セラタルゲス

夏虫

本文

彼女は変わった人間である。

なんの事はない。変わっていると言っても悪気があってやっているのではないし、それで他の誰かが困っているわけでもない。困るのは彼女と私だけである。だから何の問題もないはずである。果たして本当にそうだろうか?



彼女は大学の2回生である。勉強熱心で成績は優秀。周囲からの評判も良い。バイタルは常に緑色セーフカラー。極めて健康的な暮らしをしている。友人は多く、時たま自室でパーティーを開いたり、あるいは誰かに誘われたりもする。学校の行事があれば率先して名乗りを上げる。一見非の打ち所がない人間に思えるが、しかし彼女は周囲の人々には気づかれていない大きな問題を複数抱えていた。

2週間前の話をしよう。私が平日とある骨董品店に同伴した時、彼女は高価な虎の頭蓋骨を前に目を輝かせていた。欠けも傷も染みもない、見事な漂白の処理を施された代物であった。既に絶滅してしまった動物の、数少ない現存品であった。買いたいと言うだろうと思っていたら、案の定彼女はそれを欲しいと言った。こうした出来事は今日に始まった事ではない。自室にはよく分からない哺乳類の剥製や、見事な色彩の蝶の標本や、古代の爬虫類の歯や、古ぼけた懐中時計といった数々の品が飾られている。コレクションを増やすのは構わないが、彼女は回り回ったツケを支払うために食費や光熱費を削る。無論私は反対した。が、彼女は私の忠告をこともあろうか無視した。虎の頭蓋骨は今でも部屋に飾られている。早く起きてしまった休日、よくその頭蓋骨を眺めている。私がその頭蓋骨を買った日の話をすると、彼女は、えへへ、と語る。えへへで済む問題ではない。

去年の話をしよう。ある梅雨の日に私は自室で彼女の帰りを待っていた。雨に濡れるのを嫌った私は、水族館へ行くのだという彼女の申し出を断った。帰ってきた彼女は見慣れないものを抱えていた。アオダイショウであった。なぜそれを抱えているのかと私が聞くと道端で凍えていたのだという。そうして、「へびきちは私が買うの!」と答えた。何が「へびきちは私が買うの!」であるか。私は猛烈に反対した。世話はできるのか。既に飼っている動物はどうするのか。責任は持てるのか。彼女は頑なであった。今でもへびきちは彼女の自室で幸せな暮らしを送っている。


かくしてそんな変わった行動ばかり好む彼女では、しかし周りから好かれる類の人間であった。いつも何も考えずポヤポヤしているように見えて友人が髪の毛を1ミリ短くした事に気がついたり、教授が書いた論文の矛盾点を見つけ出してしまったりと洞察力が高い。記憶力も高いという噂である。授業で学んだ内容は大抵覚えているし、自室で積み重ねられている英字の本もだいたい暗記している。私生活はといえば大体役に立たない骨董品に埋もれているばかりだが、そういうところが浮き世離れした生活を送っているのだと囁かれたりもするし、読書を好むのも、それはそれで勉強熱心だと思われたりもする。それ故か、彼女は博識な学生でありながら己の優秀さを誇ることのない裏表なく人当たりのよい人間だと周囲から認識されている。これは大変な問題であった。



周囲に対して優しくしていると変な輩がやってくる場合もある(似た者同士という言葉はここでは控える)が、彼女自身の性質が助けてくれる事もあった。ある日彼女がとある男を連れてきた時の話をしよう。

学校の図書館で知り合ったといい、彼女自身の人当たりの良さと趣味のいくつかが合うことからすぐに気が合ったという。好青年だったが、概ね下心があって近づいたのであろう。彼女はその男の邪な心に気づいていないと見えたが、私や、飼っていたペットはそうではなかった。

彼女がお茶を持ってくるといって台所へ行った後、男は彼女のコレクションをしげしげと見つめていた。自室を小さな博物館として展示できるほどの品数である。趣味が合う、と自称する男もまたそうしたコレクションを気に入った。けれど、男はそのコレクションに触ろうとした。

途端、部屋を徘徊していたガラパゴスゾウガメが噛みついた。男は嚙みついたカメを振り払おうと躍起になったが、それが彼の不運だった。ガラパゴスゾウガメが口を離した拍子に男は体勢を崩して小指を棚の角にぶつけてしまった。脚を押さえて蹲った彼の元へ、立てかけられていた鹿の剥製が遅れて落ちてくる。そうして、剥製と熱い接吻を交わす羽目となった。以来その男は自室に来ていない。



夏の暑さが残る秋の休日に、私と彼女は久しぶりに2人……厳密には1人と1体……で外出をした。すなわち生物学的に純粋な人てある彼女1人と、旧アメリカ合衆国のデトロイトで製造された私の1体である。

首都をぐるりと取り囲む環状線の高架橋を辿っていけば、次第に大きなランドマークを携えた公共交通機関が見えてくる。地下へ続いていく階段を降り、ダンジョンのように入り組んだ都市構造の中へ入り込む。際限なく機械が拡張し、増築し、接続した構造はメガストラクチャーのようである。無料で利用できる列車に乗り込んで、私と彼女は遠い街まで行った。

ゴーストタウンみたいだよね、と彼女は言う。荒れ果ててこそいないが、寂れている。休日の昼間に歩いていて、ここに来るまで誰ともすれ違っていない。この列車にも、誰も乗り込んでいない。ここ数十年の間にこの国の人口は大きく落ち込んでしまった。この国だけではない。度重なる戦争と、時代の流れ、あるいは科学技術の普遍化――によって人類という種そのものの進化が停滞し始めていた。人が減れば技術の進歩も遅れる。技術の進歩が遅れれば、人は自らの脳の代わりに考え、選択し、決定する何かを求める。やがて人類は、人類としての役目そのものを機械に委託し始める。最初に仕事を委託し、創作を委託し、終いには人間らしささえもーー機械に委託するようになった。そうすれば、いよいよもって人は人である理由がなくなる。人口は減る。人口が減っても機械が代わってくれるなら、そこに対策を打つ必要性は薄れる。人類は老いてしまった。自ら考える事すら覚束なくなったのだ。かつて世界一の人口密度を誇ったとされる首都もこの有様だ。この国以外も似た様子だろう。社会インフラは整備されているにもかかわらず、肝心の使う人がいない。

彼女は窓の外を見つめている。そこには青い空も古き良き田園風景もない。コンクリートの外壁と等間隔で設置されたライトがある。何が楽しいのかわからないが、私も右に習ってその窓を見つめた。

昔の人々は、こういう何気ない行為に楽しみを見いだしていた。もっとも合理化された今の社会では、そういったものは忘れられてしまった。


列車が十三番目のホームに着いて重い扉が開く。私と彼女はそこで降りた。

街の中心地からは遠く離れており、メガストラクチャーの面影もここにはない。地上に出ると湿気を含んだ冷たい風が吹いていた。雨の予感を感じさせる、季節外れの寒さであった。といって、雨は降っておらず空が陰っているくらいのものだ。そこはどうやら奥多摩という場所らしく、豊かな自然を残しており趣がある。

彼女は身震いして、薄手でやってきたのを後悔していた。それでもこの後に向かう場所を考えるとすぐにその寒さも忘れてしまったようで、先導してさっさと行ってしまう。巨大な橋を渡り、山に沿って舗装された道路を歩いた。山から見渡せる湖の向こう岸では、石灰岩を加工する工場が白い煙をあげていた。

第二展示場と書かれた倉庫を横切った(何を展示していたのだろう?)後の道の終着点には、コンクリートの建物が鎮座している。幾何学的ながらもダイナミックな印象を持たせる建築の様式は、今は亡きコンクリート打ちっ放し建築の巨匠の思想を組んでいるように見受けられる。もっとも、デザイン的な観点からすればそれより一段劣る。

入口の横には金属板が張り付けられており、「奥多摩博物館」とエングレービングされている。西暦2036年に設立された古い資料館のようだった。

「ここ、今年中に閉館されるんだよ」

今年が終わるまで2カ月も残っていない。

「なぜ」

「文化を伝える人がいないから」

館内は静まり返っており、冷え冷えとした空気が流れている。案内板には色褪せたポスターが貼られていた。20年前のイベントの告知であった。エントランスには一人の老人が立っている。

「こんにちは。館長さん」

「やあ、久しぶりだね。お嬢ちゃん」

禿頭を擦る館長は、彼女と知り合いのように見えた。

「メッセージはな、読んだ。廃棄予定のものはあっちに積んである。欲しい物があれば好きなだけ取っていきな」

「ありがとうございます。こんな申し出を受け入れてくれるなんて」

「なに、どうせ廃棄するにも手続きが必要なものばかりだ。それに、大切にしてくれる人がいるってだけでも俺ぁ嬉しいさ」


数回、言葉を交わして彼女はてくてくと館内を歩いてく。

閉じられた扉の手前に大量の物品が転がっていた。一昔前のコレクターにとっては垂涎ものの貴重品も一緒に埋もれているが、果たしてタダでも引き取ろうとする者は現代にはいない。彼女を除いて。

全て持ち帰ろうという彼女の提案を無視して、今日は一旦持ち帰れるだけのものだけにしてはどうかと言う。彼女は積み上がった山を選別する。セラタルゲスや、ベッコウトンボの標本や、古い画家の絵が残った。館長にお礼をして、何か紙袋を渡す。きっと、何かお礼の品だろう。

彼女と私は再び来た道を戻った。扉を出る前に、彼女は振り返って再び館長の方を見た。

「つかのことをお聞きしますが、館長さんはここが閉まった後どうするつもりですか?

「どうするつもりもない。後生をゆっくり暮らすさ。けれど、もう誰も儂を顧みないのかもしれんな」



外は雨が降っていた。

彼女は傘を持ってきていない。つまるところ、お手上げだった。

「天気予報は伝えたはずだ」

「外れると思ったんだけどねぇー?」

彼女は、丸太を切り出して作ったような椅子に座って雨が止むのを待つ。

湿気に混じる草木の匂いや、木の葉から滴る雨や、肌寒さを感じるような温度が、長い季節LONG SEASONの終わりを告げる。半年続いた夏がようやく終わるのだ。

「あの男の子、いつ帰ってくるのかな」

「誰の事だ」

「あの人のことだよ。一度見たでしょ?」

「理解した」

「あの男の子はねー、本当はとってもいい子なんだよ。」

「まさか」

「欲しかった本がどうしても手に入らなかった時に探してくれたし、文化祭の日には命を張った大道芸だって……いつも見ていて危なっかしいけど、きっと悪い人じゃない。それで……それでね、しばらく帰省していたみたいだけど、また東京に帰ってくるんだって。」



嘘が蔓延って崩壊した情報社会。いくらでも代わりがいて、本当は自分がここに立っている必要さえない、人すらも一個単位として数えられる大量消費社会。そんなくだらない世界でさえも無くなろうとしている。そんな中で、彼女は確かに本物を見つけたのだろうか? 私には分からなかった。


明日は休みで、ここで暇をつぶすだけの時間は十分に残っていた。雨が止むまで他愛のない話をした。




2025年6月13日に名古屋のJRに立ち寄って様々な趣味の品を見ていたところお話を思いついて執筆したもの。

鮮やかな虫の標本や化石が展示されている中で、ショーケースのガラスの向こうに飾られているセラタルゲスが目に留まったのを覚えている。もっとも値段が高く買えなかったため(正確な値段は覚えていないが13~15万の間だったと思う)自室にその化石は置かれていない。

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セラタルゲス 夏虫 @neromea

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