第二章 1

「おい、あれ」

 酒場で、ヴィズルを見かけた男たちがひそひそと囁き合っているのを、エルリックは偶然聞いてしまった。

「あいつ、ヴィズルだぜ」

「あれが……」

「ああ、『隻眼の死神』と恐れられた稀代の戦士だ。すっげえ強いんだと」

「恐えなあ」

「でも、左目はどうしちまったんだ?」

「なんでも、女を取り合いして刃傷沙汰になって、あんなことになったんだとさ」

「ふうん……」

 そうなんだ、と素直に思った。あんなに強い男が取り合う女って、どんなんだ。そんなことを考えながら席に戻ると、そのような噂をされていたこともエルリックにそんなことを思われているとも知らないヴィズルが飄々として酒を飲んでいる。

「おう、ここだ」

 何杯飲んでも平気の平左衛門という顔をしているので、一緒に飲んでいるエルリックは途中で何杯目かを数えるのをやめた。

 驚いたのは、それに付き合っていられるルイーゼだ。

「あんた、肝臓も不死身なのか」

「そうみたいね」

 けろりとして杯を重ねる様は頼もしいの一言である。

「あんまり飲みすぎるなよ。明日に響く」

 ふふ、ルイーゼは笑う。

「二日酔いなんて、したことないわ」

「そうじゃない。女が酔って、乱れるのを見たくないんだ」

「――」

 ルイーゼ、女の酔っぱらいはみっともないよ。

 彼もそう言った。



                   1



 百年に一度くらいの頻度で、ルイーゼは誰かを愛した。

 一人目の男が亡くなって、悲しくて悲しくてどうしようもなくなって、最初の五十年はただただ茫然として、もう誰も愛せないと思っていた。

 そして次の五十年で、寂しくなってきてまた誰かを愛してしまうのだ。

 二人目は、そんな時に出会った男だった。彼は医者だった。

 戦いに敗れて瀕死の重傷を負ったルイーゼが山に逃げ、そこで隠れている時に偶然彼がルイーゼを発見したのである。

 とても、助からないはずの傷であった。なのに、蘇生した彼女に、彼は興味を持った。「君は、死なないのか。傷を負ってもすぐに治ってしまうんだね。うーん、人体の限界を超えている。不思議だ。見せてくれ」

 初めは、単なる研究対象だった。全身をくまなく見せて、どうぞどうぞと開いてやった。 彼は熱心にルイーゼの身体を調べ、丹念に見ていった。それがあまりに熱が入っているので、一体どんなことをしているのかと関心を引かれて、一緒に勉強するようになった。

 共に難題に挑んでいると、一種の仲間意識が生まれる。それが愛に変わるまで、時間はかからなかった。

 医師として、男はルイーゼの不老不死の呪いを解こうとした。一生をかけて努めた。

 朝、共に朝食を食べると、患者がやってくる。並ぶほどではないが、ひっきりなしに来る。そうこうするうちに昼になって、昼食を過ごす。夕方になって片づけをして、風呂に入ってから夕食を食べ、それからは二人で研究の時間だ。

「君の血を採って見てみたんだけど、細胞が活性化されているんだ。人間のものとは、どうやら一線を画しているようなんだよ」

「じゃあ、やっぱり呪いは解けないのかも」

「いや、細胞を組み替えることさえできれば、あるいは可能なのかもしれない。そんなことは今はできないけれど、近い将来、それができるようになれば、そういう薬が開発されてもおかしくないよ」

「可能なら、ね……」

 悲しげに瞳を伏せるルイーゼの手に自分の手を重ねて、男は言った。

「諦めちゃだめだよ。諦めたら、試合はそこで終わりだ」

 彼がそんなことを言ったので、ルイーゼはおかしくなった。

「変なの。あなた、医者でしょ」

「そうだけど」

「医者なのに、なんで試合だなんて言うの」

「寄宿学校にいた時は、これでも剣の試合に出ていたんだよ。成績はよかったんだ。それで知ったんだ。人間、諦めたらそこでおしまいだってね。君だって、戦場で諦めたらそこで終わりだからああやって隠れていたんだろう?」

 痛いところを突かれて、思わず黙り込む。

「だから、絶対に諦めちゃだめだ。君は人として生を受けた。なら、人として死ぬべきなんだ」

 医師として生と死を見続けてきた者の、確固たる信念のようなものが、その目に宿っていた。

 彼は自分の知る医術のすべてをルイーゼに教え、技術を彼女に叩きこんだ。

 ある日、権力者の不治の病を治せなかったと言いがかりをつけられて役人に連れて行かれ、三日間帰ってこなかった。

 四日目役人が彼を連れ帰ってきたとき、彼は傷だらけで、一目でひどい拷問にかけられたのだとわかった。

 ルイーゼは夜を徹して男を看病したが、結果ははかばかしくなかった。

「ルイーゼ、唄を歌って」

 看病して五日目、彼は目を覚まして弱々しく言った。その時、ルイーゼは男の死期を悟った。

「君の唄を聞きたい」

 ルイーゼは泣くのを我慢して、か細い声で歌い始めた。彼はその間中微笑んで、彼女が歌い終わるかどうかという時に、小さな声で言った。

「愛しているよ、ルイーゼ」

 それを聞いて、ルイーゼは号泣した。

 置いていかないで。私を置いて、いかないで。私を一人にしないで。

 遺体を前に、ルイーゼは天を仰いだ。

 罰。

 どれだけ苦しめば、許されるのか。

 どれだけ悲しめば、果たされるのか。

 ああ、私はまた、独りになった。

 次の孤独に、あとどれくらい耐えられることだろう。そしてこれは、一体いつまで続くのか。果てはあるのか。

 男を埋葬して、傷心のうちに旅立った。

 二人で暮らしていた家から、なるべく早くいなくなりたかった。

 そんな場所など、見ていられなかった。

 昔のことを思い出しながら、唄を歌う。小さく、高く、それは風に乗って峠を越える。 座って休憩していたエルリックはその歌声に気づいて振り返ると、声の主がルイーゼだとわかって立ち上がり、そっと近くに歩み寄った。

 そしてその背中を、見た。

 圧倒的な孤独。

 何者をも寄せつけない、得体の知れないなにかがエルリックの足を留めていた。

 ふとした気配で、ルイーゼは彼の存在に気づいた。そして歌うのをやめて、座ったまま振り向いた。

「……いたの」

「きれいな声だな」

 ルイーゼは視線を戻して、前を向いた。膝を抱えて、そこへ顔をうずめる。

「そんなことないわ」

「いや、きれいな声だよ。聞き惚れちゃった。もっと聞きたいくらいだ」

「ひとには聞かせないの」

「もったいないな。なんで戦士なんかやってるんだ。吟遊詩人でもいいくらいだ」

「有名にはなれないわ。人目につくことはできないから」

「そうか。そうだったな」

 不老不死であることは、また不便でもある。迫害を受ける危険があるからだ。だから一つの場所に長くは住めないし、高名になることもできない。

 人の目を忍んで、ひっそりと生きていかねばならないのだ。

 それって、どんな気分だろう。エルリックはそんなことを考えた。

 野心があったら、誰かを愛したら。

 手放さなければならないものが数多くある。

 そして、横に座る女は、どれをも経験してきたはずだ。

 どんな痛みだっただろう。

 どんな苦いものだっただろう。

 ふと、それを知りたいと思った。この女のことを、もっと知りたい、そう思った。

「なあ」

 エルリックはそこから見える峠の下の風景に目をやりながら、何気なく言った。

「あんたのこと、もっと聞かせてくれよ」

 そう言われて、ルイーゼは驚いたように横にいるこの男を見つめた。

「――」

 そして、姿勢を正す。

「私、愛するひとを亡くしたばかりなの」

 わざと突き放すように言った。

「とてもそんな気持ちにはなれないわ」

「あんたの歴史、もっと知りたい。あんたがなんで今のあんたになったのか、なんで今みたいに考えるようになったのか、なんで歌うようになったのか、それを知りたい」

「私の歴史……」

 茫然とエルリックの言葉を反芻するルイーゼに、彼はなおも言った。

「子供の頃どんな子だったのかとか、どんな食べ物が好きだったのかとか、そんなことから知りたい。それは、別に悪いことじゃないだろ」

「――」

「ゆっくりでいいからさ。考えておいてよ」

 じゃ、と言い置いて、エルリックは立ち上がって行ってしまった。その背中を見送りながら、ルイーゼはぼーっと言われたことを考えていた。

 私の子供時代?

 そんな大昔のこと、もう覚えていない。霞のような掴みどころのないものである。

 今まで愛した男たちのなかに、そんなことを言ってきた者はいなかった。みながみな、自分の得意なことを教えてくれたり、生計たつきの道を伝授してくれたりして、それらはその後のルイーゼの長い長い人生に大いに役立った。その多くは、彼女の生活の糧となった。

 戦士がそのいい例である。

「わたしのこどものころ……」

 座ったまま、ルイーゼは遥か昔のことに思いを馳せた。そしてなんとか思い出してみようと、記憶を呼び覚ましてみようと頑張った。

 そんなことをするのは、何百年ぶりだった。

 そんなことをしているうちに山を三つ越え、峠を歩きに歩いて、アイゼン王国の山を越えた場所へ着き、あの巻き物に記された場所へやってきた。

 そこは、小さな小さな村であった。

「……ここに『不死の医学書』があるの……?」

 ルイーゼはまだ信じられないような面持ちで村を高台から見下ろすと、小さくそう呟いた。

「とにかく、行ってみよう」

 と、近づいてみると、なにやらきな臭いにおいがしてくる。

「ん?」

「なんだ」

 徐々に村の影が大きくなっていくにつれ、そのにおいは確かに、くっきりはっきりとしていく。それに従い、もくもくと黒い煙が上がっているのが見えた。

 ヴィズルとエルリックは顔を見合わせた。

「火事だ」

 走って行くと、大きな家から火がもうもうと立ち昇っているのが見える。

 村人たちは次々に桶に水を汲んで消火に努めているが、焼け石に水とはこのことであろう、猛火はいっこうに消える気配がなく、却って勢いが増すばかりである。

「手伝おう」

「ああ」

 火事で最も恐れられるのは、類焼である。幸い隣近所に家はないようだ。だが、家の外で争う男たちがいるので、それを収めようとヴィズルが止めに入った。

「どうした、なにをしている」

「うちのかあちゃんと息子がまだなかにいるんだ」

「なに……」

「助けに行かせてくれ」

「だめだ」

「手遅れだ」

「なぜそれを早く言わん」

 ヴィズルは側にいた男から桶を奪ってなかの水を被り、燃え盛る火のなかに入っていった。

「あっ」

 続いて、ルイーゼが水を頭から浴びて家のなかに走って行った。

「ルイーゼ」

 エルリックは彼女の後を追って、なかに入った。

 炎が渦を巻いていた。

 梁が、轟音を立てて落ちてきた。

 熱くて息が、できない。

 エルリックはルイーゼの名を呼んだ。どこだ。どこにいる。

 彼は鼻と口を押さえて、必死にルイーゼを探した。火がごうごうと燃えている。

 業火が、まばゆいようである。

 ふと、遠い場所から子供の泣き声のようなものが聞こえた気がして、エルリックはそちらへ顔を向けた。

 気のせいか?

 柱や梁が燃え落ち、倒れる音が絶え間なく聞こえるせいで、よく聞き取れない。

「……」

 あっちだ。確かに聞こえた。

 エルリックはそちらの方向へ慎重に歩きだした。途中、柱が何度も倒れてきて、進路が阻まれた。また、燃え落ちたものが通路を塞いでいたので、彼は熱くて急いでいるというのに否応なく回り道を余儀なくされた。

「ルイーゼ」

「エルリック」

 彼女は、奥の部屋にいた。小さな子供を抱えていた。

「この子よ」

 しかし、当のルイーゼの腕も大きな火傷を負って、子供を抱えることはできないようである。それで今の今まで脱出することができないでいたのだ。

「よし、この子は俺が抱えて出る。行こう」

 エルリックは子供をしっかりと抱え、ルイーゼを連れて、なんとか元来た道を戻った。 もう焼け落ちてなくなった場所もあったから、それは至難を極めた。

 ゴオ、という絶望的な音と共に家がとうとう燃えてなくなったのと同時にエルリックとルイーゼが走り出てきて、村人たちは胸を撫で下ろした。

 家主の妻を助け出したヴィズルは、一足先に脱出できたようである。

「やれやれ、髭が焦げてしまった」

「髪もな」

 互いににやにやと笑いながら、ヴィズルとエルリックは無事を確かめ合った。家主の男はしきりに、三人に礼を言っている。

「まあまああんた方、怪我はないかね。火傷をしたのかね。診せなさい」

 年配の男が近づいてきて、ルイーゼの腕を見た。

 しかし、その瞬間である。

 火傷していたその腕が、見る見るうちに治っていったのだ。

「こ、これは……」

 それを、村の者の誰もが見た。

「なんだこれは」

「人間ではないぞ」

「魔性のもののしわざだ」

「村に災いが来るぞ」

「追い出せ」

「不吉だ」

「待ってくれ。俺たちは……」

 と、エルリックが言おうとすると、その額に小石がこつんと当たった。

 それに触発されたように、次々に石が投げられて、

「こりゃたまらん。逃げよう」

 ヴィズルの合図で、三人は森に逃げ出した。

 そうして、どれくらいが経ったことだろうか。

 人気のない場所までやってきて、樹々が黒く生い茂り小鳥の声も聞こえなくなってきた頃、小さな小屋が見えてきた。扉に手をかけると、どうやら鍵はかかっていないようである。

「無人だわ」

 なかには、暖炉とテーブルがあるのみである。

「多分、森の管理小屋かなにかだろう」

「夜露と風くらいはしのげるぜ。ここで休もう」

 野宿よりは、屋根があるだけましというものだ。薪もある。それに火をつけて、とりあえず座った。

「ごめんなさい。私のせいで」

 ルイーゼは悲しげにうつむいて二人にそう言った。

「なあに。大したことじゃないさ」

「そうだよ。あんたはなにもしちゃいない。人助けをしたんだ。胸張ってなよ」

 二人はなんでもないように言ったが、ルイーゼは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 私は、いつもこうだ。

 一人でいるべきなんだ。

 なのに、寂しさに敗けて、仲間なんてものに頼って。甘えて。

「それより、今後のことだが」

 ヴィズルが場をとりなすように言った時、扉が軋む音と共に開いて、誰かが入ってきた。「ああ、やっぱりここにいなすったか」

 それは、あの家主の男だった。

「森のなかに逃げたから、もしかしてと思って追いかけてきたんだ」

「あんたか。なにしにきた」

「俺、あんたらがみんなが言うほど悪い人間には、どうしても思えなくて。だって火は邪気を祓うっていうだろ。その火のなかに迷うことなく入っていったってことは、あんたらは悪いものなんかじゃない。それに、かあちゃんも息子も無事だ。ちゃんと生きてる。ってことは、あんたらは悪いものなんかじゃない。ちゃんとした人間だ」

 ヴィズルとエルリックは顔を見合わせた。

「そう思ってくれるのは大変ありがたいな」

「奥さんと坊やは大丈夫なのかい」

「ああ、ちょっとぼーっとしてるけど、大丈夫だ。生きてるよ」

「まだ安心しないで。火事の生存者は、喉を確認しないといけないの。喉の奥を見て、黒く腫れていないか必ず見てあげて。この村にお医者さんはいる? 見てもらって」

「生憎、ここは無医村だ。昔はいたが死んじまった。設備らしきものが辛うじて残ってる程度だ。だが、あんたが言ってくれたことは帰って必ずやるよ。あんたはお医者かい」

「医療の心得があるわ」

「そうかい。そりゃ心強いね。あんたら、うちの村にはなにしに来たんだい。あそこにはなにもないし、小さい以外にはこれといって特長はないんだが」

「ああ、探し物をしていてな。実は……」

 ヴィズルは探している書物のことを男に告げると、なにか知っていることがあったら教えてもらいたい、と頼んだ。男は腕組みをして、

「うーん……俺は聞いたことはないけど、それとなく村の年寄りに聞いてみるよ。古い村であることは確かだから、誰かなにか知ってるかもしれない」

 そう言って、男は時々食べ物を持ってきてやるよ、と言い置いて、山小屋を出ていった。「さて、どうしたもんかな」

 ヴィズルは腕を組んだ。暖炉の火があかあかと燃えて、彼の黒い瞳を照らし出している。「こうなったら、あの男の情報頼みだ。待っている間、森でこっそり狩りでもするか」

「それに、手持ちの薬草もそろそろなくなりそうだぜ。採りに出かけよう」

 あくまでも前向きな二人の姿勢に、ルイーゼは救われる思いだった。


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