第2話 可愛い異物
高校生の頃、千鶴は磨き続けてきた処世術や容姿の派手さ、持ち前の負けん気で、いわゆるスクールカーストの上位層と呼ばれる地位に属していた。
勉強も運動も人並みだったが、友達だけは多く、先輩後輩問わず、自分の名前を知らない者は少なかった。
先生たちからの評価はあまり良くなかったけれど、それでも、楽しければそれで良かった。
主犯格ではないが、イジメのようなものに加担したこともゼロではない。
何度も言うようだが、当時は楽しければそれで良かったのだ。
誤解がないように言っておくと、そういうものの邪悪さは理解していた。だからこそ、深く関わらないようにしていたし、友人が度を越えそうなときはやんわりと制した。ただ、自分の地位を保つため、周囲に合わせ淘汰する相手は選んでいた事実はある。
幸か不幸か、度を越えた虐めはなかったものの、少なくとも自分だったら学校なんて行かなくなるだろうなと思えるぐらいには陰湿な嫌がらせもあった。
被害者には加虐心をくすぐる何かがあるのだろう。標的になる人間というのは、やはりはみ出し者たちであった。
空気が読めない、口数が少ない、という性格上の原因から、ルックスが悪いという外見上の理由で、彼らは貴重な青春時代をふいにされていた。
そうした人間たちが人柱になって、自殺したりもせずに無事に登校してくれているおかげで、教室という無邪気な悪意が集う空間の均衡が保たれているのだ。
そして、そんな被害者たちの中でも、異彩を放っていたのが紫電瑠璃こと、紫野瑠璃だった。
口数は少ないし、空気も読めず孤立した女だったが、ルックスだけは抜きん出ていた。
言いたいことは言うし、物が隠されれば泣き言も言わずに見つかるまで一人で探し続ける。
きっとその姿は、孤立、というよりも孤高と形容すべき気高さを持っていたと思う。
だが、だからこそ虐める側は満足せず、行為はエスカレートするばかりであった。
女子は、綺麗で可愛いものが好きだ。
しかし、その賞賛は常に嫉妬と同居しており、相手に攻撃する隙があるなら、傷つけ、自分と同じ場所まで貶めようとするのもまた常。
そうすることでしか自分の尊厳を守れない連中は、それでも落ちてこない孤高の星に毎日のように嫌がらせを行った。
二年生に上がりクラスが変わってから、千鶴は初めて紫野とまともに関わりを持つことになったのだが、既に彼女は変わり者として前のクラスメイトから煙たがられていて、物を隠されたり、面倒を押し付けられたりしていた。
噂には聞いていたが、本当に美人で、変人だ、というのが千鶴の正直な感想だった。
あれだけのルックスを持っているのであれば、もう少し愛想を良くするだけでみんなの憧れの的になり、たちまちスクールカーストの頂点に座せるのではと、何だか勿体なく思えて、堪らなかった。
今思えばそんなもの、彼女にとっては路傍の石ころにも及ばないほどの価値しかなかったのだろう。
しかし、当時の千鶴からすると、本当に要領の悪い奴だとしか思えなかったのだ。
あれは、クラスが変わり、桜の花もすっかり散ってしまった季節のことである。
放課後、部活にも所属していなかった千鶴は、何となく集まった友達と記憶にも残らない話をして時間を潰しており、途中、喉が渇いて、食堂のそばにある自動販売機に冷たい飲み物を求めて移動していたときのことだ。
千鶴は校舎の壁沿いにある植え込みの中で何かが動いた気がして、たいして意味もなく、そちらに足を向けた。
すると、緑と茶色が混ざった土の上に膝を着き、四つん這いになって地面を探っている紫野がいた。
あまりに予想していないことだったので、うわ、と男みたいな声が出てしまって、恥ずかしくなっている千鶴に向かって、彼女は冷ややかな視線を向けてきた。
紫野は数秒ほど千鶴を見つめていたかと思うと、鼻を鳴らして再び地面をかき分け始めた。
その姿を目にして初めに抱いた感情は、あんなに綺麗な指先が泥土で汚れていることへのやりきれない不満だった。
天使の輪が出来ている黒髪だって、たくさん葉っぱが付いていて、何とも情けない。
千鶴は声をかけるかどうか迷っていたが、それも一瞬だった。
前々から紫野に興味があった千鶴にとって、良い機会だと思えたのだ。
植え込みに張り巡らされている蜘蛛の巣を回避しながら、彼女に近寄る。
「ねぇ、紫野さん、何してんの?」
彼女は何も答えなかった。いい度胸だ、ともう一度尋ねる。
「何してんの、紫野さん」
少し遅れて彼女が顔を上げた。その端正な顔には、明確な敵意と苛立ちが込められていた。
「見れば分かるだろ」
独特な喋り方だ。
「え、分かんないんだけど」
紫野は視線を手元に戻すと、舌を鳴らした。
これには千鶴もムッときて、すぐさま文句をぶつける。
「何、今の。私が何かしたかなぁ?」
「うるさい、どっか行け」
「はぁ?」と答えてから、何が起こっているのかピンときて、千鶴は「あぁ」と呟いた。
「何か隠されたわけだ…。それはご愁傷さま」
たっぷりと皮肉を込めてそう言ったのだが、紫野は既にこちらに興味を失ったのか、まるで反応せず、せっせと捜し物にあたっていた。
それが何だか悔しくて、嫌味をもう一言、二言付け足す。
「ねぇ、探したってもう見つからないんじゃない?私、見つからないに一票でーす」
「黙れ、用がないなら消えろ」
消えろ、なんて言う人間が現実にいることに驚きつつも、あぁ、これは虐めの標的になるだろうなと肩を竦める。
彼女はあまりにも異質だ。
泣き言一つ口にせず、一人で地面をあさり、見つかるかも分からない探し物を探している。
自分にこんな暴言を吐く者は、学校中探しても他にはいないだろう。
汚れていく指先を、惜しむような目で見ていた千鶴だったが、喉の乾きを思い出し、『予定通り飲み物でも買いに行こう、それにしても暑いなぁ』と空を仰いだときだった。
植え込みに植えられた大きな桜の木の枝に、ひらひらと紫色の何かが引っかかっているのが見えた。
目を凝らしてよく見てみると、ハンカチか何か、薄い布であることが分かった。
(あー…あれかぁ)
どうやら、あれが紫野の探しているものらしい。
このまま可愛げのない紫野を見捨ててもよかったが、手に付いた泥で白く綺麗な顔まで汚れ始めたのを見てしまうと、いい加減、我慢ができなくなって千鶴は声を上げた。
「紫野さん、用があるなら話しかけて良いわけ?」
女子は、綺麗なものが好きなのだ。もちろん、千鶴も例外ではない。
ただ千鶴の場合、嫉妬に駆られるほど自分の容姿に自信がないわけではなかった。
紫野は何も答えなかった。だが、小さな声で「あぁもう」と呟いているのは聞こえる。
しょうがないので、もう少し分かりやすく口にする。
「上を見てみなよ、上」
その言葉に紫野は弾かれるようにして上を見上げた。単純だな、と口元が緩む。
彼女は、風ではためく紫のハンカチを視認すると、ほんの少し安心したように息をついたが、すぐに顔を歪め、「くそ」と吐き捨てた。
その理由は千鶴にもすぐ分かった。
地表から桜の枝まで軽く三メートルはある。とてもではないが、ジャンプして取れる高さではない。
案の定、何度か跳躍した彼女の指先はハンカチにかすりもしなかった。
「残念だけど、届きそうにないね。諦めたら――」
意地悪いことを千鶴が言おうとしていたそのとき、紫野が今度は桜の幹に腕を掛け始めた。
「うそ」
信じられないことに、木に登って直接取ろうということらしかった。
「ちょ、紫野さん、危ないって」
「うるさい、静かにしろ」
紫野は千鶴が止めても何度も木に登ろうと試みた。
しかし、手足を掛けるところもない桜の木の幹は、その努力を嘲笑うかのように彼女を拒絶していた。
何度落ちかけても危険な真似をやめない紫野に、千鶴は少し語調を強くして忠告する。
「紫野さん、本当に危ないってば。やめときなって」
彼女はそんな真剣味のある忠告を受けると、キッと瞳に力を込めて、先程の千鶴以上に語気を荒げて言い返した。
「お前たちがこういうことをするから、危ない真似をしなきゃいけなくなるんだよ!」
「お前たちって…、私、紫野さんに何もしてないんですけど」
「同じだ。こんな子どもじみた、くだらないこと…」
同じなわけがないだろう、とこちらも躍起になって反論しようとしたところ、紫野の力強く、強靭な意思を感じさせる双眸に睨みつけられて、思わず言葉を失ってしまう。
「お前たちの思い通りになんて、なるものか。私は諦めない。媚びも売らない。分かったら、さっさと消えろよ!」
千鶴の頭には、そんな八つ当たりに近い暴言は入ってきていなかった。
なんて眩しい瞳なんだろう。
強くて、美しい、ブラックダイヤみたいな光を放つ瞳だ。
あまりにも綺麗で、つい、この手に入れたいと夢想してしまうような魅力的な眼差しだった。
彼女が再度木登りを試みたことで、千鶴は我に返った。そして、紫野に見惚れていた自分に気が付いて顔が熱くなった。
そうして実りそうにもない努力を見つめているうちに、段々と自分の言われた言葉が思い出されて、千鶴は拳を握る。
「…お前『たち』に一括されるのは、なんか腹立つんだけど」
千鶴は自分の言葉など聞こうともしない紫野に目くじらを立てると、地面に視線を向け、落ちている手頃な枝を見つけた。そしてそれを手にずんずんと荒い足取りで紫野の隣へと移動した。
「なんだよ」
紫野が刺々しくぼやきながら振り返ったのと同時に、千鶴は言葉を紡ぐ。
「紫野さん、ぴょんぴょん飛んだり、木登りしたりしても無駄だと思うよ」
紫野は千鶴の手元を一瞥すると、嘲笑するように言う。
「それで?そんな木の枝なら届くの?」
「届くよ」強く断言する。「紫野さん、しゃがんで」
「は、何で」
「肩車、すれば届く」
紫野はぽかんと呆気に取られたように口を開けた。
自分でも突飛なことを言っている自覚はある。しかし、今手元にあるものでハンカチを取ろうと思うなら、これ以外、やりようがあるとは思えなかった。
「誰が、誰を?」と紫野が分かりきったことを尋ねてくる。
「紫野さんが、私をに決まってるじゃん」
「はぁ?何で…」
「私みたいにか弱い娘じゃ、絶対に紫野さんを持ち上げられないんですぅ」
何で、という言葉がそういう意味で発せられたわけではないことぐらい、千鶴も分かっていた。照れ臭いことをやっている自覚があったから、なんとなくごまかしたかったのだ。
だが、空気の読めない紫野はその発言にも顔をしかめて、「でかくて悪かったわね」と文句を言った。
紫野を何とか説得して、肩車の土台にする。
紫野は渋々といった様子でしゃがみ込んだのだが、千鶴のほうが彼女の首に跨る場面になって気恥ずかしくなった。
「お、重いとか言わないでよ」
「いいから、さっさとして」
興味はないと言わんばかりのドライさ。
「もう、感謝してよね!」
枝を片手に紫野の首に跨る。
紫野は掛け声もなく千鶴の太腿を掴むと、力強い動きで立ち上がった。
土を探っていた美しくしなやかな指先の感触に、妙な声が出てしまう。
「ひゃっ」
気恥ずかしさが一気に込み上げてきた千鶴は、それを紛らわすために突っぱねるような口調で叫ぶ。
「急に立たないでよ!ってか、絶対に落とさないでね!」
紫野はただ一言、「善処する」とだけ告げると、不安がる千鶴がどれだけ彼女の頭を抑え付けようとも、ハンカチが取れるそのときまで何も言わなかった。
千鶴はハンカチを手に地面に戻ると、周囲に誰もいないことを確認した。
変わり者の紫野と一緒にいて、しかも、手助けをしていたなんて知られるとどういう弊害があるかも分からない。
自分を村八分にする馬鹿はいないと思うが、念には念をいれておく。
千鶴はこの平穏で、居心地の良いスクールライフを手放すつもりはなかった。
「はい」とハンカチを手渡す。紫野は視線を逸らしながらそれを受け取った。
じっと相手の反応を待っていた千鶴に向けられたのは、感謝の言葉などではなく、疑心に満ちた眼差しと、自分を拒絶するような呟きであった。
「手伝ってなんて、言ってない」
これには千鶴も呆れかえって、大仰なため息を出す。
「はぁ…あのねぇ、ありがとうの一言も言えないわけ?」
「…何で私が。悪いのは、隠した奴なんだから」
「だからぁ、それは私と関係ないじゃん。ただの善意で手伝ってあげたんだから、お礼ぐらい言いなよ」
「アンタだって、どうせあいつらの仲間だ」
あいつらって誰だよ、と一瞬考えたが、すぐに同じクラスのやんちゃな友人たちを思い出して口を噤んだ。
(確かに…紫野さんからすれば私もあいつらも同じようなもんか)
妙な決まりの悪さを覚えて、頭の後ろをかいていると、くるりと紫野が体の向きを反転させた。
その傍若無人な態度に、つい声が大きくなる。
「紫野さんさぁ、もうちょっと愛想良くしたら?可愛げないよ」
ぴたりとも足を止めないで、「あっそ」と言われる。
ぴんと伸びた背筋が、彼女の気高さを思わせるようだ。
ちょっとくらいは振り返れよ、と思いながら、無駄だと知りつつ言葉を続ける。
「アンタ、滅茶苦茶美人で頭も良いんだし、ほんのちょっと周りへの気の遣い方を変えるだけで、学校生活マシになるよ」
どうしてこんなにも彼女のことが気になるのか、自分でもよく分からなかったが、やっぱり、綺麗なものは得だということで片付ける。
美しいガラス細工にひびが入るところなど見たくはないのだ。
不意に、紫野がぴたりと足を止めた。
(なんだろう?)
てっきり無視して校舎に戻っていくとばかり思っていたので、とても意外だった。
彼女は半身になって振り返ると、一度悩まし気な視線を千鶴に送った後、どこを見るでもなく視線を宙に投げた。
困惑している、というのが直感で分かる仕草だった。
話を聞く気にでもなったのかと千鶴が考えたとき、紫野が低い声で、「くだらない」と呟くのが聞こえ、今日一番のため息がこぼれ出た。
(もー、知らない。勝手に虐められてろ)
心の中でそんなふうに毒づいた矢先のことだった。
「一応、ありがと…千鶴」
再び視線をこちらに向けた紫野が告げた言葉は、千鶴の心臓をこれでもかというほど絞めつけた。
紫野は堂々とした足取りでその場を去って行ったが、去り際の横顔には朱が差していた。
千鶴はそれからしばらく、麻酔でも打たれたかのようにその場を動けなかった。
そのうち、ようやく動き出したと思ったら、千鶴は先ほどまで紫野がしていたように地面に座り込み、固く目をつぶって悶えた。
(なに、今の…?)
どうして下の名前で呼んだのか、とか、あぁ、ちゃんとお礼も言えるんだな、とか、照れたりするんだな、とか…。
頭の中をぐるぐるしている言葉はたくさんあった。
だが、混沌とした脳内の中心で、堂々と座り込んでいるのはもっとシンプルな感情だった。
(…やばい、かわいい…っ)
溶岩みたいな熱を帯びる心臓。それは出口を求めているかのように激しく暴れ回って、千鶴自身に何かを伝えようとしていた。
四肢の先がじんわりと熱くなったかと思うと、痺れるような感覚が全身に広がっていく。
鳥肌が立っている。
紫野の人間的に当たり前なお礼の言葉一つ如きで、体中の細胞が歓喜していた。
(え、私、そっちの趣味もあるの?いやいや、そんなわけない。これは、美しいものに憧れる、女としてのただの本能に決まってるじゃん!)
ありえない、と千鶴は何度も心の中で叫んだ。
それでも休まらぬ己の鼓動に、自分の体って、こんなに不自由だっただろうかと肩を落とした。
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