猫と書板
末座タカ
1. 猫
学校の帰りに大回りをして、この西の町の広場に寄るようになってもう数ヶ月になる。西に傾いた日差しがまだ暑い。
エンキサルは、広場の隅の宿屋の前に向かった。庇の下に人々が集まって、ビールを飲んだり賭け事をしたりしている。
今日はニンガルはもう来ていた。楽師の楽器に合わせて、歌を歌っている。傍らに丸くなっている、彼女の猫を撫でながら。エンキサルは彼女を囲んだ輪の中に、座る場所を見つけた。
歌を聞いているのは、十人ほどのいつもの顔ぶれ。
商人や下層民、宿の旅人、色々な肌の色、装飾品をほとんどつけていない質素な服装。男も女もいる。彼の学校は東町にあって、学校の同級生や先生はここには来ない。
彼女の歌が終わり、ぱらぱと拍手。楽師が笑顔で楽器を下に置き、ビールの壺に差したストローを咥える。しばらくしたら、別の歌自慢が一曲披露するだろう。よく見る顔ぶれの中で一番の歌い手の後では、しばらく待たないときっかけが掴めないけれど。
ニンガルは猫を抱き上げて、エンキサルの隣に座った。金の腕輪、王宮の奴隷の印。内壁の中といっても、この西の町ではとても目立っている。彼女は週の決まった日に、一人でこの宿屋の前に来て何曲か歌い、日が落ちる前に東町の王宮へ帰ってゆく。楽師とも他の常連たちともほとんど口を利かない。
彼が彼女と時々言葉を交わすようになって一ヶ月ほど。それまでは、座って彼女の歌を聞くだけだった。ある日、彼が残してきた学校の弁当に、彼女の猫が興味を示した。彼女が声をかけ、その日から、エンキサルはわざわざ学校の弁当を残して帰るようになった。
時々言葉を探す、滑らかな、しかし異国の訛の残った喋り方。歌を歌うときの太い声とはちがった、細い小さな声だった。この都には小さい頃に連れて来られたと言っていたが、それより前のことは良く覚えていないと言っていた。
「おねがいがあるわ」
エンキサルは振り向くが、彼女は前を向いたままだった。
「明日から、この子の世話をしてあげて。遠くに、先に、行くことになったから」
彼の膝の上に猫が置かれる。あわててエンキサルは猫を抱いた。彼女が立ち上がり、周囲を見回してからゆっくりと歩いてゆく。
籠の中の猫は乱暴な動きも嫌がらず、彼に抱かれるままだった。飼い主に置いてゆかれたのを、さほど気にする様子でもない。さすがに、この大きな町では猫はさほど珍しくはないが、人に馴れしているものは少ない。それでも、彼にこうして気を許して抱かれているのは、王宮の猫だからだろうか。
遠くへ行く、とは避暑について行くという事だろうか?王は毎年、上流の離宮に一ヶ月ほどの避暑をする。その日取りは、毎年王宮の書記たちが、色々な事柄を計算をして決めるらしい。上流の地域には森もあり、育っている草木もこの都とはずいぶん違うということだ。もちろん、エンキサルがその目でみたことは無い。これからの季節、この町をふくめて川下の土地は乾いた季節を迎える。
ニンギルが王宮でどんな役割なのかは、彼は聞いていない。竪琴を習っているのだ、と一度言っていた。あるときには、目の下に、殴られたような黒いあざがあった。
年上と思われる彼女から、色々と聞きだす勇気はなかった。王宮のものとはいえ、彼女はただの奴隷に過ぎないのに。一月たてば、また戻ってくるのだろう、と彼は思った。
「どうしたんだ」
振り向くと、長逗留の旅人が覗き込んでいた。
いつも、ニンギルの歌を聞きながら書板にペンを走らせるエンキサルを、興味深げに見ている男だった。
「それ、私がもらおうか?」
旅人はからかうように言う。
「人馴れした猫は高く売れる、もし懐かなければ肉屋に売ってもいい」
エンキサルは猫を、ニンガルが置いていった籠に入れた。生まれたときからこの籠に入れているから、自分の家だと思っている、とニンギルが言っていた。エンキサルは籠を下げて立ち上がると、庇から出て広場を横切った。日暮れが近い。空が赤く染まっている。
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