さざなみに溺れて、花を喰む

よなが

01 気になるあの子と雨宿り

 声をもっと聞きたい。

 そう思う頃には春が終わっていた。

 それから新緑の瑞々しい薫りも瞬く間に去っていき、雨がしとしと降り続く今日に至る。


 高校生になって早三ヶ月、梅雨の晴れ間の帰り道。空がいきなり裏切って、雨粒をこれでもかと落としてきたものだから、私は慌てて駆け出した。

 田舎町のひっそりとした住宅街、足音は雨音にかき消されて。曲がり角の先、視界に飛び込んできたのは制服姿の女の子。私と同じく、半袖の白ブラウスに薄手で紺色のプリーツスカートという格好だ。シャッターが下りて久しい古びた店舗の軒下に一人きり。


 雨宿りをする少女。

 そんなタイトルをつけて飾ってもいいような光景。


 その横顔に見覚えがあった。

 袖からのぞく色白な二の腕やスカートから伸びている細足にも。それで勢い任せに私も軒下へと入った。濁った空を澄んだ瞳で仰ぎ見ていた彼女が、すっと顔をこちらへ向けてくる。傷一つない彫刻じみた、整った顔立ち。二、三秒見つめあって、いたたまれなくなった私から声をかける。


「あの……波汐なみしおさんも、雨宿り?」

「はい」


 物静かなクラスメイト――波汐静花せいかさんは短く返した。その視線がゆっくり上下に、つまり私の頭のてっぺんから足のつま先へと移っていき、そしてまた目を合わせる。


「タオルやハンカチは持っていますか?」

「あ、うん。大丈夫、ハンカチはある」

「それならよかった」


 そう言ってくれた波汐さんはまた空を見やった。その横顔にしばし見惚れる。

 湿気を多分に含んでいる黒髪がどことなく艶やかだ。学校の外だからなのか、その長い髪は束ねられず、そのまま下ろされ肩にかかっている。


 私はくしゃみを一つして、やっとスカートのポケットからハンカチを取り出す。雨に濡れたのは一分に満たない時間だったのに、ハンカチ一枚では水気をさっと拭えないほど濡れていた。これではまずい。

 バッグを漁ってタオルがあるかどうかを確かめる。運動部ではなく、今日は体育の授業もなかったので、ないだろうなと思いつつ探ってみる。果たして見当たらない。けれど、その代わりに折り畳み傘を入れていたことに気づく。


 また一つくしゃみが出て、波汐さんがちらりと私を見た。そして、少なくとも教室内ではほとんど閉じっぱなしの唇がまた開く。その顔、休み時間は専ら文庫本と無表情でにらめっこしているそこに、今浮かんでいるのは微かな緊張。


「……石上いしがみさん。もしよかったら、これ使いますか?」


 波汐さんは肩から提げているスクールバッグ、ありふれた合成皮革のそれの中からタオルを取り出した。


「ほぼ使っていませんから。さっき、少し髪を拭いただけ。……嫌ですか?」

「ううん、ありがとう。助かる。えっと、名前、覚えてくれていたんだ」


 差し出された無地の白いタオル。私はそれを恭しく受け取って、思ったことをつい口にしていた。

 

 波汐さんとはこれまでろくに会話した記憶がない。彼女の声を聞く機会は、授業内で教師が発問をして彼女を指名した時ぐらい。クラス内にはいわゆる女子グループがいくつかあるけれど、彼女はどこにも入っていないはず。かと言って、特定の男子生徒と親しげに話しているのを見た覚えもない。ついでに言うなら、私とは座席も離れているのだった。


 だから名前すら覚えられていないのでは、勝手にそう考えていた。


「――声がよく通るので」


 波汐さんはそう言って微笑んだ。たしかに同様の指摘をされた経験は過去に数度ある。けれど、こんなふうに優しい笑みを向けられて言われたのは初めて。そのことで名前を覚えてくれていたというのも。なんだかいつも以上にくすぐったい。


「そっか。教室でうるさくしていたら、ごめんね?」

「いえ……」

「私も波汐さんの声、気になっていた」


 きょとんとされる。

 そして波汐さんの口許から笑みが消えて、しまったなと思った。


「どういう意味ですか」

「柔らかくて、落ち着いているから。だからその、声をもっと聞きたいなって」

「掠れていて、褪せているだけです」


 波汐さんが首を小さく振る、横に。

 褪せているだなんて、声にあまり使う表現ではない。とにかく、彼女の声に対する自己評価が低いのがわかった。それでも私は「そうかなあ」と敢えて呟き、濡れている部分をタオルで拭く。ひと通り拭き終えると、折り畳み傘をひょいっと取り出した。


「タオル、ありがとう。洗濯して明日にでも返すよ。その前のお返しに、ってのも妙だけれど、これをどうぞ」

「二本あるようには見えませんが」

「うん、この一本だけ。二人で入るのってどうかな。私さ、やってみたかったんだよね、相合傘。ほら、青春って感じでしょ」

「青春……。想い合っている男女ならともかく、今日初めて話したクラスメイト同士でもですか」


 不思議そうな声。でも、嫌悪感はそこにない。そう信じた。


「細かいことは気にしないで。どうする?」

「せっかくの提案ですけれど、そのサイズの傘には二人で入るのは難しいかと。私のことはかまわず、帰ってください」


 ここは自分に任せて先に行け系女子だった。いやいや、単に遠慮しているだけだろう。もしかして、私にさっさといなくなってほしいのかな。まさかね。私と彼女の中途半端な距離感。そこから半歩近づいてみる。


「私が一人で帰ったとして、波汐さんは?」

「止むまで待ちます」

「ふむ。止まない雨はないってことだね」

「ニュアンスが違うような」

「間をとって、私がビニール傘でも買ってこようか」

「そこまでしなくても。……もう少し待ってみます。そのうち弱まるかもしれません」

「そっか。私もそれまでここにいていい?」


 私の要求に波汐さんは無言で肯く。

 困り顔と苦笑い。これまでは表情に乏しい、どちらかと言えばクールな女の子だと思っていたのが、ただのイメージでしかなかったと知る。丁寧な口調は彼女の声質によく合っていて、それは他人と壁を作るためのものではなさそう。内気で可憐なお嬢様。話してみると、そんな印象を抱く。


「せっかくだから、雨が止むまでおしゃべりしたいな」

「……私とですか」

「もちろん。大丈夫、うるさくしない。答えにくいことも訊かない、たぶん」


 私の提案を彼女は控えめに了承してくれて、それで私たちはお互いの素性、たとえば出身中学や住んでいる地域、部活動への所属の有無、趣味についてなどを話した。


 私たちは二人とも電車通学で、学校から徒歩十五分足らずの最寄り駅を利用している。駅と学校間を自転車で通っている生徒も多い中、梅雨に限らず私たちは歩きだ。そして二人揃って帰宅部で、人に積極的に話せるような趣味らしい趣味がなかった。


「本を読むのは好きなんでしょ?」

「はい。ただ、読書家なのかと問われたらノーです」

「というと?」

「教室で読んでいる時は大抵……雨宿りをしているみたいなものですから」

「雨が止むのを、つまり時間が過ぎるのを待っているわけだ」

「ええ、そのとおりです」


 伝わってよかった、そう安堵したのが彼女の表情からわかる。


「傘がいるならさ、そう言ってくれればいいのに」

「どうなんでしょう」


 かぶりを振る波汐さん。そしてたどたどしく話す。


「一人でいる時間も嫌いではないんです。こう言うと、強がっているふうに思われるかもしれませんが。別段、寂しさを募らせてはいないと言いますか」

「なんとなくわかる。私も仲のいい子がそんなにいないから、一人の時間が少なからずあるわけで。その時に感じるのは、なんていうか、孤独感ばかりじゃない」


 まさか伝わるなんて、そんな気持ちが彼女の顔に出る。驚かせる意図は私になかったので、驚かれたことにびっくりだ。


 気が合いそうだね、私たち。

 そんなことを軽率に口にしそうになった。

 言っても構わないのだが、でも、保留にしておいた。今はそれより、もう半歩近づいて、しばし雨音に耳をすませてみるほうがいいって思えたから。


「あの、石上さん。もしよかったら」


 ぬるい沈黙を破ったのは彼女。

 タオルを貸してくれた時と言葉そのものは似ているのに、調子はまるで違う。びくびくとしている。勇気を振りしぼっている。


「待って。その続きは当てさせて」

「えっ」

「んー……よし、わかった。きっと、こう。『雨が止みそうにないから、いっそ二人でどしゃ降りの中を突っ走って、水も滴るいい女になっちゃおう』ってことだよね」

「いえ、違います」


 間髪入れずに真顔で返された。しんと二人の間に硬い沈黙があって、それから顔を見合わせ、ぷっと笑う。


「ふふっ、何ですか今の冗談」

「まぁ、そういうのも青春っぽいかなって」

「今度は本気で当ててみてくれますか」


 さっきより声を和らげ、波汐さんが訊いてくる。


「はずれても怒らない?」

「悲しくはなるかもです、少し」


 そんないじらしいことを言われると、かえってからかいたくなるのが私の悪い癖だ。


「波汐さんは泣き顔も綺麗だろうなあ。待って、今のも冗談。そんな困った顔しないで。わかっているんだから、言いたかったこと。――友達になろうってことでしょ。でもね、それだったらさ、もうなっている。ちがう?」

「……違いません」


 彼女がはにかんだ。

 児童劇の中にでもあるような、お友達宣言は、面映くも心地よかった。


 これで雨がぱっと止んで日が差してくれでもしたら上出来だと思ったが、現実ってそうはいかない。その後、二人で十数分間雨宿りを続けた。その間に連絡先を交換したり、彼女が家で飼っているアメリカンショートヘアの写真を見せてもらったりした。


 ようやく雨が小降りになって、二人で急ぎ足で駅へと向かう。フェアプレイ精神に則って折り畳み傘は使わない。勝負ではないですよ、と波汐さんに呆れられもしたが気にしなかった。


 駅に着くまで雨は弱く、優しいままだった。歩道橋で繋がった二つのホーム。私と波汐さんは家が逆方向。


 別れ際に彼女は私に「また明日」と囁いてきた。


 故意ではないのだろう、その囁き声がやけに色っぽくて。恋ではないのだろう、私はどきりとしたのだった。

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