カブのポタージュ

平沢ヌル@低速中

第5章『恋』・こぼれ話

【新帝国歴1131年1月8日 エックハルト】


「……なんで起きてるの」

「なんでと言われましても」

 新年の祝祭を数日過ぎた冬の朝のことだ。早朝と言うには少し遅く、外は明るくなってきている。しかしながら相変わらず天気は曇りで、窓の外の景色からは陰気な印象は拭えない。


「別にぃ〜。ただ、寝込んでるかもしれない、そう聞いてたからさ」

「寝込んでいた方がいいですか?」

「そんなこと、あるわけないでしょ」

 見かけ上冷淡に言い放ち、引いてきた台車に目を向ける彼女。その姿は見慣れたメイド服姿だ。一方のエックハルトはと言えば、上衣だけを脱いだ姿で、身支度はとうに済ませている。


「どういう風に吹き回しです?」

「どういう意味?」

「お分かりではないかと」

 居室の椅子の上で足を組み直し、エックハルトは相手の様子を注意深く観察する。


 ――やっぱり、彼女だ。


 エックハルトは口角を僅かに上げる。

 アリーシャ・ヴェーバー、ということになっている、表向きは。だが今ここにいるのは、それとは別の彼女だった。


 どういう風の吹き回しか、エックハルトがそう尋ねるのにも尤もな理由はあった。まずアリーシャは、既にメイドの職務を解放されていて、もっと上の職階に就いている。またエックハルトには朝の給仕が付いていたが、それがアリーシャだったことはない。また、朝の給仕には少し早い時間だった。


「……だって」

「だって?」

「今日なんだよね。だから」

「…………」


 エックハルトは黙り込む。

 エックハルトにとっては因縁の日付だった。名目上の誕生日ということにはなっている、だけど誕生日ではない、彼が拾われた冬の日の朝、それと同じ日付。

 例年ではこの日の前後数日間、エックハルトは人事不省に陥るということになっている、実際には自暴自棄な本性の制御が効かなくなる。


「そっちこそ、今年はどうしたの」

「……さあ」


 普段の彼らしくはない曖昧な返答をエックハルトは返す。どうかしているのは例年の方で、今年はどうもしないという他はないだろう。その理由は彼にも判然とはしない。

 鈍い心の痛みのようなものは感じていないことはない。だが、それは平常時の彼を責務に縛り付ける意志力のたがを外すようなものではなかった。


「ええと。その。なんというか。だからね」

「……はい」


 今度は軽口のようなものを叩かず、エックハルトは慎重に彼女の言葉の先を促す。きっと言いにくいことなのだろう、そう思ったためだ。


「あんまり食べられないんじゃない、そう思ってさ。だけど辛気臭い食べ物もあんまりだし、味のないお粥みたいな。私も、レパートリーあんまりないし。ここの食材もそんなには分かってないし。考えたけど、これだけ」


 強気を装った言葉とは裏腹に、遠慮がちに彼女が差し出す皿には、湯気を立てる不透明な、白っぽいスープ。そこに添えられた、見慣れたパンが2切れ。


「スープじゃないよ。スープなのかな?……とにかく、ポタージュ。カブの。カボチャの方が良かったけど、まだ普及してないからね、この世界では」

 彼女の言う言葉は、彼には分からない部分もある。とは言え、その一皿がそんなに珍しい食べ物に見えるわけではない。カブを柔らかく似てから裏ごしして、牛乳で伸ばしたものを調味料で味付けしたもののようだった。


「私もよく分かってないから、正しい料理法なんて。あ、でもちゃんと出汁は取ったよ? 一応ね。それから、リヒャルト様用のコショウもちょろまかしてね」

「ちょろまかしたんですか。本当に」

 これにはさすがのエックハルトも笑いそうになる。

「……嘘。ちゃんとお願いはしたよ。アリーシャが、リヒャルト様に。ちゃんと快諾してくれたよ」

 アリーシャが、と、そう彼女は言う。その言葉に、エックハルトは一度、片手で顔を拭う。


 アリーシャ・ヴェーバーが表の彼女で、今いる彼女が、1枚のカードの裏とも言える人物だと、エックハルトはそう思っている。しかし、その二人がどういう関係なのか、意思疎通が取れているのかはエックハルトには分かってはいない。裏の彼女の方は表であるアリーシャの事を口にし、理解している様子だが、アリーシャの方はどうだろう? あの生真面目で堅物、エックハルトの立場としては少々生意気な小娘でもあるアリーシャの方に、自分の行状の、その内心までを知られ、あまつさえ気遣われでもしていたら、少々厄介な気にはなる。それを言えばこの裏の彼女も生真面目で堅物ではあるかもしれないが、少なくともこちらの方は、この世界の常識に囚われてはいない。


「……だから! 早く食べてよ。冷めちゃうから」

「……すみません」

 エックハルトは慎重に、そのスープを匙で口に運ぶ。

「ごめんね? 美味しくなかったらさ?」

「……美味しいです。とても」

 彼がぽつりと口にした言葉に、彼女はやっと、少し微笑む。

「良かった。祝ってあげる人がいてもいいじゃない」

「……それで?」

 彼女は口を尖らせて、憎まれ口でも叩きたそうな素振りだったが、何も言わずしばらく黙り、それから口を開く。

「……そうだよ。……私も……だったら良かったのに」

「……何だったら?」

 言いながら、エックハルトは注意深く彼女の顔を観察する。しかし彼女はすぐには続けず、エックハルトに尋ねるのだ。

「エックハルト、ねえ。何歳になったんだっけ?」

「30ですよ」

「30かあ。……そっか」

「それが何か?」

「一つ歳上だね。私より。私、29歳だったから」

「…………」

 今度はエックハルトが黙り込む番だった。しかし彼女は、それが楽しいことでもあるかのように続ける。

「そう、29歳なんだよ、私。だから、あなたにも人生の先輩風吹かせてたわけ。これまではね」

 それから彼女は少し黙った。そして、先程言いかけた言葉の続きを口にする。


「……私には夫や恋人は……守ったり守られたりするような誰かはいなかったけど。でも私にも、小さな男の子がいたら。誕生日を祝ってあげられるような、そんな子供がいたら。その日だけは、好きな食べ物を作ってあげて、喜びそうなプレゼントを考えて、その日だけは二人で愉快に過ごすの。私も、そんな人生だったらな。地位だって、名誉だって、恋も結婚もいらない。そんな幸せがある人生だったら良かったのに……」


「……それは」

 その言葉に、エックハルトは彼女の手を握り締める。彼女が思っているよりは強い力で。その力に、彼女は怯えたように顔を上げるのだ。

「言わないでください、それだけは。決して。そうじゃなかったはずだ。あなたがあなたの人生に望んでいたのは。あなた自身の望みのことは、決して忘れないで」

 刺し貫くようなエックハルトの視線に、彼女は弾かれたように立ち上がる。

「……ごめんね! もう行かなきゃ。忙しいから、私も、アリーシャも。お皿を下げるのは、悪いけど誰か頼んで」

 そう言って踵を返し、彼女は足早に去る。その直前に彼女は何事か呟くが、扉の閉まる音と混ざってエックハルトには聞き取れなかった。


 エックハルトは俯くと、顔を覆う。

 彼女には分からない。とても美味しい、それが彼にとって、何を意味する言葉なのか。

 彼には分からない。父無し子、それが彼女の世界ではどれだけのことを意味するのか。それとこの世界で意味する事との違いを、彼女がどう考えているのか。

 それでも分かる、こうだったら良かったと言う彼女の言葉、それは彼女がエックハルトのためについた嘘で、決して彼女の本心ではないことだけは。

 またもう一つ、エックハルトには分からないことがあった。酷薄で残忍な彼の本性が感じている、それとは全く違った想いが、ただ別の世界があるという可能性に対する興味と欲望によるものなのか、それとも、そうではないのか。ただ満たされれば萎むだけの他の全てに対する退屈しのぎの欲求と、どうしてそれが違っているのか。


 エックハルトは皿の上のパンを手に取ると、それを獰猛に齧る。それはいつもと同じ、味のない、喉に詰まるような、布を噛んでいるようないつものパンだ。

 既に冷めかけていたポタージュからは、さっきは感じた味というものがまだ感じられる。だがそれは、確実に薄く、色褪せた感覚になっていた。


(本編第5章に続く)

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