第5話 谷丘の里の御子様

 コセトは黒髪の絵姿に祈り、小屋の周りの甘木一本一本に話しかけ、キクカの少し成長した三本の苗木にもお祝いを言ってたんだよ、と話しながら箱からタカトの服を出してくれた。

 タカトは桶の水に少し湯を足し、頭から体、手足までゴシゴシこすり、二敗目の桶ですっかり洗い落としてから拭き清め、服を着た。


 炉のそばに座り込むと、疲れがじんわりと広がり、眠気がふんわりと近づいてきたが、コセトは熱い桂茶をいれてくれた。

 湯呑みの中に桂皮が一片浮かんでいる。

 良い香りに、目が覚めた。


「真夜中だったとブルトから聞いたよ。疲れたろう。けれど、少し休憩したら社に戻れ。じじの分まで御子様にお仕えしてくれ。

 有難や、有難や」


「あ、父さんも社に詰めているんだ」

「トラトが……ウン、ウン」


 コセトは嬉しそうにうなずく。


「母さんは今休んでいるんだって。夕方から、クミカと交代するって言ってた」

「ストカが……ウン、ウン」


「キクカは……アロカが『少し休め』と言ったけど、その後大変で……キクカはちゃんと休んでいるのかな、僕、もう社に行くよ」


 コセトに見送られ、タカトは再び社へ向かった。外は寒かったが、午後の太陽の元、少し急ぐと体は暖かくなり、足は先へ先へと進んだ。


 社に着くと、隣の里へ出した言付けの一組が帰ってきていた。

 代行はいなかったが、その里の社主が、さらに近隣の里に言付けを出すという返事を持ち帰り、焚火を囲んでいた。


「雪柳の里も大騒ぎしとった」

「黒髪の御子様がお生まれになったのは、この谷丘の里だ」

「谷丘の里に、美しい御子様がお生まれになったんだ」


 田舎の里だ。通常は住んでいる里の名など、誰も考えない。里は谷丘の里で、隣の里は雪柳の里だ。

 けれど突然みんな近隣の里の名を上げ始め、話題は地理へと移っていった。


「松林の里も近いぞ。あの里への言付けも、そろそろ戻る頃じゃないか」

「浅池の里には……やっと着いている頃か」

「荒川の里は遠い。あの里へ行く時は、里小屋を使わなならん。夕暮れまでに里小屋に着くのが精一杯だ」


 タカトは大体のことを聞くと、キクカの所へ向かった。

 社は明るかった。

 まだ日が落ちていないのに、明り棒が何本も吊るされ、いくつもの円炉が出され、数人ずつ囲っていた。


「タカト」

「ああ、母さん」


 呼び止めたのは、ストカだった。


「やっと着替えて来たか。一日大変だったな、社で休ませてもらえ。おまえも疲れただろう。

 わたしは今まで休んでいたんだよ。今起きたところだ」


「キクカは? ちゃんと眠ってる?」


「アロカは『別段異常なし』と言って、寝てしまったよ。キクカも寝てるんじゃないか。そっとキクカの顔を見に行ったら良い。

 その前に、食事をしよう」


 食堂では、いつも自分で穀と汁をよそおうのに、今日は示された席につくと、甲穀と汁と小鉢の他に、小皿までのったお盆を渡された。


「さあ、今日は泊まりだ」


 ストカはゆっくり食事を始めた。


「タカト、焦っても何にもならないよ。代行様は、今すぐにでもお見えになるかもしれないが、四日、五日かかるかもしれない。何か不都合があれば、七日、十日とワシ等だけで御子様をお守りせなならんことも……いや、何もわからん。

 社主は遠い大原村にも、明朝、言付けを出すと言うとった。遠くても村ならば、必ず領主様が居られる」


 タカトも食事に専念した。甲穀はお代わりまでもらった。

 臨時の給仕係が湯呑みを持ち上げてタカトに合図するので、白湯をもらおうと思った。

「ウン」

 大きくうなずくと、お茶を淹れてくれた。

 緑茶だった。

 ストカはすました顔で飲んだ。


「社主は大盤振る舞いさ」


 タカトもゆっくりお茶を飲んだ。


「ごちそうさま」


 盆を返してから、貴人の部屋へ向かった。

 廊下の手前は、すっかり詰所になっていた。

 そこでストカと一緒に手を洗い、口をすすいで廊下を進んだ。そっと戸を開け、垂れ布を引き分け部屋に入る。


 ストカはまず平伏してから、人影を探した。クミカが静かに垂れ布から出てきて、二人の耳元でささやいた。


「御子様は、先ほどお眠りになったところだ。キクカもだ」


 ストカは片手でクミカを止めて、タカトに合図した。

 タカトは静かに、垂れ布の中に入った。


 絵姿ではない黒髪の御子を見つめ――絵姿と同じだ、いや、もっと神々しい――いつもは黒髪の絵姿に膝をつき祈るが、さらに平伏した。

 そしてキクカがぐっすり眠っているのを見て、満足してそっと戻り、今度はクミカと一緒に廊下に出た。


 社の中は間仕切りが取り払われていたり、衝立が置かれていたり、ほんの昨日とずいぶん雰囲気が変わっていて、タカトは迷った。

 部屋にたどり着くと、トラトが片づけをして待っていた。


「ストカが代わって詰めたな。おまえも疲れたろう」


 今のところはまだ、近隣の里へ出した言付けが二組しか帰ってなくて、どちらも代行様に会えなかったことなどを話しながら、寝床を用意してくれた。


「お休み、タカト。また明日来る」

「ありがとう、父さん。お休み」


 キクカはちゃんと寝ていた。

 タカトは、昨日の眠りの続きにすんなり入っていった。



 朝から社は静かだが、立ち働く者は多く、タカトが水汲みしようとしたら、桶は出払っており、箒も熊手もない。


「タカトは昨日からいっぱいお役を務めただろ。僕は今日、交代で入れてもらったんだ」

「そうだ、わたしも、やっと掃除、言いつかったんだ」

「水運びしたぞ、何往復したっけ」


「僕の汲んだ水は、御子様のところに届いているかな」

「お前の水は洗濯水になったさ」

「じゃあ、御子様の掛け布の洗濯水だ」


 好き勝手に話している若組の連中の間を抜けて歩いていくと、育所も学所もお休みになっており、掃除中だ。作業所も片付け中で広々としていた。

 きっと客間も続き部屋も、きれいになっているに違いない。


 朝からキクカと顔を合わせて「おはよう」くらいしか言葉を交わしていないが、元気そうだった。

 御子様は朝の光の中で、ますます輝いておられた。


 さあ、水汲みしよう、と思ったのに……。


「タカト」

「あ、社主、おはようございます」

「おはよう、タカト」


 社主は言葉を探すように顔を見つめたり、足元に目をやったりしながらゆっくり話した。


「この里に黒髪の御子様がお生まれになり、有難いことだ。せいいっぱいお仕えしとるが、実は……よく知らんのだ。

 こんなことは初めてだからな」


タカトはびっくりした。社主がこんな風に話すのを、聞いたことがなかった。


「早く代行様にお戻りいたかなならんが、言付けはまだまだ全部戻らん。代行様がどんな御指示を出されるのか、まったくわからんのだ。

 とにかくタカト、おまえも社に居ってくれ」


「はい、でも何かやる仕事ありますか」


 タカトが下働きの所から追い払われたことを話すと、社主は小さく笑って言った。


「茶、飲んでこい、三日間は祭り用の緑茶だ」

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