第四章 忌み火占い⑦
ざあっと陽の光が雲に覆われたみたいに大地を陰らせた。空を振り仰いだジュネクは闇のように染まり、そこから煌めく満天の星空を視界におさめるや、震え上がった。
広野で戦う副皇派の兵士や抵抗するイルㇽの民、トラーシィ、イオ、副皇。誰もが、異変に気付き動きを止める。
ジュネクとアソカだけが異変の詳細を嗅ぎ取っていた。
息が苦しくなって膝を突いて呼吸をしようと喘ぐが、吐き出した息が虚しく散っていく。海の底にいるのだと知覚している己だけが、溺れるこの苦しみを体感していた。
「ジュネク、どうしたんだ⁉」
突然苦しみはじめたジュネクにトラーシィが駆け寄る。そんな彼女がこの戦場の変事が一切視えていないということは、ジュネク以外の者全員が何かが変だという気配を察知しているだけだということを物語っている。
「……火の粉?」
ちらちらと空から光の粒が降ってくる。神威の光に似た碧色の燃え殻が雨のように降り注ぐ。
訝しげなトラーシィとは別に、ジュネクは不規則な呼吸をしながら別世界に引き込まれていた。顔を上げれば暁の空に混じる白い星空があるのに、下を向ければ海底だ。海底にいるはずなのに、その大地は光に包まれた五穀が実り渡っている。
それは以前聞いた、ラムラの言葉を体現していた。
(まさか、死穢野……)
イルㇽ一族が棲む山の麓の大地が死穢野なはずがない。少なくとも、今まではそうだった。
現実が希薄になっていく。
イオは海の上に立っていたかと思えば、今度は土の上に立っている。かと思えば、豪奢な御殿のなかにいる。
炎のなかに、立っている。
うつくしい女性が二人、佇んでいる。身分の高い者だ。
いつの間にか、緑火へと変貌していた。儚い緑炎の奔流に、イオは呑み込まれた。
ふと、頭上に一際明るい光が差し込んだ。大きい光がこの野原に迫っている。
ジュネクは眩しさに瞳が痛くなるのも構わず、目を凝らしてその光の正体を探った。光は鳥の形を成していて、眩しさの原因はその体躯が爆炎で生成されているからだった。
稲妻がジュネクの眼前に落ちた。熾烈な閃光と轟音で誰もが身を縮ませた。
「生きて、いたのですね……」
イオは溢れんばかりに瞳を見開き、つぶやいた。その瞳は濡れている。その微笑みが、胸を打つ。
「————ラムラ」
ジュネクは降臨した人の名を呼んだ。なんとなく、その予感はあったのだ。
その娘は名を呼ばれるや、瞳に珠の涙を浮かばせて両腕を広げてジュネクのほうへ駆けた。
胸に飛び込んできたラムラを抱擁で抱き留める。
「おのれ貴様、悪神か‼」
ラムラはジュネクから離れ、アソカを背後に隠して副皇をじっと見返した。
「兵を退き、この戦を終わらせてください。わたしは争いなどしたくない。どうか和睦の道を」
「和睦か……交渉したいと申すのなら、その神の力を我のために捧げると誓え。そうすれば、この者たちは解放しようぞ」
どこまでも副皇ファーアンは神璽国の頂点に立ちたがる。表現しようのないかなしみが胸中に広がった。
「なぜ、そこまでして神威を欲しがるのです」
「祖神に背き他の善なる神を軽視し悪しき神を敬うなど、正気とは思えぬ。それこそ神アマラスハルに反逆の意志を示しているようなものだ。何のためのイルㇽ人だ? 何のための鎮焔雫だ? 何のための善神だ? 何のための悪神だ? この仕組みを構築した祖神の意図を図ってなにが悪い。すべては神璽国のためだ。兄上のように虚飾のままにはするまい」
争いのために。絶対的な力のために。
「こんなに多くの自国の民同士が血を流しているのですよ。それも神璽国のためだとおっしゃるのですか」
アソカも堪らず口を挟む。
「従順に賤民が従えば済んだのだ。無用な抵抗をするから、多くの血が流れる。よいか、イルㇽ人は我々が所有する戦士なのだ」
ラムラは噛みしめすぎて血の滲んだ唇をさらに引き結んだ。身体全体が怒りで戦慄いた。
しかしその時、あちこちから悲鳴が上がった。
ジュネクが呻きながら周囲を見回すと、副皇軍の兵士たちの体躯が鎧を貫通して燃え上がっているのが見えた。火達磨になっているのに、灰や煙が生み出されず、無限に痛めつけられている。
その異様なようすをジュネクは緊張で硬直した身体のまま、見詰めた。火にくるまれているのは副皇軍側のみであり、ジュネクたち同胞はその何かの干渉を受けずにいられていた。
副皇も苦悶に満ちた表情で火勢に封じ込められていた。
ファーアンが激痛で血を吐きながら、滾る憤怒で血走った眼から憎悪をラムラに投げつけた。
「悪神……悪神だけは……この国にあってはならぬ禍の象徴だ! この卑劣な神め‼」
どよめきが戦場を駆け抜けた。
「どういうことだ。ここが死穢野になったのか……!」
トラーシィが困惑の声を上げた。広い野の歪みは、ラムラとジュネクの二人にのみ伝わっていた。
神威ならどうにか出来るだろうか。殺しも生かしもする神威なら、人を助けられるはずだ。
ラムラが覚悟を決めようとしたその直前、大地を法螺の音が唱和した。
副皇軍の陣営より遙か後方、反発し戦い続けるイルㇽの陣営と挟み合うようにして巨大な軍勢の影が蠢いていた。
「祝皇が派遣させた禁軍だ」
低く呟いたジュネクの言葉に、どこからか息を呑む気配があった。
「どういうことだ⁉」
ファーアンは喫驚を露わに、血の滲んだ口内で歯ぎしりをした。
退却などしようものなら副皇ファーアンは逆賊の汚名が降りかかり、祝皇の座どころか副皇の座を剥奪され、皇族ですらいられなくなる。宮廷榮卜官など顕著であり、彼らは祝皇に求められれば求められるだけ咒術で吉凶を占い、ときには口を出す。対して副皇の要求は辞退する。要求に応じぬ者を裁くことも可能なはずなのだが、咒術を行う榮卜官に、ただの皇族が制裁を加えるのは不可能に近かった。つまり、皇族は榮卜官の気分次第でどうとでもなってしまうのだ。
榮卜官の占いか、はたまたこちら側の裏切り者か。どこかでこの目論見が漏れている。瞬時にそう悟った。
禁軍を指揮する元帥は、オノファトだった。
「ファーアンさま、このままでは我らの軍が……」
むざむざ命を差し出して散る気は毛頭ない。ファーアンは口や瞳から血を流したまま、命令を下す。
「死穢野から我が軍を退かせろ。生き残ったものは我に従え。ともに悪神に取り憑かれた虚構の祝皇の魂を浄化しようぞ! 我、ファーアンは神アマラスハルの勅により、神璽国を善神による恩恵を得る真の祝皇なり‼」
なお衰えを忘れたような士気の高さに、ラムラは目を伏せた。大地に染みる夥しい人の血が、ラムラを蝕む。
どうしたら。
「————なぜ人は叶わぬ願いをする」
そのとき、脳裡に直接声が響いた。
ラムラにだけ響いた声だが、それは鼓動のような波動として大気を揺らした。気付けば叫喚とする人々の間にぽっかり空いた場所があり、火に包まれた人に紛れた奇妙な火炎が盛っている。
それがこちらを見ていた。こちらだけが視えている。一際明るい緑火だ。
それが近付いてくる。
「めずらしいこと。境目の神威を受けてなお、人のかたちを保つ人の子がいるなんて」
ラムラはそれがなにをするつもりなのかを悟り、立つのもやっとな振動に足を踏みしめるイオの前へ進み出た。
一瞬の出来事だった。
ラムラの身体から血が噴き出し、見上げたイオの顔に注がれた。顔に掛かった血液から炎が吹き出す。驚愕に見開かれた瞳は、彼女だけを捉えていた。
「ラムラ、さま……」
掠れた声だけが出た。
それが微笑みを向けているが、イオの世界にはうつらない。
熱を帯びた鼓動が脈打ち、世界が二つに分けられた。
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