今日

古澤ひより

今日

「あぁ、朝か。」


 霞がかった春の朝、街の輪郭は曖昧にぼかされている。冬の残したひんやりとした空気と窓から差し込む柔らかい光に起こされた。男はゆっくりと体を起こし、ベッドと机で窮屈な部屋を見渡した。しかしもう、この部屋もこの家も、この街も自分には関係ない。洗いざらしのシャツを羽織って、何も持たずに家を出た。

 今日、この男は漂泊の人となった。街を出る道は思いのほか静かだ。今日も街に住む人々はそれぞれの朝を変わりなく始めている。仕入れられたばかりの花たちが店先を彩っている花屋。香ばしい匂いを漂わせているパン屋。忙しそうに駆け抜けていく新聞売り。誰も男のことなど気に留めない。当たり前のことだ。

 男は歩く。自分の死に場を探して。男にはこの世があまりにもつまらなかった。もう飽き飽きしている。寝て、食べて、起きて、を繰り返してただただ時間が過ぎて行くだけ。生きる意味など見出せずここまで生きてしまった。つまらない人生だった。男は歩く。死に場を探して。霞の向こうにぼんやりと浮かぶ街並みを背にして緩やかな丘の一本道を進んでいると、男はふと奇妙な問いを思い浮かべた。


「ユートピアは存在するのだろうか? 」


 それは唐突に、まるで降ってきたかのように頭に浮かんだ考えだった。ユートピア。馬鹿らしい。そんなもの今まで考えたことさえなかったのに。死に際になってこんなものを追い求めようとするのか。そんなことを思いながら矛盾するように考えている自分がいた。

 もし、ユートピアが存在するのなら、どんな場所なのだろう。退屈のない場所? 生きることに意味を見出せる場所? 何かに感動できる場所? 美しいもので溢れている場所? いいや全てが満たされている場所なのか? 

 はあ、やっぱり馬鹿げた問いだった。そんなものが存在するのなら、とっくの昔に誰かが見つけているはずだ。しかし、男は胸の奥どこかに僅かな高揚を感じた。

 男は歩く。死に場を探して。気づけば知らない森の中に居た。太陽を遮る高い木々、その隙間からこぼれる光が影の中にまだら模様を揺らしていた。男はふと立ち止まった。

「ねえ、おじさんどこへ行くの? 」

 声がした。声の方向へ振り返ると、周りのものより少し背の低い木の枝の上に少年が座っていた。歳はいくつだろう。10に満たないくらいだろう。なにか不思議な少年は淡い色の服は土でくすみ、小さな靴も泥だらけであった。子供ながらの純粋な好奇心からなのか青空のように澄んだ瞳を美しく煌めかせてこちらを覗いている。

「どこかだよ、どこかに行くのさ。」

無視しても良かったが、子どもの視線に負けた。雑な返答かもしれない。だが、死に場を探しているともユートピアを探しているとも言う訳にもいかないしこう答える他なかった。

「どこかって? 」

「どこだろうな。」

「何それ、おかしなおじさんだね。」

「そうかもな。」

少年は枝の上で足をぶらぶらと揺らしながら、楽しそうに笑っていた。森の木々がざわめき、風が吹くたびに葉が擦れ合う音がした。

 会話を終え、男は再び歩き出した。

「ねえ、おじさん。」

「なんだ。」

男は足をとめずに答えた。

「もしかして、ユートピアを探しているの? 」

男の足が止まる。

「……なぜそう思う? 」

「だって、おじさんの顔、まるでそれを探しているみたいだもん。」

少年は、ただいたずらを仕掛けるように軽い口調で話した。しかし、言葉の端々に確信がにじんでいるように感じる。

「馬鹿馬鹿しいな。ユートピアなんてものがあるなら、とっくに誰かが見つけているさ。」

少年は肩をすくめた。

「そうかな? みんな、探し方を知らないだけかもしれないよ。」

「探し方? 」

「うん。」

少年は枝の上からひょいと飛び降りた。驚くほど軽々とした動きをしていた。

「おじさん、ユートピアがどんなところか知っている? 」

男は返答に詰まった。たった今、自分も考えていたことだった。少年を少し奇妙に感じたがユートピアへの興味が勝り、あまり気にならなかった。退屈のない場所? すべてが満たされた世界? それとも生きることに意味を感じられる場所? だが、どれもただの自分の空想に過ぎない。

「そんなもの、誰にもわからないさ。」

「そうかもね。でもね、おじさん。」

少年はにっこりとかわいらしく笑う。

「おじさんはユートピアを思い出せるはずだよ。」

男の眉がわずかに動く。

「……思い出す? 」

「そう。おじさんは昔、ユートピア知っていたんだよ。でも、忘れちゃったんだ。」「ふざけたことを言うな。」

「ふざけてなんかないよ。」

少年は森の奥へと続く小道を指さした。

「おじさん、ちょっとだけ試してみない? 」

「何をだ? 」

「ユートピアを思い出すこと。」

 まるで、遊びに誘うかのように少年は言う。それがかえって、男の心をざわつかせた。ユートピアを思い出す? 理解ができない。馬鹿げている。だが、気づけば男は足を踏み出していた。森の奥へと続くその小道へ。男は少年の後を追い、森の奥へと続く小道を歩いた。道は細く、木々が生い茂り、ところどころで朝露を含んだ葉が肌をかすめる。鳥のさえずりが聞こえ、遠くでは小川がせせらぐ。その音は、とても穏やかで心地よかった。

「なあ少年、本当にユートピアなんてものがあるのか? 」

「うん。でも、それはきっとおじさんが考えているようなものじゃないよ。」

少年は振り返らず答えた。

「どういうことだ? 」

「ユートピアってね、特別な場所じゃないんだよ。ただ、おじさんが見えなくなってしまったものの中にあるんだ。」

 男は少年の言葉の意味を考えながら歩く。やがて、森が開けた。そこには、小さな村があった。家々の庭には春の花が咲き、薪を割る老人の姿、洗濯物を干す母親と笑い合う子供たちが見える。少年は村を見渡し、嬉しそうにさっきとは違うかわいらしさで笑う。

「ね、おじさん。ここって、なんだかユートピアみたいじゃない? 」

 男は答えられなかった。ここには何の変哲もない日常しかないじゃないか。誰かが誰かと笑い、誰かが誰かを思いながら暮らしている。ただ、それだけの風景だった。けれど、ふと、心が静かになるのを感じた。あぁ、思い出した。それは、幼い頃に感じた懐かしい安らぎにも似ていた。子供のころ、母が作ってくれた温かいスープ。父と手をつないで歩いた帰り道。友と並んで見上げた夕焼け。そんな些細なものが、確かに心を満たしていたはずだった。

「おじさんが今まで気づかなかっただけで、本当はずっとそばにあったんじゃないかな。」

少年は言う。

 森を抜ける風が、頬を優しく撫でた。心の奥にずっとあった空白に、静かに何かが染み込んでいくような気がした。ユートピアは、どこか遠くにある理想郷ではなかった。男はゆっくりと息を吐き、もう一度村を見渡した。

「……そうか。」

目を閉じると少年は消えていて、村も無かった。

「ありがとう、少年。」




春の光が、暖かく、暖かく男の肩を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今日 古澤ひより @pomuponu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ