いつまでもお兄ちゃん

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

いつまでもおにいちゃん

 今年も八月二十四日が巡ってきます。

 仏前に裏庭に湧き出でている水を備えると、ゆっくりと手を合わせる。お兄ちゃんはこの水が大好きでした。


「お兄ちゃん、朝だよ、お水汲んできたよ」


 喜怒哀楽のどんな時でも居てくれて、仏壇脇のアルバムには思い出がたくさん綴られています。

 ベビーベットですやすや眠る私を覗きながら、嬉しそうに見つめるお兄ちゃん。

 はいはいする前を自慢げに進むお兄ちゃん。

 歩くと隣に寄り添ってくれて、転ぶとすぐ駆け寄ってくれて優しく包むお兄ちゃん。

 追いかけ回す私を見捨てる事なく、優雅に翻弄するお兄ちゃん。

 共働きだった両親の帰宅が遅い日、小学校より帰るとおかえりをくれたお兄ちゃん。

  思春期で情緒不安定な私の話を聞いてくれたお兄ちゃん。

 そんなお兄ちゃんに病気が見つかりました。

 ある日、中学校から帰宅すると玄関先で血を吐きながら倒れていて、慌てて近所の病院へ走りました。


「時間は有限だから、大切に過ごしてほしい」


 先生は検査結果を諭すように説明して薬を処方してくれました。お兄ちゃんは薬が苦手で、そのままはもちろん、食事に混ぜても、水に溶かしてもプイっとして飲もうとはしません。

 だから、それを飲み終えるまで我慢比べになります。

 服用してくれれば、1時間でも、2時間でも、長く一緒に居れるのですから。

 最後には、小さな小さなため息を吐いて薬を飲んでくれました。毎回のやりとりは疲れましたけど。でも、そのおかげでお兄ちゃんは体調を回復することができ、食事も水分もしっかり取れるようになりました。

 病院の先生もその回復力を褒めてくれるほどで安心したのを覚えています。  

 

 けれど高校二年生の夏、ついにその時は訪れました。

 その日はいつになく上機嫌なお兄ちゃんで、進路に悩んでいた私の側で一緒に悩み、やがて飽きるとお互いに畳の上にだらしなく寝転がる。しばらくするとぷうぷうと寝息を溢し、そのリズムに流されて私も瞼が落ちていました。

 

 夢を見たのです。別れの夢を。


 私は幼くておぼつかない手捌きと足捌きではいはいをしていて、前を行くお兄ちゃんはときより振り返っては長い長い廊下を揃って進みます。

 しばらくすると私の手足は重くなり、そして動かすことができなくなってしまいました。お尻をつけて、先を行くお兄ちゃんに置いていかないでと寂しさのあまり泣き声をあげました。

 お兄ちゃんは振り返ってくれません。

 聞こえてないかもしれないと、さらに大きな声で、大粒の涙を溢しながら、精一杯の悲しみを込めて泣きますと、お兄ちゃんの歩みが止まりました。

 すぐには来てくれませんでした、しばらく悩んだように立ち止まって、決心したようにこちらへと駆け出してきてくれます。声と涙をぼろぼろと溢す私の広げた腕の中へ入ったお兄ちゃんをしっかりと抱きしめると、お兄ちゃんは初めて言葉をしっかりと口にしました。


「ありがとう。またね、大好き」


 お兄ちゃんの声色でした。

 いつもの短い言葉のような優しい優しい声でそう言って、宥めるように私の涙をぺろりと舐めてから、頬にキスのようにしっかりと鼻先を押し当てると、抱きしめた腕をすり抜けて駆け出していきます。


「お兄ちゃん!」


 その言葉を叫んだのは夢と現実の両方で、自らの声に驚いて目を覚ますと室内は夕焼け色に染まっていました。

 お兄ちゃんにそっと手を伸ばして胸に抱くと、力無い体に残滓のような温かさがありました。溢れるように湧き上がる涙で体が濡れても嫌がることはありませんでした。


 私はこうして最愛のお兄ちゃんを失いました。


 空を眺め喪失感に嘆いた七日目のこと、いつものように空を眺めていると、あの日のままの机のあたりから大きな音がしました。振り向くと本棚から小学校で使っていた辞書が机に当たって床へと落ちたのですが、重さからは想像できぬほど軽やかに、そう着地するように落ちました。

 まるで、お兄ちゃんが机から降りた時のようにです。

 近寄って辞書を手にすると偶然開かれたページの漢字に目を奪われます。


『 猫 』


  学術的な解説が記されたページの端、空白部分に歪んだ手書き文字で「猫」と傍に小さな手形があります。思えば一年生となって、嬉しからお兄ちゃんを表す漢字を調べ、見様見真似に真新しい鉛筆で書き、それに対して「がんばりましょう」とでも言いたげに、インクを踏んだお兄ちゃんが手形がスタンプされたのです。


「お兄ちゃん……」

 

 辞書のスタンプを見つめ、やがて、夏空へを見上げると雲はお兄ちゃんのような形でした。

 向こうの世界から見守ってくれて、応援してくれているのだと錯覚するほどにそっくりな入道雲へと、私はお兄ちゃんを真似るように囁きました。


「ありがとう、またね、大好き」

 

 それで安心したのでしょう。

 風に乗って駆け出して行くのを私は見送ったのです。





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いつまでもお兄ちゃん 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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