妖精の国
ぷっぷ
妖精の国
季節は、冬が去る頃だった。
私はあの頃、人生の中の最もどん底にいた。
高校を卒業し大学生となった私は、あっという間に社会人となった。
当時勤務していた会社は、俗に言う『ブラック企業』。
それに気が付いたのは、春に入社してからそんなに経たない頃。
夜遅くまで残業、片手で数えられる程しかない低い賃金。節約のために毎日モヤシを貪る生活。心を許せる友達も、恋人も居ない。
…そんな中でも、当時想いを寄せていた上司の男性に、思い切って告白をしたことがあった。
ただ、彼からの返答はこの一言。
_『ごめん。恋愛対象として見れない。』_
私は好きな男性に、そもそも恋愛対象としても見られないほど劣っているのか。
嗚呼もう、何もかもが最悪だ。
自宅の冷たい布団の上に、制服のまま鉛のような体を預ける。
仰向けになると、ボロアパートの天井が私を見つめる。
次第に、その景色が歪み始めた。
目頭が熱い。
そうか、私は泣いているんだ。
このまま眠って目覚めたら、全てが悪い夢であったと思いたい。
外で、パトカーが煩くサイレン音を鳴らしている。
壁の薄いこの部屋は、外からの音だってハッキリ聞こえてしまう。
コツコツ___
外界の喧騒に混ざり、何か軽い音が聞こえた。
「きっと疲れているんだ。」
コツコツ___コンコン__
今度は、少しばかり強めに何かを叩く音がした。
「うるさいな…」
コンコン__ゴンゴン__
「あー!もううるさい!なんなのもう!天界からの有り難いお迎えでも来たわけ?それならさっさと連れてってよ!」
あまりの耳障りな音に、私は思わず体を起こして怒鳴った。
頬を流れた涙が蒸発し、少し寒い。
こんな夜中にこんな大声を出したら、隣人の面倒臭い中年男からクレームが来てしまう。
目に溜まっていた涙を乱暴に拭うと、音のした方向__窓の方へ歩みを進めた。
両手でカーテンを開くと、窓の外にはいつもの見慣れた閑静な住宅街…では無く、まるで桃源郷のように美しい、見知らぬ空間が広がっていた。
「…は?」
思わず、情けない声が漏れ出る。
私は夢でも見ているのだろうか。
私は、今度は静かにカーテンを閉めた。
そして深呼吸をして、もう一度、……。
「……完全に夢だ。」
明晰夢というものは、こんなにもリアルなのか。
「…花畑、か。」
きっと目の前の景色は、どこかの山か村の1部だろう。誰かが手塩にかけて育てている景色に違いない。
「少し出てみようかな。」
ここ最近は、自然に触れることなど全く無かった。
都会の汚い空気を肺に取り込んで生活していた私に、自然の澄んだ空気が必要だった。
すっかり冷えた木の床に足を委ね、玄関へ向かった。
いつも履いているハイヒールの靴…では無く、お気に入りの黒いスニーカーを履いてみることにした。
社会人になる前、少し奮発して買ったスニーカーだ。勿体なさから、一度も履いたことはなかった。
「…結構いい感じかも。」
久々に、ワクワクという感覚を思い出した。
幸せって、こんなに些細なことでも感じられるんだ。…ただ、新品のスニーカーに足を入れただけでも。
小さな子供の小さな好奇心のように、私の心の中に仄かな光が差し込んだ。
私は顔を上げ、蝶番の鳴る扉を手のひらで押した。
爽やかな緑の風が頬を掠める。
春の手前と言っても、まだまだ寒いはずのこの季節。そのはずが、全く冷えを感じられなかった。……むしろ、とても暖かい。
私の足元にまで広がる色とりどりの花々が、私の全てを優しく包み込んでいた。
太陽のような光が辺りを照らし、眩しいほど煌めいていた。
「そこの人間さん。こっちを向いて。」
…どこからともなく、低く艶やかな声が聞こえた。
私は周囲を見渡すが、美しい景色の他に何も無い。
「こっちだよ。人間さん。」
「…あ、」
声の正体は、足元にあった。
小さな、、、鳥…?
白い文鳥のような生き物が、私を見上げていた。
「人間さん、俺を持ち上げてくれないかな。」
「持ち上げる、?」
「その手のひらに乗せて欲しいんだ。」
「あ、…うん。」
その鳥……彼に言われた通りに、手のひらに文鳥を乗せ、自分の目線に合わせて持ち上げた。
「どうもありがとう。人間さん。」
見た目はとても可愛らしい小鳥なのに、発せられる声は、とても想像できないほど落ち着く低音だった。
「助かったよ。人間さん。」
「うん…あの、貴方って鳥、ですよね?どうして飛べないんですか?」
「……俺は元々、飛べない鳥なんだ。」
彼は、幾分かうつむき加減に言った。
「飛べない鳥?エミューとか、ダチョウとか、…あとは、なんだろう…」
「え?どうしてエミューさんやダチョウさんのことを知っているの?」
「えっ、?どうしてって…」
「ああ、ごめんね。ここでする話じゃなかった。…俺がこれからこの世界を案内するから、楽しんでいってね。」
私は訳の分からないまま、とりあえず彼の言った方角へ進んで行った。
小さな小川を超え、高層ビルよりも大きな木の下をくぐり抜け、長い長い草原をひたすらに歩いて行く。
しばらく歩くと、地平線に沿って並ぶ構造物のようなものが姿を現した。
「鳥さん、あれは何?」
「アレは、俺の住む街だよ。」
「街…」
街と聞くと、現実世界の都会が彷彿とした。
目眩がする。
「あの街にはどんな人…鳥が住んでるの?」
「トワさんがいる世界とあまり変わらないよ。」
「ちょっと待って…何で私の名前を…。」
「だってトワさんのこと、俺見てたよ。ずっと。」
「怖い…。」
「ごめん。怖がらせるつもりは無かったんだ。最初は怖がられると思って、敢えて「人間さん」と呼んでた。」
「そう、なんだ。」
「さあ、そうこうしているうちに到着だ。ここが、街の出入口。この大きな鷹のレリーフは、この街のシンボルだ。」
街の出入口と呼ばれる場所に着くと、石でできた大きな石像とレリーフが私たちを出迎えた。
「…きっと、皆も喜んでくれる。」
彼はそう言うと、笛のような高い音を喉から絞り出した。
すると街の方向から、人だかりがこちらに迫ってきていた。
「おお!フラップ!帰ってきたのか!3日も見ないから、皆心配して…って、人間、、か?」
「リーガル。この子は俺が連れてきたんだ。歓迎してやって欲しい。」
彼の名はフラップと言うらしかった。
「す、すみません。突然…。」
「フラップ…どうして君はいつも身勝手な…。」
『身勝手な』__
会社のうざったらしい爺さん社長に、何度も投げられた言葉。
いつも身勝手なのはそっちじゃないか。
私は淡々と仕事をこなしていただけ。
身勝手という言葉の意味さえ分からない人間が、どうしてトップに居られるのか___。
「…まあいいさ。君が決めた人間なら。」
リーガルという男は、少し冷静になってフラップに言い放った。
「ありがとう兄さん。…さて、俺もそろそろ解くとするよ。トワさん。俺を下ろして。ここまで戻してくれて、ありがとう。」
フラップを地面に下ろすと、突然大きな煙をあげて爆発を起こした。
「うわぁ!!ふ、フラップさん!」
「落ち着け人間。…これがフラップの本当の姿だ。」
リーガルが私を一瞥しながら言った。
少し苦手なタイプかもしれない。…お互いに。
「ふぅ…やっぱりこの姿が落ち着くね…。あ、トワさんがちっさい。」
「……え。」
フラップ…は、見上げるほど背の高い人間の姿となっていた。
少しつり上がった目尻に、ツヤの良い肌。
背中まで伸びた髪を紐で1つに括っていた。
アニメや漫画で見るような、…美貌の男性だった。
フラップは私を見下ろすと、口角を微かに和らげた。__
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