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 あの河川敷で二人が再開してから三日後。

 保紀については以前と比べると体力が落ちてしまったが、日常生活を送る分には問題のない状態にまで回復し、退院を許されることとなった。

 約一週間ぶり……保紀が病院に搬送された日から数えると、実に三十三日ぶりとなる。


「ああ〜……愛しの我が家や……」


 保紀は荷物を放り出すとソファの上にひっくり返り、天井を仰ぐ。


「おかえり、保紀」


 後を着いてきていた春斗が、そんな保紀の顔を覗き込んで微笑む。

 ただいま、と返した保紀は彼らしい明るい笑みを浮かべてみせた。

 何の不安も心配もない、晴れ渡る夏の青空のような笑顔である。


「しっかし。今回に関しては死ぬほど苦労かけた自覚あるわ……すまんかった」

「んー……。まぁ、実際しんどくはあったけど、こうして帰って来てくれたからええよ」

「お前ってほんまにええ奴やなぁ」


 しみじみ、と保紀は呟く。

 親友として接していた期間でも何度言ったか思い出せない。

 確かに、本人が納得できない事は断固として拒否する所もあるが……少なくとも保紀が接している限りでは、むしろ自分のことを受け入れすぎなのではないかと心配になるくらいだった。


「そんなことあらへんよ」

「そうかぁ?」

「好きな人にだけやで、こんな優しいの」

「……そ、そうか」


 上から覗き込まれた状態でそんな事を言われ、思わず照れ臭くなる。

 背中がむず痒くなった保紀は、すぐさま体を起こした。

 ソファに座った保紀と、後ろから背もたれにもたれ掛かっていた春斗の視線の高さは大体同じくらいになる。


「でも流石に何もなしってのは俺の気が済まんし!今日の晩飯でも奢るわ。好きなもん言ってみ!」

「何でもええの?」

「おう、寿司でも焼肉でも!……いやまぁ、俺が払えるレベルのとこで頼むな?」


 保紀は苦々し気に笑った。

 銀座の寿司などと言われたら、流石にたたらを踏んでしまうだろう。

 そもそも今二人がいるのは大阪であり、銀座まで行こうとしたら洒落にならない交通費が発生する。


「……じゃあ、保紀の作ったたこ焼きがいい」

「たこ焼き?そんなんでええの?」

「うん。」


 頷く春斗。

 そういえば、と思い出す。春斗の事が分からなくなった保紀に、彼が好きな食べものは『とある人が作ったたこ焼き』だと言っていた事を。


「そないに気に入っとったんか……」

「腕に自信あったんとちゃうの?」

「いや、それはそうなんやけどな」


 少なくとも春斗と出会うまでは何においても一番を取れたことのなかった保紀にとって、真っ先に自分と関係のある事を挙げてもらえるのは非常に嬉しい事である。

 ただ、照れるものは照れる。そんな心境だった。


「……そんなんで良ければ幾らでも作ったるよ。こないだも、一生作ってやりたかったとか言ったし。」

「なんかプロポーズみたいやな。毎日味噌汁を作ってくれ、みたいな」

「恥ずかしさの上塗りすんのやめーや」


 おそらくわざとその言葉を選んだのだろう。

 頬を赤らめながら横目で軽く睨んでくる保紀に、春斗はくつくつと小さく笑う。


「ま、でも流石に今日はもうちょい快気祝いを兼ねてっぽいのにしよ!寿司行こ寿司!」

「それ、保紀が食べたいだけちゃうの?」

「なはは、バレたか」


 病院食続きだった保紀が久しぶりに贅沢なものを食べたいと思ったのは事実だった。

 春斗は一瞬、体力が落ちている保紀に生物を食べさせて大丈夫なのだろうかと考えるが……帰って来たばかりにも関わらずいそいそと出かける準備を始めた彼に水を差す気にはなれなかった。

 退院時の説明で冴永先生からも食事についての制限はされていなかったし、と思い春斗も置いたばかりの鞄を手に取った。


 *****

 時刻は午後二十時過ぎ。

 予定通り、夕食に寿司を食べた帰り道だ。

 学生でも入りやすいリーズナブルな店舗だったが、コストパフォーマンスが良いという評判通り、新鮮なネタと愛想の良い店員に二人は大満足であった。


「いや〜!前から行ってみたかったんやけど、いい店やったな!」

「うん。話題になるんも分かるわ」

「にしても、お前ほんまに少食やな……遠慮したんとちゃうやろな?」

「してへんよ。保紀が食い過ぎなんやって」

「二〇皿くらい普通やろ!」

「いや、信じられへんわ」


 一ヶ月前と変わらない調子で。

 むしろそれよりも晴れやかに二人は談笑する。


「まぁでも、体力付けんとあかんしな。食べられへんよりええか」

「そーそー。もうちょっと調子良くなったら、またジム通わんとなぁ……」


 自分の二の腕を触りながらため息をつく保紀。

 約一ヶ月間の入院生活で痩せ細ってしまった彼の身体は、以前と比べると随分と華奢に見える。


「俺は栄養さえつけたら、そのままでもええと思うけど」

「え〜?なんで?」

「可愛いし。前よりちょっと柔らかくて抱き心地がええし」

「……お前なぁ」


 保紀は春斗にジトっとした目を向ける。


「俺やって、一応自分の理想像みたいなのがあんねん!これに関しては譲らんからな!」

「そうか……」


 腰に手を当ててずいっと顔を突き出す保紀。

 その様子に春斗は小さくため息をつく。


「な、なんなん?俺が筋トレすんのそんなに嫌?」

「いや、そういう訳じゃないんやけど……ジム通い出したら、その間は一緒に居られへんのやなって思って」


 春斗はそう言って、しゅんと肩を落としてみせた。

 保紀はそんな彼の様子にきょとんとしたあと、満面の笑みを浮かべる。


「何ー!?お前、寂しくなってるんか!?可愛いとこあるやん!」

「寂しいよ、そりゃあ。出来る事なら四六時中一緒に居りたいくらいなんやし」

「そかそか、なら春斗も一緒にジムいこーや!そしたら寂しくないやろ!」

「いや、それはええわ……」

「行かへんのかーい」


 流れるように、手の甲でツッコミを入れる保紀。恋人関係になっても、こういったノリの会話が出来る距離感を心地よく思う。


 他愛もない話をしながら、夜道を歩く。

 暦は十月に入り、少しずつ気候も秋めいて来た。道の脇に続く草むらからは、虫の声が聞こえてくる。


 ふと、通りがかったのは河川敷を見下ろす道であった。

 ほんの数日前……偶然二人が出くわした場所。

 そして、奇跡か運命の悪戯かは分からないが、消えたはずの保紀の記憶が蘇った場所でもある。


「……なんか、ここ。思い出深い場所になったな」

「そうやなぁ」


 さあさあと、水が流れる音が静かな夜の中を満たしていた。

 保紀は春斗の顔を見て、口角を上げる。


「ちょっと、水辺まで降りて話してから帰らん?」

「……?ええけど」


 春斗は首を傾げながらも先に石段を下り始めた保紀の後を追った。

 少し視線を巡らせれば、雷雨の日に病院から抜け出した保紀を見つけた高架下が目に入る。

 二人ずぶ濡れになったあの日、春斗は気を失った保紀の体を支えながら、自身の無力さを呪ったものだった。


「あん時は、見つけてくれてありがとうな」


 きっと同じ日の事を考えていたのだろう。

 隣の保紀が、月光を反射してキラキラと輝く水面に目を向けたまま呟いた。


「どういたしまして。にしても、流石に肝が冷えたわ」

「いや、ほんまごめん!……でも、行かなあかんと思ったんやろな。あの時の俺」


 結果論とはいえ、ほんの数十秒間の間であったが二人は本来の彼らのまま言葉を交わす事ができた。

 もしも冴永先生に渡された魔術書がなければ、あの日がきっと……本当の意味での、春斗と保紀の最後の会話になっていたのだろう。


「……あ、あのさ。春斗」

「ん?」

「その……前に洗いざらい話したけど。俺ずっと、辜瞳の事を知ったらお前の気持ちが変わってしまうんやないかって怖がってて……」

「うん」

「だから、あの変な世界の海で告白とかしたけど、その時もちょっと微妙な感じやったっていうか」


 水面へ、月へ、そして春斗へ。

 視線を揺らしながら、保紀はしどろもどろに言葉を続ける。


「やからさ、その……色々やり直したくて」

「はあ」

「だ、だから、改めて本心から告白しよ思って」


 どう?と照れ臭そうに春斗の方を見て尋ねる保紀。春斗は、そんな彼を真顔のままじっと見つめ返す。

 あれ?なんか思った反応と違うな、と保紀は小さく眉間に皺を寄せた。

 直後、春斗は逃すまいとするようにガッと保紀の手を掴む。想定外の行動に出られた保紀は驚き目を見開いて、彼のことを見た。


「……言っとくけど、告白やり直すために一回別れるとか絶対やらへんからな」

「は?」

「形式的にとかでも、絶対に嫌や。それだけは嫌」

「あ、え?何て?」


 駄々をこねるようなその言い方に、保紀は疑問符を飛ばす事しか出来ない。

 そして少し間を置いて考えた後、彼が何か考えを飛躍させているのだと気づく。


「待て待て待て、そんなことする気一切ないって!」

「……そうなん?」

「ほんまやって!別れるの『わ』の字も出とらんかったわ!」


 必死で弁明する保紀。

 するとようやく納得してくれたのか、ごめん、と気恥ずかしそうに呟いて、春斗は繋ぎ止めていた手を解放した。


 彼の体温が離れて、秋の夜風が肌の上に乗せられた熱を奪ってしまう。

 それが何だか急に切なく思えて、保紀は咄嗟に離れてゆく春斗の手を掴む。

 両の手のひらでそれを包むと、意を決して春斗と視線を合わせた。


「……ずっと、あなたの事が好きでした!これからも俺の恋人でいてください!」


 何の偽りもない、幼く純真な愛の言葉だった。

 もうとっくに知られているはずの気持ちなのに、改めて伝えるとなると緊張して心臓が早鐘を打つ。


 数秒……それとも数十秒、あるいは一瞬の事か。ただ、互いの瞳を見つめ合う。

 やがて春斗は、保紀の身体を強く強く抱き寄せた。


「俺もあなたの事が好きです。世界で一番大切な、愛おしい人」


 泣き出しそうな程に甘い声。

 保紀は真っ赤になった顔を見られないよう、春斗の首元に押し付けながら、ぎゅうと抱きしめ返す。

 彼の服からは、同じ洗剤を使っているはずなのに保紀自身とは違う……優しくて暖かな匂いがした。


「……なんで、俺の方から告白してるんのに負けとるんやろ」

「告白に勝ちも負けもないやろ」

「そうかもしれんけどさぁ……分かるやろ?」


 数十秒前とは一転して、いつものノリに戻る二人。しかし抱きしめあった身体は、どちらもなかなか離そうとはしない。

 保紀は悔しそうに唇を尖らせていたが、ふと密着していた彼の左胸から、平時よりも明らかに早い鼓動の音が伝わってきていることに気付く。


 普段はドキドキさせられっぱなしの保紀だ。

 何だかしてやったりな気持ちになり、機嫌良さげな笑みを浮かべた。


「なんか、今めちゃくちゃ幸せかもしれん」

「俺も。」


 どちらからともなく、顔を見合わせてくすくすと小さく笑い声を漏らす。

 そんな二人を見守るのは、夜空に浮かぶ月と輝く星々だけだ。


 保紀は少しだけ背伸びすると、そっと春斗の唇に口付けた。

 触れるだけのキス。

 それでも、込められたありったけの愛情は伝わっただろうか。


「……ずっと側におってな」


 自分の柄ではないと思いながらも、今日くらいはいいか、と保紀は甘えた声で呟いた。

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