UNDER THE BLUE

不破純

第1話




「今私たちは鏡をとおして、謎のようにものを見ている」

第1コリントス・第13章第12節




 私は生後一〇ヶ月のときに、まだ言葉も覚える前から両親と海を渡りイギリスで育った。小学校四年生の夏休みに帰国して。すべての友達から引き裂かれ、新しい環境のためか塞ぎ込みがちになった。日本語が大嫌いだった。何より一度も存在を疑ったこともなかった神様が日本には居なかった。ニーチェの名前すら知らなかったが、神は死んだのだ。不在の神に祈ることに疲れた私は支えを失い、無口で果てしなく暗い子供になっていた。イギリスに住んでいた頃は、現地の私立学校でトップの成績を収める優等生で、英語は飛び級扱いになり図書館で好きな本を選び、教師と一対一で購読していた。ラテン語の基礎も学んでいた。日本に帰る直前にはグリム童話を読んでいたのに、日本語では「桃太郎」を読むことすらままならなかった。日本に帰国してみたら私は落第生に転落していた。とにかく、日本の小学校の二年半は、いろんな意味で暗黒時代だった。

そのままにしておくつもりはなかった。まずは日本語から手を付けた。グリム童話の英語訳と日本語訳を並べて、繰り返し読んだ。日本語訳を暗誦するくらい何度も何度も。同様にしてナルニア国物語も読んだ。国語のドリルを一年生のものから順番に何度も解いた。小学校六年生が終わる頃には、日本語を読む力はそれなりのものになり、最後の期末テストのときついに国語で満点を叩きだした。


中学に上がってすぐは、授業の合間いつも一人で本を読んでいた。何を読んでいるのか周囲に知られたくなかったので英語の本を読んでいた。クラスの男子は放課になるとじゃれ合っていたが関わりたくなかった。クラスで浮いていたが、幸いにして露骨に虐められることはなかった。クラスに小学生の頃に本を通して仲良くなった女子がいて、彼女の姉が三年生でスクールカーストの上位にいたからだ。美幸というその女の子のおかげで、私は孤立せずに済んだ。通学路も一緒だったので二人で登下校した。美幸の友達が一緒になることもあった。

給食は美幸が中心の女子のグループと一緒に食べた。ガールズトークに交じって、情報収集に余念がなかったが、寡黙キャラで通した。男子の嫉妬と羨望すなわちルサンチマンを一身に浴びるのではないかと危惧したが、杞憂だった。むしろ私に恋の相談を持ち掛けてくる男子が続出した。女のことは不破に訊けということになった。仲介を頼まれることもあった。男子と会話する機会も少しは増えた。男の子がどのように女の子に恋するのかを学んでいった。美幸に対する恋愛感情はなかった。美幸を愛していたが恋はしていなかった。


その中学では部活とは別に、授業としてのクラブ活動への参加が義務だった。美幸に誘われて読書クラブに入った。美幸は新体操部に入った。男子新体操部も文芸部もなかったので部活は陸上部にした。走るのは好きだった。どのみち肚の底に蜷局を巻く闇を祓うために毎晩、小学生の頃から何時間も走っていた。中学に上がるまでは四歳年上の姉が自転車に乗ってロードワークに付き合ってくれた。姉は不良中学生で、日本に帰国してからいつしか父親とは口を利かなくなっていたが、私には優しいお姉ちゃんだった。姉は明るい不良だった。いつも冗談を飛ばしては、自分で自分の冗談にウケ爆笑していた。姉の乾いた笑い声が好きだった。当時は意識していなかったが、思春期に異郷に放り出された姉の方が私よりも精神のダメージが大きいはずだった。だが私とは異なりへこたれる様子は微塵もなかった。弟の前では気丈に振る舞っていたのかもしれない。現に姉は不良になっていたが、それは厳格な父への憎しみからだと私は思う。私も父が嫌いだった。常に男らしくない、なよなよするなと叱られていたから。もっとも父は仕事人間で家を留守にすることが多く、ほとんど顔を合わすこともないのが救いだった。

立てなくなるまで走り、人目を気にせず倒れ込んだ。過呼吸に陥り眼球が瞼の裏で回転するときだけ、陰鬱な気分から自由になれた。ロードワークが終わると、夜の公園のベンチに座って、姉の小型CDラジカセで尾崎豊のテープを聴きながら、その日の出来事を語り合った。私は「米軍キャンプ」という歌が好きだった。姉は『BIRTH』という二枚組の新作アルバムに夢中だったが、私には難解すぎた。姉は、もう大人なのだと思った。公園で尾崎の曲を流していると、夜遊びをする連中が寄ってきたが、大概姉の知り合いで絡まれることもなかった。姉はもらい煙草をして優雅に煙をくゆらせていた。

姉は尾崎豊の信者で、部屋中の壁に尊師のポスターを貼っていた。ファンクラブに入り、試験期間中にBIRTHツアーのレインボーホール公演にも参戦した。帰宅した姉と父は怒鳴り合いの果てに取っ組み合いになった。私の一五歳の誕生日だったので日付まで覚えている。姉はプレゼントのツアーTシャツを私に投げて寄越してから、部屋に姉が自ら取り付けた鍵をかけ、立て籠もると「永遠の胸」を絶唱する歌声が近所中に鳴り響いた。私は自分の部屋で薄い壁越しに姉の歌を聞いていた。歌声が止んだ。「何で生きているだけでこんなに苦しいの?」と言う姉の声がかろうじて聞こえた。私は何のために生まれてきたのか、と初めて思った。


或る日、下校中のこと会話の流れで、美幸に純には好きな子がいるのか訊かれた。美幸だけには嘘を吐きたくなかった。「いるよ、茜さん」と小声で即答した。顔が燃えるように熱くなり、みるみる赤面するのが分かった。美幸は少し不機嫌になったようだったが「そんな子いた?上級生?」と問いただしてきた。「三年生の。陸上部のキャプテンだよ」。茜は女に多い名前だが、茜さんはれっきとした男であり、私の初恋の相手だった。「そういうことね」と言った美幸は途端に機嫌が直ったようだった。そのままの勢いで私は本当の秘密を打ち明けた。男が好きだった。だが私は同性愛者ではないと思っていた。私は共犯者を得た。私が秘密を告白したことで私たちは深い絆で結ばれた。その絆は大学生になった今でも健在だ。


思春期になると男というジェンダーへの捻じれた違和も手伝ってどんどん心の闇は濃くなっていき、しまいには眠れなくなってしまった。一晩の徹夜は楽しい。二晩は疲労困憊だ。それ以上眠れずにいると真の恐怖が始まる。現実が悪夢になった。百鬼夜行。世界中が自分を憎んでいるように思えた。誰もが私を殺そうと狙っていると本気で思った。身体が千切れそうな感じがして所々麻痺していた。私を心配してくれる美幸の視線と言葉にさえ裏があると思い込んだ。五日目、朝のホームルーム中に絶叫して暴れた。担任と隣の教室から駆け付けた教師に取り押さえられた。教室は騒然としていた。

救急車が呼ばれ、暴れる私は担架に乗せられた。救急隊員が無線で何かの指示を受け、スポイトみたいなもので私の舌に苦い液体を垂らした。数分して私は暴れるのをやめた。頭が真っ白になり、私は狂ってしまうのではないかという恐怖に怯えた。市民病院の緊急救命室に直行だった。外傷もないのに服を脱がされた。気づかないうちに失禁していたからだ。体育のない日だったのか、私はフリル付きのショーツを穿いていた。私が代金を渡し美幸が買ってきてくれたものだった。脱がされながら恥ずかしがる余裕などなかった。医者も看護師も誰一人として嗤うものなどいなかった。

緊急医に「眠れていないの?」と優しく尋ねられ、素直に五日間寝ていないことを白状した。母親が病院に向かっているとのことだったが「待てないね」と言われた。安心させてくれるような柔らかい女性の声だった。お尻に注射を打たれた。ほとんど瞬時に意識が遠のいた。これが死ぬってことかと思った。


微かな痛みで目覚めると病院のベッドの上だった。腕には点滴の針が刺さっていた。意識が朦朧として視界がぼやけていた。「二日間も寝ていたのよ」と母が言った。姉がナースコールのボタンを押した。


搬送されたときの女性緊急医が主治医となった。長期の入院は必要ないと言われた。言葉を選ぶような慎重な口調で「下着のこと、お母さんに話したわ。勝手にごめんね。素敵なお母さんね」とも言われた。診察室の外で待機していた母を看護師が呼びに行き、同伴の診察が始まった。私は重度の鬱状態を先駆とする非定型精神病と診断された。更に性同一性障害か服装倒錯か判然としないため大学病院への紹介状が書かれた。


死にたいと思った。死ぬことに憧れていた。それだけが本当で、残りはフィクションの長編小説「理由なき自殺の物語」の構想はそうした鬱の経験から生まれた。大学の春休みに書かれることになるその小説は、高校時代を舞台にした私小説だった。人生を露悪的に上書きしたかった。自分自身の希死念慮は徹底的に意味に塗れていた。私が自殺するとしたらそれは鬱病と性自認の混乱の苦しみから逃れるための「理由のある自殺」であるはずだ。無意味な死に憧れた。「理由なき自殺の物語」のあらすじはこうだ。大学生の語り手「僕」は高校時代を回想する。


僕は自殺する人に憧れていると勘違いする。実のところ死ぬことに憧れることに憧れているに過ぎない。僕は或るイメージに異様に固執する。高層階から投身自殺をして垂直に落下する少女たちのイメージ。僕は意味がない死と無意味な自殺という観念について、ノートに抽象的な思弁を綴っていく。《動機があってはならない。絶対的な始原の音、Aの音を聴くために》。伝説の女性アイドルの原因不明の投身自殺を知った僕は膨大な関連記事をスクラップしていく。僕は死と狂気を美学化していく。僕自身も次第に狂っていく。偽の自殺願望は真の狂気を生み出していく。狂気に駆動された僕は暴力的な不良高校生へと変貌を遂げていく。僕は暴走仲間と自動販売機をこじ開けたり、ブティックのショーウィンドーを割ったり、ありきたりな暴力を繰り返す。《Aの音》は一向に聴こえない。


本物の暴力が予感されたところで、執筆を中断した。私の女装癖が描かれることはなかった。


現実に高校生になった私は本気で希死念慮に悩まされていた。校則は緩くて服装は自由だった。髪型をミディアムボブにして、オーバーサイズの服を着て登校した。男性を示すボタンのあるものは意地でも身につけなかった。独りで教室の片隅で読書をする生活に逆戻りした。美幸と別々の高校に進学したのは痛手だった。だが部員二人の文芸部に入部して先輩の女子部員二人の庇護下にあったので、ここでも悪目立ちしながらも、虐めは免れていた。文系女子の人脈に守られていた。女性に守られる宿命の人生だった。三年生で部長の酒井さんと、二年生で副部長の山内さんから書記と会計に任命された。ほとんど仕事はなかった。主な活動は詩を読み、詩を書くことだった。私が詩を書いたことがないと言うと、小林秀雄ファンの酒井さんが小林のランボオ論の話をしてくれて、小林訳の『地獄の季節』と中原中也訳の『ランボー詩集』を貸してくれた。ランボオ論は難しかったが『地獄の季節』は私を夢中にさせた。中原中也の訳文は私の精神と身体を不安にさせた。実際に不安発作が起きて私は不穏時の頓服を飲んだ。

とにもかくにも実践あるのみと思った私は散文詩を書くことに挑戦した。タイトルは「局部麻酔で首から下が動かない」だった。今でも原稿用紙が残っていた。こんな詩だった。


「最後にあいつは言った。俺の、いや俺たちはあの瞬間、完全になったのだ。生のすべてが、あの時あの場所に、吸い込まれた。輝かしい一つの点。その後には何が残ったのでも、続いたわけでもない。続くはずもなかった。未来もまたあの瞬間、あの極限的な点に、引き込まれていたのだから。それでも俺は生きていかなければならなかった。あの瞬間の威力に比べれば、どうでもいいことだが、一人の少女を殺害してしまった事実のために。消えない良心が、俺に生き恥を晒せと命じたからだ。唯生きるという恥だが……」


二人の先輩に予想外の高評価を得た。「初めてにしては上出来よ」。出来のほどは今でも分からないが、日本語で書いた初めての作品だった。

もっとも、すべてが順調という訳ではなかった。頻繁に不安発作に襲われた。常に被害妄想に囚われていたし、誰かに監視されているようだった。電車に関わる全てに恐怖を覚えた。線路や踏切やホーム。電車に乗ると身体が震えた。通学時、一時間かけて三駅分歩いた。もちろん高所恐怖症でもあった。校舎の三階が限界だった。三階にある部室で過ごすときは頓服のデパスという不安時の薬が手放せなかった。神は細部に宿るという箴言が、もし本当だとしたらデパスの錠剤は神だった。少なくとも私は救済された。酒と煙草も覚えた。母にもらう毎日の昼食代は煙草代に消えたので私は痩せぎすになっていた。むしろ酒に溺れていた。お小遣いはで酒を買った。近所に子供にすら酒を売ってくれる酒屋があった。私は一番安いウィスキーを買っては痛飲した。酔いながら詩を書きなぐることで自殺の誘惑と闘った。「理由なき自殺の物語」の「僕」が暴力に逃れたのだとすれば、私は酒と詩作の陶酔に逃れていた。


 週末は美幸の部屋で過ごすことが多かった。美幸の両親も私になんの警戒感も示さなかった。そこで女性になるための個人レッスンが行われていた。いろんなコーデが試された。「着せ替え人形みたい」と言って美幸は笑った。メイクの仕方も伝授してもらった。モデルのスタイルブックなどで独学してもいたのだが、特にアイメイクには苦労した。実地で教えてもらいみるみる上達した。女性的な仕草も身につけなければならない。こればかりは口頭で分かるものではない。美幸の一挙手一投足を凝視して、鏡を見るように動作と口調を模倣した。それは最初のうちはぎくしゃくしたパントマイムだったが、高校三年生になる頃には、私のシミュレーションは完璧になっていた。女性に近づくに従い、不思議と私の症状も緩和された。そこではアルコールもニコチンも必要なかった。美幸が私の精神安定剤だった。「本当に鏡を覗いているみたいね」と美幸のお墨付きも得られた。

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