第3話 叙情? 構わないですが。

 どうやって私を起こさずに抜け出したんだ? 名も知らぬ同居人は早起きらしい。少なくとも、私が起きるまでに参考書(私のもの)を十何ページか進められるぐらいには。


「おはよう」

「おはようございます」


 マニュアル化されたような返事である。だが彼女の声は透き通っていて、朝が似合う。このおはようを毎朝聞けるとは――いや、明日には居ないかも知れない。

 彼女は私が起きたのに気付くと、ペンを置いてキッチンに立った。私は若干申し訳ない気持ちになった。次は早く目を覚ましても横になっていようと、そう決意する。

 私が顔を洗い始めようと心をぴしゃりと叩く前から、台所からは絶えず私の食欲を疼かせる匂いが放たれていた。彼女が家に来るまではつまらない食事ばかりであったと考えると、あらためて彼女に感謝の念が生まれた。

 しかし、かくして二人暮らしが成り立っているのを省みると、彼女に何か負担を強いていくのではないかと思えてしまう。大丈夫だろうか?――


「大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫、問題ない」

「お気をつけて」


 洗顔料が鼻に入ってむせてしまった。恥ずかしいな。ふと、あちらから換気扇の音がしなくなったのに気付いたので、すぐに顔を拭いて向かった。


「いただきます」

「いただきます」


 目玉焼きとトースト……久し振りにこう、朝食らしい朝食を食べたから、感動が感想の言語化を妨げていた。自分の今までの朝食と比べるのも烏滸がましく感じられる。


「少ないでしょうか?」

「十分だよ。ありがとう」


 彼女はさほど気を遣っているようには思えなかった。家で背筋を張るのも大変で仕方がないだろうから、安心した。私の杞憂に終わってくれて、むしろあり難いものだ。

 話すこともないのに同じテーブルで食事を共にするときほど、何か話さないといけないような、そういう微妙な焦燥に駆られることは中々ない。しかし、私は彼女のことを何も知らない、知る気もない。彼女について何かしら訊いたところで、空虚な会話にしかならないのもまた事実だった。

 だから、こんがりと焼けたトーストが歯に引き裂かれる音のみがこの場に響く。


「ごちそうさま」

「ごちそうさま」


 彼女の学校生活はどうなっているのだろうか? 突発的な疑問だが、というのも、今まではろくに彼女の状況を思慮しなかったが、細かく見れば私と同じく高校生あたりの風体だ。

 私は一々他人に口を出すような真似をしない質ではあるが、どうしても気になった。


「学校に行か、行」

「どうしました?」

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 きっと、その質問への彼女の回答には何も意味はなかったと、そう心に言い聞かせたのだった。




 電車に乗っているあいだは、外を眺めるようにしている。毎日同じ景色だと飽きてくるものだ。私はそれを好んでいる。凡庸と呼ぶべきものは貴重な栄養でもある。

 ガタンゴトン、単純な擬音語がズボンの裾を揺らす。この場の全員は、悲しいかな、まさに生産ラインの上にある玩具に過ぎないのだ。

 本当に都合が良いのは、この路線に私と同じ制服を着る者がほとんど居ないことだ。大抵の奴らはキラキラとした車やらで私と同じ目的地に着くのであろうが、全く私の知るところではない。ただの推論である。こんなレールの上に乗ることなんてしないのだろう。

 灰色の住宅地を鉄の蛇は裂くように運行する。私はこれらの家の全てに人が住んでいるとはどうしても信じられない。それはある日突如浮かんだ愚かな考えだが、今も捨て切れないでいる。人がそれほど多く居て良いものなのか、到底判断できないからだ。

 隣に乗ってきた男と、他の誰も気付かないような会釈を交わす。この男とは時々この位置で遭遇する。二人して何をするでもなく、ただ外を眺めるだけであったから、友情と呼ぶには酷く薄くしかし極めて個人的な期待の情を抱くに至った。それが二ヶ月ほど前である。

 電車の音声案内は余計に憂鬱になった。この小さな友との別れは、私が勝手な妄想を抱いているだけにしても、やはり寂しいものであった。車窓の小広告が左右に呑み込まれる。

 駅の改札を抜けるとじわじわと現実世界が顕れて、心の余白に煩雑な情報を押し付け始める。この世界で活動している人々――文字通り老若男女を問わない――は皆、万全の状態で人と接し得ないことを手の甲に書き記さねばならない。あの駅員も、あの老人も私も……。




 教室に荷物を置いて、足早に去る。毎朝会いにいく人がいるのだ。朝は廊下にたむろする奴らが少ないから快い。長い廊下の窓から差す光線も、柔らかく私を歓迎している。

 図書館の一番手前の長テーブル、その最奥の席には、いつものとおりあの人が居た。


「おはようございます。委員長」

「おはよう、木霊君。今日は元気だね、何か好いことでも身の回りであったのかな?」


 むしろ、今日も憂鬱なので癒やしを求めに貴方に会いに来たのですよ。小柄で、明るい髪はショート、全体的にこぢんまりと……いや、洗練された姿で、今日も読書に励んでいらっしゃる。

 私が隣の椅子を引くと、彼女は掛けていた薄い枠の眼鏡を外した。


「記憶にはありませんが……ところで、何読んでるんですか?」

「『実践理性批判』――カントの本だよ。『純粋』のほうより……おっと、ネタバレは避けておくことにしよう。そうだな……一緒に読めばよいか」


 そう言うと、彼女は私の腕を引っ張ってきた。力は弱い。私が抵抗すれば逆に壊れてしまいそうなほど貧弱な強引さだ。なるほど、これが「小動物的な可愛さ」か。


「ええ、ええ、分かりましたから掴まないでください」

「まあ、魔法使いだとかエルフだとか呼ばれている君にこれを見せたところで、だね」

「それ、どこで言われてるんですか。ああそういえば、なぜあの本を私に?」

「なんとなく、だよ。君はあれを面白く読めると思った。合ってるかな?」


 にやりと笑う彼女の顔はどこか大人びていて、その小さな身体に似合っていない。この類いの彼女の仕種は、少し前まではよく見られたものだったはずだ。しかしそれから長らく見ていなかったから、とても「強力」だった。


「君、今私のことを心の中で馬鹿にしただろう。分かるぞ、君はそういう奴だ」

「何の話でしょう? 偉大なる図書委員長様、私は純粋に可愛いと感じただけです」

「ふーん、君の褒め言葉は聞いていて耳が痒くなるね……本当に、厭な気分になるよ」

「ひどい」


 そこまで罵倒を浴びせるものだろうか? 彼女は時々私の理解の範疇を超えた物言いをする。しかもその前後では大抵、顔を赤くして不貞腐れたようになってしまうのだ。


「素直に言ったつもりですが」


 どうやら今の言葉は効いたらしく、彼女は表情を二転三転させる。誰がいつ見ていても飽きないだろう。小さな体を揺らして、右手の指を忙しなく動かして、どうにか彼女の中で情報を咀嚼していた。


「本当に……本当に? なら、もう少し詳しく、叙情してもらおうじゃないか。君ならそれができる。それくらい解っている。まさか、やらないとは言うまいね?」

「ええ。それで機嫌が直るなら構いませんが」

「じゃあ、はい。木霊曰く」

「先輩は小さいですよね――睨まないでくださいね――そう、それなのに、淡色の絵画みたいな表情をしますから、すごく惹かれるわけです」

「惹かれる?」


 興味津々、子供のような笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでくる。


「綺麗なものに惹かれませんか? 例えば、美術館の名も知らぬ彫刻、夜のうちに台風が過ぎ去った後の空、日常生活の内に現れる平方数だったりだとか」

「ああ……そういう……うん、解るよ」

「私は綺麗なものが好きですから、つまり先輩が綺麗で仕方なかったってことです」

「うん、うーん……うん」


 先輩が猛烈に苦悩している。叙情は駄目だったらしい。残念だ。思っていること全てをzip.ファイルに綴じ込めて、彼女の脳内で解凍することができたならずっと楽だったのだが。

 パソコンに帯びた熱をファンが取り払うように、目の前を飛んでいる虫に苛立つように、彼女は唸り声を絶えず発している。


「先輩、図書館ではお静かに」


 彼女は黙ってこちらを睨んでくる。小動物が威嚇するみたいで、全く怖くない。これはあの人には伝えないでおこう。

 「あの人」と私がよく呼ぶ彼女は秋園怜(あきそのれい)、一つ学年が上の先輩だ。古い知り合いなのでそれなりに接点があり、かなり信頼のおける人である。ちなみに、一般に言うところの「お嬢様」であり、それも大きな家の出だから、人の注目を買っていて大変そうだ。私が彼女と話すのは、一部の奴らから不釣り合いだと思われているだろうな。

 彼女と別れた後は本の返却を済まして、教室に帰った。また通常の、波が一つも立たない生活に戻った。

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