた。未だ食い違う胴体と頭との釣り合いを模索するような歩みは、時折律動の乱れを挟みながらもなんとか持続する。

 通勤客が大半を占める、中途半端に繁華な駅の周辺には、人口過密の息苦しさのほかには何もなく、軒を連ねるフランチャイズの店は媚びもせずに吸い込まれていく人を処理しては、なんの感化も与えずに吐き出していた。修行のつもりだな、と緩慢にしか歩めぬ女の背を眺めた。四肢と胴体の分裂は歩むほどに過激になりかかる。いっそ放り出せ、そういいたい気持ちをこらえて眺め続けると、女のなかに奔放を抑え込む力が働いて、それが静止を誘う。しかし静止はなによりも危険なために、すぐに必然の一歩を探す態度にあらためるが、それがさらに静止を誘発し、破れかぶれになった身体は投げやりな一歩を踏み出し、その時空を揺らすような姿態に感応した男たちの視線が集まる。人びとと橋爪のあいだで同調しかけた震えは長く続かず、次の瞬間には我に帰る彼らに置き残されて、むしろ軽蔑と不気味の烙印を押され、その離反が女の背に募っていく。それでも別の何かに抱かれているということだけを支えに一歩一歩足を送るにつれ、自ら強いた疎外の極致からほのかに照らされる。内への幽閉がもたらす盲の視界にその光だけがひろがり、景色の輪郭も遠く融けて、振り返ってみるとあなたはもういませんでした。

 


 彼女から携帯にメッセージが送られたのは翌日の明け方だった。私はいつ彼女と別れたかも判然としないまま妻の隣で目覚めた。

 それから一ヶ月が経ち、仕事帰りに橋爪の部屋をおとずれると、玄関扉は開いたままで、枯れ葉が風に招かれて積もっていた。人気のない、外との隔たりの取れた居間のほうから女のにおいが流れてきた。

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