第25話 父娘の対面

 目通りが叶ったのはそれから一月後だった。

 それも城中ではなく吉宗がおしのびで加納久通の屋敷にある菖蒲池しょうぶいけを観賞するという名目であった。

 おおやけにご落胤として城中に迎え入れるならば、天一坊と同様に吉乃もまた詮議の対象にされる。

 吉宗としては苦難を乗り越えてきた娘にそのような思いをさせたくなかったのである。

 加納の屋敷では池端いけはた毛氈もうせんが敷かれ、野点のだてという形式をとって出迎でむかえた。

 雲一つない空を映した池の水面みなもおだやかに揺れ、菖蒲はまさに満開でその葉は瑞々しさをたたえていた。

 そして一際ひときわ目を奪ったのはあでやかな吉乃の姿である。

 吉宗は毛氈に正座する吉乃を見て、にこやかに声を掛けた。

「吉乃か」

「はい上様、お目通りをたまわりこの上なき幸せに存じます」

 吉乃も微笑みを返した。

「美しい娘に育ったのう。何処どこぞにそなたの母を感じるぞ」

「母を覚えていらっしゃるのですか」

 吉乃は吉宗にとって母も数多あまたいる女人にょにんの一人にすぎないと思っていた。

「覚えているとも、美しさもる事ながら美世は心根こころねの優しいおなごであった。にもっと力があれば城中で守ってやれたものを、そちたちには難儀なんぎを掛けてしまった。いずれは呼び戻して共に暮らしたいと思うておったのじゃ」

 吉乃は初めて吉宗の愛を感じた。そして吉宗の目にうっすらとまった涙が輝いた時、父の苦悩を理解した。

「上様はわたくしとお会いになるのは今日こんにち限りとお思いなのですね」

 吉乃の問いに悲しげな顔でうなずき「ゆるせ吉乃」と、びた。

「そちたちを手放した時、余は紀州藩主であった。ところがわずか六年で将軍となり、そちたちを呼び戻すことが困難になってしまった」

「存じております。国の財政を立て直す中で、上様のご落胤と称するものが次々に現れては将軍としての威厳いげんたもたれませぬ」

 吉乃は吉宗の心中を先読みして言った。

「わかってくれるか。吉乃、そちが望むものは何なりと叶えよう。願い事はないか。大名家だいみょうけに嫁ぐこともできるぞ」

 吉宗は身を乗り出して尋ねた。吉乃は毛氈に手を置いて「されば」と、言って続けた。

「今日限りのお目見えとあらば、今だけは父上とお呼びしてもよろしいでしょうか」

「おお、呼ぶがよい」

 吉宗は目尻を下げて応じた。

「父上、大名家への縁談えんだんはどうぞお取下げくださいませ。わたくしは野山を駆け回ってきた身、父上に忖度そんたくしてわたくしをかざりものとする家やはたまた出世の道具としてわたくしをめとる家などとは幸せなえんを結べる訳がございませぬ」

「されば独り身でこの先どうするというのだ」

「わたくしには大切な方々がおります。命を賭してわたくしを守った香月道太郎様とその嫡男ちゃくなんの数馬様でございます。香月家は密命みつめいによりあまんじて汚名おめいを受け入れ家名かめいが絶たれました。そしてわたくしは数馬様をおしたい申し上げております。願わくば香月家の復活と数馬様との婚姻こんいんをお許しくださいませ」

 思いもよらぬ吉乃の願いであった。吉宗は離れてしている加納を呼んだ。

「久通、香月数馬とはどのような人物か」

 吉宗の問いに加納は少しも慌てずにこやかである。

「上様、香月数馬もまた父親の汚名にののしられながらも苦難の中で真っ直ぐに育った若者にございます。今はそれがしの配下に加えて目を掛けております。そういえばお若い頃の上様によう似ております。剣は上様と同様に関口新心流せきぐちしんしんりゅう達人たつじんでございますし、何しろじっとしてはおりませぬ。己のためではなく常に人のために走り回っております。上様が民のために奔走ほんそうされるのと同じ心を持っておるのです。数馬でしたら姫様を生涯しょうがい守り通すことができると信じております」

 加納は二人の恋を成就じょうじゅさせようと必死に説得した。

「久通、相分あいわかった。随分ずいぶんれ込んだものよ。されど身分はどうしたものか、大名・旗本はたもとという訳には行かぬしな」

 吉宗は腕を組んだ。加納も考えた末、扇子せんすで膝を叩いた。

功績こうせきたたえて御家人ごけにんとしては如何いかがでしょうか。お目見え以下ならば上様との謁見えっけんが叶わぬため嫉妬しっとする者もおらぬかと存じますが」

「おう、それが良い。ろくは吉乃が生涯しょうがい暮らしに困らぬようにな」

 加納は「承知つかまつりましてございます」と、深々と頭を下げた。

 帰りがけに吉宗は今一度吉乃に優しい視線を向けた。

「いつかまた、このように忍びで会いたいものだな」

「はい父上、わたくしもその日を楽しみにお待ちしております」

 しかし、そのような機会が訪れることは二度となかったのである。


 吉宗との謁見の結果を吉乃から直接聴かされた数馬は大いに喜んだ。

「それでは大名家へ嫁ぐという話はなくなったのですか」

「そのような話はもとよりございませぬ。わたくしはたとえ上様の命であってもお断りするつもりでした」

 吉乃が意志の固さを見せると、数馬は笑顔で何度も頷くばかりだった。

「わたくしの気持ちは伝えました。頷いてばかりでなく、あなたのお気持ちを聴かせてくださいませ」

 吉乃は意地悪く数馬に迫った。

「わたしの喜ぶ顔を見てわかりませぬか」

 数馬はれて言葉をにごした。

「いいえ、わかりませぬ。どうぞ口に出してくださいませ」

 数馬は逃げ場を失って「わたしの妻になっていただけますか」と、ついに観念かんねんした。

「わかりました。そうと決まれば祝言を急ぎましょう」

 吉乃は加納を訪ねた。


 数馬は御家人としては破格はかく禄高ろくだか六千ごくを得て、更に領地りょうちまでも持つことになった。

 住居は小石川こいしかわ改易かいえきとなった旗本屋敷があてがわれ、加納の采配さいはいのもとで早速屋敷の修繕しゅうぜんが行われた。

 加納としては新しく生まれ変わった屋敷にて祝言しゅうげんの日を迎えるつもりであった。

 ところが吉乃の申し出により加納の屋敷で行うことになったのである。

「当屋敷にて祝言をり行うはほまれではございますが、それがしは姫様を送り出す実家のような気持ちでございます。その実家で祝言を上げるというのはいささか……」

 めずらしく加納が言葉にまった。

「わたくしもこのお屋敷を実家と思うております。されど仲人なこうどをお願いできるのは加納様しかおりませぬ。今まで数馬様共々どれだけ助けていただいたことか、生涯忘れることができませぬ。その恩あるお屋敷から二人で巣立すだって行きたいのです」

 吉乃が思いを告げると、数馬はそれに増して思いの強さを語った。

「わたくしも同じでございます。殿との出会いがわたくしの生きる道しるべとなりました。そればかりか幼い頃わたくしが育つ上で妨げになるものを排除はいじょし、気にかけていただいたと亡き母より聴きました。有難い身分を頂戴しましたが、殿への忠義は生涯のものといたします」

 加納の微笑ほほんで細めた目尻のしわに涙が光った。

「姫様、恐縮至極きょうしゅくしごくにございます。数馬よ、忠義と言いながら此度こたびも都合よくわしをころがしおって」

 その言葉をかわす様に平伏する数馬を見てその場に笑いが巻き起こった。


 祝言は武家のみで行われた。

 招待客は佐倉藩さくらはんより北山魯庵きたやまろあん橋本源之助はしもとげんのすけ夫妻・溝口京太郎みぞぐちきょうたろう瑞江みずえ高取藩たかとりはん坂田千絵さかたちえと娘の桃代ももよ、そして星見亮介ほしみりょうすけであった。

 少人数ではあったが魯庵を除いてそれぞれが数馬と吉乃に救われた縁ある者たちであったため、その際の話で盛り上がりにぎやかな宴席えんせきとなった。

 吉乃は吉宗からおくられた純白の花嫁衣装に包まれた。そしてはにかむように微笑む姿は誰もがため息をつくほど美しかった。

 数馬は改めて宝物を得たことを実感し、どんなことがあろうとも吉乃を守り抜く決意を新たにした。


 翌朝、亮介は魯庵と共に長崎へ旅立とうとしていた。

 数馬は吉宗からたまわった村正むらまさの小太刀をさずけた。

「この小太刀がそなたを危機から守ってくれるであろう。されど、そなたの秘剣ひけん一閃いっせん』は使わずに済むことが一番だぞ」

「わかっております兄上。覚悟を持ってのぞむ時でございますね」

 亮介はいまだに数馬の言葉の重みを胸にしまっていた。

「どうかご無事で、桃代はいつまでもお待ち申し上げます」

 桃代は涙をこらえて言った。

「桃代さん、わたしが一人前の蘭方医らんぽういになるまで五年はかかると思います。待っていてください、必ずあなたのもとに帰ります」

 亮介の強いおもいにこらえていた桃代の目から涙がほおを流れた。

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