第2話 雨より恋し
一
「湖は…どこに行ったのじゃ…」
目を開けると、大粒の涙がボタボタと落ちた。
見た事のない景色の中に、とてつもない孤独が我を飲み込んで、呆然と立ち尽くした。
何か…忘れてはいけない大切な何かがあった様な気がするが…思い出そうとしても、悲しい想いだけが丸くなり、ただただ涙が頬を伝った。
きっと、忘れてはいけない何か、だったのに…。
「それにしても、ここはどこじゃ…」
見た事のない道や、景色を辿って歩き出した。
遠くで微かにだが、笛の音が鳴っている気がする。
靴も履いていない我の足は、冷たい地面をゆっくりと捉えて、たまに小石を感じても、歩く事をやめなかった。
緑色に香る木や、そよぐ風は、なんだか懐かしい様な気持ちになって、長くて黒い髪は嬉しそうに背中にそよいで、髪飾りについた鈴もそれに合わせて鳴った。
沢山の木々が生い茂る所に、細い路を見つけて、どこかで鳴っている笛の音に誘われる様に入って行くと、そこには朱色の鳥居があった。
「稲荷…か」
足を踏み入れると、カラスが一斉に声を荒げて木から飛び立つ。それでも真っ直ぐに歩くと、笛が奏でる音が更に近づいて、真っ黒に渦巻くモノを見つけた。
(あぁ…空気が重たいのぅ…)
そう思うと同時に、真っ黒なモノは私に飛びかかって来た。手で払おうとしたその時だった。
「…マレ」
我の反対側に、髪の黒い男が笛に唇を当て、綺麗な音を奏でた。
そして何か呪文のような言葉を呟くと、手から青白い煙を出して真っ黒の煙をその中に巻き込んだ。
すごい風が舞う中で、黒い髪の男はゆっくりと目を開けた。
(閉師人…か)
そう思って見ていたら、ツカツカとこっちに向かって歩いてくる。
「おいっ!(結界張ってたはずなのに)なんでお前こんな所にいンだよ!」
長身の体を曲げて、笛をこちらに向けて来る。
「はぁあ?お前誰に向かって口を聞いておるのじゃ!」
その無礼な奴は鼻をフンッと鳴らした。
(さっきの笛の音色に少しでも心奪われたのは、無かったことにする)
「おるのじゃ?お前どこの時代の奴だよ!しかも裸足でバカなのか?」
(バカ…はて…バカとは…)
―うつけ、と言う意味です―
「うぬぬ…お前どこまで我をバカにしてー!」
―我は『バカ』を習得した―
「我?千年くらい前の一人称かよ!私って言うの。わ、た、し!」
身長差はあったが、我は其奴に向かって威嚇をした。
其奴は腕を組みながら冷めた顔して睨みつけていた。
そして、その手には黒いガラスの様な玉を持っていた。
「…閉じ込められたか」
ボソッと呟いて、背を向けた。
「…ンあ?あぁ…これが俺の仕事だからな」
我は其奴の手の上から、玉をサッと奪った。
「あぁ、おいっ!」
我の手に乗った玉は、黒い霧を出してパリンッと割れた。
「トジコメタナァア…ユルサナイ…オマエヲツレテイク」
地鳴りの様な声をあげながら、真っ黒の煙で人の模ったモノが我の肩に乗り巻きついた。
さっきの煙とは比じゃないほどの黒さと、嵐の様に風が吹雪くから、アイツは何か叫んで近寄ろうとしても近寄る事ができなかった。その姿を見て、我は笑った。
「さぁ…オマエが連れて行きたかったのは、本当に妾なのか…?オマエが側に寄り添っていて欲しかったのは…もうこの世には…」
「ウルサイ…ウルサァイ…ウルサイッ!!」
風の勢いが増す。普通の人間ならば、きっと息も出来ないだろう。
「もう一度問う…オマエが一緒にいたかったモノは…もうこの世に…」
…いないんだよ。
「雨ヨ…天ノ雫となりて…」
舞って揺れた髪飾りの鈴の音がすると、雨雲が立ち込めて、その雲は割れ、天が黄金色に輝くと、無数の青く光った蝶々が一斉に天に登って、雨が降り出した。
「ウァアアア…」
光に包まれたそのモノは、一瞬だけ、人の形に戻って、降り注ぐ雨がその形を切り裂いた。すると、切り裂かれた体は緑色の蛍のように光って舞い散った。
その瞬間、嵐のように渦巻いた煙も、あんなに降り注いだ雨も止み、パッと元の静けさに戻った。
「開師人…か」
黒髪の男が言った。
「そうじゃ…我は水ノ国(コク)の開師人、幽鈴じゃ」
「どうりで閉じたはずの結果を開けてくるわけだ」
「どっちが…幸せなんじゃろうな」
我がそう言うと、黒髪の男がこっちを見た。
「辛い心のまま封じるのと…
行き場のない暗闇に放たれて、消えるの…と」
見つめ合った私達の間に、冷たい風が吹いて通った。
これが私達の出会いで、運命であり、宿命だった事を、二人はまだ知る由もなかった。
二
緑色に生い茂る草や、鳥の囀りは、我がいた場所にもあったものだけど…木の隙間から、見下ろす形で見える高さのある鉄の塊や、見慣れない形の家らしきものが、心の動揺を仰いでいた。
それでも、何かを思い出そうとしたり、自分の記憶から何かを引き出そうとすれば、頭の奥がズキン…として、顔をしかめた。
何よりも、我の国の象徴である湖がないという事が、心をひどく喪失感に襲わせた。
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