散文詩五両編成
筑駒文藝部
散文詩五両編成
散文詩五両編成
玉姫雷花
九月九日夜
ロングシートの向かいの車窓に手をかざすと、自分の太い指が気になった。周りに誰もいないのを確認して、中指以外を畳む。世界に突きつけてやるつもりだった中指は特にぷっとりしていて、第二関節の骨が太いせいでボウリングのピンみたいだ。おまけに肌の色が黒ずんでいる気がする。剃り残した指毛の一本一本が自分から独立しているように見えて目を背ける。
ラッシュも終わり、電車は空いていた。少し遠くの塾に通っているので帰りは遅くなる。東京を西へと奔る五号車編成。とう落ちた日を追いかけるように、あるいは闇から逃げるように動く電車に、私は乗っていた。レールの隙間を通るたびガタっと小気味良い音が鳴る。それに紛れて、遠くからサイレンの音が聞こえる。警察か消防車、どちらか。私には区別がつかない。
逸らしたはずの両目はいつのまにかまた鏡映しの自分を見ていた。外が黒いから私の醜さがはっきりと感じられる。私の目はどこですか。このニキビはなんですか。のっちょりした奥二重はさっさと潰したいけれど、アイプチの練習は一ヶ月前にやめた。何回やってもできなかったから。その日溢れ出た涙は瞼の痛みと惨めさのブレンドだった。ちゃんと二重作らないとアイシャドー塗っても意味ない気がしてくる。それにもう夜だからメイク自体崩れている。メイクキープミストなんて持っていない。
自分がギロチンにかけられる画が脳裏をよぎって、呆れてTwitterに逃げた。
なんかイイカンジのこと書けないかな、と思ってとりあえず投稿画面へ。ポエミーなことを吐くのは嫌いじゃない。どうせ誰も見ていないし恥ずかしくもない。どうせ明日の朝には消すんだろうけど、今はなにか暗くてリリカルな台詞を書き殴りたい気持ちだ。
「世界の誰にも俺を形容させないための唯一絶対の個性が形容詞であるという矛盾。俺もお前も生きるにはダサすぎる」
駄目だ。この感情を言葉如きが語れるものか。「俺」がイーロンのサーバーに吸い込まれて行く。無駄な電力が消費されていく。家の最寄駅に着くアナウンスが流れる。私は俯いて外界に吐き出されていく。リュックサックの重みが両肩を痛めつける。
九月十日朝
「おはよー」
「あ」
ハンディファン片手に、玲が隣に座ってきた。朝の待合室は混んでいる。夏という名の災害から身を守るのにみんな忙しいのだ。かくいう私も家から駅までの徒歩六分ですでに汗だくだ。
玲は可愛い。私が諦めた二重も完璧に作っているし、最近髪色を変えたし、高校に入ってどんどん垢抜けていっている。対して私は? 汗でもうメイクが崩れているのではないかと不安になるが、自意識が邪魔をして手鏡(百均の)は取り出せない。大事な友達の顔すら直視できず、ただカバンを抱えて前をじっと見るのみだ。3Dモデルの「惨め」というゴシック文字が目の前に浮かんで私を嘲笑う。
「今日はどんな夢見たの」彼女がよく訊いてくる質問だ。私は素直に答える。
「オーストラリア人にミルク牛乳っていう謎商品を買わされる夢」
「頭痛が痛いかよ」付き合いが長いのでツッコミも大体わかる。「ここまでがテンプレ」と言えば「ここからが天ぷら」と返ってくるような新鮮みのない会話。私も玲もあまり好きではないので、沈黙に入る。
電車が滑り込んできたので二人で乗る。満員ではないけれど座る席もないような混み具合だ。玲の隣で吊り革に掴まる。玲のツインテールを真横に感じる。本当は彼女とは十センチくらいの身長差があるのだが、玲の厚底スニーカーはその差をガッと埋めてきていた。
電車が動き出し、抗うことのできない一日の始まりを告げるとようやく玲の横顔を見れるようになった。玲とは違う学校に通っている。知り合ったきっかけはTwitterで、たまたま家が近かったので少し前から一緒に登校している。
「ツインテールいいね、似合ってる」何の含みもない関係だがいまだに少し緊張する。
「んあ、ありがと」素っ気ない返事。彼女は愛想の良い方ではないし、口も悪い……親切なのは友達全員が認めるところだが。
車内ではほとんど全員がスマホをいじっていた。老眼鏡を持ち上げる中年サラリーマンの目の前で、派手な見た目の女がネイルと画面を衝突させていた。それに倣うわけでもないが私たちも自然とスマホを取り出す。恋人でもないのに直接話したい話題なんてそうそうないのだ。我らが行き着く先は、Twitter。
タイムラインを更新すると玲のアカウントが新しい投稿をしていた——十二秒前。「バイト代そろそろ入るから服買いに行きたい〜」ツイートするより先に先に俺に言ってくれればいいのに、と少しだけ思うが、その感情は無言の「いいね」と電車の沈黙に溶かされてすぐに曖昧になる。
「玲ってファッションセンスいいよな」スマホに目を落としたまま口に出す。「休日に会うときいつも思ってる」
「JKのファッションはいかに芋だと思われないかだから」返事になっているのかなっていないのかわからないようなことを彼女は早口で答えた。玲はいつも自分のことを芋だとか言っているがまったくそんなことはないと思う。私みたいな消しカスからみれば華の中の華、垢抜けた可愛い「人間」だ。
「てかさ、フルオロも服のセンスあるよ」玲は私のことをハンドルネームで呼ぶ。アンバランスだと思うけれどわざわざ直す必要は感じない。
「そうかな」口ではそう言うが、私はファッションにはかなり気を遣っている方だと思う。
「フルオロのとこ制服ないでしょ、だから毎日服選んで、磨かれる説はある」
話を上手くまとめてくれて、感謝。しかしファッションとかメイクとか美意識の話になると、私のコンプレックス・リミッターは嘘のように外れてしまう。今日もまた劣等感と自分の努力不足をセックスのせいにし始める。
「男の服って全然遊べないから嫌いだわ」
「あーね? きみいっつも女性服着たいって言ってるもんね」
「うん、結局なーんにもしてないけど」
「女装、じゃないんだよね」
「んあ、そういうのじゃなくてなんか、好きな服を着るって感じ、らしい」
「らしいってなんだよ」
「なんか、スタンドが」ふざけた返事で誤魔化したが、この欲求の他人事感は事実だ。一年前にメイクを始めたのも女性服を着て遊びたいからなのに、結局ド下手メンズメイクに留まっている。女の子らしくなってみたい、という初期衝動はまだ衰えずにあるはずなのに、お金がない時間がないと言い訳しているうちに胸を焦燥感と義務感だけが支配するときがある。
「憧れ?」
「うん」
玲が不意に目を見てきたのでドキッとした。電車が急停車し、私たちは慣性の法則に従って前方に投げ出されかける。強く掴んだ吊り革に自分の言い訳が滲み出ていくような気がする。同時に、一年余の願望と不行動も。
「なら今度服買いに行かない?」何気なく口を開いた玲の言葉にはっとした。
邪魔なものすべてをさっぱり意識から切り捨てるような言い方に、この電車に二人しか乗っていないような気持ちになる。彼女は私を知らない世界へと誘った。
「いいの?」突然の出来事に私はおずおずと訊き返す。
「うん、わたしも服買いたいし」
口の悪い玲だが、こんな毒気のない顔もするのだ。彼女は自分の優しさを決して認めないだろうが、玲は確実に私の背中をぽんと押してくれる——あの時もそうだった。
「じゃあ、一緒に行こう」
こうして私の女性服デビューは呆気なく決まってしまった。吊り革を掴む力が少しだけ緩む。きぃという音を立てて車輪が回り出し、私たちを新しい日へと連れていく。私たちは慣性の法則に従う。
九月十日夕
学校の最寄駅から電車に乗る。今日は部活も予定もないのでそのまま家に帰ってだらだらするつもりだ。運良く隅っこの席が空いていたので、仕切りに頭を預けて安心感を得る。
今日の時間割には面白みがなかった。どれもこれも座ってつまらない話を聞くだけの授業だった。隠れて本を読んでも飽きがくるし、ばれたら面倒だ。
プリントやノートの端っこに抽象画めいた模様を描いていたら五十分が終わる。最初は板書の邪魔にならないよう枠外に描いていたはずが次第に板書をしなくなり、模様に夢中になる。ノート一面を蔦のような、渦のような適当な絵柄が埋め尽くしていく。私のノートは大抵、このように形成される。したがって授業を聞くなんてことはほとんどない。
要するに、成績が悪い。
学校の勉強なんてさして重大ではないと思う。好きでないのならする必要はない。大人たちは将来が教養がうんぬんなどと宣うが、明日生きているかどうかも分からないのにそんな悠長でかったるい話をしている暇は私にはない。私は今したいことだけをしたい。この一瞬の直情のために過去のすべてがあり、私は常にたった今を最大化するためだけに行動したい。
将来の夢なんて訊くな、と思う。運が良ければ生きてるんじゃないですか。としか答えられない。クソガキ。
音楽でも聴こうと思っていたが眠気がやってきた。身を任せて目を閉じる。さっきまでの思想とやらは、ツイートになる前に電車の振動にかき消される。
九月十一日朝
「やっぱし109か?」玲がスマホ片手にいつもの調子で言った。
「あ、昨日の」凍りついていた願望が急に融け出したから、まだ女性服を買いに行くことに実感が湧いていない。
「んあ、安いところで頼む」彼女の親切さについ甘える。
「プチプラね、おけおけ。……親にお金もらえたりしないんか?」
「どうでしょーねー。親にはあんま言いたくない」
「勇気の問題? それは」
「というより単純にプライバシー、的な」言い方がかなり不正確だ。自身のやりたいことについて事細かに”プレゼン”しないといけないのが面倒くさくて嫌なだけだ。割にリベラルな親だから否定されることもないだろうし。
「あーね? ……どんな系の服がいいの」
「……地雷?」これは前から決めていたことだった。
「にゃるほど、得意分野で助かる」彼女の私服も地雷っぽいものが多い印象だ。
「ありがとな、色々」
「いや全然。この際地雷メイクも極めたら」
「アイプチは諦めたけどね」口に出してから後悔した。案の定、玲からは無言が返ってくる。
目の前に座っている女子大生がここ数分間ずっと手鏡を見て前髪をいじっている。自分の顔を直視できるなんて羨ましいなと思いながら吊り革を強く、強く掴む。
車窓を見ると酷い顔をした死にかけの私が薄く映っていたので、意識してその先に目を向ける。私たちが乗っているのは、二十三区西部の住民たちを回収しながら渋谷という大副都心に向かう路線だ。必然走る場所は住宅街ばかりになる。数多の一般的な人生を乗せてひたすらに、たった十数キロを往復し続ける列車の気持ちは分からない。
もう高校生だし、生活そのものを憎むほど子供ではない。実際には「普通の人生」を忌避している側面もあるけれど、それを外面に出さないだけの礼節はこの数年間で弁えたつもりだ。
玲もきっと同じような考えを持っているのだろうな、と想像がつく。だから君と話していて楽しい。恋愛関係になることはこの先ないけれど。
でも彼女とは違う世界の住人だということは横顔を見れば分かる。JKになってすっかり垢抜けた玲は眩しい。この間玲の高校の文化祭に行ったが、そのときは消え飛びそうになった。アニメの中の青春を見ているようだった。女子はみんな可愛い制服を着て、謎のカチューシャ的なものを付けて、あと頬になんかキラキラしたアクリルの宝石みたいなものを貼り付けていた。男子もかなり見た目に気を遣っていたし、私は玲のクラスのメイド喫茶だけ行って青春から逃げ出さざるを得なかった。翌日は体じゅうが痛かった。
玲の弁によると、後夜祭で公開告白をした人がいたらしい。
まあそんな学校なもので、淀んだ男子校でとぐろを巻いているだけの私とは住む世界が違う。私だってそれなりにお洒落をしているけれど、決定的に違う。どうして気が合うのかさっぱり分からないくらいだ。だから玲の可愛らしさ(JK的語彙で言うところの”ビジュの良さ”)に触れるたび、私は汚い川に住む鯉のような気分になるのだ。
「次は————」アナウンスに玲がスマホから顔を上げる。
「んじゃあ、日程とかLINEするわ、また」
「またねー気をつけて」
玲の学校の最寄は、いくつかの路線が乗り入れるちょっとしたターミナル駅だ。スーツ姿の人波に押し流されるように制服姿が消えていく。友達らしき制服姿と合流するのが目に入る。
少し空いたかのように思えた列車内はすぐに、乗ってきた客たちに塗りつぶされた。人生を、日常を、吸っては吐く生き物だ、この五両編成は。
気だるそうに吊り革や手すりにしがみついた人々の中に、私は見知った顔を見つけた。
「宮島、おはよう」近づいて声をかける。
「浅野じゃないか」宮島はいつもつけているヘッドホンを外して応答した。
「宮島にしては早いじゃん」クラス一の遅刻魔と電車でエンカウントするのは高校入学以来初めてだ。
「普通に、一限現国は遅刻できない」と、宮島。
「出席数足りる?」
「このままだと危ないから言ってんの」冗談を真に受けられても仕方がない。
列車は私たちの学校に向けて出発する。といっても私たちだけを乗せているわけではないのだから勘違いしてはいけない。
宮島は傍から見ても冴えない男子高校生だ。無造作な髪、着古したTシャツ。そして私と同じようにツイッタラー。ファッションに興味がなさそうな顔立ち。
「間に合うか、この電車」
「降りてから早歩きで、ギリ」と、私。私も目立たないだけで遅刻しがちである。朝は嫌いだ。明けなくて良い夜の方が私にとっては多い。
「走れば余裕?」
「走りたくはないなあ、その場合諦め」
「同感」ここで走るくらいなら遅刻でいいや、となってしまうから私たちは私たちなのだ。
宮島とは部活が同じわけでも席が近いわけでもない。ただ何となく、彼のするバンドの話が面白くて一緒にいる。カラオケに行っても宮島はマイナーな曲ばかり歌う……しかも相当うまい。今度はライブハウスに一緒に行こうと誘われている。こういうのをロックオタクというのだろうか。私も音楽を聴くのは好きだけれど、特定のシーンやバンドを深く掘っているわけではないから彼の話は刺激的だ。
だが彼は楽器をやっているわけではないらしいし、深夜ラジオを聴いているわけでもないらしい。他の友人たちは「意外〜」なんて適当なことを言っているが、私はそれでいいと思うしそれがいいと思う。宮島がベースやギターなんてやっていたら、想像の範疇に収まってしまうじゃないか。彼は他人の認識に閉じ込められるべきではないと思っている。彼に世界の価値判断を裏切ってほしいのだ、私は。
「単語テストの勉強した?」不意に宮島が訊いてきた。
「は?」そんなもの存在も知らない。
「古文。四限」
「なら大丈夫だ。心配ない」心配はある。そもそも単語帳を家に置いてきた気がする。学校に着いたら宮島に見せてもらおう。当日朝からの勉強で合格点が取れるかは、怪しい。
しばらくの沈黙。がたんごとんと電車と人々の揺れる音。
私は思い出したようにTwitterを開いた。六分前「通学路で手繋ぐな殺すぞ」これは玲の投稿。
三十五秒前「ギャルの悲恋 ぴれん」これは宮島の投稿。
私も何か言いたいな、と思って、昨晩思いついた短歌をLINEのkeepメモからコピペする。
「あの人になりたくて買ったモンエナの嫌な甘味が口に残った/不留緒牢」
短歌は下手くそだがたまに詠むのは楽しい。いいねは多分一個も付かないだろうが、それでもだ。
色彩のうるさい脱毛屋の広告に目を遣って、脱毛したら汗はどこから出るのだろうと考えていたら、電車が学校の最寄駅に滑り込んでいることに気がついた。島型のホーム上にパラパラと人が見える。ちょうど反対方面からの電車もやってきたところのようでうちの学校の生徒も多そうだ。宮島が腕時計を見て、「始業六分前」と呟く。
「急ごう」
ホームに降り立つと、もう九月だと言うのにジリジリと油蝉が鳴いていた。聴くだけで暑くなるような声に追い立てられるように早足で学校へと向かう。
汚い川に住む鯉の気持ちになる。
(続く)
散文詩五両編成 筑駒文藝部 @tk_bungei
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