春光乍泄

青切 吉十

Happy Together

 名のある企業で一所懸命働いた結果、私は出世コースに乗り、海外支社に転勤となった。行き先はアルゼンチンだった。

 その時、付き合っていた男にその話をすると、会社を辞めて家に入ってほしいと言われた。タワマンで優雅なマダム暮らしをするのもわるくなかったが、私はプロポーズを断り、その男を捨てた。わるい男じゃなかったので残念だったが、仕方がなかった。

 出世こそ私の本懐であった。


 アメリカ経由でアルゼンチンに行く飛行機に乗り込んだ私は、30時間以上かかる旅程に、出発前からうんざりしていた。どうも私は飛行機というものが苦手で、なぜか、新幹線のように、移動中に仕事を片付ける気にはならなかった。

 窓際の席で、何もする気にならない私が雲を見下ろしながら、音楽を聴いていると、となりの若い男が声をかけてきた。

「ローリングストーンズのミス・ユーですね」

「あら、音漏れしていたかしら。ごめんなさい。ボリュームを下げるわ」

「いいえ。ぼくの耳がよすぎるのがわるいんです。お気になさらないでください」

 整った顔立ちの男がほほ笑んだ。わるくはないが、苦労を知らない顔だなと私は瞬時に品定めをした。私とはちがう世界に生きる男だ。

 私はイヤホンのダイヤルを操作して、音を下げた。

「そういえば、ミック・ジャガーって、死んだんでしたっけ。いやちがったな。死んだのはキース・リチャーズか」

 そのように男が言って来たので、「2021年に亡くなったのは、チャーリー・ワッツよ。ドラムを叩いていた人」と答えてやった。すると、男が苦笑しつつ、「すみません。ぼくのわるいくせなんです。すぐに知ったかぶりをしてしまう」と言った。何と返していいのかよくわからなかったので、「気にすることはないわ、たぶん」と私は答えた。


 話が途切れたので、私は再度、片肘をついて、外の景色を眺めた。イヤホンからはサティスファクションが流れていた。ミック・ジャガーは、Mick Jagger。動物のジャガーはたしか、Jaguarだったわね。

「ジャガーって、アルゼンチンにもいるのかしら」

 私が暇そうにしている男に声をかけたところ、「ミック・ジャガー?」と答えが返ってきたので、私は首をすこし振り、「動物のジャガー」と応じた。

 私は男の回答に期待はしていなかったが、それに反して、男はすらすらと口を開いた。

「たしか、北部にはいるそうですよ。アルゼンチンも南は寒いですからね。知ってますか。ジャガーって、亀を食べるんですよ。あんな固いもの、よく食べられるな」

 私は視線を男から外の景色に移しつつ、「そうなの? 私も好きよ、スッポンは」と口にした。

「生で食べるのはなかなかたいへんですよ。ハゲワシなんかは、捕まえたカメを高いところから岩の上に落として、甲羅を割って食べるらしいですけどね。ジャガーはどうするのかな?」

 男が独り言のように言った。私は「さあ、ハゲワシに手伝ってもらうんじゃないの?」と返した。


 私の返答に男は微笑を浮かべ、話題を変えた。

「アルゼンチンにはビジネスで?」

 男の問いに、私は振り返りつつ、「バカンスには見えない?」と答えた。すると男は首を振り、「アルゼンチンのお肉を楽しみにしている風には見えませんね。バカンスにしては、なんか、ギラギラしてますよ」と口にした。私がこの日はじめての笑みを浮かべて、「勘が鋭いのね」と応じると、「彼女には鈍いと言われていましたけどね」と男が答えた。

「過去形ということは……、そういうことなの?」

「ええ、ぼくのことが嫌いで、二度と見たくないそうです。あまりにも嫌いだから、日本からいちばん遠い、アルゼンチンに行ってしまいました」

「……北朝鮮じゃなくてよかったわね。それで、地球の裏側まで探しに?」

 男は黙ってうなづいた。

「なんのために?」

「ぼくといて、幸せだったのかを聞きたいんです」

「電話じゃだめなのかしら?」

「電話ではだめです。こういう大事なことは、視線を交えながら聞かないと」

「ふーん。そうかもね。でも、あなた、暇な人ね。自由業の方?」

 私がそのようにたずねると、男は、作家と肩書きされた名刺を渡して来た。

「あなたみたいな人からすれば、やくざな仕事に見えるかもしれませんね」

 男の問いかけに、私は自分の名刺を渡しながら、「そうね。ご飯が食べていけていないのならね」と言葉を返した。対して、男は「女の子のお尻を追いかけて、世界の裏側に行けるぐらいの余裕はあります」と言った。

 「今回の旅のことも小説にするの?」と私が口にすると、男は微笑を浮かべながら、「おそらく」とうなづいた。

 私が「美人に書いてよ」と釘を刺すと、男は「了解しました」と苦笑した。

 ふと思いついたように、「ご結婚はされていないようですが、恋人は?」と男が言ったので、私は「いまはいないわ。捨てたばかり。暇つぶしに話を聞きたい?」と口にした。

 男は「ぜひ」と言いながら、キャビンアテンダントを呼んだ。

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春光乍泄 青切 吉十 @aogiri

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