二十三、ねこやなぎ
最近の修氏は、勉学に励んでいる。
なんでも、今月末には国家試験があるそうだ。
年に一度の難関で、これに合格すれば相談員の道が開け、出世への第一歩となるという。
「はぁ……なんでこんなに条文が多いんだよ。
もっとわかりやすく書けばいいのにな。」
机に広げた分厚い法律書に向かって、修氏はうんざりしたようにため息をつく。
だが、そのぼやきを聞きながら我は心の中で微笑んでいた。
法律とは、わかりやすいように書かれてはならないものなのだ。
わからないからこそ権威があり、難解であるからこそ官吏の仕事が存在するのである。
夜遅くまで勉強に励む修氏の姿は、時に痛々しくもあり、頼もしくもあった。
机に突っ伏して眠りそうになる修君の机に、キミがすかさず飛び乗った。
前足でペンを押さえ込み、くいっと引っ張った。
「こらっ、今いいとこなんだから!」
慌てて取り返そうとする修氏をよそに、キミはノートの端をぺろりと舐め、インクをにじませてしまった。
「うわぁぁぁ! ここ重要箇所なのに!」
その叫び声に、部屋の片隅から冷ややかな視線が注がれた。
小夜ちゃんはキミに猫パンチをすると、修君にすまなそうに一声、
「にゃあ。」
それからキミを連れ出してくれた。
真っ白な毛並みを丁寧に舐めながら、ちらりと修君に目を向けた。
「これでいいでしょう?」
そう言わんばかりの無言の圧力に、修君は思わず肩をすくめた。
「……はいはい、わかりましたよ。勉強します。」
しぶしぶペンを持ち直す修君。
「ちょっと遊びたかっただけなのに。」
キミがそう言いたげに小夜ちゃんを見て、しっぽをぱたぱたと床に打ちつける。
すると小夜ちゃんはふっと目を細め、まるで
「今はおとなしくしていなさい」
とでも言うように、キミの毛づくろいを始めた。
私にはもう、その様子がたまらなく愛おしくて、おかしくて、笑いをこらえていたよ。
「……猫にも監視されてる気分だな。」
修君が小声でぼやいたのを聞いて、私はクスッと笑いながら台所でお茶の準備をした。
「二人の未来がかかっているからな……。」
ふと漏らした修君の言葉が、胸の奥に残っていた。
やがて、疲れ果てた修君が机に突っ伏したまま眠り込むと、私はそっと毛布を掛けた。
ペンを握ったまま眠る彼の横顔は、少年のようにあどけなく見えた。
私は小さく息を整えて、静かに囁いた。
「あなたは今のままで十分よ。
こんなに努力をしているのだから、きっと大丈夫。
大好きよ、だんな様。」
そう言ってほほにキスをした。
一瞬だけ修君は目を開け、ぼんやりと私を見上げた。
そしてかすかな笑みを浮かべて、再び目を閉じた。
「うわっ、もう朝じゃないか。」
無理もない。
日中はデイサービスで働いて、長老たちの世話をしているのだ。
試験だからと言って、休みが取れるほど人手に余裕がないようだ。
「こんなんじゃ、体壊しちゃわよ。」
女房が心配そうに修氏に声をかけるが、
「さおちゃんとの生活のためだもの、ここは踏ん張らないとね。」
すかさず女房は、
「ねぇ修君、気持ちはわかるけれども、今のままでは試験の前に倒れちゃうわよ。
なんでもそう、バランスが大事なのよ。
無理してつぶれちゃったら、何も報われないでしょ?」
「そうなんだけど……。」
「修君、お休みとってね。
私、今有給使って休んでいるから、合わせてね。」
さすが姉さん女房である。
これには修氏も応えないわけにはいかなかった。
今日は久しぶりにキミたちと一緒にホームセンターに来ている。
修君が無理ばかりするから、私に合わせてお休みをとってもらった。
「最近ずっと勉強ばかりで、外に出ていないでしょ?
気分転換も必要なのよ。」
「そうだね、さおちゃんと出かけるのも久しぶりだね。
もちろんキミたちとも。」
なんだかんだ言っても、二人の時間は大切よね。
修君も喜んでいる。
いつもの買い物、キミたちのご飯とそれから……。
「今の季節は、やっぱりこれよね。」
そう言いながら、黄色いどてらを修君に見せると、
「そんなのを着たら、そのまま寝入っちゃうよ。
僕は……さおちゃんがかけてくれる毛布がいいな。」
あら、起きていたのね。
それじゃ、あの言葉も聞いていたのね……。
私は修君の顔を見るなり、自分でも赤くなっていることが分かった。
ホームセンターの駐車場で、珍しいものを見つけたの。
「あ、ねこやなぎ。」
まだ寒いこの時期には珍しく、猫の手のような花穂がちょっとだけ顔をのぞかせていた。
「縁起がいいものだから、一枝だけ、もらって帰ろうか。」
修君のそういう無邪気なところも、なんだか愛おしく思えた。
夜になって、いつものように修君は勉強を始めた。
窓辺には、昼間摘んできたねこやなぎが一枝、静かに揺れていた。
白くやわらかな芽は、まだ寒さの中にありながら、確かに春の気配をまとっている。
その姿は努力の果てに訪れる、未来を告げているようね。
キミが前足でちょこんと枝を叩き、ふわふわを揺らして遊んでいた。
芽吹きの音が聞こえてくるようで、私の胸の奥まで温かさが広がった。
吹き荒ぶ 寒風を耐え ねこやなぎ 芽吹きのときを ただ忍び待つ
修氏も、ここが勝負のしどころと見ているようだ。
我もまた、小夜とともに女房の春を願っているのである。
こうして修氏は試験に赴いたのだった。
その背を見守る女房は、まるでかつての小夜のようであった。
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