◆芸能人ボクサー

「舐めてる!」

 リサは何時になく不機嫌になってる。それもそうだ、次のリサの対戦相手が純粋なボクサーではなく、ずっと有名モデルとしての活動をしてきた早乙女アスカという芸能人だったからだ。ボクシングは階級制だから、軽い割に手足の長い、ところ謂モデル体型は有利だ。


 早乙女アスカはテレビ番組で「モデルとしての体造りにボクシングを取り入れて、それでやってみたらメッチャハマったからプロになることにした。最初は顔打たれるからモデルと両立は出来ないかと思ったけど、私の才能なら打たれることなく世界チャンピオンにもなれる気がする」って言ってた。森本ボクシングジムのテレビで、その録画を再生しながら、

「モデルのためのボクシングで、ボクシングしかない人間に勝てると思ってんのかー!」

 ってリサは相当立腹していた。彼女がムシキングした電話はこの選手の話だったようだ。


 要するに、リサと同じ階級に、芸能人が居て、まだ三戦三勝三KOで、確かにかなり強いけど、もう国内で十戦以上、海外での試合までやってるリサと試合するのは明らかに早乙女アスカを商品として売り出したいマスコミの戦略で、リサにとってこの選手と戦って勝っても「色物に勝つのは当たり前。まずは環太平洋王者でも奪取してから世界に挑戦するべき」だと見做されて世界戦に繋がらないのに対し、早乙女アスカが勝利した場合は、「デビューしたてなのに四連勝! 天才ボクサーが世界王者に挑む」という構図が出来上がってしまっているのだ。


 アマチュアボクシングと違って、プロボクシングは興業で、大金が動くから、そういう不平等なことが起きるらしい。しかもマスコミが早乙女アスカを推している以上、ダウンとか明確な優勢がないかぎり、半端な優勢ではリサは「判定負け」を食らうことになるだろうってことだ。しかもリサは、天才肌だけど、強い選手とばかり当てられたから十一戦、七勝、四敗、二KOだ。これ以上負けを重ねたら世界王者への挑戦も遠ざかる。対して早乙女アスカは噛ませ犬三匹食わせて貰っているから、戦績が三戦三勝三KO。数値が判断基準のこの世界では、早乙女アスカの方を格上と見做すことだってありえるらしい。かなり理不尽だ。


 会長は頭を垂れていた。

「次に、環太平洋の挑戦をさせてやるって言ってたが、すまん、リサ。また回り道になっちまった」

 リサは会長が頭を下げるのを、止めて止めて、と阻止して、

「要するに勝てばいいんでしょ勝てば。私があんなのに負けると思う? まあ確かに強いよね。試合ビデオ観たけど、噛ませ相手とはいえ、ちゃんとKOしてるし、センスあるよ。練習も結構積んでそうだし、強敵だね」

「すまんなあ。リサ。本当にすまん。ワシがもうちょっと有能だったら、こんな茶番みたいな試合を避けて、世界戦へ最短で連れて行けたのによう」

「会長はいいの。しょうがないことなんでしょ。どうせ」

 俺もジムでそのビデオを観ながら、早乙女アスカが強敵だってことは良く分かった。リサの階級はバンタムで53,52kgまでの選手しか出てこない。リサはその中でも少し身長は小さくて156センチしかない。だけど早乙女アスカは公式HPに、モデルだから盛ってる可能性あるけど171センチって書いていた。これは相当なリーチ差になる。


 俺はリサが少し心配になった。だって、いつもすっげー明るいリサの横顔が、少しだけ寂しそうだったから。こんな顔を初めて見たから。なんか、俺、何時の間にかリサのことを特別な目で見るようになっていたんだ。対戦相手の試合ビデオを繰り返し見続けているリサの横顔が、悲しさに包まれているような気がした。余りに心配になったから、他のジムの人たちが、別室に行くまで俺だけ部屋に残った。リサは震える声で、

「何か文句ある? タケル」

 と言った。俺は彼女の弱い面を初めて見た。ずっと強がって、実際強い福島リサは、虚像だった。ただ、自分の努力に縋ってる少女だった。

「三戦目のこれ、肘だね」

「……うん」

 外からは夕立の雨の音がする。


 リサはKOシーンばっかり何度も何度も巻き戻しと再生をしてた。

「これの何処が、〝左フックKO〟なの。拳の部分なんて、全然当たってないじゃん」

 かなり巧妙で、素人が見たら分からないだろう。だけどやってる奴には、分かってしまう。当然審判も、興行主も、ボクシング連盟も、そのことには気が付いてるんだろう。俺は、

「きっと、勝てるよ」

 と言ったら、リサは無言で頷いた。

「真っ当なボクシングに、自信がないんだろ。だから肘を使う。リサはこれに注意すれば、普通にボクシングで勝てる」

 そう励ますように言ったら、

「ボクシングがフェアな競技なんて、『あしたのジョー』とか、『はじめの一歩』とかの世界だけだね。スポーツマンシップがあって、まともな勝負なんて思ってる奴は、こういうの知らない」

 俺もボクシングをやるようになって暫く経つから、悔しい気持ちになって、

「俺たちはサーカスをやってるわけじゃないんだ」

 って言って歯がみしたら、俺まで悲しくなってきた。それはきっと、変わることを望んでいるからこその悔しさで、リサもきっと、こんな世界に居る。

「こんなのに負けたら、私がボクシングにこだわる意味、頑張る意味が、わかんなくなっちゃうよ……」

 俺はどうしても聞きたかったことを口にした。空気が読めなかった。

「なんでリサはボクシングやってんの?」

「居場所が欲しかったのよ」

「屋上以外で?」

「しつこいわねタケル。私は話したくないって言ってるの。普通の女の子で普通の人生歩んでたら……ボクシングなんてしないわよ」

 俺はこの、天才ボクサーでも不良でもない普通の、自分たちと同じ、いや、もっと弱いかもしれない繊細なただの女の子を、両手で抱きしめたくなった。だけど、此処で彼女を抱きしめるのは、ボクサーLISAへの冒涜のような気もして、俺は動けなかった。だけど、それすら俺の言いわけのように感じたんだ。

「ねえ、タケル。『カモメのジョナサン』は強すぎたから孤独になって行ったの?」

 ……

「外に出ようか」

 俺は、リサは涙を見られるのが嫌いだろうから、敢えてジムから出た。ロードワークから帰ってきた選手が休憩に使う屋根付きのベンチが空いていたから、そこに座った。少し経って、リサも隣に座った。俺は、そのカモメについて話した。

「強すぎるからじゃないよ。ジョナサンは、強すぎると思われたから、孤独になって行ったんだ」

 リサは横でどんな表情をしてるんだろう。俺には見えない。

「……そうなんだ。じゃあ私も、孤独になっていくのかな? 頑張っても、頑張っても……自分の頑張りが何処まで続くか分からなくても、怖くっても。……それでもどんどん、一人になっていくのかな……」

 …………


 ざあざあと雨がアスファルトを打ち付ける音がする。


 俺は左に座っているリサに顔を向けた。


 彼女の両眼からは、目尻に収まりきらなくなった涙が顎へ伝っていた。

「誰が、〝こっち向いていい〟って言ったんだよ。酷い。……私の弱いところを、見やがって。ずっと、隠してたのに。……これからも、そうするつもりだったのに、ずっと」

 リサの顎から服に、涙がしたたり落ちた。

「もういいんだよ。何かに挑むときに、怖くない人なんて、居るはずがないんだ。完全な超人なんて、何処にも居ないんだよ。大丈夫、安心して。俺はリサの弱さも、しっかり見てしまったから。リサだけが孤独になんてならないよ……」

「あははははっ!」

 リサは笑って涙を拭いた。

「ダメダメ、絶対ないわ。……タケルにはそういうセリフ似合わなすぎる! 可笑しい」

「なんだよ、それは」

 言い切らないうちにリサは俺の胴体に抱きついた。「私から言うね」って、頑固に抱きついた。そして声を潜めて何かを呟き始めた、俺はそれを真剣に耳を傾けた。

「私も女なのよ。なのに私と対等に話す男って、……タケルだけなんだけど。私ってさ、普段こうじゃん、さばさばしてるっていうか、ぶっちゃけヤンキーっぽいだろ? だから悪ぶってる奴らに……遊びの誘いされることはよくあるんだ。けど、あいつらボクサーを何だと思ってんの。……ボクサーっていう生物についてなーんにも知らないんだよね。こっちは酒も煙草どころか缶ジュースすらNG。炭水化物も試合近いと駄目、油も駄目、あと睡眠不足も駄目。なのにそんなのばっか勧めてさあ、〝こういうのが好きなんだろ?〟って顔してる。馬鹿みたい。……ま、ロックミュージックは好きだけどな……あはは、おかしい」

 俺に抱きついてるリサを、俺も抱き返した。

「リサのレベルでボクシングに脳を汚染されていたら確かに、走り込みデートとか、ミット持ち合いデートとか、高山トレーニングデートとか、かなり頭湧いてる恋愛形態を取らざるをえないのか? それとも、意外とお前みたいな奴に限って、遊園地でアイスクリーム食べたり王子様抱っこに憧れたりするのか?」

 リサは切れ長の猫っぽい目を少し微笑ませて、俺を見上げるように、

「どうだと思う?」

 って言った。そう言ったまま、挑戦的な目をこっちに向けていたので、俺は彼女の唇に唇を重ねた。


 抱きつく力がお互いに強くなって、鼻呼吸になって、それから、俺たちは口を離して向き合った、唾液が繋がっていて糸を引いた。呼吸を整えながら、赤みがかった頬でリサは、

「誰かが見てたらどうすんのよ。ジムは私の居場所なのよ」

「俺は困らない。だってリサが好きだから」

 リサはもう一度ソフトにキスをして、

「私が困るのよ」

 と言った。

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