第三章 窪手衆➅

 夜明けの刻、朝餉の前に権現樹のある神殿の裏庭へと向かったオノファトは、手塩に掛けて育てた幼樹に短刀を振り下ろした。


 まだ年弱な樹から、涙が流れ落ちる。


 オノファトはその涙を掬い取り口に含む。だが、多少甘いというだけで、この樹液が命を救うものだと実感が沸かなかった。


 権現樹は種をつくらない。権現御鉾を基としているこの樹木は、おそらく世界に一つであり繁殖させるなど不可能に近かった。


「まだ若いですが、いずれは大勢の命を救うでしょう」


 幽鬼のように姿をみせた榮卜官が釣燈火を提げて、貼り付けた笑みをこちらに向ける。この男は常に不気味だった。


「そうだといいがな」


 隣に侍る榮卜官が、オノファトのしかめ面を察したのか余計な口を挟む。


「あなたさまが祝皇となれば、古代神が棲まう島々〝メセニー=レ=イ=ヌカ〟の方々がお認めになり安寧は約束され、このような苦労をせずに済むのですが。現祝皇もそれをお望みです」


「黙れカイレイ」


 オノファトがきつく一喝すると、カイレイは恭しく頭を垂れて一歩身を引いた。

カイレイは神璽国の宮廷榮卜官だ。


 善神が灯した〝青の炎〟で咒術を行い未来を占う榮卜官は、善神悪神を捜し出すのに最も優れた術者が就く。アマラスハルの民衆が称する咒師とはこの占いをする者たちのことであり、悪神の末裔のイルㇽ人たちはこれに該当しない。まず、咒師は悪神の神威を借り受けていない。善神の炎の本来の用途は、榮卜官の占いのためにある。


 特にカイレイは歴代榮卜官のなかで優れた咒師だった。失敗すれば処罰のある宮廷榮卜官の職に就いた彼は、時を有さずして善神悪神を見つけ出すという快挙を成し遂げてみせた。両現人神すら突き止められず、厄災を招いた時代があったことを考慮しても、成し得た業績は大きい。類い稀な咒術の才に恵まれたカイレイは、貴族たちにも認められ出世をしており政にも関与している。先代祝皇も彼に対する信頼は厚かったと言われていて、現祝皇副皇にも篤志家として陰ながら支えている。


 オノファトのこの無謀な試みに知恵を授けたのもカイレイだった。


 身体の弱いイルㇽ人のために、権現樹を繁殖させたい。鎮焔雫を、妙薬を欲しいときに手に入れられるように、彼らのすぐ側に植生させてあげたい。神璽国の権威を手放すことになったとしても、イルㇽ人を自由にさせたかった。


 取り木も接ぎ木も失敗に終わった。何度試しても、一日と保たず枯れてしまうのだ。挿し木も駄目だった。善神が浄化した地の土を用いてみた。切った若い枝の先から血液のような赤い樹液が流れ出し、燃えて消滅してしまった。


 カイレイは死穢野の土で挿し木をしてみなさいと助言した。イルㇽの血族ならば死穢野の祟りなど受けることはないから、と。言葉の通りにしてみると、身体に異常を来さず持ち帰ることが出来た。オノファトは扱いに細心の注意を払いながら、神殿に隠して育成したのだ。


 今日の夜明けの刻に権現樹に傷を付けてみたら、樹液が流れ出すだろうという言葉通りになったのも含め、オノファトにとっては釈然としない心境だった。


「なぜ皇子はそうまでして己を非定するのです」


「神と人は別だ。人が神に支配されるのは間違っている」


 民の声こそが、神の声なのだから。


「御身には神の血が流れているのですよ。亡き祝皇妃カリルゼッナさまも、あなたさまが祝皇となり神アマラスハルのように国のさらなる繁栄に貢献されるのを願っております」


「私には神威のような力などない。母上にも、そのような世迷い言を唆して、父上と婚姻を結ばせたのか」


 オノファトに記憶に残る母は、幸福そうな顔をしていなかった。常に苦しそうに顔を歪めていた。妃になって、子を産んでからもずっと。


「滅相もありません。私はただ、咒術と記憶に則っているだけでございます」


 そう言ってカイレイは釣燈火の火袋をずらした。腰に提げていた瓢簞の栓を抜くと、中身を蝋燭の火に垂らす。皓々と燃え上がった青い炎に、カイレイはふうっと息を吹きかけた。


 途端、オノファトの身体が炎の渦に巻かれた。


(————母様?)


 目の前に、美しい女性が立っている。


『オノファト』


 やさしく語りかけるこの声を知っている。

 カリルゼッナは幼いオノファトを抱きしめて、頬に手を添える。


『あなたには祖神の血が流れているのよ。偽りの皇族を正すためには、あなたの力が必要なの。ムレイの子孫では、神璽国を導く使命は背負いきれないわ。あなたは堂々としていなさい』


 オノファトは添えられた手を握り返した。そして、力の限り撥ねのけると、空気が割れた。その隙に間合いを詰める。


「母の誇りを傷つけるような幻覚をみせるとは、私も甘くみられたものだな。その首掻き斬ってやろうぞ」


 カイレイの喉許に短刀を突きつけて、オノファトは低い声で威嚇する。


「お好きになさればよろしいかと。私一人の命が潰えたとしても、私の記憶は続いていく。カイレイとは、私とは、そういうものなのです」


 オノファトは意味がわからず、迷いを滲ませた。


 カイレイは短刀をぐっと掴み、狂わすように己の喉許へと進めていく。手から、喉から血が流れ落ちていき、オノファトの手を濡らした。


 オノファトはカイレイの手から逃れるようと、短刀を引き抜いた。すると、火柱が立ち込め、煙霧のごとくカイレイだった姿が消失した。


 ぶわりと汗が噴き出して、オノファトは今更ながら悪寒が襲っていたのに気付く。あの榮卜官とのおぞましい夢幻泡影から解放されて、生色を得た気分だった。

 オノファトは権現樹ごんげんじゅの根元の側へと腰を下ろし、倒れ込んだ。

 目頭が熱くなるのは、誓って母の姿を見たからではないと思いながら。

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