ひとつ、ふたつ

霙座

再生

 陥没跡を埋めて歪んだコンクリートを歩いて、商店街から一本裏通りに入る。間口の狭い木造二階建ての前で止まる。両隣に建っていた一軒、二軒、その先もすでに空き地だった。

 砂まみれの窓に張られた半壊判定を告げる古びた半紙と向き合う。

 頭上では日没後の光芒が、空を割いて直進していく。夕方になっても酷く湿度があって、長袖の喪服の内側はじっとりと湿る。


「響子、か?」


 低い声がした方を向くと、作業服姿の男が目を点にしていた。二台すれ違うくらいがやっとの道路の真ん中で、本来はがっしりしているであろう肩が少し下がっている。

 少年時代の面影が重なる。

 別れた時と同じ顔をしていた。


 羊二は何も言わない私をじっと見て、しばらく逡巡して、根負けしたように溜息を吐いて歩み寄ってきた。そんな仕草も懐かしくて、私の頬が緩んだ。


「ひさしぶり」

「おう。ひさしぶり」


 並んで半壊の建屋を見上げた。羊二を盗み見ると、何か言いたげな口許が震えていた。聞きたいことを聞かない努力をしているのだとわかった。


「今日お墓に行ってたの。お寺さんにお経上げてもらって」

「墓参りか」

「母さんの納骨」


 去年母が亡くなった。葬式は向こうで済ませたけれど、祖父や祖母の入る故郷の墓に納骨したかった。長らく顔を出していなかった親戚の家を訪ねて歩いて、母を墓に入れる話を付けた後、空き家のままになっている実家について切り出された。


 ——きょうちゃんに面倒を言うことになって申し訳ないけど


 面倒、そうなんだな、迷惑を掛けていたんだな、そう思った。

 港町の実家の名義は曾祖父のままで、片付けるにもまず遺産分割協議が必要だった。地元の親戚一同にはんこをもらわなくてはいけない。だから気力のなくなっていた母には整理できなくて、そのままになっていた。


「壊すことにした」


 母は、すっかり体が弱ってしまってから、この町に戻りたいと言い始めて、母さんの家があるからね、退院できたら帰ろうねと励まし続けた。

 震災から、十年経つ。

 通りに建ち並んでいた家は解体が進んで、私の家を残して更地になっていた。


 羊二は右手をうろうろさせてから首の後ろを搔いた。


「この通りは液状化がひどかったしほとんど全壊判定だったからな、ばたばたと公費解体の決定が出て壊したよ。地盤改良はできていないから、建て替える人はいなかった」


 ぽつんと佇む実家。

 取り残されてしまったのだ。


 夕日は無人の建物を橙色に染めた。太陽の残り火が壁に焼き付けた色だけで、このまま燃えてなくなってしまいそうに見えた。火の粉が舞って、私の眼球まで焼けてしまう。じわりと熱い。


「そうだよね。近所おじいちゃんおばあちゃんばっかりだったし。みんないなくなったんだね」

「……消息不明になるとか、あるかよ」


 羊二の手が急に私の手首を掴んだ。


「ライン、ブロックしやがって」


 私もいなくなった人だ。他人のことは言えない。羊二が怒るのは当然だ。


 傾いた家に住めなくなって、両親は隣県の親戚を頼って引越しを決めた。母は酷く心配症で、小さな余震にも過敏に怯えた。この場所で生活を続けることが困難だと、子供でもすぐに理解できるくらいの怯え方だった。

 引越しは地震が発生してほんの一か月後のことだった。私は受験生だった。もう志望校も決めていたのに。

 羊二と高校が離ればなれになっても、会えなくなるなんて、思ってなかった。


「ずっと長野にいたよ。高校出て、就職して」


 長野で三人の生活が始まったが、父は災害派遣で能登に行ったきりいなくなった。父がいなくなり母は精神的に持たなかった。母ひとり子ひとりでやってきた十年だった。


「連絡できなくてごめんね」


 壊れていく町から、私だけ逃げて、ごめんね。


 喪服の黒から白檀の香りが辺りを漂った。たくさんのものを失った町に、私は何もできなかった。この家がなくなったら、もうここに来ることもなくなって。生まれた場所が消えて、だったら私は最初からいなかった、そうであれば羊二を傷付けずに済んだのに。


 羊二の大きな手に力が籠もった。手首が軋む痛みはなく、情けなさに唇を噛む。


「どうしようって言ったおまえに、何も言ってやれなくて悪かった」


 殴られることも覚悟したのに、羊二は、泣いた。


「行くな、なんて言えなかった」


 中学生だった。私たちにどうすることができただろう。

 何の力もなかった。自然の力にも、親の決定にも抗えなかった。


 羊二は忘れるだろうと思っていた。無くなっていくものを数える町で生き続ける彼が、一度数えた私を思い出すことはない。

 だけど少女の私は、忘れてくださいと一言伝えることができずに連絡先を消した。伝えないことが私の唯一の希望だった。


「戻ってこい」


 あの時とは違うと抱き締めて、羊二は耳元で掠れ声を震わせた。涙が肌に沁みた。

 肺が潰れて苦しくて私は顎を少し上げた。羊二の肩越しに見える夕暮れの商店街に、ひとつ、ふたつ、明かりが点り始める。





(終)

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ひとつ、ふたつ 霙座 @mizoreza

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