4. 墓入り
エンキサルが家に猫を持ち帰った翌日、学校は休みになった。
朝から町の中がさわがしい。朝、お祭りが始まりそうだよ、と母が言っていた。もしそうならば、町の商人たちは忙しくなる。
昼下がり、父と長兄はパンを焼いている。エンキサルは、家の隅で、ナジミットの手伝いをしていた。学校が休みで家に居たエンキサルを目に止めて、ナジミットが声をかけたのだった。帳簿を書き写す。簡単な計算もする。数を合算して表に書き移す。一枚まとまると、ナジミットに渡して検査してもらう。ナジミットは書板に素早く目を通し、ところどころに印をつけて、エンキサルに書き直させた。
「今日はこのくらいにしておこうか」
書記の手伝いは終了。ナジミットは、また焼き上がったパンと肉の包みを代金がわりに受け取って帰っていった。
猫はもう家に馴染んだようにみえる。ただし、まだ母には気を許さない。猫は父と長兄には心を許したようだった。
外に出ていた母が帰ってきた。
「王様が亡くなったらしい」という。
町では皆そのことばかりを言っていたそうだ。ただし、王宮からのお触れはまだ何もない。
「それで、細工屋の息子も選ばれたそうだ」
母が言う。
同じ区画に家のある細工屋の息子は、エンキサルより三つ年上で、王宮の書記をしている。
「銀を百もらえるそうだよ」
母は少し怒ったような口調で言った。
うまく選ばれたね、くじが当たったようなものだ。犬とジャッカルの賭けで勝っても、こうは行かない。王宮に努めていた甲斐があった、王様と一緒のお墓に入れるなんて。一緒の墓に入れば、冥界でも安心だ。そして、家族はなんの心配をしなくてもいい。お供えとか、すべて王宮がしてくれるのだからね。
王といっしょの墓に入る、そのような決まりがあることは知っていた。大昔は何百人もの人数だったそうだが、今は数十人ほど。形ばかりのものであるが、選ばれるのは名誉である、と学校で教師が言っていた。父は何も言わず、黙々と手を動かしている。
普通は、死者の家族がお供えをして、それが死後の世界での食事になる。きちんとお供えをしなければ、死者は惨めな思いをしなければならない。それどころか、死後の世界で生きる事はできずに、消えて無くなってしまうかもしれない。
「ニンキは、それでも息子たちを残して死んだので安心だ」
エンキサルは、母の口から出た実母の名前に、顔を上げた。
「まあ、義務だから私ももちろんお勤めをするのだけれどね。あんたたちも、私が死んだら、ちゃんと面倒をみてちょうだいね」
母は、なお続ける。
「ザキティのことは、どうにかならないかしらね」
兵士になって、任地で行方不明になっている次兄の名前だ。パン屋は長兄が継いで、次兄は兵士になった。
「生きているか死んでいるかわからないと、銀を払ってもらえない」
エンキサルは、次兄がなつかしい。書板の計算で、次兄の行方がわかればいいのにな、と思う。次兄にならば、父や母に言えないことも話せそうな気がする。一度だけ便りが来たが、遠いので銀の無駄遣いはできない、と書いてあった。その後すぐに、だれに聞いても次兄の行方は分からなくなった。北の地域とは、使者の行き来も頻繁ではないらしい。
もしかしたら、とエンキサルは思う。任地の女を妻にしたのだろうか?生きているのだろうか?旅人の書板ならば、何かわかるのだろうか?
次兄は書記学校には行かなかったのに、文字を読むことができた。一方、長兄は物覚えが悪く、学校には入れなかった。父はできの悪い長兄のことを案じて、長兄にパン屋を継がせることにしたのだ。
旅人の書板に文字を書けば、次兄がどこかで読んでくれないだろうか。死後の世界のニンキが、読んでくれないだろうか。死後の世界にも書記が居て、こちらの世界に文字を返してくれないものだろうか。
そういえば、と母。
「ナジミットは婿入りのことはどう言っているの?」
父に声をかける。
婿にしてもらえたら、うちも助かる。親戚になれば、もう帳簿の整理のお礼をしなくても良くなるかもしれない。
わずかばかりだけどね、と言う。それに、変わり者だけれど、ナジミットの家柄は捨てたものではない。
「うん、でも断られてしまったら、それで終わりだからな」
父は幼なじみのナジミットに遠慮があるようだ。字が読めないのを恥じている。商いが大きくなって、字を使って帳簿に残しておかないと収集がつかなくなった。小麦を買うためには、いまでは異国から取り寄せをしている。値段の高い近い村の小麦をつかうより、結局は銀の節約ができる、というのもナジミットの提案だった。
いつもより余分に焼いたパンを荷車に積み込むのを手伝いながら、エンキサルは、途中から聞こえていないふりをした。猫を呼んで、籠にいれる。ニンギルが使っていた籠。荷車の片隅に猫の入った籠を乗せる。
東の町の広場へ。いつもは月に二度しか開かれない市が、お祭りの間はずっと行われる。にぎやかだ。人出がが多いので、余分のパンを焼いてみようか、というのは母の発案だった。赤ん坊もいるのだし、銀をかせがなければ。
広場には荷車が多く出ている。母が確保していた場所に荷車を止める。おめでとう、と母が声を上げる。息子の墓入りが決まった細工屋の妻が、ちょうど近くで数人の知り合いに囲まれているところだった。一家がそろっていた。
エンキサルは、荷車から猫の籠をおろした。ここで父たちと分かれることにした。夕方までには帰る、と言って、猫の籠をかかえて広場を離れる。
西の町に通じる道。荷車がすれ違うことができる、広い橋。あの旅人が言っていた、川の底の道の話を思い出した。五十年先?エンキサルは当然生きていないだろう。ふと、自分は何歳で死ぬのだろう、と思った。
学校の雰囲気は、外とはちがう。異国で学を積んできた教師の中には、死後の世界など存在しないというものがいた。供養などしようがしまいが、消えてしまうことは同じだという。でも、消えてしまったらあとに何が残るのだろうか。
西の町の広場も、普段よりにぎやかだった。さきほどの東の町とは様子がちがった。どこか、ほんの少し、雰囲気がリピリしている。いつもより異国人の出入りが多いようだった。出てゆく人々、いま外から付いたばかりの人々。
しかし、普段通りに、宿屋の前には、楽師と客たちが集まっていた。楽師が楽器を弾いている。
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