血まみれの救世主
のちに「ケヒンヤの戦い」と称される辺境の村で起きた衝突は多くの犠牲者を出しながらもサン・ルメクス側が辛勝した。その要因はグラチアであった。
グラチアには外傷の治療はもちろん、接種者の身体能力を強化する効用があったと推測されている。このケヒンヤの戦いの現場に居合わせた下級貴族はあとになって以下のことを日記に記している。
「戦いの最中、とある兵が若い村娘を取り押さえようとした。しかし娘はその手を振りほどき、そのまま襲い掛かっては兵を地面に引き倒した。村娘は何回か兵の顔を殴りつけ、しまいには奪った剣を兵の喉に突き刺した。私はあの村娘を知っている。つい1ヶ月前まで黒の疫病で死にかけていたというのに、今では自分よりも大柄で防具を着た男を殺している。グラチアの力は恐ろしい。あるいはルケアの力か」
これはサン・ルメクスのメンバーも例外ではなく、ケヒンヤの戦いにおいてフル装備の兵相手に奮戦したという。このことから患者のみならず、ルケアをはじめサン・ルメクスのメンバーも以前からグラチアを常用していたとみる研究者も多い。
ともかくケヒンヤの戦いのあと、サン・ルメクスは王の敵となった。もちろんすぐさま追加の軍隊がケヒンヤに送られる。村は軍の管理化に置かれ、またサン・ルメクスの救貧院兼教会は焼かれた。しかしそこにルケアたちの姿はなかったという。というのも次の攻撃が来る前に逃亡していたようだ。
ルケアたちが失ったのは土地と建物だけじゃない、サン・ルメクスの主要メンバーのほとんどがケヒンヤの戦いで死亡していた。いくらグラチアで体が強化されていようと、深い外傷を負えば命を失う。ルケアは途方に暮れていたが、すぐに救いの手が差し伸べられた。それは下級貴族、キメサ正教を離反した者、税に苦しむ村の名士や民だった。
ケヒンヤの戦いとルケアの状況はガリドーニュ島の隅々まで広がった。支援者はサン・ルメクスの旗の元に集い、やがて義勇軍を形成した。(ロマヌ王国からすれば反乱軍であろう)
ガリドーニュ島の各地にて義勇軍もとい、サン・ルメクス軍が蜂起し、体制側へ攻撃を仕掛けた。
南での上級貴族の襲撃(カルテッド屋敷襲撃事件)、北では2つの戦い(テイユ牢獄襲撃、ノーツァンの戦い)、東では島内で最も大きなサン・ルメクスの拠点が設置され、そこから派兵された義勇軍が東部各地のロマヌ軍駐屯地を破壊した。(ガリドーニュ東部紛争)
サン・ルメクスに賛同した者は死を恐れずに戦った。なにせ教祖、いや我らが神たるルケアがグラチアをいくらでも分け与えてくださる! それもそうだ。敵の兵士というグラチアの材料がいくらでも手に入るのだから。
各地の戦闘も最初は両軍一進一退だったが、徐々にロマヌ軍が押されていく。暦487年の初めにはガリドーニュ島の南部がほぼサン・ルメクスの支配下になり、暦489年の11月には東部も制圧される。勢いの増したサン・ルメクスは西部へ進軍、ロマヌ軍の駐屯地と化していたケヒンヤを開放し、そのまま西部も手中に収めた。
ピエトルテは早急に周辺国へ救援を求めたが、聞き入られることはなかった。というのもどの国も相変わらず蛮族と疫病への対応でそれどころではなかったからだ。さらに悪いことにロマヌ軍からも裏切り者が続出、加えて島外からも支援者が集まり、サン・ルメクスの軍勢はさらに力を増した。ロマヌ王国にとっては悪夢だっただろう。
暦490年、ガリドーニュ島の北部全域が陥落するとロマヌ王国が滅びるのは時間の問題となった。戦線は徐々にルメクス軍によって押し込められ、暦491年には王都ロマヌロワは完全にサン・ルメクスに包囲されていた。
ルケアはもはや辺境の女魔法使いではなく、サン・ルメクスの反乱を主導する総大将となっていた。ルケアはロマヌロワに使者を送り、ピエトルテに実にシンプルな最後通告を言い渡す。
「降伏か、死か」
文書にはただそれだけが書かれていたという。
状況を鑑みれば当たり前だがピエトルテは負けを確信していたようで、返答の手紙を書いてはすぐさまサン・ルメクスの使者に渡していた。手紙の内容は王都内の民や家族の安全が保証されば、降伏する旨が書かれていたと予想されている。
”予想されている”と書いたのはその内容が正確には知られていないからだ。なんせ強硬派の上級貴族が帰ろうとしていたサン・ルメクスの使者を殺し、手紙を奪ったからだ。
強硬派の貴族たちは無謀な行動をしたかと思われるだろうが、そうではない。彼らはこの戦に勝つ気でいた。実のところ、これら貴族の連合は西部と北部のサン・ルメクス軍と密約を結んでおり、王都包囲軍を背後から強襲するつもりだった。攻撃と同時に王都のロマヌ軍も展開させ、挟み打ちにする計画だ。
結局、この計画は実行されなかった。なぜなら西部と北部の裏切り者はすでに粛清されていたからだ。それどころかルケアは敵側に作戦の失敗を悟らせないために計画が順調に進んでいる旨の手紙をロマヌロワに送り続けていた。
ありもしない救援を待つ貴族たちをよそに事件が起こる。王都内部でサン・ルメクスに賛同する者たちが暴動を起こした。ロマヌ軍は鎮圧に掛かるが抑えられず、王都の門が開け放たれる。ルケアはこの好機を見逃さず、進軍を開始。膠着状態から一転、両軍入り乱れる市街戦となる。(最初の暴動事態がルケアの策略だという説もある。先の上級貴族たちの計画に乗っかり、二重スパイを王都に送り込んでいた可能性がある)
戦闘は8時間ほどで終わり、ロマヌ軍は壊滅。ピエトルテをはじめとした王侯貴族は捕らえられ、1週間後に公衆の面前にて処刑が執り行われた。
暦492年、これがロマヌ王国の最後となった。
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