かけ違えたボタンホールを、今

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かけ違えたボタンホールを、今(上)

第1話 同窓会の知らせ

 それは帰宅のために、会社の同僚数人と少し離れた最寄り駅まで歩いているときのことだった。


 月夜の街路灯は、過剰ともいえる街全体の光に押し負けて無駄なオブジェクトと化してしまっていたのだが、近くに植えてあるヤマボウシの葉を明るく照らすことだけは成功していた。


 その横を同僚と足並み揃えて通り抜けたとき、駅前に設置してある大型モニターから、優雅なクラシック調の音楽が響いてきた。


 「あー、最近この人、有名ですよね!」


 大きな声を上げて足を止めた同僚に従うように、自分も歩みを止める。


 「ええ。テレビをほとんど見ない私でも知っているくらいだもの」


 上司と同期の同僚が見つめるモニターには、化粧品のコマーシャルが流れており、女優の目元に、まるで絵画でも描くかのようなタッチでアイシャドウが塗られているシーンであった。


 やれこのメーカーの商品は凄いだとか、最近流行っているだとか、たいして重要ではない内容が話題の中心になっていたが、この手のコミュニケーションは大得意だった。


 ノリが良いと思われるために、どんな反応や発言をすればいいのか心得ていたし、そう思われることが社会で生きていくためにどれだけ大事かも知っていた。自分の学生時代なんかは、そのスキルを磨くためにあったと言っても過言ではない気がする。


 周囲に同調できない奴は、淘汰される。集団社会で生きるよう遺伝子がプログラムされている私たちは、集団から弾き出されたら、永遠に損な役を担って舞台上で踊り続けるしかない。


 そのために、私――相沢千鶴(あいざわちづる)は集団で強く生きる術を磨き、実際そうして生きてきた。


 そう出来ない者たちを弾き飛ばして、貶めることで得の出来るポジションをキープしてきたのだ。


 ちらりと、モニターに映った女優の顔へと視線を向ける。


 ミステリアスで、何を考えているか分からないが、研ぎ上げられたような知性と、燃え盛るような克己心を感じる瞳。


 強靭な意思が、そこにはあった。


 「はぁ…」


 無意識のうちに、ため息が漏れていた。


 それを自覚した千鶴は慌てて咳払いして誤魔化し、同僚たちに気付かれていないか確認した。幸い、彼女らはもうモニターよりも自分たちの話のほうに夢中になっていた。


 千鶴はそっとモニターに視線を戻す。


 ――こちらの心の奥を覗き込むような目つき。そこだけは、全く変わっていない。


 「千鶴ちゃんはどう思うぅ?」


 先程よりも鋭い目つきでモニターの中の女優を見つめていた千鶴に、同僚が鼻の詰まったような声で質問を投げかけた。


 質問の矛先に立っていた千鶴は内心、びくりとしながらも満面の笑みで尋ね返す。


 「え、ごめん、何が?」

 「もう、話を聞いてなかったの?だから、この女優さんの名前、知ってますよねって話。三咲さんったら、これぐらいも知らないんだからぁ」

 「別に構わないでしょう。女優の名前を知らないぐらい…」


 名指しで指摘された上司の三咲が不貞腐れた様子で反論していたが、千鶴の同僚である菜奈のよく回る舌の前に言い負かされて肩を竦めていた。


 それを横目で観察し苦笑いを浮かべながらも、千鶴は何と答えれば正解だろうかと頭を回転させていた。


 「えっと…」


 もう一度、モニターのほうを見つめる。


 繰り返し流れている映像では、また女優が印象的な眼差しでこちらを見透かすようにしているところだった。


 「ごめん、私、この女優さん知らないや」


 それが、千鶴の出した答えだった。本心とは真逆の偽りですら、彼女の口を通せば真実味を帯びるから不思議である。


 千鶴の返答を耳にして、菜奈はたいそう不満げに大きくため息を吐いた。


 それからありがた迷惑なことに、この女優が誰であるかを説明してくれたのだが、自分にとってそんな説明は釈迦に説法。


 いわゆるお姫様カットで、黒に近い、深い紫色で髪を染めたモニターの中の女優は、紫電瑠璃(しでんるり)。


 本名は紫野瑠璃(しのるり)。数年前からミステリアスなモデルとして人気を拡大し、今ではドラマに映画、コマーシャルにと重用される人気女優だった。


 年齢は自分と同じ二十七歳。いや、誕生日がまだだろうから、二十六歳か。


 身長は172cm、体型はすらりとしていてスレンダーだが、色香を感じさせるタイプ。


 好きな色は紫で、好きな食べ物は切り干し大根。


 声は見た目のクールさとギャップがあってとても高く、少女のよう。


 鎖骨の下に黒子があって、とても艶やかな印象を受ける。


 さらに特筆するべき点として、紫電はメディアに出た当初から、自分が同性愛者だということをカミングアウトしているという点がある。


 それが時代の風潮にマッチして、イメージアップを図る企業から重用されることになったようだった。


 もちろん、それがなくとも彼女は十分に人目を引くし、魅力的だ。


 「へぇ、そうなんだ」


 白川の説明に脳内で補足を付け足しながら、千鶴は笑って頷き、相槌を繰り返した。


 それは上司である三咲が、「もうすぐ電車の時間だから、さっさと行くわよ」と促してくれるまで続いていた。


 雑踏を押しのけ、駅のホームへと向かうエスカレーターに乗り、前で仲睦まじく冗談を言い合う二人を見ながら、千鶴は携帯に届いているメッセージをチェックする。


 一通り未読のメッセージを確認してから、最後にここ数日、何度も開いているグループチャットをチェックした。


 そこに表示されている内容に目を通し、また小さくため息を吐く。


 メッセージの冒頭には、『同窓会のお知らせ』と大文字で書かれていて、金額や会場、時間帯など必要な情報が説明された後、最後に紫色の大文字でこう締めくくられていた。


 『我らが大女優、紫電瑠璃こと紫野瑠璃さんも出席予定!』


 千鶴は、携帯をスーツの内ポケットにしまいながらエスカレーターを昇り、二階の窓から見下ろせるモニターを横目に誰にも聞こえない声で呟いた。


 「…絶対、行かないから…」


 ありがた迷惑だ。何が嬉しくて、恨まれていると分かっている相手に会わなければならないんだ。


 しかも、そいつが女優として成功しているなんて、本当に笑えない冗談である。


 「…同窓会なんて、死んでも行くもんか」

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