ep.21 人魚姫の夢(前編)

 翌日。無人の教会を後にし、下町の表通りへと出てきた百瀬。

 外気温は5度を行ったり来たりしているというのに、街の気配はどこか汗ばんでいた。武器を持った町人や兵隊が坂道をあちらこちらと走り回り、正体不明の街宣車が義勇軍招集の知らせをかしましく叫んでいる。――そんななか外套の紳士は慌ただしい人の波をより分けて路面電車の待合所へと革靴を響かせた。

 混乱に目を回す街では男一人が身を晦ませることもさほど難しくはない。地味なコートを羽織り込んで帽子を目深に被れば、霊薬に冒された彼の虹髪もたちまち冬晴れの街に一般人として溶け込んだ。

 しかし混雑した待合所に辿り着いたとき、彼に背後から声をかける者がひとり――。

「兄さん」

 百瀬が丸い目をして振り返ると、雑踏の中に栗毛の青年が立っていた。そしてその傍らには色黒の淑女。ふたりも外套を羽織りこんで目立たない格好をしている。

「もう来ていたのか。ちょうど今から待ち合わせ場所に向かおうとしていた」

「こっちもそう。だけど路面電車よりもっと良い足を見つけたんだ。ここからすぐのところだ、いったん人混みから離れようか」

 彼らは顔の強張りを解いて頷き合った。公共交通機関を待つ住民の群れから抜け出し、信号無視の馬車や輸送車を避けて大通りを突っ切る。そこから歩道脇の階段を降りると、路地には乗り捨てられている車がいくつも見受けられた。

「外の世界に注目されてしまっているからか、街を捨てる人たちもいるみたいでね。あれのどれかを借りようと思って。手頃なのを探してくるから、ふたりはそこで待ってて」

 青年はそう言い残して手前のセダンへと歩いていく。淑女が汚れた街灯に背を預ける傍ら、百瀬はコートについた砂埃を叩き落としながらふと空を見上げた。

 冬の太陽はなんとも心細い――。路地裏に吹き込む北風は若紳士に帽子を深く被り直させ、その背後で手持ち無沙汰にしていた淑女の背を街灯から引き剥がした。

「零士郎。親父は今も教会か?」

「いいえ。もう城へ向かっています」

「自殺行為だぞ」

「残されたチャンスは今だけですから」

 彼女は夫の言葉を白いため息で返し、外套の裾を揺らして崖上の古城へ目を逸らす。

「お」

 そこで先ほどからセダンの運転席の足元に潜り込んで物音を立てていたシラユキが、ひょいと長い身体を引っ張り出して夫婦に声を掛けた。

「ふたりとも。鍵が見つかった。こいつを借りよう」

 返事する代わりに彼らは車に向かって歩き出し、そそくさと後部座席へ乗り込んでいく。ふたりが扉を閉めると同時にエンジンがかかり、セダンは路地裏を急発進した。

 ――車は若い家族の所有だったらしく、車内には幼児向けの人形やらチャイルドシートやらが備えられている。シラユキは運転の合間に邪魔な物を無造作に外へ放り投げていたが、百瀬の隣に座ったクリスは子供向けの人形を大切そうに腰元に乗せていた。

「シラユキくん、会社の状況は?」

「急場は凌いだが、それはもうひどいもんだ。円卓の再結成を皆が望んでいるよ」

「……レムニスカの処刑は予定通りに?」

「ああ。人手が足りない中で、なんとか押し込んだ」

「そうか……」

 路上にゴミが散らかっていてもお構いなしに突っ込んでいくから、車はひっくり返るのではないかというぐらい激しく揺れる。窓から突風の吹き込む車内でシートベルトをつける百瀬へ、シラユキはバックミラー越しに半開きの視線をよこした。

「――で。これからどうする? 城の中はおっちゃんに任せるかい」

「いいや。私とクリスも行こうと思う。シラユキくんは会社の面倒を見てもらえるか」

「それはいいけど、今の城に正面から入ることは難しいと思うよ。どうするの?」

「ミレニモ通りの8番地まで行けるかい」

 跳ね飛ぶ車に肩を揺らしながら、隣の席の淑女は夫の横顔をちらりと覗き見る。

「ミレニモ通り? どうして貧民街?」

「城の地下へ続く秘密通路の入り口があるんだ」

「それは初耳だね。オッケー。じゃあそこまで送ってくよ」

 人員輸送車や宗教街宣車を避けながら、借り物のセダンは凸凹の砂利道をひたすら走った。摩天楼の先に見え隠れする古城のシルエットに精悍な若紳士は浅く咳払いする。

 ――程なくして車は貧民街一角の小広場に停車した。

「それじゃ、気をつけて」

 バックミラー越しにシラユキへ頷き返した百瀬。夫婦は慎重に外の様子を窺ったのち、そっと同時にドアを開ける。ここらもすでに住民の移動は済んでいるらしく、古びた住宅街には背高の夫婦を除いて動くものが一切なかった。長い石階段の下に立ちつくすふたりの背後で、セダンは石畳の上を急発進して走り去っていく。

「では」「行くか」

 物々しい格好をした夫婦は迷いなく階段を上り始めた。――上り切った先の鉄門を潜って枯れ草の庭を通り過ぎ、打ち捨てられた洋館の中をまっすぐ1階奥へ向かう。

 戸棚奥の隠し部屋は相変わらずの様相であった。冷たく湿った風が吹き出す錬金炉を潜り抜け、夫婦は革靴を鳴らして洞窟通路を進み始める。

 例によって光源は手元の懐中電灯を除いて皆無。先を行く百瀬は息遣いと足音から淑女が自分の後ろをついてきているのを感じ取る。

 ――そうして20分ばかり暗黒の道を無言で歩き通し、洞窟通路突き当たりの螺旋階段を上り始めてしばらく。百瀬の後ろで足音を響かせる淑女が思い出したように呟いた。

「コッコとここを通ったのをよく覚えている」

「コッコと? いつのことです」

「もう十年以上経つよ。この階段を降りながら外の世界のことを話していた」

 圧迫感のある暗黒に低い声が反響する。懐中電灯の光をふたりの足元に向けて揺らしながら、百瀬は階段を上る前腿に絶えず力を込めた。

「なぜコッコは城に?」

「人魚にさらわれてきたんだそうだ。よくある話だ、お前もよく知る通り」

「そこから見ず知らずのゴーレムを誘って逃げたということですか。あの子らしいですね」

「まぁな。――俺も外の世界のことは知りたかった」

「もしや貴方が人らしい生き方を結婚に見出したのはコッコの唆しだったのですか」

「そういうことになる。奴から教えてもらったんだ、人間らしい生き方というのを」

 洞窟通路の暗黒に乾いた笑い声が響く。反響する彼女の声が掻き消えて再び革靴の足音が目立ち始めたとき、沈黙を取り繕うように百瀬は喉を鳴らした。

「貴方の使命の半分は……私が引き受けます」

 クリスティーヌは何も言い返さない。ふたりはしばらく無言で螺旋階段を上り続けた。

 だが――、階段ももう終わりである。突き当たった扉の前で百瀬は意を決して後ろを振り返る。懐中電灯の明かりに照らされて、淑女の怪訝な面持ちが暗闇の中に浮かんだ。

「……結婚を有耶無耶にできるのは今しかないんだぜ」

「二度は言いません」

 ばつが悪そうに鼻から息を漏らす花嫁。彼女の柔らかな仕草を見届けたのち、百瀬がくるりと反転して重い扉を押し開けると――、埃を孕んだ空気がぶわりと吹き出した。

 劇場の後舞台は相変わらずの有り様だ。厚手の幕は埃を被り、千切れ、舞台装置や小道具とともに木床の上へ散らばって埃をかぶっている。依然として廃墟の模様であった。

 そこへすらりとした外套がふたつ、ゆっくりと身を曝け出す。夫婦は周囲の暗黒を手元のライトで寄り分けながら、黒く変色した木床の上をそろそろと進んでいった。

 そしてプロセニアムアーチを抜けて幅20メートルの主舞台に出たふたり――。彼らが死骸で埋まった客席の中に見知った顔を見つけるまで、さほど時間はかからなかった。

「遅かったですわね。ふたりとも」

 人魚たちの骸が並んで座る観客席、その中央最前列に声の主は腰掛けていた。

 壊れかけのゴムの人形――。華奢な身体の至る所を極太の鉄針で貫かれ、体表を覆う偽の肉はほとんどが削ぎ落ちている。ローブから仄見えたゴムの肢体には人間の痕跡がもうわずかしか残っていなかった。

「レムニスカ……?」

 自身の名を呟いた淑女に、傷だらけの人形は客席から主舞台を見上げて「ええ」と答える。5メートルほどの距離を置いてじっと睨み合う姉妹――。正装の人間と裸体で向き合っているというのに、令嬢は堂々と気品に満ちた鼻笑いを返してみせる。

「処刑されたと聞いていたが?」

「他の遺体とすり替わりましたの。牢獄の看守と仲が良くて助かりましたわ」

「幸運な女だ。――だがその体たらくで『助かった』とはな」

「多少の傷は致し方ない。お姉様たちとやりあって無傷だなんてあり得ませんもの」

 骸骨のように痩せた頬で満足げに微笑んで、白人娘のラバーゴーレムは客席の真上に虚な視線をやった。夫婦もステージの中央から彼女の視線をそっと追いかける。

 廃劇場の天井を覆う天井画にはおびただしい数の剣槍が突き刺さっていた。客席の至る所へ雨漏りの如く漆黒の泥が滴り落ちるのを見て、若紳士は目頭の筋を引き絞る。

「人魚たちの城は表世界の巨大爆弾で丸ごと滅ぼした。お姉様たちは一匹残らず血の泡になって消えたことでしょう。彼女らが地上に残した傀儡たちも争いあって自滅するまで」

「なぜお前がそんなことを」

「むろん、最初は説き伏せようとしましたの。この身体にかけた呪いを解けと」

「そんな願いが通るはずがない」

「ええ、そうね。交渉は決裂した。だから彼女らを破滅させた。わたくしが自身に与えられた呪いと向き合うのなら、彼女たちは邪魔にしかならない」

「どういうことだ」

 令嬢は客席に座ったまま、青白い胸の上で血に染まった金髪を揺らした。

「――自分で自分の生き方を決めることこそ、まさに

「……」

「クリスティーヌ。貴方がありふれた人間になることを夢見たように、わたくしは自分の人生を自分で描くことを『人らしく生きる』ことと見たのですわ。だからわたくしは人魚を殺し、因縁深いこの城を焼き払い、世界の全てを自ら決めるために覇を成そうと思う」

 唾を飲んだ淑女に白い歯を見せて、令嬢は組んでいた小鹿のような脚を床に降ろす。震えながら席を立ち上がる細い身体――。赤い瞳は框の下から若紳士に視線を据えた。

「嫌な目。の学生も同じ目をしていた」

「……」

「わたくしの足首にかかった、最後の枷を壊してしまわねばなりませんわね」

 彼女がぼろぼろの腕を高く掲げたその瞬間、不意に光り輝く天井画。数多の武器が突き刺さる大絵画に光の水が溢れ出し、やがてそれは天地逆さまの巨大な泉を成した。

「……」

 そして――、びたりと水平に張った水面に波紋が立つ。靴裏に感じた小さな揺れが次第に激しさを増していき、思わず夫婦は顔を見合わせた。

 何かが近づいて来る――? そう思ったのも束の間、百瀬は咄嗟に目もとを腕で覆った。

「ぶわっ!」

 身体の芯を貫く轟音、逆さ泉に巨大な水柱――。瞬時に右腕をずらした彼が水飛沫の中に垣間見たのは、泉の奥底から滑り落ちてくる西洋龍の横顔であった。

『ゴガァアアアッ!』

 令嬢の背後に着地した黒龍は鋭利な角で客席を薙ぎ払い、大きな翼で埃まみれの空気をかき乱す。鋼鉄の鱗から振り払われた水滴が百瀬の頬にぴたりと触れた。

『グル……』

 巨大な後ろ足で客席を踏み潰し、全長10メートルの黒龍はぐわりと上半身を引き起こす。――その水晶玉のような瞳が舞台の夫婦を強く睨みつけた。

「焼き尽くしてしまいなさい! 忌まわしき因縁を!」

 眼下に立つ乙女の言葉を聞き入れ、黒龍はその大口に火炎を迸らせる。赤熱する炉を間近で覗くような熱気に目元を庇いながら、百瀬は隣の人魚姫へ声を張り上げた。

「クリス!」

「分かっている」

 黒龍を前に淑女がコートのボタンへ手をかけた――、その瞬間である。

「!」

 突如として百瀬は目を瞑る。古びた劇場に太陽のような強い光が輝いたのだ。

 どこからか吹き込んだ砂風が虹色の髪をぶわりと巻き上げ、すぐさま怒涛のような突風が若紳士の身体を押し飛ばした。

『ゴォオッ』

 黒龍が不快げに翼を折りたたみ――、そして十数秒。次第に砂嵐の勢いは衰えていく。

「ぐっ」

 龍が影を落とす客席でゆっくり瞼を開けた令嬢は、周囲の光景を目の当たりにして喉に籠った息を吐き出した。

 黄金きらめく劇場が――、視界に広がっていたのだ。

「……これは」

 立ち籠める古生地の香り、真新しいランプが見せる淑やかな明かり――。劇場を埋め尽くしていた人形の屍は忽然と姿を消し、目の前には美しく整えられた客席が広がっている。それはまるで古の劇場が元の姿を取り戻したかのようであった。

「……」

 いっぽう黄金の輝きには目もくれず、ひたすら無言で眼前の黒龍を睨む淑女。落ち着き払った彼女の態度を見て、この場の誰もが目の前で起きた奇跡の由来を理解する。

「ワールドゴーレム」

 客席で奥歯を噛み締めた姉を尻目に、人魚姫はおもむろにコートを脱いだ。そして彼女がそれを宙に放り投げたその瞬間である――。

『ガッ』

 周囲に気を取られていた巨龍へ劇場の至る所から黄金の鎖が打ち込まれた。龍は反射的に身をよじったが、意思を持つ鎖はその巨体を決して離そうとしない。

『ゴガァアア!』

 次の瞬間、怒り狂った瞳は主舞台の奥へ無尽蔵に並ぶ攻城兵器バリスタの影を見る。まるで槍のように巨大な矢がすべて自分に向けられているのだ。

「何をやっている! これは幻想だ!」

 首の下から聞こえてくる怒声で我に返り、すぐさま喉に火炎を溜め込む黒龍。

 ――その首元をすかさず鋼の矢が射抜く。そして叫び声をあげて仰け反り怯む龍をめがけ、バリスタは一斉に捩り発条ばねを解き放った。巨体に撃ち込まれる矢の嵐は鎧のような鱗を容易く貫通し、赤熱する龍の胸部に奥深くまで突き刺さる。

『ゴァアアッ!』

 ――それは煮えたぎる圧力鍋に刃物を刺すようなものであった。胸の奥で燃え上がる火炎の内圧に耐えきれず、短い断末魔とともに龍の身体は炸裂する。

 ちぎれ飛んだ死骸は花火の如く客席に降り注ぎ、一面はたちまち火の海に。硬い面持ちでその場に立ち尽くす淑女の傍ら、若紳士はただ呆然とするばかりである。

 ――頬を照らす熱気に眉を顰めた百瀬は、炎の中から令嬢の金切り声を聞いた。

「おのれぇッ!」

 燃えるローブを脱ぎ捨てた裸体の人形は、客席に散らばる龍の生首から鋭利な角を毟り取る。それから主舞台の妹たちを睨みつけると、龍の屍を踏み台にして火の海から宙に飛び上がった。

「ぐっ」

 可憐な人形は軽々と木床に着地し――、そろりと身を起こす。

 焼け焦げた身体はいよいよ人間の名残を失い始めていた。肉の削ぎ落ちた胸元で揺れる綺羅星のネックレスだけが、彼女がであったことを物語る僅かな痕跡である。

 ――燃え盛る劇場で秘密結社の幹部たちはひたと睨み合う。

「ここで決着をつけましょう」

 鋭く長い龍の角を刀のように持ち、眼前の敵に突きつける令嬢。彼女に向かって歩き出そうとした若紳士の肩を、淑女は「待て」と素早く引っ掴んだ。

「俺が殺る。お前は何もするな」

「奴を始末するのは私の役目です」

「任務を手伝えと頼んできたのは誰だ?」

「それは……」

「あれは俺の姉だ、身内の不始末はこちらで片付ける。お前はそこに突っ立っていればいい」

 そう吐き捨てて夫を後ろに押し込んだ中東娘。スーツ姿の乙女は近づいてくる宿敵に視線を据え、頑なに背後を振り返らない。百瀬は言葉を飲み込むしかなかった。

「なんだっていいですわ。一人ずつ殺してやるまで」

 そう呟いて華奢な裸体は前に沈み込み――、その眼前で淑女は腰を深く落とす。クリスは虚空から西洋剣サーベルを引き抜き、令嬢が打ち込んできたへその刃先をぶち当てた。

「!」

 ふたつの刃は火花を散らして互いの刃を滑り上がったのち、互いの使い手を背後に突き飛ばす。

「っ」

 背後へ一歩下がる人魚姫たち――。令嬢は龍の角を額の前に振りかざし、そこから一気に間合いを詰めにかかる。対するクリスは舞台の端で冷静に剣を引き構えた。

「死ねッ、クリス!」

 全体重を乗せた一太刀。目を細めた淑女は――、その長刃をすくい上げる!

「!」

 ぴしゃんと鳴り響いた金属音。宙を彷徨うクリスのサーベルに青い炎が迸る。――わずか一瞬生まれた間隙で、人魚姫たちはぎょろりと視線を動かした。

「そこだ!」

 淑女がねじ込んだ一撃が西洋人形の左肩から右脇腹をぶった斬る。

 骨の芯まで響く衝撃を受け流すことは生理的に不可能。令嬢はふらつく身体を抑えきれず、自身の側面に踊り抜けた淑女への返しが叶わない。――辛うじて目で追えただけだ。細長い身体をねじり、西洋剣を背後に振りかぶった黒スーツの影を。

「ぬぅっ!」

 重い追撃が令嬢の体へまともに入った。彼女の手から零れ落ちた龍の角が宙を舞う。

 そして崩れゆく身体をレムニスカが細い腕で押さえ込んだそのとき、その目がぶわりと見開かれた。――ルビーのような瞳が、剣を引き込んだ乙女を写し込む。

「ぁぁああああああ!」

 刺突は上半身の傷口から胸の奥へとまっすぐ差し込まれた。剣はオーロラ色の火花をあげて、華奢な身体を突き穿つ。レムニスカはたっぱのある身体を振り解こうと悶えたが、淑女は剣を握る手を決して緩めなかった。ゴムの身体が火に焦げてひび割れ始めても――。

「……お……のれ」

 黒焦げになった裸体は次第に動かなくなっていった。やがて剣を引き抜かれて膝から崩れ落ちたあとは、黒ずんだ木床の上でまるで薪のようになって紫色の煙を燻らせるのみ。

「……」

 淑女が肩で息をする後ろで、百瀬は黄金劇場が白い光に包まれるのを見た。美しい古代劇場を形作るゴーレムは天井から崩落を始め、周りの景色は再び廃墟へと逆行する。

 黒龍の亡骸も、令嬢の身を包む炎も――、まるで嘘だったかのように消えてしまった。ただ人形の亡骸が玩具箱をひっくり返したようになっている景色があるだけ。

「……ァ」

 崩れかけの人魚姫は這いつくばったまま淑女に向けて手を伸ばしたが――、抜け落ちる木床とともに舞台の奈落へ吸い込まれていった。そして劇場は再び沈黙に還るのだ。

「……」

 淑女は険しい顔で目を伏せ、そこでようやく背後を振り返った。

「これで終わりだ。犯罪者たちが滅んで、お前の教え子たちも報われるだろう」

「こんな危険な任務に付き合わせて……すみませんでした」

「お前に貸しを作れたと思えば安いものだ。それより、こんなところ早く引き上げよう」

「……ええ」

 舞台裏へと踵を返した新婦は、魚の骨が喉に刺さったような夫の表情に気がつかない。劇場の入り口から遠く聞こえ始めた革靴の音を耳にして、彼女はそっと足を止めた。

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