火裏蓮華

@sakusakusoru_2025b

序章 一九九〇年 大阪

珠姫

 一九九〇年、春。大阪の鶴見つるみ緑地りょくちで〈国際花と緑の博覧会〉が開催された。一八三日間におよぶ博覧会は、延べ人数で二〇〇〇万人を超える人々が訪れ、大成功を収めたとされている。だがいま、開会式の翌日であるにもかかわらず、黄昏たそがれ時の園内に人の気配はない。本来ならば二二時まで開園しているはずなのだが、日中に起こったウォーターライドの転落事故の影響で閉園時間が早まったのだった。

 コンパニオンとして参加していた珠姫たまきも帰宅を命じられていたが、上司には笑顔で頷いたのみで、密かに園内に残っていた。

 目の前には〈いのちの海〉と命名された大池が広がっている。けれど水面みなもは見ることができない。こうの匂いとともに、薄い紫色をした雲――紫雲しうん――が立ち込めているのだ。

 珠姫は朱色の腰紐で麻の葉柄の留袖を手早くたすき掛けにし、もやいであった小舟に乗った。昼間の喧騒は嘘のように静まり、きしみと水を掻きまわす音のみが聞こえている。やがてそこに、紫雲より響く雅楽の調べが加わった。

 分厚い紫雲が視界を閉ざしていたが、珠姫は気にすることもなく、ただ真っ直ぐに小舟を進めることに努めていた。玉のような汗が額に浮いている。細腕で小舟を漕ぐのは、想像していた以上に重労働だった。幼い時分に仏門に入り、心身ともに鍛えてきたつもりだったが、大池の中ほどに達するころには腕がぱんぱんに張っていた。

 紫雲が薄くなり、視界が開けてくる。大池の南手にある〈いのちの塔〉から確認していたとおり、紫雲は水面の上を環状に広がっているようだ。すでに漕ぐのをやめていたが、小舟は自然と環の中心へと向かって進んでいた。手から離れた櫓が水面を流れて遠ざかる。戻るつもりはない。命よりも大切なものは、師に託してあるのだから。

「もはや後顧こうこうれいなし」

 珠姫は法輪ほうりんを宙に放つと、聖樹の数珠じゅずを手に合掌印を結んだ。

肉眼清徹にくげんしょうてつにして分了ふんみょうならずということなく、天眼てんげん通達つうだつして無量むりょう無限むげんなり。法眼ほうげん観察かんざつして諸道しょどう究竟くきょうす、慧眼えげん真を見てく彼岸にす。仏眼ぶつげん具足ぐそくして法性ほっしょう覚了かくりょうす」

 朗々と歌うように紡ぎ出された言葉は、法輪を空中に留め回転させた。呼応するようにして、紫雲に渦が現れる。渦は一つではなく合わせて五つ現れていた。渦巻く紫雲は絡み合い、筋線維のように細かな筋をなしていく。それらは編み合わされ、やがて大きな五つの眼となった。

 五つの視線は珠姫で交わり、華奢きゃしゃな肉体を透過して魂に喰らいつく。珠姫は激痛に耐えながら、そのときを待った。

「イッショニカエロウヨ」

 水面が泡立ち、声が聞こえた。池より現れた無数の蔓が小舟ごと珠姫を絡めとる。小舟は細切れに切断され、水面に残骸を浮かべた。蔓が珠姫の体を締めあげる。あらがうことはできない。珠姫は己を奮い立たせようと、腹から声を発する。

「ああ、帰ろうとも。わたしが生み出してしまった無垢なる童子たちよ」

 鎌首をもたげた蔓が、我先にと口に群がった。

「オン・アミリタ・テイ――」

 真言しんごんにつまる。口内に捻じ込まれた蔓が、舌を締めあげていた。まぶたが血で粘つき、開けているのかさえわからないほど急速に視界が狭まっていく。珠姫は真言のみに心血を注いだ。舌が千切れ飛ぼうと、紫雲とつながった魂で唱え続ける。

 赤い流れが、水面に揺蕩たゆたう大輪の蓮を描きだしてもなお、珠姫は真言を唱えていた。

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