冥婚契約 ~幽霊病棟の花嫁~

いみゅー

1章『幽霊病棟の花嫁』

第1話

夜の帳が降り、病室は静寂に沈んでいる。

静かに息を吐きながら、ふと、手を伸ばしてみる。

天井に向けて弱々しく空を掻いた手が力尽きてベッドに落下した。

触れられるものは冷たいシーツのみ。


あの人の温もりは、もうどこにもない。



「……」


ああ違う。気配を感じる。あの人の気配だ。

空気がわずかに震えるような感覚。背筋を撫でる冷たさ。

命を失おうとも、”彼女”は今もここに居る。私を見つめている。

触れられなくても、見えなくても。


「……ぁ」


そう、それでいいと思っていた。

例え互いに触れ合う事がなくても、あなたと結ばれるのであれば、それで。


でも、私は──。


鋭い硝子の様な決意が冷えた空気の中でぐにゃぐにゃとした何かに変わっていく。

知らず知らずのうちに彼女を求めてしまった自分の弱さに、罪悪感のような感情が胸を締め付ける。


「…………ごめん、なさい」


いつの間にか頬を流れていた涙を指で掬い、謝罪の言葉が口に出る。

こんなにも弱い女だったのだろうか。私は。


「ごめんなさい」


何度も、何度も口をつく言葉に反応する者はいない。

部屋の隅に佇む暗闇だけが彼女のその姿を見つめていた。


ああ、そうだ。

死が二人を別つとも。

別たれぬ想いが二人を繋ぎ、結び付ける。


「…………ごめんなさい」


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


否応なく。結び付けて、しまう。


***


「大変な事になってしまった……」


内心の困惑が思わず口について出てしまった。

星空の光が窓から差し込む夜闇の中、常夜灯がぼんやりとした光を灯す室内に、私の声が吸い込まれる。

先程まで着ていた白衣もシャツも、無造作に床下に放り投げられている。


ああ、そうだ。私の身を覆うものは何もなく、ただ生まれたままの裸身を夜の寒気に晒す。

鏡を見れば、身体を小さく縮こませながら情けない顔を浮かべる女の姿がそこに映る事だろう。

心の中に忍び寄る不安から、思わず胸元に置いた右手をぎゅっと握りしめる。


「いやだというのなら、止めるかい?」


すぐ近くから声が返ってきた。

深く穏やかで包み込むように優しいメゾソプラノだ。

この声で彼女に囁かれてしまったのなら、どんなに怪しい話でも思わず首を縦に振って同意を示してしまいそうになるだろう。

自分の声に自信の無い私としては、まったく羨ましい限りだ。


「止めませんっ」

「そうか」


声のした方を振り向く。薄闇の中で彼女の姿が浮かび上がる。

……白い。白い裸体だ。

精巧に出来た雪花石膏アラバスターの彫刻の様に繊細で滑らかな手足が見える。

強く握りしめてしまえば今にも折れてしまいそうな儚い造形だ。危うさすら感じさせる肢体(ちんちくりんな私の体型とは全然違う)に息が詰まる。


「それではもう少し近づいてもいいのかな?」


ずい、と彼女の顔が近づいて来た。

ぎゃっ、と小さな悲鳴を上げ、瞬間的に視線を逸らしてしまう。

それを誤魔化すように、周囲の様子を眺める事とした。


オレンジ色の淡い光に照らされた室内。

光を取り入れる為の大きな窓に、人一人が住むにはやや小さめの空間。リノリウムの床。

部屋の中にあるいくつかの特徴はこの部屋が本来は病室であった事を示している。


病室……?ああ、病室だ。

ここは私が勤めている蓮見総合病院。現在は使われていない旧病棟のその一室なのだ。

とはいえ、この病棟に入院している患者はいない。目の前の彼女を除いては。


窓の外に広がるのは、誰もいない病棟の中庭。

草は伸び放題で、かつてここにいた患者たちの痕跡だけが静かに残っている。

それでも、まるで「何か」がまだここに留まっているかのような静寂が支配していた。


本来なら死の匂いすら漂いそうな場所なのに──この部屋だけは、まるで誰かが暮らしているかのように温かい。

……というより、実際に「暮らしている」のだ。

彼女が。「幽霊病棟の花嫁」が。


元々は無機質なはずの病室は彼女の為に大きく模様替えが施されているようだ。

真っ白だった壁は柔らかなベージュの壁紙に替えられており、ベッドサイドには丈夫な木製のサイドテーブルが置かれている。

カーペットが敷かれた床には無造作に最新鋭のゲーム機や遊び道具が積み重なっていて、足の踏み場を見つけるのに一苦労だ。

そして、真ん中にはどん!とセミダブルサイズのベッドが鎮座していて、この部屋の空間を圧迫している。

……ああ、私が今腰掛けているこのベッドの事だ。

人間一人が寝るだけにしてはかなり大き過ぎるが、二人ではやや手狭になる……そんなサイズ感だ。


そのおかげで……


(か、顔が近い……)


「……んー、あー、まあ何を考えているのかはわかるよ?」


「うん、そうだね。緊張したままでというのもなんだし。

 アイスブレイクの為にもちょっとしたお話をしていこうか」


「さあ、私は君の身の上話を聞いてみたいな」


「そうでないと……」


つつ、と彼女の指先が私の胸を縦になぞる。

ぞわぞわとした感触とあまりの冷たさに、うひゃあっ!と恥ずかしい声が上がった。


「こうして」

「少し強引な手で解してしまう事になるけど」

「いいかな?」


……ズルい。なんてズルい人なんだ。

よく考えたら最初に出会った時から彼女はこういう人だった。

ズルくて、余裕ぶったニヤニヤした笑みで私の事を馬鹿にする、いけ好かない人。


「否定しないということは、もう少し近づいてもいいのかな?」


「!?」


宣言通りに彼女の顔がゆっくりと近づく。

体温を感じない。冷たい吐息が私の頬をかすめる。


「あ、あの……」


「ふふ、怖がることはないよ。私はただ……」


彼女の指が胸から下、そっと撫でるように滑り落ち、下腹部の隙間に入り込む。


「……確かめたくなるだけ」


こ、こいつ……。

余裕たっぷりの笑みが癪に障る。

こっちは何もわからずに、ただ翻弄されるだけ?冗談じゃない。

あまりに傍若無人な態度に私の中でめらめらと対抗心が湧いてきた。


「そんなに話がしたいと言うのなら、ここは一つ思い出話を語ってあげますよ」


流れを変える為に私は精一杯に悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「ええ。私があなたと出会った頃の思い出話を」


そう、彼女の挑発を受ける形で、私は話を始めた。


彼女……白露しらつゆ ゆいと初めて会った時のことを。

ここで彼女の動揺を引き出してイニシアチブを握ってやる!と内心で息を巻きながら、口を開く。


あれは確かつい先月の話、私がこの病院に研修医として入職した日の事……。


***


──4月。過酷な寒さが身を潜め、穏やかな日差しが地上を照らす芽生えの季節。

そして同時にこの時期は人々にとって新しい環境が始まる季節でもある。


長い試験勉強を終えて晴れて医師国家試験に合格し、医師としての一歩を踏み出した私にとってもそれは同じであった。


「ようやく……だね」


私の名前は水枝谷みえたに 桃花ももか。研修医1年目の24歳だ。

これから2年間の研修を開始する蓮見総合病院を目の前に、決意を込めて見上げながら呟いた。


蓮見総合病院は地方都市に位置する中規模の総合病院だ。

特に小児科に力を入れており、地域の子どもたちの健康を支える重要な医療機関となっている。

歴史は古く、増築を重ねながら今の形に至ったため、新棟と旧棟が混在する独特の構造 をしている。


医学部を卒業した研修医は最初の2年間を研修指定病院で仕事を行いながら臨床医療を学んでいく。

同期の研修医たちの多くは大学に残り、大学病院で研修を開始した。

それは大学病院では教員の人数も多く、臨床医療を勉強する上でスタンダードな学びを得る事が出来るからだ。


対して学外の市中病院で研修を開始する利点としては、臨床経験の豊富さにある。

蓮見総合病院の小児医療はこの地域では随一の規模を誇っており、一般的な症例から特殊症例まで幅広い領域を学ぶ事が出来る。

将来小児医療の分野に進みたい私にとっても、この病院で研修をする事は多くのメリットがあるだろう。


……もっとも、それだけではない、とても個人的な理由もあると言えばあるのだが。


「ああ、よく来たね」


午前中に病院についての軽いオリエンテーションを終えて、病棟にやって来た私を指導医の世永先生が出迎えてくれた。

白髪交じりの癖っ毛に、緩やかに皺が刻まれた顔。

いかにもベテランという風格を持つ彼は小児科を支える中心人物の一人だ。

患者さんにも、同僚にも、後輩医師にも優しく、丁寧でわかりやすい口調で話しかけてくれるその人柄から、ついたあだ名は菩薩の世永。

彼はいつものように穏やかな表情を浮かべ、困ったように頬を掻きながら口を開く。


「君が研修先としてうちの病院を選んでくれたと知った時は少し驚いたよ」

「色々と大変な事もあったし……」


「ははは……確かに学生実習で回った時は色々とありましたね。

 でも心機一転!立派な小児科医になれるように頑張りますよ、私は!」


「……うん。君が元気を取り戻してくれた事は嬉しいけど無理はしないでね?

 困った事があったらいつでも言ってよ。出来るだけ力になるからさ

 ところで、この病院。増築を繰り返したせいで迷路みたいにわかりにくい構造になってるけどさ。道に迷ったりしなかった?」


「ああ、それなら大丈夫で……」


一息に答えを吐き出そうとして、ふと眉を寄せて言葉を呑み込む。


「あ……そういえば」


「旧D棟についてなのですが……」


私の問いかけに、世永先生はくいっと顔を上げる。


「ああ、幽霊病棟の事だね」


──幽霊病棟。

80年近くの歴史を持つ蓮見総合病院には、職員・近隣住民からそう呼ばれる棟が存在する。

幾度となく増改築を繰り返し、ごちゃごちゃに入り組んだ敷地内に存在する人的空白地帯。

それが旧D棟、通称”幽霊病棟”だ。


「ええ、その旧D棟について」


幽霊病棟という呼び方はあまり好きにはなれなかった。


「相変わらず、取り壊されないままなんですね

 あ、いえ。解体にも予算がかかるというのは理解しているのですが」


「……ああ」


私の疑問に世永先生は珍しく目を伏せて、口澱んだ。

浮かび上がったのは一瞬の迷い。やがて彼の口がゆっくりと開く。


「患者さんがまだ居るのに、取り壊すわけにはいかないよ」


「えっ?」


まさか、と声が出た。

20年近く前に現在の本棟を増築して以降、この病院では旧病棟の解体を順次進めてきた。

その中で最後まで残っているのが旧D棟であり、入院患者はおろか、職員の出入りすらない本当の廃墟であったはずだ。


「ああ、そうか。君はまだ知らなかったね」

「でも気にする必要はないよ。彼女の診察をするのは院長先生だけだからね。」

「それよりも……」


と、世永先生は幽霊病棟の話もそこそこに別の話題に移る。

私はというと今の話を聞いて、なんとなくに窓の外の様子を眺めて……


「……?」


病院の中庭。入院患者さんたちの憩いの場にふと白い影が見えた。

丈の長いワンピースは風に揺れて、足元からふわりと膨らんだシルエットを作り出す。

対して上半身はすらりと細くしなやかで、草原に浮かぶ白百合の茎の様な印象を受ける。


それは病人とは思えない程の存在感があり、生者とは思えない程に儚げな……白い、女であった。


ああ、一言で彼女を表すのならば。


”花嫁”のように美しい人だ、と私は思った。

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