ファインダー越しの秘密

さちゃちゅむ

第1話

 冬の高校写真部の部室。

 先月故障したエアコンからは、生ぬるい風だけが出ている。


 窓から差し込む夕暮れの光が、柚菜の艶のあるミディアムボブの髪を優しく照らしていた。

 その光の中で、彼女はまるで絵画の一部のようだった。

 私は思わず息を飲み、その瞬間を記憶に焼き付けようとした。


「部長、私を撮ってもらえませんか?」


 マフラーを顔半分が埋まるほどぐるぐる巻きにした柚菜は、小さな声でそう言った。

 指先が少し震えているのに気づいて、私は思わず彼女の手元に視線を落とした。


「実は、被写体モデルの活動を始めたいんです。でも、どんな風に写ればいいのか、まだよく分からなくて」


 喉の奥がカラカラに乾く。心臓が高鳴る。


 柚菜は一年生で、写真部に入ってきた時から"撮りたい"存在だった。

 華奢で雰囲気のある佇まい、儚げな表情。でも芯の強さを感じさせる眼差し。


 てっきりモデル志望かと思っていたのに、

 入部してからずっと風景や花ばかりを撮っていた控えめな彼女。


「あ、今度の写真展、モデル探してたの。良かったら――……」


 言葉が途切れる。こんな風に緊張するのは初めてだ。

 まだ誰も切り取ったことのない柚菜の一瞬を、これから私が写していくのだ。

 その想像だけで、指先がピリピリと痺れるような感覚に襲われた。


 ◆


「もう少し顎を上げて……そう、その角度。可愛い」


 夕陽が染める河川敷で、私はファインダー越しに柚菜を見つめた。

 白い息、風に揺れる髪、制服のリボン、まつげの影。

 全てが儚くて、美しい。


 シャッターを切るたび、ファインダーの中の彼女が私だけのものになる感覚。それは甘美で、少し罪深い喜びだった。


 ファインダー越しなら、私は柚菜を好きなだけ見つめていられる。

 直接見つめれば気まずくなる視線も、カメラを通せば許される。

 この距離感が、私を守ってくれる。


 同時に、シャッターを切るたび、胸の奥が締め付けられる。


 これは、きっと普通の先輩としての気持ちじゃない。

 女の子が女の子を見つめる、この感情に名前をつけることが怖かった。


 この気持ちを知っているのは、私と、このカメラだけ。


「この前、奥村さんの展示を見に行ったんです」


 柚菜の声が弾む。

 奥村というのは、最近注目を集めている若手写真家、奥村聖司のことだ。

 彼の写真は確かに素晴らしい。人物の内面を切り取るような鋭さと、深みのある編集力を兼ね備えている。


 私は無言でカメラの設定を変える。

 絞りを開けて、背景をぼかす。柚菜だけを際立たせたかった。


「写真なのに、まるで物語を見ているみたいで。私もいつか、奥村さんのレンズの前に立ってみたいんです」


 スマートフォンを取り出した彼女は、また奥村のSNSをチェックし始めた。

 画面に映る奥村の写真に見入る柚菜の横顔。その表情には、私に向けたことのない憧れの色が浮かんでいた。胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みを感じる。


「あっ、新しい写真更新されてる……」


 スマートフォンの画面を見つめている彼女。

 それだけなのに。どんな時も、柚菜は絵になる。


 その姿を見ているだけで、私の指は勝手にシャッターボタンを押していた。


 夕陽が沈みかけている河川敷で、私は再びカメラを構える。

 この距離感を縮めるには、どうしたらいいんだろう。


 ファインダーの向こうと、こっちの世界。

 その境界線を越えることが、私にはできるのだろうか。



 ◆


「ねぇ、柚菜」


 暗室で写真を整理しながら、私は震える声を抑えて尋ねた。

 赤い安全光の下、現像液の匂いが漂う密室。ここなら、少しだけ勇気が出る気がした。


「もし、奥村さんに撮ってもらえて……それで、食事とか誘われたら行く?」


 現像液の匂いが漂う中、柚菜は写真を手に取りながら、くすくすと笑った。

 その笑い声は暗室の中で不思議な反響を生み、私の胸の内に波紋を広げた。


「えー? もちろん。だって奥村さんですよ? 撮ってほしいですもん」


「じゃあ、写真なしで食事とか誘われたら? 仕事のことは忘れたいとか言ってさ。行き先サイゼとか。それも嬉しい?」


 こんなこと聞いてもいいことないのに。

 めんどくさい。やめなよ、私。

 自分の声が遠くから聞こえてくるような感覚。でも、止められなかった。


「嬉しいに決まってますよ! てか、部長どうしたんですか? そういうの男の子が聞くやつじゃないですか」


 その言葉は、ナイフのように私の胸を刺した。

 暗室の赤い光が、血の色に見えた。


 そっか。


 そうだよね。

 こんな気持ち、柚菜には想定外だよね。


 女の子が女の子を好きになる。そんな可能性は、彼女の世界には存在しないのかもしれない。


 私は無言で現像液に浸した写真を揺らした。

 液体の中で揺れる柚菜の笑顔。それは水面に映る月のように、触れようとすれば壊れてしまう。


 この気持ちは、現像しないほうがいい。

 暗室の奥深くに、永遠に閉じ込めておくべきだ。


 暗室の静寂が、私たちの距離をより一層際立たせるように感じた。


 所詮、ファインダー越しにしか見つめられない想い。

 今更だけど、改めてちゃんと理解した。


「あ、部長がサイゼ行きたいってことですか? 安心してください。もし奥村さんとそんな日がきても、部長ともサイゼデートしますよう〜」


 柚菜は無邪気に笑う。その笑顔に、単純な私の心は揺れる。

 彼女の言う「デート」と、私の思う「デート」は、きっと違う意味を持っている。


 柚菜には届かない。

 私の問いかけの意味も、この切ない想いも。


「そうだ。写真展の打ち上げで行きましょ! 私、ドリア食べたいです」


 ただの女の子同士のお出かけとして、ね。

 嬉しそうに話す柚菜を見つめながら、私は「そうね」と言って静かにカメラを握りしめた。

 その冷たい金属の感触が、私の熱を帯びた感情を少しだけ鎮めてくれる気がした。

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