二章 代行広重

第6話 代行広重の祈り

 谷丘の里が探している代行は、荒川の里にいた。姓を広重という。

 谷丘、雪柳、松林、浅池、荒川の五つの里を巡回して治めているが、だいたい荒川の里に滞在する。というより、どうしても滞在が長くなってしまうのが、荒川の里だ。


 谷丘と雪柳の里は、なかなか良い。社もうまく運営されている。産物も良い。特に谷丘の里の甘柑は、都へ早馬で送っているほどだ。

 松林と浅池の里も、何とかやっている。


 どうにもならないのが、荒川の里だ。

 広重は苦い記憶をいくつも思い出しながら。


 ――いや、わずか数年でうまくいくわけはない、辛抱だ。


 と、自分に言い聞かせながらも……遣る瀬なかった。

 荒川の里は貧しい。

 土地は肥沃なのに、だ。


 里の収穫の五割は徴税するが、社の運営に四割を里に残し、結局上がりは一割に過ぎない。

 その一割も、更に他の四つの里の上がりの一割も、ぜんぶこの里につぎ込んでいる。

 飢える者も出るので、社の改修工事、道路工事を行い、穀豆や布を支払い、規律・労働を教えたつもりだった。

 けれど。

 喰えれば「良かった」で終わりだ。

 何回繰り返したことか。

 今も、社主は。


「春まで持ちません者も居ります。どうぞお屋敷の工事を」


 と、願っている。

 また神都に乞い、援助していただかねばなるまい。



 広重は神都に生まれ、長い間、神官に仕えていたが、四人の子が成長した後、治める者の居ない里に自ら申し出たのだった。

 代行というのは、神宮代行のことである。

 その責任は重い。


 広重は骨を埋める覚悟で赴任した。手が足りないことは良くわかっている。

 神宮の黒髪の宮様方にお仕えする内臣、大君様に仕え、その手足となる補臣、その他神宮の種々の役職、それから代行・領主は、正位の者が務める。

 しかし、常に人手不足だ。

 位のない者にも大学所を設けて才ある者を教育し、良い人材を選んで選士とし、何とかこの辺りの里まで治めているが。


「フウゥ」


 荒川の里にいると、ついついため息ばかり出る。

 従士モラトが、気散じに如何ですかという調子で奨めた。


「荒川の里道は、ずいぶん整備されました。ご覧になりませんか」

「そうだな、馬を走らせよう」


 従士三名が飛び出して行くと、他の選士たちも、薬士までもが行きたそうな顔をしたが、首を振り振り、今日一日の仕事の段取りを始めた。

 広重は選士を――従士三名、範士・農士・植士・工士・薬士――計八名を率いている。領主に仕える選士より多い。

 巡回する代行には機動性が求められるし、小さな貧しい里には有能な人材が必要なのだ。


「フウゥ、いやいや、ため息はいかんな。一駆けしてから、また最初からやり直しだ」


 広重は従士たちと早駆けを楽しむことにした。

 軽快に馬を走らす。

 冷たい風が頬を冷やす。

 旅装の人影に気付いたのは、モラトだった。


「代行様」


 そのモラトの声に喜んだのは、人影の方だった。二人いた。


「代行さまあ」

「代行さまあ」


 口々に叫びながら走り寄ってくると、深く礼をして谷丘の里から来た者だと言い、社主の言付けを伝えた。

 従士たちは息を飲んだ。

 耳に聞こえても、くろかみの……くろかみの……と意味をなさずに頭の中でこだまする。

 広重は天を仰いだ。


 ――都から遠く離れた小さな里に、否、谷丘の里だからこそお生まれになったのか、谷丘の里に幸いあれ――


 広重は馬から降り、姿勢を正し、遥か彼方の神宮の方角に向かい、呼びかけた。


「黒髪の大君様」


 深く頭を下げ、祈った。皆も慌ててそれに倣い、短い祈りを捧げた。

 広重は改めて、谷丘の里の者に頷いた。


「言付け、確かに受け取った」


 二人の労をねぎらい、荒川の里でゆっくり休むように言い、他の選士たちへの連絡にモラトを返した。


「このまま進む」


 広重は従士二名と共に馬に乗り、出発した。


 ――何という僥倖であろうか。広重の生涯最大のお勤めになろう。


 すぐに里小屋に着いた。馬を休ませ、乾物に水を入れ、火を通しただけの簡素な食事を取った。

 この里小屋にしても、どちらかといえば荒川の里に近い。

 だが、谷丘の里が建設したのはもちろんのこと、その後の維持管理をしているのも、谷丘の里だ。


 小屋の補修・掃除、穀豆の入れ替え・補充と、行き届いた仕事ぶりだ。

 広重は谷丘の里を思った。


 ――神の御心に届いたのだ。谷丘の里に、神の御子様をくださったのだ。


 広重は再び姿勢を正すと、里小屋の小さな黒髪の絵姿に一礼し、感謝の祈りを捧げてから出発した。

 馬を走らせながらも、祈った。


「大君様、先の君様」


 広重は黒髪の血筋だ。正二位である。

 祖母は雪宮様。妻も正二位、糸宮様を祖父に持つ。


「雪宮様、糸宮様……」


 大君様、先の君様の他、二十六人の宮様方の御名をすべて――幼い宮様方にお会いしたことはない――唱えながら、広重は馬を走らせた。


 黒髪の御子は、神都で数年に一人、十年に二人か三人、お生まれになる。

 神都近くの町や村でお生まれになることもあるが、遠い里でお生まれになることはめったにない。五十年、百年に一度、あるかどうか。


「遠い東の果て、小さな谷丘の里にお生まれの、黒髪の御子様」


 広重は心の中で誓った。


「神都神宮・代行広重、必ずやこの地に大社を建立し、御子様の御誕生を言祝ぎ奉らん」

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