第一章 二〇二四年 大阪

蓮華の子

第一話

「みぃちばたぁぁぁぁぁぁ!」

 耳をつんざく女性の声が、小橋こはし玩具の工場内に響き渡る。箱詰めされた商品に発送伝票を貼っていた道端佑月みちばたゆづきは、身をすくめて声の出どころに目を向けた。

 工場の出入り口を閉ざしていたはずのオレンジ色のシートシャッターはすでに上がっており、仁王立ちした三〇代半ばの女性の姿が見て取れる。運送会社の制服に身を包んだ長身の女性は、山北やまきた運送の御堂みどうみどり。通称ヤマキングだ。

 飴玉のように大きく丸い目が、道端を捉える。すぐに視線をそらしたが遅かった。

「おい! 今日こそ用意ができているのだろうな!」

 商品を積んだスチール製の可動棚が、びりびりと震える。白一色の作業着姿の同僚たちは、そっぽを向いていた。大股で歩んでくるみどりに、真っ先に話しかけたのは社長の小橋清太郎こはしせいたろうだった。

「いやあ、おはようございます。御堂さん。今日もお元気でそうでなによりですな」

「社長自らお出迎えとは、気合が入っているな。いいだろう。出荷票を見せてもらおうか」

 差し出したみどりの手に、社長が恭しく出荷票を手渡した。みどりは出荷票のページをめくりながら、棚に積まれた商品を確認する。眉間にしわを寄せると、紙を手繰るのを止めた。道端へと視線を移し、細い眉をひそめる。

「道端。発送伝票が一枚、箱に貼られていないのはなぜだ?」

 整然と棚に積まれた段ボール箱の正面には、送り先の記された発送伝票が貼られている。運送会社が引き取りにくるまでに、すべての商品に発送伝票を貼り終えるのが道端の仕事だ。ときには間に合わないこともあり怒鳴られたが、今日はなんとか間に合わせることができた。そのはずなのに、茶色い顔を臆面もなく覗かせている箱が一つある。伝票と箱の数が同じであることは最初に確かめてある。手元に伝票は一枚も残っていない。貼り終えていない品物があるわけはないのだ。なぜだと問われてもわからない。道端は素直に答えた。

「なぜでしょう」

「なぜでしょうだと? ふざけているのか? わたしが聞いているんだぞ。よく考えろ。ごみ箱に入っているこの伝票はなんだ!」

 みどりは声を荒げて、ごみ箱の中から無造作に丸められた発送伝票を拾い上げた。伝票のしわを伸ばし、道端の胸に叩きつける。

「おおかた誤って捨てたのだろう。いちいちミスを隠そうとするな。おまえ程度の浅はかな知恵に付き合っているほど、わたしは暇ではない。急ぎ貼れ!」

 道端が答えるより早く、小橋が間に入る。

「いやあ、いつもすみませんね。御堂さん。口を酸っぱくして注意してるんですがねえ。なにぶんまだ新人なので、細かいことには目をつむってもらえませんか」

「新人の指導もまともにできんとは、小橋玩具もたかが知れているな。その程度でいまの仕事を取り続けられると思っているのか」

 眉をひそめるみどりに、小橋は口をつぐむ。みどりは深い溜め息をつき、踵を返した。

「トラックで待つ。急げよ」

 みどりは背を向けたまま道端に告げると、足早に去った。シートシャッターが静かに閉じられる。みどりの姿が完全に見えなくなると、辺りが騒がしくなった。同僚たちが口々に彼女を罵っている。

「ヤマキングの奴、社長に向かって何様のつもりですかね。新人はおまえだろって話ですよ」

「そうだよな。最近配属されたばかりのくせに、なんであんなに偉そうなんだよ。山北運送にクレームの一つでも入れてやったらどうですか」

 憤った同僚たちが、鼻息荒く小橋に話す。

「本当だわ。まだひと月くらいじゃなかったっけ。わきまえろっつうの。ドライバー変更だわ」

「まあまあ、文句はそれくらいにして手を動かしてや。仕事、仕事」

 小橋の言葉を受けて、「はーい」と力ない返事が重なる。道端は耳を貸さずに黙々と、商品を積んだ棚をみどりのもとへと運んだ。

 道端が小橋玩具に務め始めたのは、一九歳になる今年の春だった。

 昨年の秋に、唯一の身内である養父が亡くなった。自殺だった。悲しみに暮れることしかできなかった道端に手を差し伸べてくれたのが、養父の友人であったという小橋玩具の社長、小橋清太郎だ。彼のおかげで養父と住んでいた市営住宅を追い出されることもなく、高校も無事に卒業することができた。そして小橋玩具に務めて三ヶ月ほどが過ぎ、夏を迎えていた。

 小橋玩具は、創業六〇年になる小さな町工場だ。主に昔ながらのソフトビニール製の子供向けのフィギュアや、生地を使った縫製品、いわゆるぬいぐるみを制作している。

 昭和の時代であるならいざ知らず、平成から令和へと移り変わる中、娯楽の多様化を受けて同業他社は軒並み廃業していた。しかし小橋玩具は経営者がよほど優秀なのか、目覚ましい業績を上げることもなく存続している。昨今の原材料価格の高騰や最低賃金の上昇の中にあっても、新たな仕事を請け負って細々と生き残っているのだ。

 いま社員一丸となって手掛けているのは来年開催される〈近畿・大阪万博〉の公式キャラクター、ハスミャクのぬいぐるみだ。

 ハスミャクは植物の蓮をモチーフにしたキャラクターで、頭部が開花した蓮の形をしている。黄金色の花托かたくを顔に見立て、体は緑色で液体とも個体ともとれない造形だ。小橋玩具では花托を覆う獅子のたてがみのように美しい雄しべまでをも細やかに再現しており、その後背には桃色の花弁が花開いていた。目と思しきものはなく、大きな口がにんまりと弧を描いている様に、可愛さよりも不気味さが勝っているとの感想が大半だ。

 それでも道端はこのキャラクターに愛着を感じていた。なぜなら道端は万博が開催された年に生まれていたからだ。正確な誕生日はわからない。役所でつけられた誕生日があるだけだ。二〇〇五年七月一日、それは〈愛・地球博〉――愛知万博が開催された年だった。

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