第三章 窪手衆⑧
山稜の片側は崖になっている。そんな緩急荒々しい懸崖の地形を巧みに利用した岩屋に窪手衆は居所を構えていた。岩屋一つ一つに家族が暮らしており、岩屋同士はなかで繋がっているため、内部はどこにでも行き来出来る構造になっていて、まるで蟻の巣を彷彿させる。地震や大雨による災害の被害に遭うのではないかと考えたが、シアハは大きな災害が起こったことは一度もないのだと言った。先祖の代でも一度もなかったのだから、これも古代神の恩恵だねと眉を上げた。
外部から岩屋に行くのには山稜からのみの道だけなので、もし砂漠越えをして死穢野を通ったとしても最終的に山登りが待っているというわけだ。死穢野なんてそこからの風を受けただけで病に罹るというのだから、好き好んでわざわざ近付こうとする愚か者なんていないだろうし、代わりに未開拓の地を進んで開発してまで渓谷へと脚を向ける酔狂な探検家がいたところで、この岩屋へ通ずる通路へは窪手衆の目が光っている。なんというか、まさに秘境の集落だ。
ラムラたちは窪手衆の長である老翁シアハの岩屋に招かれていた。洞内にあるいくつもの横穴は外界や他の所帯へと連結しており、一番奥の大きな空洞が老翁の岩屋だ。横穴から興味津々にこちらを覗く窪手衆たちの目線をシアハの付き人が紗幕を下ろして遮り、一礼して退出していく。
「あれはあたしの娘でね、つい最近窪手衆になったばかりさ。腹には宿ったばかりの新しい命がある」
「わかるんですか」
敷布に座したシアハはゆるく首肯した。
「紅焔の夢を視てきたせいかね、段々ものを見ることが出来なくなっていったけど、そのかわり魂の炎が視えるようになったのさ。すべての万物に宿る魂の炎が」
娘には娘の炎とは別に、弱くて小さな炎が視えるのだとシアハは語る。
「魂の炎というのは蝋燭の火のような灯火のことでしょうか」
ラムラは気になり自分が視たのとおなじものが視えるのか確認のため口を挟む。
「灯火かどうかは人の魂次第だろうけれど、きっとラムラに視えているものと、あたしが視えているものはおなじだよ。でも、イルㇽと現人神は似て非なる生き物さ。あたしは視えるだけだけども、あんたは干渉できる。そういう違いがあるんだよ」
ラムラは表情を強張らせた。似た神威を持ち、似た視界を持つ。しかし根本的なつくりが違う。不安がラムラの首筋をなであげた。
「老翁、その紅焔の夢のほうは今でも視られますか? ぼくとラムラは神威を神に納める方法を求めてあなたの元へ来た。何事も見通すその力と先見の明で導いていただけないでしょうか」
ジュネクが身を乗り出して訊ねると、シアハは懐かしそうに、しかし残念そうに頬を緩めた。
「それは無理さね。視力の失いを体感するごとに、予言の才は身をひそめたさ。——カリルゼッナなら、あるいはあるべき道へ導けたかもしれないねぇ」
ジュネクは動機がしそうになるのを抑えて、深く息を吸う。母はその才でイルㇽの集落を守って来たという。皆には母のその輝かしい姿ばかりが届いている。
「母なら、か……」
ラムラはその言葉を受けてカリルゼッナという人物がジュネクの母親の名前なのだと知る。
「だけどもラムラは本当に神威を古代神へと返納しちまうのかい? 今は悪神の神威がその身を助けてくれているだろうに」
「この身に悪神の魂を宿してから、わたしは幸福というものを感じたことはありません。可能であれば返納したいと思ってしまうのはおかしいことでしょうか」
シアハは困ったように眉を下げた。
「おかしいとは思わんけどねぇ、奇妙だとは思うねぇ。初代悪神の末裔、つまり我ら一族は古代神から神威の恩恵を受け、生まれるべくして生まれた者。善悪神の魂の宿り先のあんたたちは神の側に選ばれた者だわさ」
ラムラは汗の滲むてのひらをぎゅっと握り込む。爪がくい込むのも構わず。
「アマラスハル神璽国およびこの地に根付く人の子らは、遙か海の向こう側にある古代神が棲まう島々〝メセニー=レ=イ=ヌカ〟から神意をうかがうべく成り立っている。この地に降り立つ神々は、突然襲ってくるような野蛮さのある神さまではないわけさ。だからラムラが祠へ〝返し談判〟をしたとしても、その神威を返納できるとは思えないんだよ」
この力は返せない。その事実にラムラは目を伏せて脱力する。胸の内にぽっかりと穴が空いたみたいに、あからさまに落ち込んでしまう。
「イルㇽ人は皆この集落の一員となるとき、祠へ行って返し談判をする。判示が下ると神威を返納して普通の人間に戻ってはじめて窪手衆になるのさ。ジュネクなんかが良い例だね。この子は窪手衆になるために来させられたものの、返し談判をしてもその神威は宿り続けたままさ」
ジュネクは肩を揺らして応じてみせる。
「窪手衆となって生まれ落ちた赤子なんぞはそうなるんだけどね、特異な例のジュネクでさえこうだ。果たすべき役割のある代行者が、まだその任を終えていないだろうって告げられているみたいだろう?」
ラムラは曖昧な返事をした。果たすべき役割とは何をさしているのだろうか。そんな役割が己にも課されているのだろうか。だとしたらはた迷惑だと思う。
「人にも神が顕現することはなんの不思議もないことなんだけどねぇ。人には言葉がある。地位がある。いつの世も現人神は権力のある者たちに取り込まれてしまう。現人神たちにとっては、数奇な運命に弄ばれているといえましょう」
ラムラの胸の内をはかってか、シアハは言葉を付け加えた。
「神さまのあらわれ方は多様なのです。本来守護してくださる古代神の一柱だけが、人に厄災をもたらすなんてあり得ないことですよ。それに、禍かどうか判断するのは人の都合によるものですからね」
それに、人の都合に限らず、とシアハは付け加えた。
「神の意に反すれば、等しくこの地に御座すどの神々も人間に禍を与えるのですよ」
ジュネクは祭神について語るシアハの口調がお約束通りに小綺麗になっていくのを聞いて鼻で笑った。
「敬虔なことだ」
「これジュネク、あんたはいつまでたっても不敬な子だね」
すかさず叱責されて、ジュネクは大げさに肩を竦めた。
「不敬で結構。つまりぼくらは神威を借りているまがい物なわけだろう? そのまがい物の力に頼って死ぬまで縛られるんだから、本当にあわれだよ」
欠陥のある摂理のなかで生き続けるのがこの世であるのなら、いっそこのまますべてが終わってしまえばいい。
ジュネクを荒んだ心が支配する。生まれるべくして生まれた、なんて綺麗事で済ませられるほど、楽な生き方をしていない。一族は皆苦しみながら必死に生きているのだ。
「詮索した見方をしすぎだよ、あんたは」
「理不尽に慣れ過ぎたままでいたって、苦しみ続けるだけだろう。憤るという選択肢だってあってもいいはずだ」
ジュネクはこれ以上問答するつもりはない、と顔をそっぽに向けて拒絶する。
シアハはジュネクが子どものような態度を取って心を閉ざしたのを察して、呆れたように、そして我が儘を言う子どもを見るときのような困った顔をした。だが、一変して一喝する母の顔をした。
「そういうあんたはどうなんだい? あんたも、紅焔の夢を視る才があるだろう?」
神威とは別物のこの神威は、稀に悪神の子孫たちに顕現する力だった。神威持ちにのみ隠微に発現し、大抵の者は夢まぼろしに終わってしまう。ところが、時折明瞭に紅の焔の夢を視る者がおり、予言者として集落の守護者となるのだ。
シアハはカリルゼッナとおなじ才に恵まれたが、色濃くあらわれていない。才の絶頂を終えると、瞳は現実すらもうつす力を失った。だが、彼女はその才ゆえに最期は炎に支配されて不遇な生涯だった。神威を持たない者が焔の神威を拝受した例は、これがはじめてだったので、鮮明に記憶に焼き付いている。
才に恵まれた者同士だからこそ、シアハにはジュネクが彼女のように顕著な才があるのだとわかっていた。
「いえ、母のように鮮明には。それに、望んで視られるようなものでもない」
シアハは眉間のしわを深めた。それだけで、老翁の纏う雰囲気がきびしい面持ちに変化しているのを感じ取る。
「ジュネク、今のあんたの炎の揺らぎは母を失い傷心していたときよりも酷いね。それじゃあ紅焔の神威は求めに応じちゃあくれないさ。あの頃のように、あたしに助言を求めたことを否定はせんよ。此所は古代神をお祀りする土地、悪神の墓廟もある。識りうることは何だって教えるさ。だけどね、己をはぐらかし続けていては、あんたの内に秘める神威は上辺だけになるよ」
「ぼくはサウエに従っているだけだ」
ジュネクは喉を引きつらせてうなる。
「嘘はいかんね。ならばなぜラムラを救い続けた。見守り続けた。この娘の神威を解き放つ舵取りとして側に居続ける。サウエの命令に忠実なだけなら、あの夜で関わりをやめればよかろう。そうせずにラムラを気に掛けたのにはわけがあるのだろう? この娘が訊ねずにいるのは、あんたに気を遣っているだけなんだから、甘えるんじゃないよ」
ジュネクはぐっと膝に置いた手を握った。ラムラにはお茶を濁して逃げていた理由を、シアハに糾弾されるとは思いもよらなかった。だが、なんとなくこの老翁には都合良くいくまいとは思っていた。こたえだけを得ようとしても、なにも得られない。
ラムラを見ると、彼女も不安げにこちらをうかがっている。知りたいけれど、聞いて良いのか、居たたまれなさそうにしていた。
それでも。
「————今はまだ、言いたくない」
シアハはジュネクが引きずった声を絞り出して固辞するのを聞いて、どうやらこの子に巣食う残滓の鮮度が今なお失わずにしがみついているのを感じて、あっさりと身を引いた。
「そうかい、それじゃあ仕方ないね」
ジュネクはほっと安堵した。逃げているとわかっていても。
「しかしまあ、せっかく此処まで来たんだからねぇ。海の向こうからやって来る
「うひ……?」
ラムラが訊ねると、シアハは頷いた。
「そうさ。……間もなく嵐がやって来る」
ラムラが首を傾げたそのとき、岩屋内に雨粒が叩きつけられる音が反響し出した。ごうごうと風の音が最奥にすら轟いたということが、何より嵐の到来を物語っていた。
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