第21話
東は行き止まりだった。陸の終わりだ。
崖から見下ろす景色には、見渡す限りの大海が広がっている。
自分でもどこをどう歩いたかわからない。
村に戻るつもりはなかった。あそこには、もうなにもない。
俺の守りたかったものは、なくなってしまった。
そうなるともはや、俺の存在意義が見つからなかった。
時おり強い風が吹き付けてくる。波が岩にぶつかる音が聞こえてくる。
夕日が優しく横顔を照りつけた。俺の気分とは裏腹に、空は明るかった。
陸のふちから、崖の下をのぞいた。
はるか下の水面は暗く、深く、底が見えない。
きっと俺のちっぽけな体なんて、何事もなかったかのように飲み込んでくれるだろう。
足を踏み出すのに、もはやためらいはなかった。
疲れていた。空腹だった。早く楽になりたかった。
「こんにちは」
風と波の音の間に、声が聞こえた気がした。
振り返ると、若い女が立っていた。ゴールドに近いブロンズ色の髪。白い修道服のようなものを身にまとっている。
「そんなに身を乗り出したら、危ないですよ」
風が吹いて、光沢のある髪を揺らす。
どこか気品のある、美しい容貌をしていた。
そんな娘が、一人でこんな人気のない岬にいることが不気味だった。
「実は街道を曲がるところを見かけて、ずっと後をつけてきました」
まるで俺の脳内を覗き見たかのように、彼女はひとりでに答えた。
俺は微笑を浮かべたままの顔に尋ねた。
「⋯⋯俺になにか、用か?」
「かつてわたしも、この場所に立ったことがあるんです。今のあなたは、そのときのわたしと同じような気持ちなのかなと、思いまして⋯⋯」
俺は答えなかった。彼女は続けた。
「わたし、今はこんななりをしていますが、残念ながら本物のシスターではありません。あなたを引き止める言葉を持ちません。ですが少し、真似事をしてみてもよろしいでしょうか?」
「なにをするつもりだ」
「抱きしめてみても、いいでしょうか?」
「やめろ。死にたいのか」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうして、わたしが死ぬのですか?」
「俺が手で触れたものは、みな溶かしてしまう。俺は化け物だ」
「ふつう人は触られただけでは溶けません。その場合、化け物はわたしの方ではないでしょうか?」
「違う。俺のオラクルの力だ。『スライムキラー』の力だ」
自分の力のこと、頑なに他人に話すことをしなかったはずが、あっさりと口にしていた。
能力の正体。疑惑、疑念。誰が敵で、味方か。
もはやそんなもの、どうでもよかった。
「スライム? とは?」
「害虫みたいなものだ。昔はテーロスでよく見かけた」
「人間は、その⋯⋯スライムなのですか?」
「わからない。俺のほうが教えてほしい」
俺は自嘲気味に笑った。
そもそもスライムを知らない人間にとっては、なんのことやらさっぱりだろう。
「よくわかりませんが⋯⋯一つだけ、わかることがあります。わたしは、あなたに触れられても、溶けたりしません」
「どうして言い切れる?」
「わたしはギフテッドです。わたしのオラクルは、少しの先の未来を見ることができます。いま一瞬だけ、見えたのです。あなたを抱きしめたわたしは消えません。もしわたしがそうしなければ、あなたはここから身を投げます」
真面目な顔でずいぶん突飛なことを言う。
付き合うのも馬鹿らしかったが、つい反論してしまった。
「ならその能力はブラフだな。見える未来が2つなんておかしい」
「あら、そうですか?」
「それに見ず知らずの他人に自分のオラクルを明かすなんて、普通はしない」
「それだとあなた自身が矛盾していますよ」
おかしそうに笑う彼女から、俺は目をそらした。
「これから身を投げる俺には、それはあてはまらない」
「ほら、わたしの言ったこと、当たってますよね? わたしのオラクルのこと、信じてくれますか?」
「そんな能力なんてなくても、ちょっと考えればわかることだろ」
「人の胸の内なんて、わからないですよ。どこまでいっても」
夕陽を吸い込んだ彼女の瞳は、一点の揺るぎもなく俺を見つめていた。
俺はいつしかその瞳から目が離せなくなっていた。気づけば影はすぐそばまで近づいてきていた。
「では、失礼します」
彼女の髪が鼻先に触れた。
柔らかな腕で、体を締め付けられる感触がする。
途端に視界が揺らいで、意識が遠のいた。
彼女の顔がぐにゃりと歪む。
やはり、溶けた。
そう思った瞬間、まるで世界ごと歪むような、不思議な感覚がした。
「もう、ちゃんと支えてくれないと危ないじゃないですか」
目と鼻の先で、くすりと笑う声がした。
彼女は溶けていなかった。俺の体は仰向けに倒れていた。腕の中で抱きとめた体から、温かい体温が伝わってくる。
「あなたは⋯⋯リオノ、というのですね」
近くで俺を見つめながら、彼女は一瞬とても悲しそうな顔をした。けれどすぐに笑みを作った。
「ほら、わたしの言ったとおりでしょう?」
彼女は体を起こすと、土で汚れるのも構わず傍らに膝をついた。そのときやっと、俺は彼女に抱きつかれて、そのまま後ろに倒れたのだと気づいた。
「辛いことが、あったのですね。とても⋯⋯」
彼女は俺の腕を取って、上半身を起こすと、優しく頬に手を触れた。
知らないうちに、俺の頬には涙が伝っていた。
「よし、よし⋯⋯」
涙を拭った手が、そのまま頭を撫でてくる。
慈しむような彼女の笑みは、なぜかよく知っているような、懐かしい不思議な感覚がした。
「どうして、俺の名前を? あんたは⋯⋯何者だ?」
「わたしは、アーシアと呼ばれています。そう呼んでください」
「名前を聞いてるんじゃない」
そこで彼女は、初めて困ったように目を伏せた。
「⋯⋯わたし自身、本当はどこの誰かもわからないのです。なのであなたの質問には、わかりません、としか答えられないのです。ごめんなさい。けれど、一つだけ覚えていることがあります。『お前は失敗作だ』そう、言われたこと」
大人びた口調ではあったが、たどたどしく言葉を紡ぐ口元は、印象よりずっと幼く見えた。
しばらくの沈黙の後、アーシアと名乗った少女はゆっくりと立ち上がった。
「わたしのことは、お話しました。できたら、あなたの⋯⋯リオノのお話も、お聞かせ願えますか?」
彼女はまた笑いかけて、手を差し伸べてきた。
今際の際での、出会い。偶然にしても、出来すぎている。
この女の正体は謎だ。肝心な質問には、何一つ答えていない。きっと何か、隠している。おそらく別の意図があって、俺に近づいてきたに違いない。
猜疑心の塊となった俺の右手は、ためらっていた。
まるで彼女のことを、恐れているようでもあった。
けれど俺は、気づけば手を伸ばして、その指先に触れていた。
何かにすがりたかったわけでも、運命の出会いというものを信じたかったわけでもない。
彼女の手が、とても綺麗で、美しかったから。
その手に、触れたい。触れてみたい。
ただ、そう思った。
触奪の暗殺者 パーティを追放された俺はスキル『スライムキラー』でスライムに侵蝕された世界を暗躍する 荒三水 @aresanzui
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