喋る猫

喋る猫

 道路に飛び出す栴檀せんだんの木とその木陰。日光そのものみたいな黄色いレンガの歩道。誰のものかもわからない銀色自転車。つむじ風に遊ばれる赤いブランコ。

 小夜は公園が好きだった。理由と呼べるものは特に無いが、大きくも小さくもないこの長閑な公園が気に入っていた。今日も苔だらけのベンチに陣取って、何をするでもなく時間に身を任せ、木の葉の囀りにぼんやりと耳を傾ける。これこそが、小夜にとっての正しい平和のかたちだ。

 ふと、枯れ草を踏む音がした。

 目をやると、明るい茶縞の野良猫が駆け足で近づいてきている。この辺りで見たことのある顔であったので、思わず喋りかけようとして。

「おいお前知ってるか?」

 猫が日本語を喋った。

「この公園、無くなるって」

 もう一度言おう。猫が、日本語を、喋った。


「おじいちゃん大変!」

 小夜が公園から逃げ帰った場所は、おじいちゃんの家だった。建て付けの悪い引き戸の隙間に体をねじ込み、突き当たりの部屋を目指して一目散に駆ける。小さい体が今にも床板のめくれそうな廊下をギッシギッシ言わせているので、この家の主はきっと小夜の登場に気がついている。気がついているくせに何の反応も寄越さないなんて、かわいい子供に酷だとは思わないのだろうか。

 小夜はその勢いのまま、寝室の襖を器用に音を立てて開け放った。布団の上では、白い髭を蓄えた御老体がTVを見ながら横になっている。彼は血相を変えて飛び込んできた小夜にちらりと視線を遣ると、最小限の動作でTVを消した。

「なこが、ねこが、猫が喋った」

 いつも落ち着いているおじいちゃんは、息を弾ませた小夜をじっと見て、廊下の奥の開けっ放しの玄関引戸を見て、また小夜を見た。

 そして幾たびか頷きながらこう諭した。

「普通の猫は、喋る」

「そんなはずない! 普通の猫は喋らない」

「猫語を喋る」

「あの茶トラは日本語を喋った!」

勘違いじゃない、びっくりした、信じられない、ありえない、絶対に絶対におかしい。

 小夜が躍起になってわあわあ騒ぎ立てると、老人はその甲高い声に顔を顰めた。

「そんなに気になるならもう一度見てくればいい」

「ヤダ! ヤダヤダー!」

 小夜は寝そべる老人にしがみつき、訊いてもいない事の顛末を懇切丁寧に話して聞かせた。いつも通り公園の定位置に居たこと。見覚えのある猫がやって来たこと。その猫が小夜に、日本語で喋りかけてきたこと。

 気持ちが先走り過ぎていたのだろう。話は巡りに巡り、収集がつくまでに多大なる時間を要した。途中から長らくTVのリモコンを凝視していた老人が、大欠伸を噛み殺しながら問う。

「猫が大変なのは分かったが、公園の心配はしないのか。唯一の友達じゃないか」

「……」

「どうした」

 小夜はぱたりと静かになり、呟いた。

「あのね、場所は友達にならない」

「そうか、そうだったな」

「うん、だから、別に寂しくない」

 おじいちゃんの純な問いかけを受けて、小夜の身体は気持ち三分の一ほどに縮んだ。小夜は一転、物を食べるようにポソポソ喋った。

「別に、それくらい、前から知ってたし…」

 前述の通り、小夜はあの公園が大好きだった。あまり公言したくはないが、お喋りのできない友達だと思ったことも、何度かあった。しかし子供である小夜には土地開発に反対する勇気も権力もない。こうして悲しんでやるくらいのことしかできないのだ。

 非情なことに、老人はこの子供の悲しみを丁度よく思ったらしい。小さくなった小夜をそっと膝から下ろし、寝室を後にしようとする。

「どこ行くの」

「仕事」

「ウソだ!」

 小夜は元気よく跳ね起きた。おじいちゃんはもう十年も前に定年退職をしている。小夜の知っている限り、おじいちゃんの生活は、新聞を眺めるか、TVを見るか、小夜と話すか、寝るか。このたった四択で構成されている。だから先程の発言は虚偽であり、おじいちゃんが小夜との会話を嫌がったという証拠に他ならない。なんて酷い大人なんだ。


 小夜はおじいちゃんを追った。向かう先は、居間から一歩出た先の縁側だ。

 縁側の陽だまりの中で、おじいちゃんはふかふかの座布団の上に身を落ち着け、こくりこくりしていた。気持ちが良さそうだ。小夜も日向ぼっこの引力に捕らわれそうになったけれど、今はおじいちゃんの目を覚まさせることに注力する。

 助走をつけ、がばりと背中に飛びついた。

「ねーねー、猫が喋ったよ」

ぐいぐい、ゆさゆさ。

「猫が喋ったってば」

ぐらぐら、がたがた。

「おじいちゃん!」

小夜は座布団を引っ張った。座布団ごとひっくり返してやろうと思った。

「おーじーいーちゃーん!」

 しかし、座布団は終ぞ動くことなく、小夜だけがぽてりとひっくり返った。おじいちゃんは依然置物のように腰を据え、目を閉じている。縁側のささくれだった木の床が頬をチクチクと刺した。

 子供はへそを曲げた。どうして分かってくれないんだ。ただの猫が言葉を話したのだ、一大事じゃないか。あんな何処にでもいそうな、大して可愛くないノラネコが。毛並みが悪いのは勿論のこと、目つきも悪いし、歩き方に品が無いし、なんならちょっと臭そうだった。あの縞模様はちょっと身の程を弁えた方がいい。それは小夜の、小夜だけの特権なのに。

 小夜はすっかり萎んでしまった。あの猫も、あの猫をこんなに悪く言ってしまう小夜自身もすっかり嫌になってしまった。

 とぼとぼと室内に戻る。ああ、明日はどうしよう。公園に行けば、きっと例の茶トラがいるだろう。あいつには会いたくない。でも、小夜は本当にあの公園が好きで。もうすぐ無くなってしまうことが身を切るように辛いのに、そんな猫一匹くらいで公園に行かなくなるのも変な話だと思った。

 居間の薄っぺらい座布団に座り込んだ小夜は、もう全部が億劫になってしまって、どうしたって切ない気持ちになって、不貞寝をすることにした。目をつぶって少し経てば睡魔がやってくる。

 おじいちゃんと二人きりで公園に行って、芝生で思いきり転がる夢を見た。かもしれない。


 目が覚めるともう夜だった。おじいちゃんは居間に戻ってきていて、何やらツヤツヤした板とにらめっこをしていた。小夜は知っている。あれは“いんたーねっと”とか言うやつだ。いつか扱ってみたいと密かに憧れているモノの一つだった。

 小夜は軽やかに起き上がり、おじいちゃんの後ろから板に表示されているものを眺めた。太陽とおぼしきマーク。どうやら天気予報を見ているらしい。

 するとおじいちゃんは、ブルーライトに興味津々の小夜の後頭部を眺めながら、こんなことを言った。

「明日、一緒に公園に行こう」

「えっ」

 小夜は首を思い切り持ち上げ、おじいちゃんの様子を伺った。いつも通り感情の読めない顔をしている。

「嫌か」

「い、嫌じゃない!」

 小夜は丸い瞳を輝かせた。嬉しい。これは、レアだ。

 おじいちゃんは根っからの外嫌いだ。普段からほとんど外に出ず、買い物だってご近所付き合いだって5分で済ませてしまう。そんなおじいちゃんが、外に出る。自分から。それも小夜の好きな公園へ。嬉しい、とても嬉しい。


 欣喜雀躍の後、小夜はフッと冷静になった。何か裏があるのでは。

 小夜は老人の瞳をじとりと覗き込んだ。

「……おじいちゃんって、家の外嫌いじゃないの?」

「あの公園が閉鎖されるのは9月10日、2日後らしい」

「ねー聞いてる?」

 おじいちゃんはタブレットを触るのを辞め、勿体振ったような緩慢な動作で自分の顎を指差した。

「一回も行ったことがない」

 小夜は目をぱちぱちとさせた。

「あの公園に?」

「ああ」

「あの、近所の、大きなせんだんの木があるところ?」

「栴檀の木があるのか。わからない。行ったことがないから」

 小夜はもう一度目をぱちぱちやって、首を傾げた。     

 例の公園はこの家からほど近いところにある。そうでなければ、子供の小夜がこうして毎日通える訳がない。なので当然おじいちゃんも行ったことがある、通りすがったことくらいあると思っていたが、成る程。どうやら筋金入りだったらしい。

 おじいちゃんの中では、明日公園に行くことは既に決定事項であるようで、普段なら見ない“いんたーねっと”まで覗いて、明日の天気を確認している。

 おかしなこともあるものだなぁ。小夜は素直にそう思った。もう小夜の頭には喋る野良猫なんていなかった。もっと重大な、新しい情報に押し流されてしまったようだ。

 おじいちゃんは徐に手を伸ばして、小夜の耳の後ろをくすぐるように撫でた。小夜は抵抗こそしなかったが、驚いて、手の持ち主の顔をまじまじ見つめた。そこを優しく撫でられるのが一番好きなのだと、知っていたのだろうか。

 そのまま老人はなんてことのないふうに話した。

「確かに普段、お前が日本語を喋ってくれて助かっている。俺には猫語が分からないから。……だが、ただそれだけだ」

 他の猫を飼うつもりはない。

 涼しい顔でそう断言するおじいちゃんに、小夜はいよいよ硬直した。なんとこの寡黙な老人は、とっくに小夜の真意を見抜いていたらしい。

 恥ずかしさやらなんやらで動いた耳と、小さくゴロゴロと鳴る喉を誤魔化すため、小夜はそっぽを向いた。

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