◆確信が欲しい
七月を迎え、試合前の練習も終盤にさしかかっていた。LISAと早乙女アスカの対戦カードも結局承諾せざるを得なくなり、八月十二日に決定した。会長は、「亀田兄弟はネームバリューだけでボクシングで美味い目にあったけど、それを倒した内藤大輔も随分得をした。リサも同じように売り出せばええ!」と開き直っていて、リサ本人もその理屈は納得している――対戦相手の早乙女アスカがダーティプレイヤーだということは除いて。
会場は練習してるところよりも遙かに熱くなるから、より厳しいスタミナトレーニングが必要だとの指示が出て、俺はまだプロでもないのに一日四Rのスパーリングをこなすようになった。しかも相手は若村先輩。俺は若さのもたらすスタミナを武器に、若村先輩との練習には辛うじてついて行けてる。リサもリサで、
「次の試合で早乙女アスカに勝ったら、〝モデル殺しのLISA〟と呼んでくれ……!」
等と気合いが入って、同じくらいの背丈の男のボクサーを相手にしてアウトボクサー対策を練っている。
心肺をいじめ抜いて、骨と筋肉がきしむ。俺は遙か年上の若村先輩に友情のようなものを感じていた。
今日の練習も充実していた。怪我もなく、明日の練習に繋がる。キリがいいので、俺は練習を切り上げたが、更衣室にはまだ若村先輩が居た。
「そういや、タケルってリサのことが好きなのか?」
この先輩は恋愛関係のことについては鈍感過ぎて、俺以上に抜けてるところがある。〝うん好きです。っていうか既に付き合ってます〟なんてちょっと言いにくくて、リサから、俺たちが付き合ってることはオフレコだって言われてる。だからお茶を濁すしかない。
「う~ん。好き、好きには違いないんでしょうね。でも、分からないっす。奇妙な感情ですよ。まだガキの俺には分からんです。先輩くらいの年齢の人にはギャグみたいな話でしょ」
若村先輩はそれを聞いたらははっと笑って、
「俺は実は、彼女が居たことがないんだ。一度も。この歳で。31歳でだぞ」
「えっ?」
「驚くだろう。俺だって驚いてる。小さい頃は漫然と、皆出来ていくものなんだって思ってた。水が高きから低きに流れるような自然現象だと思ってた。もっと小さい頃は、〝報われねえ努力をしてる馬鹿共が〟って思って、挑戦してる奴ら自体を見下してたよ。でも違うんだな。皆、口から心臓が出そうな緊張感を持ちながら、恥ずかしさを持ちながら、自分の本能と向き合いながらチャレンジする。運がいい奴はそこで成功して、〝頑張ったら報われる〟ってことを知る。運が悪い奴はそこで失敗して、〝頑張っても報われないことがある〟っていう、もっと大切なことに気が付く。これは重要な真理なんだ。頑張っても報われるとは限らないのが、この世にある全ての物ことに言える。ボクシングだってそうさ、練習を沢山やっても勝てる保証なんてどこにもない。その真理を知っておきながらも頑張れる奴が〝本当に強い奴〟だ。俺は〝好きな人が出来たことない〟ってのを、免罪符にしながら暫く生きてきたんだが、この免罪符が欠陥品だってことも俺は薄々気が付いてた。〝好きな人が出来たことない〟のは、女と話す努力をしてない俺にとって、当たり前なんだよ。どんなに綺麗でも、写真だけ渡されてその子を好きになるはずないだろ? 俺は〝好きな人が出来る〟とか言うもっと初歩的な段階の、〝女性と楽しく喋ったり友達になったりする〟って部分すら出来てなかっただけ。ただそれだけの話。俺が三十一歳で一度も彼女が出来たことなくて、童貞なのは全部俺の心の弱さ、それから怠慢さが作り出した結果に過ぎない。俺は救えないことに、この童貞すらコンプレックスに思ってね、童貞じゃない奴を僻んでた。コンプレックスを持つこと自体は悪くないが、人と相対的に自分を見て僻むのは、醜悪でやりたくなかった。最初これから俺は目を背けてたが、もう時間がないから向き合うしかない。みっともないと思われても、俺は俺の行動の結果に責任を持つよ。それが男ってものだろう? タケルくらいの歳の人間には、ギャグのような話だろう。何なら笑い話にしてくれてもいい」
俺はこんな、本来なら隠したいであろう話を、若村先輩にして貰えたことが嬉しかった。俺は若村先輩からパンチの打ち方やら減量のコツやら教えて貰ってて、スパーじゃもちろん手も足も出なくて、かなりリスペクトしてたから、そんな人が遙か年上なのに、心中にある秘密を、まだガキの俺なんかに吐露してくれることが、自分が一人前の男として認められたみたいでめっちゃ嬉しかった。
「ごめんなさい。驚かねえっす。若村先輩ってちょっと不細工だし草食系だから」
それを聞くと、不細工で悪かったなって先輩は笑って、
「タケル君。リサが好きなら……絶対に気持ちを伝えた方がいい。そりゃまあ男に興味なさそうだし、高嶺の花かもしれないけどね、後悔するよりもずっといいよ」
この鈍感さは、やっぱり恋愛経験がないんだなって思わされるけど、めっちゃいい先輩には違いない。
「そうします。お互い試合、勝ちましょうね」
先輩は物凄く真剣な目になって、
「俺は結局、ボクシングで国内ランカーにすら届かなかった。プロの試合は何度か出てるから、カッコはつくけど、これも俺の中に言いわけがあったんだ。実家が鉄鋼業をやっててね、俺は長男だからそれを次がんといかん。だから下働きからなんだ。俺の周りには、ニートが多かったから、俺は仕ことをやってるだけで物凄く大変なことをやってると勘違いしたんだよな。まあ大変には違いないが、普通皆やってることだ。俺に大きな影響を与えた総合格闘技やってる奴も、ずっとニートだったし。ニートだから練習時間も取れて、当然成果あがるわって思ってた。でも俺と同じ年代のボクサーは皆仕事しながらだ。それに、今日本に居る世界チャンピオンのおよそ半分はアルバイトで生活立てながら、ボクサーとしての練習時間を確保してる。俺はただ自分の近くに居る人間と、自分とを相対的に比較して、これもまた自分を守ろうとしてただけだ。俺はこういう自分を未だに変えたいと思っている。つまり、未だに変わっていないということだ。俺は相対的じゃなくて、絶対的なものが欲しいよ。つまり……自分の人生に確信が欲しい」
「…………」
俺は何て言えばいいか分からなかった。だって若村先輩は俺なんかよりもずっと人生経験が豊富で、確固たる自分を持っていて、俺みたいなガキと違って考え方が大人で、論理的だから。そういった、きっと本人にとって辛いことすら、口に出してしまえる。先輩は笑った。
「なあに、悲観してるわけじゃない。欠点があるってことは、一つの権利なんだよ」
「欠点が……権利?」
「ああ、欠点ってのは、言い換えると〝伸び代〟だ。なんでこんな単純なことに、囚われていたんだろうな。気長に改良を加えていけばいい」
「若村さんって、そんなに色々頑張って、何を目指してるんですか?」
「頑張ってる奴が何を目指してるかってのは、究極的には同じなんだよ。宇宙飛行士目指してる奴も、画家目指してる奴も、教師目指してる奴も、富豪目指してる奴も、アナウンサー目指してる奴も、警察目指してる奴も、殺し屋目指してる奴だって一緒さ。自由を目指してる」
若村さんはそう言い切って、
「ボクシングでチャンピオン目指してる奴もな」
と付け足した。俺は頭の中に、ベルトを手にして無邪気に笑ってるリサの顔が浮かんだ。
「俺も自由を目指してるんですかね」
彼は頷いた。
「きっとそうだ。自己から自由になる。自己実現とでも言うのかな。皆それを目指してる。自分の目指しているすがたと、ありのままの自分が一致する瞬間を、きっと自由って言うんだ。だってその世界には、一切のしがらみも束縛もないのだから」
凄い人だな、若村先輩は、ただ強いだけの人じゃなかった。
「俺はもう何も諦めないよ。この引退試合も、手を抜く気ない」
そう言って、更衣室にある自販機でポカリを二本買って、片方を俺にくれた。
「あざっす。俺も先輩みてーに、諦めない人間になりたいっす。正直今までは、俺の人生、人生っていっても所詮17歳のガキの人生ですが、ちょっと勉強が難しいなーって思ったら諦めて、スポーツでも、テニスちょっと難しそうだなあって思ったらチャレンジする前に諦めて、きっと好意を持った異性が居たんですけど、そこも諦めながら生きてきたんです。俺も、後悔する人生は嫌っすわ」
そう言ったあと、俺は男二人で何言ってるんだろうって気分になって、まあそりゃ喋ってる内容はマトモだけど、ボクシングジムで男二人でこんな話を真剣にやってるのはちょっとなって思って、
「暑苦しいっすね、俺たち」
って言って笑ったら。若村先輩も笑った。
「かなりね」
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