第2話

     ☆


 同じフロアで働いていた中に、五歳年上の三上みかみという姓の先輩がいた。彼は仕事のできる上にお洒落しゃれな人で、特にスーツのことに詳しかった。そのため、スーツに関する色んな話を教えてくれたのである。


 例えば、「ネクタイは自分で買う」。

「ネクタイは、対面する相手に対する態度を表すものでもあるから、人にもらったものではしっくりこないし、使いにくい。だから必ず自分で買う。あとは持っているスーツとの相性もあるしね」というふうに言っていた。


「スーツに合せて色々考えるのも楽しいですよね」とうなずきながら話を聞いていたが、のちに職場では一年を通してノーネクタイをすることになってしまった。そのため、これまで集めてきたネクタイが無駄になってしまったのである。そのなげき悲しみもよく聞いた。


 ただ、先輩が何故私にこの話をしてくれたのかはよく分からない。

 同じフロアで働いてはいるが、所属部署は違うし、誰にでもこの話をしているわけではなかった。私が年下だったので話しやすかったのか、それともあまり口出ししないで聞くのがよかったのかもしれない。

 どちらにしても、そのときの先輩はネクタイを付けられない悲しさはあれど、スーツに対する愛情のようなものは変わらずあって、いつも楽しそうに話していた。


 しかし、ある冬の日。先輩のスーツに対する思いが冷めてしまうほどの事件が起きてしまったのである。


 事件が起きたのは、朝礼でフロア全員が円のように丸く並んだときのことだった。

 先輩は紺色のスリーピースのスーツを着ていた。スリーピースというのは、上着、ベスト、ズボンがそろっているもののことを指す。

 そのため先輩は、上着のボタンを全てはずしていた。


 すると、上司の一人である課長が「おい、三上、ちゃんとボタンをめろ」と先輩の着方を注意したのである。その瞬間、ほとんどの人が先輩のほうに視線が向いた。私も含めて、二十人はいたはずである。先輩はその視線を感じ、上着のボタンに手を伸ばす。だが、すぐには留めない。

 ほんの数秒、しん、とフロアの中が静まり返った。二十人以上の「目」が、それぞれ何かを話しているように感じる。だが、「口」はだれも開かない。注意した課長よりも、立場が上である部長も黙って成り行きを見ている。


「どうした? 早く、留めろ」


 課長はさらに言った。見せしめのようにされた先輩は「でも……」と言い掛けたが、ぐっとこらえて渋々しぶしぶとボタンを留める。私はその様子を内心戸惑いながら眺め、一方の課長は「全く常識がなっておらん」というような顔をし、そのまま朝礼が進んだ。当然彼は最後まで浮かない顔をし、終わったあとに朝礼のときに感じていたことを吐露とろした。


 ——スリーピースの上着はボタンを留めなくていいのに……!


 その通りである。先輩が言うように、スリーピースは中にベストを着ていたら、本来ビジネスシーンでは上着のボタンは留めなくていいのだ。留める場合は格式ばったような場所でのみ。私もそれを知っていたので、「まあ、そうなんですけどね……」と言いながら、ただただ先輩の話を聞いていた。


 ここまでが私が見る夢である。


 先輩の言っていることは正しい。その常識は今も変わっていない。そのため、仮に課長が「スリーピースのときに上着のボタンを留めない」ことを知らなくて先輩にあのように言ったのであれば、はじをさらしたことになるのかもしれない。


 一方で、課長にとっての朝礼の場が「格式ばった場所」というふうに捉えているのだとしたら、意味はまるで変わってくる。というのも、彼にとって朝礼の場がそういう場所であるならば、やはり先輩は礼儀を欠いたことになってしまうのだろう。


 もちろん、一般的な考え方からすると、朝礼でスリーピースの上着のボタンを留めることはしない。

 しかし、今はそのスーツの着方というのも、色々変わって来ているのかな、とも私は感じていた。

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