石にも花にもまつろわぬ
祭ことこ
石にも花にもまつろわぬ
男性の親族の一周忌に立ち会うのははじめてのことだった。二歳か、三歳くらいか、わたしが物心つかないくらいの年齢のころに、遠縁の男性の一周忌に参加したらしいが、さすがに覚えていない。その
学生という身分なので、高校の制服を着てきている。みんなが黒い喪服を身にまとっている中、比較的彩度の高い青色のセーラー服は少しばかり浮いてしまう。そんなことは気にする必要がないと母は言っていた。こういうのは気持ちと形式が大事なのだと。そんなことより、スカートを履いているせいで寒いので、タイツでも着たいと思っていた。ソックスにしなさいと母は言った。十二月も中旬になるのに。
今回一周忌を執り行う対象は父方の祖父の兄だ。名を洋次郎という。死因を詳しくは聞いていないが、大病ではなかったらしい。祖父とはすこし年齢が離れていて、七十五は過ぎていたので、寿命だったといえるだろう。生前、あまり面識はなかったのだが、年末年始に親族で集まる際には顔を出してくれており、毎年、きらきらとした人造石をあしらった手作りのポチ袋でお年玉をくれたものだった。最後にもらったのはオレンジ色のラインストーンが花柄に配置されていたものと記憶している。きれいなのでとっておきたいと思っていたのだが、そういうものは長々と持っておくものではないと姉に言われたので捨てることになってしまった。
父方の祖父の兄と呼んでいると長過ぎるのでここからは洋次郎伯父さんと呼ぶことにする。正確を期するなら大叔父なのだろうが、あまりそのように呼んだことはなかった。よくわからない男性の親戚はだいたい『おじさん』だ。
洋次郎伯父さんにパートナーはいなかった。よって兄である祖父が喪主となって葬儀を行った。洋次郎伯父さんは特に遺書を残していなかったため、祖父が洋次郎伯父さんの終の地を決めた。一年前、洋次郎伯父さんは祖父の家の裏山――つまり、祖父と洋次郎伯父さんが共に育った家ということなのだが――に埋葬され、わたしたちは今、その山にいる。
わたしを含めて二十人弱ほどがその斜面を歩いていた。金糸の入った袈裟を着ているお寺のひとと並んで歩く祖父を先頭にして、母、父、姉、妹、その後ろには祖父の妹の家族、それからわたしも関係をよく知らないひとたち。低い山ではあるが、シャベルとカバンを持って登るのには多少骨が折れた。スニーカーならさておきローファーなのだし。ヒールを履いているおとなたちは大丈夫なのだろうか。母親の妹の末子、要するにいとこで、たしか三歳くらいだったと思うが、その子が不安そうにしながらも小さなシャベルを持たされているのを視界の端にとらえつつ、土を踏みしめる。
雨でなかったのは幸いなことだが、そもそも一周忌は雨であったら延期するものだ。よく整備された山ではあるが、学校に行くときに使うローファーでは靴の表面に土が付いてしまう。あとで磨かなければならないな。
十分くらい歩いただろうか、洋次郎伯父さんの終の地にたどり着いた。一周忌ともなると、悲しみは和らいでいるものらしい。一年前は重々しい空気が漂っていたその山の中腹は、厳粛な雰囲気ではあるものの、何が出てくるんだろうね、親はシトリンだったらしいじゃないか、こいつもまた平凡な石なんじゃないかとか言うものもいた。そう話していたのは、年末年始には顔を合わせるくらいの間柄の、年若いひとだったと思う。わたしにはそもそも洋次郎伯父さんとの思い出があまりないので、適当に笑っておいた。そうこうしていると、二メートル四方ほどの、下草の生えていないエリアを前に、お寺のひとが、
「それではこれより一周忌の法要を開始いたします」
お寺のひとは手短にお経をあげてから、それではみなさまスコップをお持ちください、と言う。
わたしはおとなたちからワンテンポ遅れて銀色のスコップを右手に持った。さっきいた三歳くらいのこどももちいさなスコップをぎゅっと握っている。最初に土を掘るのは祖父だ。一年前にも堀った地面に、祖父はスコップを差し入れて、土を掘り出した。続いておとなたちが周りの土を掘り返し始める。あなたもやりなさいと母が言い、わたしはまだ開拓されていないところを掘ることにした。地面はふかふかとしていてやわらかく、かんたんにスコップが入った。二十人ほどで作業を行ったので、みるみるうちに穴が深くなっていく。
ほんとうにこのまま掘っていていいのかな、と思ったくらいのところで、誰かが、
「ぶつかったぞ」
と声を上げた。そちらの方を見てみると、茶色い土からわずかに、薄い青色の石がのぞいている。
そこからは早かった。みんなでスコップで土を掘り進めると、みるみるうちに石が露出していき、大きなラグビーボールのようなかたちをした表面が太陽の光を受けて鈍く光っていた。磨かれる前の石は、たいして輝きはしないのだが、それでも、そのへんに落ちている石とはなにか違うのだなと思わせる風格があった。
しかし、ここにあるのは人ひとりと同じ質量だ、すべてをわたしたちで掘り出すのは大変なので、ここからの作業は業者にお願いすることになる。一周忌として親族がやるべきことはこれで終わりだ。
人間は、死ぬと宝石か花になる。
死んでから大体一年くらい経つと、どちらかに転じるのだ。
男性は宝石に、女性は花になる。
洋次郎伯父さんは男性だったので、宝石となったわけだ。
「あれはなんだったんだろうね」
と年若い親族が母に話しかける。
「鑑別に出さないとわからないでしょう」
「でも青だから、もしかしたらサファイアかもしれないよ、そのくらいのことはしていたひとだからねえ」
「まあ、しかし、洋次郎さんは、どんなに経済的に成功したって、家族を作らなかったでしょう。セレスタイトくらいじゃないの、あの色の薄さだし」
「死んだひとについてとやかく言うものじゃないけど、何になるかって、人生の答え合わせみたいなものだからね」
と親戚のひとたちが口々に言っていた。わたしはそれを黙って聞いていた。
死後、何の宝石になるかは完全にランダムだというのが、経験則として知られているのにもかかわらず、なぜだか、ひとは何になったかによって評価される。されてしまう。もちろん、花だって、そうだ。
洋次郎伯父さんが転じた青い宝石は、それらの会話を聞いているように見えた。幼いこどもの親族が、その宝石に興味を持って眺めているようだったが、保護者だろう、女性がそんなにじろじろ見るものじゃないよ、と遠ざけていた。
掘り出された宝石は、小さくカットされて親族や親しかった者に渡されることになる。その中心には穴が空けられていて、紐を通してお守りとする。その石は縁と呼ばれており、だいたい曽祖父の代くらいまでのものは面識がなくとも持っている者が多い。なんせ石なのだから、腐ることはない。今生きている親族の分だけではなく、未来に生まれるであろう者たちのために、保存しておくのだ。
縁として使用される宝石の質量はそれほど多くないため、わたしたちの家の場合は、それ以外の部分に関しては本家に戻されることとなる。その宝石の処遇については地方や職業によって差があるが、わたしの住んでいる地方では、だいたい庭に飾られることとなる。だから、本家の広い庭には、色とりどりの大きな宝石がきらきらと輝いているのだ。分家にも、本家よりは小さいものの、石が分配されていくこととなる。
また、それ以外にも、親しかった者や、近い親族に関しては、リングやネックレス、ブレスレットなどといったアクセサリーに加工して身につけるひともいる。母が左手の人差し指にしている、ピンクがかった赤いルビーのリングは、年若くして亡くなった、母の兄が転じたものなのだと、幼いころから聞かされてきた。
法要を終えたわたしたちは、靴についた泥を払ってから昼食をとり、家に帰った。昼食会では、おとなたちが酒を飲んでおり、わたしを含むこどもたちはリンゴジュースを飲んでいた。家に帰ると、どっと疲れて、二階の自分の部屋に戻った。少しの間、着替えてベッドに寝転んでいたら、母からノックがあり、庭の世話があるでしょうと言われた。
そうだった、今日の庭の世話はわたしの当番だった。わたしは一階に戻る。
家の庭は百歩もあれば回れるほどの広さで、幼かったころは世界のすべてのように思えていたのだが、今となっては小さいなと感じられる。グレーかかった茶色の地面に、ぽつりぽつりと、おとなの頭くらいから拳くらいのサイズまでの宝石が置かれていたり、さまざまな植物が生えていたりする。それらの多くがわたしの親族であり、かつて生きていた人間が転じたものである。
十二月ともなると、咲いている花はあまり多くない。隅に咲いている赤いサザンカのそばには、握りこぶしくらいのサイズのピンク色のモルガナイトが置かれている。サザンカとモルガナイト、どちらも元になった人物との面識はないのだが、この庭にあるということはどこかでつながっている親族なのだろう。たしか父方だったような気がするし、生前は夫婦だったからこうやって隣に配置してあげたのだとか言っていたような気もする。
わたしはサザンカに水をやって、モルガナイトにかかったチリをはらった。
それから、まだ花をつけていない植物にも水をやり、方々に配置された宝石を掃除した。好みなのは金色のルチルが入った水晶だ。角が丸くなっているため、結構昔のものだろう。宝石に土がついていると、ご先祖様に申し訳が立たないと母は常々言っている。わたしにはその感覚はわからないが、石が光っているときれいだなとは思う。最後に母方の曽祖父が転じた緑色のメノウを雑巾で拭いて、わたしは庭の世話を終わらせた。
雨は好きではないけれど、雨が降れば宝石の表面は勝手にきれいになるし、花に水をやらなくてすむので、その点では当番の日に雨が降ってくれればいいと思うことがある。この庭にある植物すべてがかつて生きていた親族の女性だというわけではない。芝生なんかは違う。宝石だってそうだ。この世界にあるすべての石がかつて生きていた男性だというわけではない。DNA鑑定や鑑別に出したりすれば元人間なのかそうではないのかわかるらしいのだが、どちらにしたって世話が必要なのは変わりない。
最近では、庭を自分で持てないひとのために、宝石や花を代理で管理するサービスもあるらしいのだが、親くらいの年齢だとそれをよく思わないひとたちもいるようだ。広大な土地の中に、誰とも知れない宝石や花がばらばらにあるだなんて、ぞっとすると父はこぼしていた。親族はひとつに集まっているのがよくて、自分のルーツをいつでも大事にできるのが大切なのだと。そうは言っても、わたしだっておとなになってから、このようにきちんとした庭のある家に住めるかなんて、わからないのだ。
終わったので、わたしは今度こそ部屋に戻ることにした。リビングでは母と父がバラエティ番組を見ていたので、庭の世話は終わったよと声をかけた。
階段を昇る。一人部屋があることは幸いだった。昇り切ったところにわたしの部屋の扉はあり、当然ながら鍵はかかっていない。
法事というのは疲れるものだ。学校を一日休めるのはすこしうれしいのだが。そんなことを言ったらおじいちゃんのほうが大変なんだからねと母に小言を言われそうなのだが、疲れるものは疲れるのだ。特に男性の一周忌の場合は力仕事が必要になる。女性の一周忌に出たことはあるが、お経をあげてもらって、ちょっと草刈りをして終わりだった。女性の場合は植物の種に転じるから、きちんと地面の整備をしておけばそのうち生えてくるのだ。その世話はだいたい業者やお寺に任せることとなるし、花が咲いたら見に行く義務はあるけれども、たくさんの土を掘り返す必要はない。なんでこんな不平等がまかり通っているんだろうと思う。男性には力仕事が必要で、女性に対してはそうではない。
そんなこと言ってもいつかあなたも花になるんだから、親戚のご厄介になるんだから、と母は言う。
この世界では、人間は死ぬと宝石か花になる。
男性は宝石に、女性は花になる。
わたしは、どちらにもなりたくない。
つまるところそれが問題なのだ、と、法事の間に携帯端末に来ていたメッセージに返信しながら考えている。出生時に割り当てられた性別とは異なる性を生きるひとたちもいて、そういうひとは死んだらその性が転じることになっている対象になる。そのおかげで、「ほんとうに男だったんだね」とか、「ほんとうは女だったんだね」とか言われることになる。だけど、わたしは宝石にも石にもなりたくないのだ、ほんとうはどっちかだった、なのではなくて、ほんとうにどちらでもない、を生きて死にたいのだった。
どうしてそう思うようになったのか、明確な理由があるわけではない。ただ、物心ついたとき、というか、人間が死んだらどうなるのか、を知ったとき、幼稚園とかそのあたりだと思うのだが、にはなんとなく嫌だなと感じていたし、身の回りの人間にとって嫌ではないのだということがわかってからはさらにその感情は増した。
今のところそんなことは友人にすら話していない。ユーリってなんか変だねと言われるのが関の山だろう。親きょうだいには言えるわけがない。現代では、縁を常に携帯することはないし、庭だって毎日世話をするくらいで、自分の死後について考える機会はそれほどない。しかし、制服のスカートを履いて、いずれ花になるものとして扱われるこのような行事があると、さすがに思い出さざるをえない。
来ていたメッセージのだいたいが雑談で、今度遊びに行こうとか、この前の宿題教えてとか、先生が結婚したって噂があるよとか、そういうものだった。みんな呑気なものだなと思うと同時に、いつもどおりの日常が戻ってきたのだなという感覚もあった。みんなとたのしく話しながらも、みんなとは異なる世界を生きている、日常が。
あまり興味を持てないそれらのメッセージに律儀に返信したりスタンプを送りながら、最後に、こんなやつから連絡来るんだ、と思った。
クラスメイトのユーキだ。
ユーキとは中学生の頃から知り合いなのだが、一度、同じ図書委員になったことをきっかけに連絡先を交換したくらいで、それ以上の接点はなかった。どちらかというとクラスのムードメーカーで、サッカー部に所属していて、サッカーはそれなりに強いらしくって、文化祭や体育祭などの行事には積極的に参加し、何事も楽しんでいる、つまりは、とりあえずその場をやり過ごせばよいと考えているわたしからは縁遠い存在だった。
そんなユーキからのメッセージはこれだ。
『茶柱立った』
しかも写真付き。
なんでそんなことをわたしに送るんだろう。送り先を間違えてるんじゃないかと訝しみつつも、一応よかったねと返信する。それ以上の連絡はなかった。
それから、明日までの宿題をやろうとしたのだが、なんとなく身が入らなくて、携帯端末を手にとってはインターネットやソーシャルメディアをいくつか見ていた。そうしていたら、あることに気がつく。
自分みたいに、宝石にも花にもなりたくないひとは、他にいるんじゃないだろうか。
そう思って検索してみたら、最初は思春期によくあることで、いつか治りますみたいな雑なブログ記事しか見つからなかったのだが、スクロールしていくうちにひとつのサイトを発見した。
そのサイトの名前はシャングリラという。トップページの写真は穏やかなピンクと黄色のグラデーションだった。
『あなたが生きる世界のために』
というキャッチコピーがついている。
最初はなにが書いてあるのか、これがなんのためのページなのかよくわからなかったのだが、いくつかのページに分けられている記述を組み合わせると、既存の性別にあてはまらないと認識しているひとたちが集まるコミュニティを作っているということがわかった。そのコミュニティがどこに位置しているかは、連絡してくださいとのことだった。おそらく、普通に書いたら荒らされてしまうから、わざとわかりにくく作っているのだろう。
なるほど、自分と同じように考えているひとがいないわけがないのだ。世界は広いので。
わたしはそのサイトのメールフォームを開いて、メッセージを送ってみることにした。
今、自分は高校生で、死んだら花にも宝石にもなりたくないのですが、どうにかなりませんか? と。
もしこれがジョークサイトだったら、とも思ったのだが、ここまで手の込んだことをしているのだから、ほんものなのだと信じたかった。
わたしは携帯端末を伏せる。さすがに宿題をやらなければならない。
むかしむかしあるところにブッダというひとがいて、そのひとは死んだら宝石になって、なんとダイヤモンドだったらしいんだけど、その欠片は全世界に散らばっていて、集めると一トンくらいの重さになるらしい。ブッダ何人分なのだろうか。
むかしむかしあるところにイエスというひとがいて、そのひとも死んだら宝石になって、たしかルビーだったらしいんだけど、その欠片も全世界に散らばっていて、それまた集めると一トンくらいの重さになるらしい。イエス何人分なのだろうか。
むかしむかしあるところにマリアというひとがいて、そのひとは死んだら花になって、白い百合だったらしいんだけど、その百合は今でも世界中で咲いているらしい。白い百合はポピュラーなものなので、もしかしたらそのへんに咲いている百合がそうなのかもしれないが、わたしにはわからない。
むかしむかしあるところにいた男性たちが風化してできた砂で構成された地面に、むかしむかしあるところにいた女性たちが転じた花が咲いている。
その世界にわたしの居場所はない。
次の日の朝、学校に行くのはあまり気が進まなかった。まあ、昨日のノートは友人に頼んでいるし、授業の方はどうにかなるのだろうが、吹奏楽部のほうに顔を出したくはなかった。なんせ、楽器の練習は、一日休んだら取り戻すのに三日かかるとか言われるのだ。不可抗力とはいえ、休むのは気が引けた。
学校までは自転車でゆく。家からはちょっとした坂道となっており、ギアを入れるほどではないのだが、普通に漕いでいるとちょっと疲れるくらいの塩梅である。前カゴにカバンを入れて走る。コートを着ていても、スカートのせいで寒い。学校はタイツを履いていくことが許されているのが救いである。タイツは適当に扱うとすぐに伝線してしまうが、ないよりはマシだ。
帰り道に下り坂の恩恵を得られるほどではないくらいの、坂道である。それでいて決して無視することはできない。面倒だ。
おはようと言って教室に入ると、休む前と変わらない日常が広がっていた。それはそうだ。一日くらいで何が変わるんだというはなしだ。ノートは無事に貸してもらえた。一日でもけっこうな量が進んでいるようだった。わたしはそれにざっと目を通して、携帯端末で写真を撮らせてもらう。あとで自分のノートに転記すればいいだろう。
三時間目の世界史の授業にはナポレオンが出てきて、彼はカルサイトに転じたらしく、そのせいで業績が過小評価されているとか先生が言っていた。なお歴史上の人物が何に転じたかは、よっぽど重要ではない限りテストに出ない。出ないけれども、みんなが興味を持つから、よく聞く。よっぽど重要というのは、文化史とかで、人間が転じた石で工芸品やらアート作品を作ったとか、そのようなケースだ。
女性であってもそうで、マリー・アントワネットの転じたバラは青かったと言われており、彼女がフランス国民に憎まれていたから、その青いバラは徹底的に排除され、その後天然や人間が転じたもので青いバラは生まれなくなったとか、言われている。
もちろん、この考え方は科学的には否定されている。
科学的には否定されているものの、おもしろい話として、話題に登ったりはする。
四時間目は選択音楽で、それぞれ教室を移動することになる。音楽室は二年生の教室がある二階の、廊下のつきあたりに位置している。
今日の授業は、期末のソロコンサートに向けて各自練習するというものだったので、先生から最初にみなさんがんばってくださいと言われた後は、自由行動だった。
トロンボーンの練習を一通りして、楽器を片付けていると、エレクトーンを前にしているユーキが目に留まった。サッカー部なのだから、どちらかというと運動に強そうなのに、楽器もできるなんて多才だなと思う。
ユーキが楽譜を閉じたところで、わたしは声を掛ける。
「そういえば、なんであんなこと連絡してきたの?」
別に流してもよかったのだが、機会があれば聞いておきたかった。そう、茶柱の写真だ。
「あんなことって? ああ、写真?」
「送り間違えたならそれでもいいんだけど」
「あー、なんだろ、ほら、幸運って誰にでも分けたほうがいいじゃん」
たしかに、茶柱は一般に幸福をもたらすとされている。古い民間伝承だが。そんなことを気にするタイプとは思っていなかった。わたしの家だって、両親すら茶柱が立っても写真を撮ることもないだろう。すこし笑顔になるのが御の字だろう。
とか考えているのを意に関せずユーキは言う。
「だからクラス全員に送った」
「全体メッセージで送ればよかったじゃん!」
クラス全体のメッセージに写真を送れる機能を知らないわけではあるまい。それはそれで、迷惑だったような気もするのだが、クラス全員――の連絡先を知っているのかは知らないが――に各々送るよりはいくらかマシだろう。
「忘れてた」
と言うのが本気なのか冗談なのかわたしには判別がつかない。
わたしがどう答えていいのかわからずにいると、不意に、ねえ、おれたぶんあんたと同類だよ、とユーキは言う。
「同類って」
「思うところがあるんだろ、死んだあとのことに対して」
死んだあとのこと。わたしは何にもなりたくない。それにしても、なんで急にそんなことを言ってきたんだろう。何より。
「どうしてそんなことわかるの」
「おれは死んだら宝石の花になりたい」
宝石の花、聞いたことがない。もしかしたら、工芸品とかにあるのかもしれないけど、わたしは見たことがない。
うーん、パイライトあたりがいいなあ、でもそうしたら結晶構造的にかくかくになっちゃうのかな、それはそれでかわいいと思うんだけど。
それにしても、いきなり何の話だろうか。
「さっきの質問に答えてよ」
「え、そんなの簡単だよ」
と言いながらユーキはポケットに手を入れる。
「写真撮ってるとき? 画面見えちゃってさ、あのサイト見てたんだろ?」
あのサイト、と言われて、思い当たるのはひとつしかない。シャングリラだ。黄色とピンクのグラデーションのトップページを、開きっぱなしにしておいたかもしれない。
わたしはそうだね、とも違うよ、とも言えなかった。もしクラスメイトがこの会話を聞いていたらどうしようと思ったのだ。
何より。
見透かされたみたいで腹がたった。
わたしは楽器を持ってそのまま教室を出た。まったく、今まで関係がなかったのだから、これからもそんなに話すことなんかないのだ。たったひとつの共通点がある程度のことで。
ユーリ、とわたしの名前を呼ぶのが聞こえる。振り向いてはやらない。
そういえば、あいつはわたしを呼び捨てにするのだ、他のクラスメイト相手にも、そうなんだけど。
それが許されるような、あれはどうにもぱっきりと明るいオレンジのようなひとであった。
でも、ただのクラスメイトだ。いきなり宝石の花になりたいとか言われて、気にならないわけでは、ないのだが。
授業が全部終わって、部活もなんとかこなして、家に帰ったら、シャングリラの主催者から返信が来ていることに気がついた。
『ご連絡ありがとうございます。まだ高校生の方なんですね。わたしたちはあなたを歓迎する準備ができていますが、ご家族とは離れて暮らすことになってしまいますので、未成年の場合は保護者の方の了承が必要となります。わたしたちは、一緒に暮らしており、死んだらそのからだを特殊な技術で溶解することによって、どちらでもなさを実現しています』
たしかに、人間を埋葬するから、そこに死体があるから宝石やら花やらにならざるを得ないのだ。死体がなければ、そんなことを考えなくてもよい。一理ある。溶かしたり燃やしたりすればいいのだ。そういう事件は、たまに起きる。死体を処分することは犯罪にあたる、ということくらいは知っている。だから、このひとたちは、犯罪になることをわかっていても、そうしたいのだ、というのもわかる。
でも、自分が死んだら何にもなりたくないにせよ、溶かされるというのは怖いなと思ってしまった。なぜだろうか。死んだら自分の意識はもうそこにはないので、ただの物体となったそれを、どう扱われようとも自由であるという考えはある。あるのだが、それはなんだか、恐ろしいような気がした。
動物たちのように、そのまま腐敗していけばいいのに。
わたしが望んでいるのはそれだけだった。
それに、今生きているこのコミュニティそのものは嫌いではなかった。学校とか、地域とか。そういうのから離れるのにはまだ、抵抗があった。おとなになったら、もしかしたら、考えが変わるかもしれない。でも。
振り出しに戻る。でも、このような場所に救われるひとも、いるのだろう。
わたしはありがとうございました、いつかまたご連絡するかもしれません、と返信する。
さっきのメッセージを反芻しながらリビングに行くと、テレビでは相撲中継が流れていた。大きな力士が、何代前だかわからない横綱の転じた宝石を、細かくすりつぶして、お清めのために土俵に撒いている。その軌道の美しさから、この力士は人気があるらしいのだが、わたしはそれをくだらないと思う。運動をする人間なら、運動の内容で評価されたほうがいい。
父はソファに沈み込みながら取り組みを見ていた。わたしはキッチンに行って、コーヒーを淹れるための湯を沸かすことにした。
ドリップしたコーヒーはまずまずの味がした。苦みはこのくらいでいいが、酸味が想定よりも強い。一応淹れ方を調べてはいるのだが、どうにも店のようにはいかない。かんたんに店の味が再現できてしまったら、コーヒーショップの存在意義はなくなってしまうのだろうが。まさか妙なものを入れているわけでもあるまい。
父はわたしがまずまずだと思ったコーヒーをおいしいと言ってくれた。お世辞なのかはわからない。たしかに、自分が親という立場だったら、こどもがつくってくれたものをわざわざまずいだなんて、言わない気がする。それに、このコーヒーはまずくはない。まずまずだ。ならおいしいと思うひとがいてもいいだろう。
テレビの向こう側では力士が取り組みをしている。相撲は数秒で終わることもある競技で、長引きそうになると一時中断するほど、速さに定評がある。大きな人体がぶつかりあって、ときに跳ね飛ばされたりするさまには、見るところもあるのだが、やはり、この力士たちが戦っている土俵そのものが、かつて男性だったもので占められており、土俵に上ることができるのは、いずれ宝石になるものたちのみだというのは、なんだろう。
どことなく排他的な気がするのだ。
もちろん女性のみが行える相撲もあったりはするらしい。花相撲と呼ばれている。だからといって、それに自分が参加できるかどうかは定かではない。参加したいとも思っていない。
一週間も経たずに洋次郎伯父さんの縁が父に送られてきて、リビングでそれは分配された。小指の先ほどの大きさで、端正にカットされた水色の石は、鑑別機関によると色の薄いタンザナイトだったそうだ。わたしは目の前に置かれたそれを手に取った。ライトにかざすと、青の中にも濃淡があってきれいなものだ。
「まあ、タンザナイトなんて立派なことね」
タンザナイトは、それほど硬度が高いわけではないが、青から紫に発色する宝石だ。これに転ずるものはあまり多くないと聞くし、天然のものもそれほど多くはないようだった。
「今時、何が残るかなんてでひとを測ったりしないよ」
姉が母にちょっとした苦言を呈する。
母は同世代の平均的な感覚で喋っているだけなのだろうが、結果として洋次郎伯父さんに失礼なことを言っていることになりはしないだろうか。
「でも、悪いことをしたひとはろくな宝石に転じないって、昔から言われてるじゃない」
「だから、それが古いんだって」
縁を紐に通しながら、姉は言う。姉の縁は、わたしよりもいくつか多い。わたしと同じものも、違うものも、ある。
「お姉ちゃん、本貸してくれる?」
縁をきれいに片付けたところで、わたしは姉に言った。
「珍しいね、何読むの?」
「最近の本ならなんでも」
じゃあこれを、と、姉は数分したらリビングに戻ってきて、ハードカバーのずっしりとした重さの本をわたしに手渡した。白くて抽象的な彫刻の写真があしらわれたその本のタイトルは『朱と緑の追憶』だ。
姉から借りた本には、死ぬと必ず希少石であるアレキサンドライトになってしまうため、コレクターに狙われている一族が出てきた。このようなことは起こらないからファンタジーになりうるのだろうが、もしほんとうにそういう一族がいたら、命を狙われかねないのではないだろうか。また、この話には、女性が生まれても宝石にはならないので、口減らしされてしまうという描写があった。現実には、当然犯罪であるのだが、フィクションの中ではまかり通っている。
かつて、貧しい人々が多かった時代には、死んだら宝石になるので、男性を優先的に育てて、働けなくなったら殺すみたいなこともあったらしい。そして、転じた宝石を天然と偽って売るのだ。しかし、大体の場合、転じた宝石は天然のものよりも量が多いので、すぐにばれてしまう。
天然の宝石の価値は、希少性と市場での需要によって決まる。だから、人間が転じたものは、価値がつかないのだ。それをごまかすという落語の演目があったりする程度には、思いつきやすい発想だった。
一週間ほどで読み終わったあと、わたしはその本を姉に返した。どうだったかを聞かれたので、それなりにおもしろかったよと返した。
ユーキはまた茶柱の写真を送ってきた。わたしが幸運を感じることは特になかったのだが、ちょっと微笑ましいのは事実だったので、パステルカラーのペンギンのスタンプを送ってやった。当然、シャングリラのことにはお互い触れなかった。文字にして残してしまったら、ほんとうになってしまうような気がしたのだ、わたしは。
土曜日のこと。窓辺に飾られている、家の縁が陽光に照らされて光っている。わたしはいつものようにコーヒーを淹れて、自分の分と父の分にした。リビングのテーブルからソファの父に話しかける。
「父さんはさ」
「うん」
「縁、どのくらい持ってるの?」
「数えたことはないけど、五十は超えてるかな」
「そうだよね」
生まれたときから、曽祖父くらいの代の親類縁者の縁は持たされる。それから、親類でなくても、親しい人間の縁は持つことがある。生きれば生きるほど、縁は増える。
花に関しては、転じた花が一年草の場合もあるし、多年草の場合もある。また、その地域で育てられる花であるとは限らないから、すべてが残されているわけではない。
しかし、カーテンの向こう側に見える中庭には、聞かされたところで、わたしが所以を忘れてしまったような、様々な花があった。
父は言う。
「花もたくさん咲いているし、ぼくたちは見守られて生きているんだよ」
わたしはそうだねと返した。コーヒーは冷たくなってもある程度はおいしかった。
洋次郎伯父さんの一周忌を迎えたところで、大きな変化があったわけではなかったが、自分の中で、どうすれば自分が望むように生きていけるのか、死んでいけるのかについて考えることは増えた。
増えたけれども、日常はそんなこととは関係なく進んでいく。
冬休みに入った、日曜日、わたしはトロンボーンを練習しながら、窓の外を見た。グラウンドにはサッカー部がいて走り回っている。二階からはそれぞれの表情が視認できるほどではないのだが、誰が誰なのかくらいはわかる。そのなかには当然ユーキもいて、ボールを追いかけたりパスを回したりしていた。こんな寒いのに外で走り回るなんて大変だなと思う。
はいそこぼーっとしてないでと同じパートのひとに言われる。
午後からは合奏があるので、今のうちにパート練習をしておかなければならない。
部活が終わるのは十八時くらいだ。楽器を片付けて、最後にミーティングをして、また明日と言って解散する。今日は楽器庫の扉の鍵を返す当番だったので、部活のみんなよりも多少遅くなってしまった。廊下に電気はついているものの、窓の外は暗い。夏とは違って、この時間はもう夜といっても差し支えない。というか寒い。自転車置き場に向かおうとしていたところに、そちらも練習終わりであったのだろう、ユーキに会って、おつかれと言う。
わたしは、最初はまったく気になっていなかったけれども、ロングトーンをやりながら考えていたら、とある可能性に思い至っていたため、これを機に、と思って聞いてみる。
周りにひとがいないか確認してから、こう尋ねる。
「というか、なんでユーキくんも知ってたの? あのサイト」
「たぶんユーリと同じ理由だと思うけど」
「ってことは、そう」
「そういうこと」
「宝石にも花にもならない方法を探したら、あれにたどり着いた」
手袋をしていない両手をこすりつけて温めながら、ユーキは言う。
「でも、おれは結局宝石の花になりたいんだなってことがわかったし、溶かしちゃったらそれにはなれない」
その点に関しては、自分も同意できる。わたしは宝石の花になりたいわけでは、ないが。
なんだろう、と前置きしてから、ユーキは言う。
「閉じ込められるのが嫌なんだ、この世界に」
「それは、なんとなくわかるなあ」
どちらかに決められてしまうのが嫌だった、どちらでもないのだと主張する手段は、死んだらもうなくなってしまうのだ。死んで、転じて、確定する。確定させられる、その世界に生きているのが嫌だった。
その現れが、わたしはどちらにもなりたくない、であり、ユーキはどちらでもありたい、だったのだろう。
まったく違うことなのだが、同じ現象の裏表のようにも思われる。
「こんなひとって、昔からいたのかな」
わたしたちはわたしたちのような存在を指し示すことばを持っていなかったのだが、世界のどこかにはあるのかもしれず、そして、なかったところでわたしたちのような存在がいなくなるわけではないのだ。自分たちが孤独で、特別だなんて思わなかった。このようなあり方をしたいひとたちはきっと、たくさんいたのだ。
「あのサイト見たならわかってると思うんだけど、おれたちみたいなのって、たぶんいっぱいいるわけ」
ある程度人数がいなければ、コミュニティは形成されないだろう。
「いっぱいいたところで、何になるの」
「何にもならないけど、ちょっとだけさみしさが紛れる」
「寂しさ?」
「実存的さみしさ」
ユーキは難しい単語を使うなあと思った。言いたいことはなんとなくわかる。というか、こいつも意味がわかって言ってるんだろうか。
自転車置き場の蛍光灯がちかちかとまたたく。
「てか、実存的さみしさってなんだろうな」
お前もわかっていなかったのかよ。わたしはそう言うかわりに自転車の鍵を開けた。
それから、帰る方向どっち、と聞いた。
それをきっかけにして、たまにユーキといっしょに話しながら家に帰ることになった。ユーキは徒歩で、わたしは自転車を押しながら。帰り道はゆるやかな下り坂になっているので、気持ち早足で歩くことになる。ユーキの荷物が多いときは、前カゴに入れてやることもあった。
いつだって、わたしの家の前の三叉路で別れることになる。また明日と言う。
ユーキはわたしよりも家が遠いのに、歩いて学校に来ているようだった。
その年最後の、部活がある日の帰りのことだった。さすがに、年末年始は部活を休むことになっている。
雪は降っていなかったが、晴れの日の空気は冷たかった。
「ユーキはどうして宝石の花になりたいの?」
わたしはいつの間にかユーキのことをユーキと呼ぶようになっていた。たぶん、仲間意識から来るものだと思う。ユーキだけがわたしのことを呼び捨てにするのは、なんだか不均衡だし。呼び捨てにされるんなら、呼び捨てにしてもいいし。
ユーキはしれっと答える。
「だってきれいじゃん」
「ただの宝石だってきれいだよ」
ちょっと意地が悪い質問であることは理解していた。遺言か何かで、宝石を花のかたちに加工してもらうことは、不可能ではないだろう。たまに、縁のかたちを指定する遺言があると聞くし。
「それは、おれが死んだあとに勝手に加工された結果、きらきら光るわけだろ? そうじゃなくって、最初っからきれいな花になりたいわけ」
わたしにはその差異はわからなかったが、ユーキの中では理路が通っているのだろう。
それを言うならなんでお前はどちらにもなりたくないんだよ、なにかなりたいものはなかったりしないの? とユーキはわたしに尋ねる。
「男性とも、女性とも、後世のひとに思われたくないから」
「なるほどな」
「親にも言ったことない」
「おれも、パイライトのひまわりになりたいだなんて、言おうとも思わないよ」
そうか、パイライトのひまわりだったのか。たしか、金色で、立方体みたいなかたちで産出するものだ。想像してみると、なんだか豪奢で、ユーキにふさわしいものであるように思われる。メタリックな金色の、ごつごつとしたフォルムをした、それでも確実にひまわりに見えるような、構造体。
「まあでもたまに思うんだよね、死んでからのことって自分に関係ないじゃん?」
「それでも嫌だよ、自分の人生がなんだったのか、勝手に周りに決められるんだよ」
「なんだっけ、加藤事件」
加藤事件――もっとも、これに法律的な問題はひとつもないのだが、なぜか事件と呼ばれている――とは、十年ほど前、女性アイドルグループ『トゥモロー』のボーカル、加藤アカリが交通事故で亡くなった際、花ではなくて宝石になったというできごとである。ファンたちは、加藤アカリを女性だと思って推していたのに、と嘆き悲しみ、親族でさえ、そんなことは知らなかったと言っていたという。なんだ、ほんとうは男だったのか、と。
トランスジェンダーと呼ばれるひとたちは、生活している性別で死後なにに転ずるかが決まる。それは歴史的事実が証明している。だから加藤アカリはトランスジェンダーではなかった、ということになる。女性として生活していた、ということになっているからだ。
加藤アカリがどのように生きていたのか、さまざまな憶測がなされたが、結局はわからなかったし、エメラルドに転じたことだけが事実として受け止められ、ほんとうは男性だった、ということになったのだ。
ほんとう、ってなんなんだろう。
「そのさ、アカリさんがどう考えていたかなんて、おれたちにはわからないわけじゃん? なのに、死んだらどちらかだったことにされる。社会的に」
「だから、わたしが言っていたのはそういうことだよ」
わたしは一拍置いて言う。
「どちらかだったことに、されたくないの」
「たしかに、そう考えると行く場所がないよな」
おれはどこへでも行けるけど、第三の道を行きたい、お前はどこにも行きたくないから、第三の道を行きたい、そういうことか? とユーキが言うので、そんな感じかなと返すことになる。
まったく、同じなんだか違うんだかわからない。
完全に同じ考えではないのに、なぜだか安心して話すことができた。それはきっと、ユーキが自分の考えを否定してこないと思えるからだ。ユーキもこの世界のありように馴染んでいないからだ。
「そういえばさ、なんで自転車乗らないの?」
ユーキはいつも歩きだ。だからこうやって話せる時間があるともいえるのだが。
「実はさ、自転車乗れないんだよね」
「サッカーはできるのに!?」
「サッカーに使う筋肉と自転車のバランス感覚は違うからさ」
ユーキくらいのひとだったら、運動ならなんでもできるような気がしていた。そんなことはないのだろうか。
「それに、家から走っても二十五分くらいだし、いい運動になるよ。朝練の追加メニューっていうかさ。そんな感じで」
とは言っているものの、もしかしたら家の都合で自転車が買えないんじゃないかとか、心配になってしまった。
だとしても、わたしにはどうすることもできないのだが。自分の貯金なんて、お年玉を貯めて作った微々たるものしかない。友人に自転車を買ってやる余裕などないのであった。
年末年始は家族で過ごしていた。正月のあいさつ回りで、宿題をやる時間はなかなかなかったのだが、それはみんな同じだろうから、どうにかするしかない。大学生の姉は、宿題などはないようだったが、今のうちに論文読んでおかないと、とタブレットを睨みつけていた。
学校が始まるより早く、部活が始まる。鈍ったからだを楽器に慣らすのはたいへんだったのだが、ロングトーンを続けていたら休み前の感覚に戻ったような、気がする。
わたしは学校に行くのが前よりも楽しみになっていた。
学校そのものというよりは、帰り道にユーキと話すのが楽しいのだ。ユーキとなら、ほかの友人と話せないような話ができる。同じものが好きなわけでも、同じものになりたいわけでもないのだが、どことなく似た視座を持っているから。
毎回だいたい別の話題になるのだが、その日は、相撲の話になった。
午前中の雨でうっすらと濡れたアスファルトを歩きながら、
「たとえば女性って力士になれないじゃん」
とわたしが言うと、即座にユーキが、
「花は土俵に撒けないからな」
「でも花を燃やした灰とか撒けばいいんじゃないの」
宝石だって粉状にして撒くのだ。そんなにお清めを撒きたければ、工夫すればいいのだ。
「何が言いたいんだ?」
「これってぜんぶ後付けなんじゃないかって思う」
顔に疑問符を浮かべているユーキに、わたしはこう言ってやる。
「わたしたちが宝石とか花とかになるから、こういうシステムになってるんじゃなくって、こういうシステムを維持するために、自然現象が利用されてるってこと」
わたしはそのシステムの名前を知らない。名前がついているのかどうかすら。でも、死んだら宝石になるものと、花になるものがいるのは自然現象なのだが、それをどう意味づけするのかは、人間の仕事なのではないかと思われるのだ。
ユーキはなんとなく言いたいことはわかるけどさ、おれそんな頭よくないから、と言って、
「ユーリって賢しらとか言われるタイプだろ」
「なにそれ」
「おれはほめてる」
「賢しらって基本的に褒め言葉じゃないからね」
基本的に、というか、普通に褒め言葉ではない。
ユーキは、
「肝に銘じとく」
とは言ったものの、次の日には忘れているのだろうし、ユーキはそれでいいと思っている。
わたしとユーキは一緒に遊びに行くとかそういうことはしなかった。ただ帰り道に話していただけだった。だけどクラスメイトはそれを目撃したりしたらしく、こいつら仲がいいんじゃないか、と思ったらしく、たまにユーキの話題を振ってくるようになった。その中でも驚いたのが、これだった。
「ねえ、ユーキの妹さん、全国大会で準優勝だって?」
「えっ何の」
「知らないのユーリくらいだよ」
「って言われたんだけど、わたしなにも聞いてないからね」
どんだけクラスメイトに興味ないんだよ、と春も近づきつつある帰り道、ユーキは笑う。
「ユーキが興味ありすぎなんでしょ」
「うん、いろいろ知ってる。ゴシップは嫌いだけどさ、みんなの活躍は知りたい。別に聞き回ってなくてもわかるじゃん」
とか言うけど、勝手に情報が入ってくることなんてないだろう、とわたしなんかは思ってしまう。明日の天気のことだって、調べなければわからないのに、ひとの活躍なんて、普通にしてたら聞かないのではないか。
「そんなことより妹さん」
「いやー実はさ、そう、妹がロードレースで全国行ってて」
「……それで自転車買えなかったってこと?」
そう、ユーキはいつだって徒歩だ。ほんのすこしわたしよりも歩幅が広いことが、経験則からわかってきた。
ロードバイクは、普通の自転車より高いらしいというのは聞いたことがある。競技用だから仕方がないのだが、たしかに、そのような方向でユーキに皺寄せが行ってしまうこともあるのだろう。
「おれとしては妹がのびのび走ってくれたらそれでよかったから、別にいいんだけどさ」
「なら最初からそう言えばよかったのに」
別になにを隠すことがあるのだろう、と思うのだが、ユーキはそっぽを向いて、
「なんかその、恥ずかしいじゃん」
「そうかな……妹さんのこと大事にしてて、いいと思うんだけどな」
「サッカーは足腰が資本だから、走る機会が増えるのも、いいことだし」
これ本気で言ってたんだ。たしかに、ユーキがこういうところで嘘をつくような人間には見えない。というか、隠しごとをするという発想がなさそうなわりに、よくわからないところで恥ずかしがったりしているのだが。
「それにさ、お前が言う通り、妹のことかわいいからさ、走るくらい苦じゃないんだよね」
それから筋金入りのシスコンときた。
「……心配して損した」
「え?」
「こっちの話」
「気になるなあ」
言わない、と言ったところで、いつもの三叉路だ。
父は飲み会なのだと言っていた。わたしと母は夕食を済ませ、お茶を飲んでいた。白桃の香りがつけられている緑茶だ。みずみずしい白桃と新鮮な緑茶は、意外と合うものだった。
テレビでは歴史上の偉人たちはこのように転じました! という情報バラエティが流れていた。千利休は縞瑪瑙になったらしい。それがどうした、とも思うのだが、ひな壇に並ぶ芸人たちはその縞瑪瑙の実物がスタジオに来たということで大袈裟なリアクションを取っていた。
「お母さんは、死んだら何の花になりたいの?」
「言ったところで、選べないでしょう」
でも、選べるなら、スズランがいいなと母は言う。
「どうして?」
「毒があるから。あんなにかわいいのに。香りもいいのに。もし、カモミールとかユリになっても、野犬なんかに食べられたら、後世まで育ててもらえないでしょう?」
そのような考え方もあるのか。一代で終わる花や、日本の気候に合わない花だと、この土地では後世まで庭に残ることができない。それに、食べられてしまったら、元も子もない。トリカブトなど、毒のある植物は不人気である印象を受けていたが、美しいのに毒があるスズラン、というのは、選択肢としてありなのかもしれない。
誰も、自分が転じる対象を、選択することはできないのだが。
そして、花として、後世に記憶されることになるのだが。
母は緑茶を一口飲んで言う。
「うーん、でもね、ほんとうはアメトリンになりたかった。ほら、紫と黄色のグラデーションの」
アメトリン。名前は聞いたことがある。水晶の一種で、紫と黄色のバイカラーになっているものだ。宝石としての人気も高く、硬度がそれなりに高いことから、水晶系に転じた人間は、生前強い意志を持っていたとみなされる傾向がある。
母は穏やかに続ける。
「わたしの曽祖父がアメトリンだったから。記憶は殆どなかったけど、縁のアメトリンは綺きれいだったから、私も無邪気にアメトリンになるものだと思っていたの」
「はじめて聞いた」
「聞かれなかったもの」
母は古い人間なのだと思っていたが、わたしが知らなかった、聞かなかった、だけだったのだろうか。
「そのうち、私は自分が女性であることを知ったし――女性は花になるって決まっているから、そうなるんだ、ってわかったけど」
でも、わたしもアメトリンになりたかったのかもしれない、と母は言う。
「もちろん、自分が男性だ、って思っているわけじゃないから、男性として生きているわけではないから、宝石になるわけ、ないんだけどね」
わたしは、思っていたのとは違う返答に、掛けられる言葉はなかった。
母みたいなひとは、この世界のシステムに違和感を覚えずに生きていけるのだと思っていた。しかしそうではなかった。違和感はあったのだ。それを飲み込んでいるだけで。飲み込んだ人生を歩んでいるだけで。
「たぶん、私みたいなひとは、たくさんいるのよ」
それでも、母みたいなひとたちは、みんな、花になる運命を所与のものとして受け止めている。
それは、なぜなのだろうか。
宝石になりたいなら、なればいいのに。とは言えない。
なればいいのに、でなれるのなら、なりたくないから、ならないでいいのなら、わたしも悩まずにすむのであった。
マグカップに注がれた白桃緑茶の、白桃の香りだけがする。わたしはそれをごくごくと飲む。舌先には苦みが残った。
春が近付いてきている。この学校に咲くであろう桜は、けっこう昔の校長なのだという噂が流れているが、学校側は否定している。これはソメイヨシノのクローンですと言っている。ソメイヨシノとは、江戸時代に実在したある女性が転じた新種の桜を、接ぎ木して増やしている品種である。この女性がどのような功績を残したのかは知られていないのだが、ソメイヨシノに転じたことがいちばんの功績であり、桜の名前もそこから取ったのだといわれている。たいていの植物は、多かれ少なかれ、花をつける。それが目立つか目立たないか、ひとの目に入りやすいかの差はあれど。
ソメイヨシノはまだつぼみのままだ。
吹奏楽部も三月末の定期演奏会に向けた練習が佳境となっている。慣れないポップスのリズムに悪戦苦闘しながらも、なんとか曲が形になりつつあった。
そんな折、ユーキが学年末で転校すると聞いたのは、ユーキからではなかった。クラスメイトがそう言えばさ、と教えてくれたのだ。それからなんでユーリは知らないの? 仲いいじゃん。とも言われた。ユーキが喋らなかったからなのだが。名前は知っている県の名前を知らない町に引っ越すとかいう。なんでも母親の仕事の都合だそうだ。
サッカー部は今度練習試合があるという。それも他のクラスメイトから聞いた。ユーキとはずっと世間話をしていた。だから知らなかった。
「なんで話してくれなかったの」
とユーキに言っても、
「どこでだって勉強はできるし」
と特に悪びれずに返される。
出会った冬よりもずっと明るい夕方、だけどまだ夏のように完全に明るくはない夕方、まだタイツは手放せないなと思う、夕方。
勉強はできる? 何の話だ。
わたしはたぶん、実存的にさみしいのだと、思ってほしかったのだろう。
何に?
クラスメイトと――友人とお別れすることになることに。
「自転車はどこでも走れるし、サッカーだってどこでだってできる」
メッセージアプリだってあるんだから、いつだって連絡はつく、とユーキは笑う。
それは間違いではない。だけれども、たとえば、こうやって、一緒に歩いて学校から帰るこの十数分は失われる。十数分を積み重ねてわたしたちは会話をしてきた、そう認識している。
だから、ちょっとは、さみしいと思ってほしかった。
なのにユーキは素知らぬ顔だ。
「たまには連絡してね」
『たまには』の部分を強調して言ってやる。明るくて社交的で誰ともすぐに仲良くなれるこいつのことだ、すぐに転校先でも友達ができるだろう。
それでも、たまには。
たまには連絡してくれたっていいじゃないか。
ユーキはあー、そうだな、と口を濁して、
「茶柱が立ったらな」
「――茶柱が立たなくても、なんかあったら連絡してよ」
「ユーリから送ってくれたっていいんだぜ、たまには」
「茶柱を?」
「茶柱以外だよ」
「ユーキには言われたくないな」
メッセージアプリの、ユーキとのチャットルームの、半分は茶柱だ。
どれだけ茶柱が立つんだろう。とは思っていたものの、お茶を飲む機会が多いんだろうな、と漠然と考えていた。
そこにユーキは言う。
「ちなみに、茶柱が立つ茶葉、っていうのがあるんだ」
茶柱として分離するように、ティーバッグに茎がくっつけられているタイプの製品があるそうだ。ユーキは、基本的にそれを使って茶を淹れて、わたしにメッセージを送ってきていたのだ。
「え!?」
「だから、あれはラッキーじゃなくって、必然」
「なんでそんなことわざわざ」
ひとに写真を送るために、特製のティーバッグを買うなんて、わたしには理由がまったく思いつかなかった。
「自分の力で引き寄せたラッキーなんだから、偶然のラッキーより強いに決まってるだろ」
相変わらず理路はよくわからないが、ユーキの中ではそうなのだろう。偶然だからラッキーなのだというのではなく、自分の力でやったことのほうが強い、というのは。
あ、でも、とユーキはこぼす。
「最初にユーリに送ったやつ、あれは天然」
結局どっちなんだよ。結局どっちがお前の真実なんだよ、と。思ったところで、それはわたしがもっともされたくないことであることに気がつく。
二者択一を迫られたときに、どちらだ、と言い切ってしまうこと。
わたしはそれをされたくなかった。
ならば、わたしも言い切るべきではないのだろう。
「……じゃあね」
「また今度!」
そうやってわたしとユーキは三叉路のところで別れた。
こうやって歩くのも、後何回なんだろうか。
ユーキがわたしたちの学校から去る日が来た。桜はもう満開に近かった。卒業式までにはまだ時間があるのに。終業式で満開でどうするつもりなのだろうか、と桜に言っても詮無いことだ。かつて人間だったとはいえ、花は花なのだから、言葉なんか通じないのだ。
クラスメイトたちと一緒にユーキに寄せ書きを書いた。みんなが思い思いのことを書いている中、わたしは何を書けばいいんだろうかと途方に暮れた。わたしたちがしていた会話はあまりにも私的であり、ここに引きずり出してくるべきではないと思ったからだ。
『次の学校でも、その先の未来でも、元気でね』
くらいしか、書けなかった。
わたしたちはずっと未来のはなしをしていた。あるべき未来の話を。
未来を祝福することくらいしか、今のわたしにはできなかった。
クラスで行った最後のあいさつのとき、ユーキは泣かなかった。
「だって、今生の別れ、ってわけじゃないからさ。いつだって連絡取れるし。遠いけど、電車で来れるから、来てくれたっていいし。だから、おれはぜんぜんさみしくないんだ」
それは実存的さみしさなのだろうか、それとも普通のさみしさなのだろうか、そもそもそのふたつにどんな差異があるのか、わたしたちは知らなかった。知らなかったのに使っていた。
クラスメイトの中には泣いているひともいて、ユーキはそういったひとのほうに行っては、泣くなよ、と言ったのであった。わたしも泣かなかった。もしわたしが泣くとするならば、それはユーキがユーキ自身の意志を裏切ったときだろうし、そんな事態は発生しないだろうとわかっていたからだ。
「優秀な妹がいるとたいへんだけどさ、おれはおれで、サッカーやるよ」
担任が勉強もちゃんとやれよ、と言った。ユーキはもちろん、とサムズアップした。こいつが言うならきっとほんとうなのだろうと思わせる雰囲気がユーキにはあった。
最後にみんなで校歌を歌った。指揮が走って、伴奏がたまにぐらついたが、誰も気にしなかった。さすがにここでくらい感極まったりするんじゃないかと思って、ユーキをちらちら観察していたのだが、いつもと同じように歌っていて、ああ、そうか、こいつにとっては、この世界の中で移動することには、そこまで意味がないんだ、と思う。
ユーキと帰りたがるひとはたくさんいたのだが、ユーキはわたしと帰ると言ってくれた。そういえば、ユーキと帰るとき、いつもふたりだった。
今度こそこれが最後だ。
またどこかで会うこともあるのかもしれないが、一緒に学校から帰るのは、これが最後だ。
わたしたちは、珍しく少しの間黙っていた。何を話せばいいのか、わからなかったからだ。これが今生の別れでないことは事実なのだが、事実にしたいのだが、そういうお別れは、わたしにとってはじめてだった。
ユーキにとってもそうだろう。
何を言うべきなのだろうか。文字にできない、残せないことを、言っておきたい。
クラスメイトたちがさくさくと歩いていく中、わたしたちはゆるやかな下り坂を引き伸ばすように歩いていた。
ブロック塀の隙間から植物が顔を出している。白くて小さい花が咲いているから、誰かが転じたものかもしれないし、天然かもしれない。わからない。見かけではどうしたって、判別することはできないし、鑑定したところで、それがほんとうなのかは、一般人にはわからない。
わたしの将来の姿がこれだとは、思いたくなかった。
もちろん、宝石とも。
だからこう切り出す。
「――わたしがユーキより先に死んだら、土に埋めて、掘り返さないで」
別に、将来一緒に住もうとか、そういう話をしたことはない。家族だなんて、まだ早い。飛躍しているのは理解している。でも、ユーキにしか、言えないと思ったのだ。
ユーキは穏やかに反論する。
「宝石だったらいいけどさ、花だったらどうするんだよ。花は勝手に生えてくるだろ」
「そしたら、埋めたところを放っておくよ。埋めたところを放っておいてよ。そしたら、どこかから風で種が飛んできて、勝手に草が生えて、なにか花が咲いたとしても、紛れちゃうでしょ」
「それに」
「それに?」
「わたしには確かめようのないことだけど、わたしは死んだら、宝石にも花にもならないって、信じてるから」
そう、これは信念の問題だ。
ユーキが茶柱をわざわざ立てるように、自分の手で幸運を掴もうとしているように、自分の未来は、自分で決める。
だからといって、ひとりでこれを信じることはできない。死んだら、意識はなくなってしまうからだ。誰かにこれを信じてもらわなければいけない。
わたしとユーキの歩幅は違う、それはこの帰り道を重ねることで重々わかっていた。
だけど、というか、それゆえに。
わたしたちは、ひとりでこの道を歩いていくのだが、同じように、違う道を歩いている人がいれば、孤独ではないのだ。
「だから、できたら、ユーキにも、信じてほしい」
信じるよ、とユーキは目元を細める。
淡いピンク色をした桜の花びらが、一枚、風の中を泳いでいった。
石にも花にもまつろわぬ 祭ことこ @matsuri269
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