第2話(下) 添い寝? まあ構わないが……
壁越しに彼女の存在が確かに感じられる。メイド……メイド……本当に、おかしな話だ。私は従者の一人も持てるような身分じゃないのに。より尋常でないのはやはり彼女である。何が彼女を駆り立てるのだろうか。
「入っていいですか」
「どうぞ」
変な声が舌のすぐ前で引っ掛かり、止まった。脳内ですら噂をすれば影が差す、はは。
扉はキイと音を立てて、その入室者を歓迎する。
「服を返しに」
「ああ、あげる」
「……そうですか。大切にします」
見栄を張りたいからそう言ったわけではない。この先も着てほしいと思っただけだ。事実、彼女は白い色調の服が似合う。ワイシャツの輪郭と彼女の肌は同化しており、黒い髪は対照的に鮮やかである。モノクロであるにも関わらず鮮やかなのだ。あれ、さっきまで着ていたワイシャツは一体……ああ、別物だったのか。皺のないのは当然だった。
「あと、どこで寝ればよいでしょうか」
「ああ……あっ!」
完全に失念していた……。なお悪いことに、個室が用意できない。駄目な振舞いだ……
「申し訳ない……個室が用意できないので、いや、寝具はあるんだ。どこでも咎めないから、好きなところで寝てもらいたい」
待っていましたと言わんばかりに彼女は切り返す。
「この部屋は?」
「ヒッ……」
怖い。距離感が明らかに常人のそれを逸している。私の前に立っているのは疲れ果てた旅人などではなかった。断れ。断ってくれ。
「じょっ……冗談でも、貴方が望むなら、まあ構わないが」
「では」
「はっ? え?」
「失礼しました」
ジョークだよな? ああそうだ。ジョークを言えるほど良好な関係であったんだな。良かった良かった。彼女はシュールギャグの方向に才があるんだろう。覚えておこう。
彼女が去り緊張が解けると、どっと疲れが肩にのしかかってくる。重い足を引っ張って部屋の照明を切る。
「おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
「ピャッ」
いつの間に!
目を閉じているところに囁かれたんだ、変な声も出るさと脳内で言い訳を取り繕う。
「あの、正気ですか〜? ちょっと不安になる狭さになってるんですけど?」
「ええ、私もそう思います」
私の動揺を物ともせず、彼女は抑揚のない声を発す。機械音声に似たそれからは、しかし確かに彼女の生存を感じられる。それ自体は絶対に良いことである。だが、私への侵害を認める理由にはならない。
「私もそう思います。じゃなくて、というか、別に寝具があるって言いましたよね」
私はきっと、反駁を待ち望んでいる。彼女を論の相手として枠に収めている。
「少し、不安なので」
そう言って彼女は体を身じろぎさせ、背中を背中に合わせてくる。思えばあの雨から二十四時間と余り、彼女はずっと独りだった。満たせない心の空白があったのだろう。さっきの彼女への罪悪感も相まって、私は酷く惨めに眼を瞑った。
「しょうがないですね。今日だけです」
「余裕が無くなると敬語になるんですね」
「余裕を無くしてる張本人は一体誰でしょうね? 分かったら早く寝てください」
「分からないので、何かお話をしていただけませんか?」
なんだ? 突然に精神年齢が十歳も下がったのか、そうとしか思えない。
カーテン越しに届く街路灯の微かな光だけが部屋に充満している。当然、彼女の顔は見えない、まあ見る気もないのだが。
「……私の家は物が多くありませんが、あの目立つ本棚に並んでいるものはあの人の――面白いものが多いです。きっと暇潰しぐらいにはなると思いますから、読んでみてくださいね」
「そうですか」
「ネット回線は繋ぎましたか? この家の設備は全て触ることを許可します。念のため今伝えておきますが」
「ありがとうございます」
彼女から話を要求したのに、あまりに素っ気ない返答しかしないので、段々話す気も失せてくる。私の話すことが大して面白くないのも分かっているが、この状況で何を言っても面白くなるわけがない。
二人を覆う毛布の隙間の暑苦しさは、きっとお互いに気付いているのだと思う。それでも、この小さな隠れ家から出ていくのは忍びなかった。小さな息とか、そういう彼女の存在の証拠を捨ててしまうような気がする。
「なぜメイドを? 訊いていませんでした」
「今は言えません。いつか、話す機会が訪れることを私も願っています」
「じゃあ私も祈ろうかな」
小さな、笑い声と表すに適さないほど弱い息が、この狭い部屋だけに響く。
「ありがとうございます」
そう言った後、彼女はふたたび体を捻る。私と彼女とは泡沫になって消えてしまいそうだった。きっと世界の誰も寝静まってしまって、この部屋だけが微睡みの引き汐の中にあった。
「おやすみ」
「おやすみ」
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