いとしい土鍋
小鶴
第1話
彼氏に浮気された。今とても土鍋を割りたい。
彼氏はサークルの先輩で、秘密のお付き合いだった。
「絶対誰にも言わないでおこうよ、そっちの方が楽しいじゃん」
彼は初日にそう言った。いかにも子供っぽい、狙ったような笑顔を浮かべていた。わたしは間を置かずに快諾した。まるでそうすることを事前に知っていたかのように。
わたしたちは基本的におうちデートしかしなかった。ご飯をつくって食べたり、内容の薄いおしゃべりをして笑い転げたり、スナック片手に映画を見たり。遠出をしようという話には一度もならなかった。そういう空気感だった。
そして、浮気が発覚したのは付き合ってから2か月経ったときだった。サークルの同期の2人と下宿先で鍋をつついているときに初めて知ったのだ。相手はわたしもお世話になっているサークルの先輩だった。色白美人で、性格まで綺麗で、非の打ちどころがないような人。わたしとは似ても似つかない人だった。
「お似合いだよね。あの二人、すごい絵になるよ」
恵梨は白菜に息を吹きかけながらそう言った。情報を持ってきたのは彼女だった。先輩と活動終わりに喋っていたときに聞いてきたらしい。
「ほんとやばい。美形カップルじゃん」
話を聞いていた優香も感嘆した声でそう言った。湯気で視界が霞んで、二人がよく見えなかった。
「ねえ、妃奈もそう思うよね?」
優香の箸がわたしの方に向けられた。優香は限りなく柔らかい笑顔をたたえていた。
「うん、すごいよね。いいよね。わたしもそう思うよ」
ああ、友人の純粋な言葉がこんなに鋭く刺さるなんて。わたしの声には動揺も混じっていたと思うが、 二人は気づいていないようだった。
不思議と、怒りは芽生えなかった。まあそうだよなという諦念が漂った。湯気で湿って、曖昧となった空気感の中でわたしは二人と喋り続けた。下らない話で盛り上がって、ときたま転ぶほど笑った。鶏がらで出汁を取ったスープは格別で、お腹が苦しくなるまで食べた。それでもなお、わたしは湯気のような曖昧とした意識の中だった。
夜も更け、二人は帰った。薄暗い自室で、一人で片付けをする。そう言えば自分は浮気されたのだという事実が今となって染みた。ふらふらとスマホを手に取り、彼との会話の痕跡を辿った。最後の連絡は一週間前で途絶えていた。
「別れましょう」
そう、打った。送信して、返事が来るまで待った。それは、早かった。彼も何かを悟っていたのかもしれない。
今日の会話の流れから自分の状況を整理した。自分はサークルの先輩と付き合った。彼はもともと違う人に恋していた。その人が彼に好意を向けるようになったからわたしの方は乗り捨てた…。とんでもないクズ男に当たったものだ。無論、最初から分かっていたことなのだけれども。
わたしの心は空虚だった。ふきんで拭いた空っぽの土鍋を見つめ続けた。繰り返しになるが、不思議と怒りは芽生えなかった。わたしはしゃぼん玉に息を吹き続けた子供に似ていると思った。
それから数日間、わたしは拭いた土鍋を片付けなかった。ただでさえ狭い部屋の狭いテーブルに、使いもしない土鍋が鎮座していた。わたしはノートパソコンを開いて勉強しながら土鍋に独りごちた。その大概は自省だった。土鍋の内部はつるんと光って、何でも受け入れてくれそうだった。
週末、サークルに出向いたとき彼を見かけた。ぶらぶらと足を揺するように歩く、茶髪が目立った後ろ姿。わたしはその場でサークルに行こうとしていた足を引き返した。馬鹿らしかった。とても、白々しい。
帰ってから、土鍋が目に入った。何も気にかけていないような彼に腹を立てたのではない。とにかく馬鹿なことをして損をした自分に腹を立てたのではない。ただただ土鍋に腹が立った。感情のベクトルが壊れたのかと自分自身に驚いた。
土鍋を割ろうと思った。厚くて固い陶器の塊がばらばらに砕け散ったら、すっきりするのではないかと思った。しかしこいつは下宿するときに母親が持たせてくれたもので、自分の食事と友達との交遊に欠かせないものだった。割れない。
代わりにその日は土鍋いっぱいに具材とキムチスープを入れて、キムチ鍋をした。ごぽごぽと愛おしいくぐもった音を立てる鍋が、やはり割りたかった。豚肉と鶏肉にたっぷりと汁を吸わせて、白菜にくるんで食べた。死ぬほど美味しかった。泣いてしまいながら、ひとりで完食した。おかげで部屋にキムチの匂いが染みついたが、あまり気にならなかった。
鍋は割っていない。また割りたくなる日も来るだろうが、今は土鍋が愛おしい。
いとしい土鍋 小鶴 @kozuru2227
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