8. 口寄せ
シュバが門の横で待っているエンキサルに気づいた。顔を近づけて、エンキサルの顔を見る。
「パン屋の息子だね、なんだ?今日はもうおしまいだ」
約束もないし、と巫女は最初は相手にしなかった。エンキサルが、袋から銀を一粒だして見せる。その光をみながら、巫女が言った。
「残念だね、今日は女の死体はないよ」
エンキサルには何を言われたのかわからない。首を振って言う。
「王の墓」
その言葉を聞くと、シュバの目がすべてを悟ったように開かれる。
ため息。
「思い違いをしたみたいだ、悪かったね」
巫女は、少し考えるふりをする。さぐるようにエンキサルの顔を伺う。
「これは本当はだめなんだ。許可がいるんだ。本当はわしがやってはだめなんだ」
と言う。
そう言いながらも、付いてくるようにと、とエンキサルを手招きした。
シュバが、手押し車の音を立てながら、先に立って門を出る。門の見張りがいたが、巫女といっしょなので、呼び止められることはなかった。歩くうちに、内壁からどんどん離れてゆく。星あかりの下、外壁の町を北の方へ。街路に汚物が散らばっており、路上で寝ているものも多い。このあたりでは、下水が働いてはいないようだ。
町のはずれのこの地区では、一階しかない建物が多いようだ。外壁すぐの近くの一角に、二階建てで、周囲の家々よりは立派に見える建物があった。ここでシュバは暮らしているらしい。
「さあ、こっちだ」
中は真っ暗。
入り口から入り、一階にある一段低い一部屋に導かれる。慣れていないエンキサルは足元を探りながら続く。
石を叩いて明かりをつけると、シュバが座り込んだ。部屋の中央には、回りを白いレンガで囲んだ大小の穴があるようだが、今は蓋で閉じられている。
「先払いだ」
言いながらシュバは手を伸ばした。
エンキサルは、袋の中から銀の入った革袋をだして、そのまま巫女に渡した。あらためて中を見ることもしなかった。
「おやおや」
シュバが袋の口をあけ中を見る。
「いったい、どうやって手に入れたんだ?」
いや、聞かないでおこう、と彼女は言った。
死後の世界と語るには、穴の蓋を開けなければならないのでは、と彼は思う。それに、ここは王宮とは離れている。でも、シュバは穴の蓋はそのままに、座りなおす。
巫女が呪文を唱える。さきほど家で聞いたものと、まったく同じに聞こえた。意味はやはり分からないが、学校で習う古典語の響きに、どこかが似ているようにも聞こえる。
シュバが、古びた大きな書板を両手に持った。その書板は、木製で、薄汚れて、蝋もうすく削れ、黒く固まっている。
ペンで文字を書くことはできそうにない。
エンキサルは、やはりこれはごまかしではないか、と思う。広場にいる、異国人の手品師たちと同様の、客寄せのための演技なのだろうか。母のような素朴な人たちに、魔術を信じ込ませる演技。
でも、供養がされなかった者たちはどこへ行くのだろうか。消えてしまう、ということはどういうことなのか?
学校で、ある教師が授業の合間に言ったことを、思い出した。でも、何かがそこにあるのだと。それは数だ。文字が、計算が、私たち書記のよりどころなのである。人も神々さえも、数の世界の中でその役割を演じている。生徒たちは、教師が口にした神々という言葉に顔を見合わせた。
でも、やはりシュバは巫女なのだから、死者と話す力はあるのかも知れない。その皺だらけの顔は、他のだれも知らないことを知っていそうにも見えた。書記たちも知らないことを。エンキサルは頭を振った。とにかく様子を見ようという気持ちになった。
「それは、話をしたいのは、家族なのだね?」
「ちがいます、友人です」
エンキサルは、自分の口からでた友人、という言葉に驚いた。友人、ニンガルは僕の友人なのだろうか。
王宮の女奴隷、歌を広場で聞いて、時折言葉をかわすだけ。普通民だはなくとも、男同士ではなくとも、友人と言えるのだろうか?
「そうかね。その人には、家族はないのか?
「居ないらしい」
「そうかね。で、名前は?」
とシュバが聞く。
「ニンガル」
「ニンガル、異国人なのか?」
「多分。そうだと思います」
「まあ、わしにはどうでもいいことだ。わしは、どこの誰とでも話すことができる」
もう一度、呪文。エンキサルには、さきほどの呪文と区別がつかない。
呪文が終わると、シュバは、書板をペンでひっかき、その字を読むそぶりをした。エンキサルには、彼女が板のの裏側でなにを書いているのかは見えなかった。しかし、書板が立てる音は乱雑で、注意深く字を一文字一文字書いているようには聞こえなかった。
「ここに居るぞ。何を話したい?」
エンキサルはみぞおちが痛くなった。
「ええと、無事なのか?」
再び、書板をペンで引っかく音。
「大丈夫だ、元気でいる。王の従者たちといっしょなので、心配はいらない」
「怒っているのか?」
「大丈夫だ、怒っていない。何を怒ることがある?感謝している」
問いと答えの間に、シュバが書板をペンで引っ掻く音が響く。
「それから、猫は」
「猫?」
「鼠をつかまえる」
「ああ、猫ならば心配ない。ここには猫がいる、大切な供え物を鼠に食われることはない」
エンキサルは、自分がすでに知っていることを、確かめているのだ、と思った。シュバの口寄せは、ただの見せかけである。そして、ニンガルは、ここには、居ない。
シュバが次の問いを待っている。
「いつか、また会ってくれるのか?」
「ええと、名前は何と言ったかね?」
とシュバが聞く。
「ニンガル」
シュバがまたペンの音をさせてから、答える。
「そのときが来たら。それまで、待っている、この世界で。会うためには、お供えをしてくれ、毎月欠かさず」
ニンガルが歌うような口調で続ける。誰に対しても、同じ答を返しているのかも知れない。
「僕にもお供えができるのか?」
「身寄りがないのなら、お前が供養すればいい」
エンキサルは、母がこの間言っていたことを思い出した。
「王のそばなら、なにもかも面倒をみてもらえるのでは?それに王宮におまかせなのだから、勝手にお供えはできないのだよね」
シュバが、一瞬眉をひそめた。
「あ、ああ、そうだったな。王が面倒をみてくれる、お供えはしなくてもいい。そういう決まりだ」
口ごもる、でも、何事もなかったように続けた。
「お前が王に奉仕すれば、それがお前の供養になる」
シュバが言った。
「さあ、そろそろ向こうに帰る時間だ」
答えているのがニンガルではないことがわかってはいたが、エンキサルは続けた。
「これで最後だ、君の歌が気に入っていた」
なぜか、声が震える。ニンガル以外の人間に聞かれてはいけない、気恥ずかしい言葉に思える。
「また歌ってあげよう、その時がきたら」
シュバが首をふる。
「まあ、これでもらった銀の分はおしまいだ」
巫女は道具を脇にやると、大義そうに立ち上がった。エンキサルが渡した銀の袋を大事そうに、部屋の隅のに置かれた籠の中にしまった。
どうだ、心が休んだか?時が経てば休まるものだ。シュバに押されるように、階段を下って外に出る。
エンキサルは、建物の前で、出入り口を見つめながらしばらく立っていた。あの旅人の持つ書板ならば、死者と話すこともできるのだろうか?
東の空が深い青色に変わっている。エンキサルはゆっくりと内壁のほうへむかって歩き始める。来るときは革袋でずっしりと重かった肩掛け袋が、いまは軽く奇妙な感じだ。いままで来たことのない区域。早朝の外壁の町。人々が動き始めている。路上に眠っていたものたちが、いま目覚めて、歩いて過ぎるエンキサルを見咎めているようにも感じる。
学校に、遅れないようにしないと。でも、すべてが変わってしまった気がする。
「あの銀、ぜんぶ渡してしまったのか?」
内壁の門を通ろうとして、背後の声に驚く。いつのまにか、あの旅人がそこに立っていた。荷物をのせたロバの手綱を、手に握っている。
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