第2話 父の事情

 香月道太郎こうづきみちたろうにとっても寝耳ねみみに水の出来事だった。

 時は宝永ほうえい七年(1710年)、懐妊かいにん中であった吉宗の正室『真宮さなのみや理子まさこ』が死産であった上に死去した。

 が悪いことにその一月後、大奥の湯殿番ゆどのばんであった美世みよが懐妊した。すでに三月みつき身重みおもであった。美世は武家といっても出戻でもどった徒士かちの娘だ。

 それを許さなかったのは真宮の輿こし入れに京より同行した付き人であり側近そっきん葉山はやまである。葉山は真宮の威光いこうかさに着て奥を牛耳ぎゅうじっていた。

 葉山はあるじを失った悲しみと、死産であった初子ういごの代わりに身分の低い女が出産することにいきどおりを覚えた。

 いったんは実家に帰された美世であったが、それでも葉山の怒りは納まらず不穏ふおんな動きを見せた。

 美世の危機ききを感じた加納久通は道太郎を私邸に呼んだ。

「湯殿番であったお美世様に殿とののお手が付いて懐妊した。側室そくしつならば問題はなかったのだがあまりにも身分が低すぎた。そのことが葉山様の逆鱗げきりんに触れたのだ」

 加納はため息のような長い息を吐くと腕を組んだ。道太郎は黙って続きを待った。

公家くげの出で気位きぐらいの高い葉山様は決して許さぬだろう。このままではお美世様のお命があやうい」

 話の先を加納が言い出しにくいのを察して道太郎は初めて口を開いた。

「わたくしのお役目は人知れずお美世様を逃がすことでございますね」

「その通りだ、殿も承知しょうちしておられる。ただし、これは密命みつめいである。すなわち殿はあずかり知らぬこと、そなたの独断どくだん出奔しゅっぽんすることとなる」

 道太郎はわかっていた。それは武士として恥ずべき汚名おめいを着ることであり、家禄かろくも失い、家族にも苦難くなんいることになることを。

 それでも忠義ちゅうぎつらぬくことが武士である己のさだめだと心得ていた。

「殿をうらむでないぞ。大地震以降の荒廃こうはいしたが領地を立て直そうと殿は藩政改革はんせいかいかく奔走ほんそうされてきた。一時のいやしを求めてのことだったのだ」

 加納は吉宗の心中しんちゅうおもんばかった。

「恨むなどあろうはずがございませぬ。どのような形であれ殿のお役に立てるのであれば家門かもんほまれにございます」

「よう言った、道太郎。そなたは関口新心流せきぐちしんしんりゅうつかでもある。刺客しかくが放たれるやもしれぬがくれぐれも用心するのだぞ」

 加納にとって道太郎は手放すにはしい最も信頼する部下であった。加納もまた忠義のためつらい決断を下したのだった。


 翌日、下城げじょうする加納の駕籠かごに久通は乗っていなかった。ひそかに美世と入れ替わり駕籠は加納の屋敷に無事入った。

 道太郎は奥座敷おくざしきにて初めて美世と対面した。一度とついだことがあるとは聞いていたが、その割には若く美しい容姿ようしに驚いた。

 美世は祝言しゅうげんを上げた直後に夫が急死したため実家に帰され、縁起えんぎの悪い女として再婚の口もかからなかった。行く末を案じた父親は上司に相談し、上司はその美貌びぼうみとめ藩主の湯殿番へと紹介したのである。

「お美世様、わたくしは香月道太郎と申します。これから先はわたくしがお世話をさせていただきます。何なりとお申し付けくださいませ」

 道太郎の丁寧ていねいな挨拶に美世は困った顔をした。

「お美世様などと……、わたくしは身分の低い徒士かちの娘です。香月様、美世とお呼びください」

「何をおおせられます、殿のお子を宿やどしておられるのですよ。どうしてもお美世様と呼ばせていただきます。わたくしこそ道太郎と呼び捨ててください」

「わかりました。それではせめて道太郎さんと呼ばせてください。道太郎さん、どうぞしなにお願い申します」

 二人が打ち解けたところに加納が入って来た。加納は二人の前にすと手に持った刀袋かたなぶくろを開いた。

「殿からである。一振ひとふりは小太刀こだち、もう一振りは短刀たんとう、どちらも名匠村正めいしょうむらまさの作だ。生まれた子が男子おのこなら小太刀を、女子おなごなら短刀をさずけよ。残った方は香月に与えると仰せだ」

 道太郎は二振りの刀を頭上にかかげてからわきに置いた。

 続いて加納は金子きんすを包んだ袱紗ふくさを二つ道太郎の膝前ひざまえに置いた。

「こちらは路銀ろぎんで当面の暮らしはまかなえる額だ。もう一つは道太郎、そなたの家族に届けるが良い。難儀なんぎをかけるでな」

 道太郎は加納の心遣いに深々と頭を下げた。


 夜半になり屋敷を抜け出した道太郎は、門前に待たせていた町駕籠まちかごに美世を乗せると静かに歩き出した。

 月もなく町は漆黒しっこくやみに包まれている。

 城下のはずれまで来た時、前方に提灯ちょうちんあかりが見えた。灯りは次第に近づき大きくなったが、歩みの動きに対して上下左右に微動びどうすらしない。

刺客しかくだ、こやつはできる……」

 道太郎はつぶやくと素早く籠の前に出た。刺客は道太郎めがけて駆け寄り、近づくと提灯を脇に投げ捨てながら跳躍ちょうやくした。

 空中で抜刀ばっとうした気配けはいを察すると道太郎はっ先が届かぬ後方へ下がるのではなく、えて間合いを詰めて相手の手元まで進んだ。

 り下ろす相手の姿が見えた瞬間、道太郎は左手で手首を掴み右手で襟首えりくびを持って反転すると背にかついで投げ捨てた。

 刺客は腰から落ちながらも受け身を使って素早く起き上がった。

「ふっふっふ、強いのう。関口新心流か、剣術ばかりか柔術じゅうじゅつまで使うとは。今宵こよいは挨拶代わり、またお会いしましょうぞ」

 不気味ぶきみな声を闇に残して刺客は去った。気が付くと道中着のそでが斬られていた。

(投げられながら刀を払うとは恐るべき男だ)

 道太郎は次はまもりきれるのかどうか自信がなかった。


 道太郎は城下を離れたところで駕籠を止めた。

 夜は白んで朝靄あさもやを通して辺りが見渡せるほどになっていた。

「お美世様、此処ここからは歩いていただいてもよろしいでしょうか」

 美世は疑問に思うことなくうなずいた。

「すべては道太郎さんにお任せします。歩くことにはれております」

 そう言って自ら駕籠を降りた。

 道太郎は代金を渡して駕籠を帰し、追手おってがいないことを確認すると街道かいどうを歩き出した。

「どうやら我らの行き先は知られているようです。後をつける者もなく、刺客すらもあっさりと帰って行く。探す必要がないからと思われます」

「それではどういたしましょうか」

 美世は足を止めて道太郎を見上げた。

「加納様が用意してくださったかくにはおとりますが知り合いの寺がございます。山道を行くことになりますが、そこの住職が力になってくれるでしょう」

 それを聴いて美世はほおゆるめて微笑ほほえんだ。

 幼さの残る無邪気むじゃきな笑顔を見て、美世には次々と襲いかかる苦難を断ち切って安寧あんねいな日々を送らせてやりたいと道太郎は心底思った。


 道太郎が向かったのは古い山寺で、南に広がる棚田たなだを見下ろす茅葺屋根かやぶきやねの集落をさらに眼下に見下ろす小高い丘の上にあった。

 寿林寺じゅりんじの住職である円祥えんしょうはまだ修行僧だった頃に香月家の菩提寺ぼだいじで道太郎の父親と出逢い、それ以来懇意こんいにしてきた。

「よう上って来なさった、さぞ疲れたじゃろう。久しいのう道太郎、女子連れで此処まで来たということはただ事ではないな」

 円祥は美世をちらと見ながら言った。

「はい、その通りです。和尚に願いのがあって参りました」

「まずは茶でも飲んで疲れを取りなされ。話はそれからじゃ」

 円祥はそう言うと小坊主こぼうずを呼んで茶を持ってこさせた。道太郎は一口すすると再び口を開いた。

「このお方はお美世様といって殿様のお子を宿しておられます。ある勢力からお命をねらわれて此処まで逃れて参りました。無事に出産されるまでこちらでかくまっていただきたいのです」

 道太郎に並んで美世も頭を下げた。円祥は沈思ちんししながらゆっくりと茶を飲み干した。

「わかり申した、此処で立派りっぱなお子を産むがよい。村には産婆さんばもおるし女手おんなでもある、皆が助けてくれるじゃろう」

「かたじけのうございます。ところでお腹の子の父親についてはどうぞご内密ないみつに」

「わしはこれからご本尊ほんぞん様に無事の出産を祈願きがんする。今聴いた話は護摩ごまの煙に乗せるとしよう」

 円祥はそう言うと高らかに笑った。

 その後円祥は里に下りて庄屋しょうやと話し合い、一軒いっけんの空き家を見つけて来た。

 夕方になり道太郎たちが行ってみると村人の手で寝具や暮らしに必要な物が運び込まれており、その後も米や野菜が届けられた。

 二人は村人一人一人に礼を言って見送った。村人はちした夫婦めおとを応援するかの態度を見せて帰って行った。

 かくして道太郎も新たな暮らしを始めたのであった。

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