第3話 家族と過ごす朝

 顔を洗った後、鏡で見た自分の姿はどこかしっくりとこなかった。

 まるで別の誰かの体の上に、自分の頭が乗ってるみたいだ。


「そんなに、目立たないよな」


 右の側頭部の髪を少しだけかき上げて、その下に薄っすらと走っている三本の傷跡をなぞる。


 もう随分前についたものだ。

 今ぐらい髪を伸ばしておけば、きっと気づかれないだろう。


 どうしてこんな傷ができたのか。その理由は詮索されたくない。

 最後の抵抗として手櫛で側頭部をがさがさとかき混ぜてから、俺は洗面所を出てリビングに向かった。


「あ、クロくん、やっと来た。ほら、こっち」


 朝食の香りがするリビングに入るなり、姉ちゃんが手招きしてきた。

 ネクタイを結ばせろってか。

 まあ、自分で出来なかったんだから、甘えるしかないだろう。


「こうしてー、こうしてー、ここでくるっと回して、こう! はい、きゅっ!」


 いや、ちょっと待て。


「あのさ、できれば結び方を教えて欲しいんだけど」

「ええ? いいわよ、毎朝私が巻いてあげるから。新婚さんみたいに」


 よし、絶対明日までに自分で調べよう。できないと学校で困るだろうが。


「おはよう。なかなか様になってるじゃないか、久郎」

「ああ、父さん、おはよう」


 姉ちゃんの手つきを思い起こしながらネクタイの結び目を触っていると、既に席について新聞を読んでいた父さんと目が合った。


 前髪を上げてかっちりと後ろに固めた髪形に、上はポロシャツで下はジャージという動きやすい恰好。我が家の主にして中学校の体育の教師である橋爪太郎のスタイルは、昔のまま変わっていなかった。


 今朝も顧問をしているバレーボール部の朝練を見に行くんだろう。


「ただ、あまりお姉ちゃんに甘えすぎるのはどうかと思うぞ」


 相手に緊張感を与える鋭い目で、じろりと睨まれる。

 流石は監督として生徒を何度も全国大会に導いているだけのことはある。今の俺でも少し気圧されてしまうような迫力だ。


 この徹底したバレーボール愛の男は、俺にとっては厳しい父親なわけなのだが。


「いいか、今日から新生活が始まって落ち着かないのはわかる。悩むことも」

「ねーパパー、お醤油とってー」

「ハイハイどうぞ、遠華ちゃん……でだ、人間というのは悩んだ時こそ」

「お父さん、新聞閉じて。テレビ見えない」

「奈々子ちゃん? 今、俺いい話しようとしてるんだけど。こう父親らしく」

「そういうのいいから。占い見逃しちゃうでしょ、早く」

「えええー……もう、仕方ないなあ」


 姉ちゃんや妹にはうだつが上がらないのも、昔のまんまだ。


 しゅんと肩を落とし、新聞を小さくたたむ父さんを見て、学校では女子生徒相手にどうしてるんだろうなあと心配になる。


「要するに、お父さんは久郎に頑張れって言いたいのよね」

「む、まあ、そんなところだな」


 説教を中断された父さんをフォローするように、母さんが柔らかな口調で話に加わってきた。


 背が高く、厳しい印象の親父とは正反対の、小柄でほんわかした雰囲気の女性。

 それが俺の母親、橋爪春子である。

 母さんは俺の姿をまんまるな目で上から下まで入念に眺めて、


「うん! かっこいい、自慢の息子だ」


 豊かな胸を満足気に反らして、にこっと笑った。


「久郎が戻ってきてから、色々大変だったけど頑張ったかいがあったわね」

「……そうだな」


 腰元に手を当て、楽し気に言った母さんに父さんも微かに笑って答える。


 色々大変だった、か。

 両親に見つめられながら、俺はこれまでの半年のことを思い返す。


 俺は中学校というものに一日も通っていない。

 正確には、俺の意志に関係なく通えなかった。

 俺を姉ちゃんが通っている私立高校に入学させるために、二人が方々を駆け回って頭を下げ、面倒な手続きを山ほどしてくれたことは知っている。


 その努力と期待に上手く応えられるかが、今はただ不安だ。


「あのさ、母さん、俺……」

「また、学校には行かない、なんて言わないでね。お願い、久郎」


 家に戻って来たばかりの頃のことを思い出したのだろう。

 母さんが悲しそうに目を伏せる。


「確かに、あなたには普通じゃないことがあった。でも、大丈夫。私たちがついてるからね。これからは普通に勉強して、年相応に遊んで、友達と笑える幸せな時間を過ごして、いいの」

「…………」

「いいのよ、久郎」


 俺を見据える母さんの目には有無を言わせない光が灯っていた。

 でも、それはとても短い時間のこと。


「それに母さん、息子におっきなお弁当を作ってあげるのが夢だったんだから」


 笑顔で重箱みたいな弁当の包みを渡されてしまい、俺は何も言えなくなった。


 この弁当、通学鞄に入らない気がするんだが。


「……二人とも、ありがとう」

「どういたしましてっ。野菜も残さず食べてくるのよ?」


 曖昧な感謝の言葉に、母さんは冗談めかして言い、父さんは無言で頷いてくれた。


「さ、太郎さん、そろそろ出なきゃ遅れちゃうでしょ! 久郎もさっさと食べちゃって! 奈々子は久郎をちゃんと学校まで連れていくこと! 遠華ちゃんは食べたらちゃんと歯磨きね!」

「はーい」

「らじゃー」


 てきぱきと指示を出して朝の仕事に戻っていく母さんに、姉さんと遠華ちゃんがピッと敬礼をして返す。


 俺と父さんはそれを見て、どちらともなく苦い笑みを浮かべた。


 ウチって、女性陣の方が強かったんだなあ。

 そんなことに三年前は、気づきもしなかった。

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