KAWARA 〜人間×異形の狂気ホラー〜

真白透夜@山羊座文学

第1話 家族解体

 父の春樹は公務員、母の夏子は専業主婦、兄の智秋は高校三年生、妹の冬香は小学校六年生。そして俺の名前は河羅かわら、中学三年生だ。


 家族の紹介をすると、大抵の人から「なんでお前だけ季節じゃないんだ。せめてお前が冬にちなんだ名前で、妹が違うならまだしも」といったツッコミを入れられる。


 そのことについて、両親に訊いたことはない。兄の智秋にチラリと話したことはあったが「名前なんて個体の識別のためのものだ。意味なんて知っても知らなくても生きていける。むしろくだらない理由だった場合、知ってしまった後の方が余計なストレスを抱えることになる。そんなハイリスクローリターンなことに興味を持たない方が懸命だ」と、質問文の倍の答えが返ってきた。



 ある日、学校からうちに帰ると、妹の冬香がリビングでチョコレートを食べながらテレビを見ていた。冬香は最近太ってきたと常々言っていて、口の周りのニキビも酷い。


「夕飯前にそんだけ食ってりゃ、そりゃ太るよ」


 そう言うと、冬香はキッとこっちを睨んだ。


「うるさいなぁ! お兄ちゃんにはわかんないよ!」


 冬香は急に怒鳴った。よく見るとうっすらと涙を浮かべている。いつもの軽口のつもりだったのにそんなに怒るとは。少しギョッとしたがここで引いたら負けだ。


「ホントのこと言って、何が悪いんだよ」


 そう言うと、冬香は持っていたチョコレートをローテーブルに叩きつけてリビングを出て行った。


「ちょっと、河羅。冬香を刺激しないで。生理が始まったから体調も悪いし、気が立ってるのよ」


 キッチンで料理をしていた母の夏子が言った。


「え、何それ。聞いてないんだけど」


「今日、学校でなったのだから。とにかく、今は冬香に意地悪しないで」


 なんだよ。女はズルイな。「生理中だから優しくしろ」と言い張れるなんて。


 俺は冬香が残したチョコを齧りながら、テレビのチャンネルを変えた。



 夕飯の時間になった。定時に帰って来た父、一週間の作り置きを完成させた母、難関大学を目指して勉強している智秋、むくんでいる冬香、水泳のスポーツ推薦で進学しようとしている受験生の俺が食卓についた。


 皆でいただきます、と言って食べ始める。むしゃむしゃと食べ続ける。父の意向で食事中のテレビは禁止だ。だからといって家族の会話はない。昔は冬香が色々喋っていてまあまあ楽しかったが、去年あたりからは冬香も大人になったのか喋らなくなった。代わりに俺が話題を出す時もあるが、いつも智秋の「回答」により一刀両断にされ会話は続かない。


 それにしても気まずい。会話がないなら一緒に食卓を囲む必要もないような。仕方なく何か話題を出そうかと思うのだが、今更学校の話なんかしたくない。追い詰められた俺は伝家の宝刀を抜くことにした。


「前から気になってたけど、何で俺の名前だけルールが違うのかな」


 両親は箸を止めた。二人とも俺に視線を向けたがすぐに逸らして、何か考えているようだった。まさかの深刻な雰囲気に俺は少し戸惑った。すると、父が口を開いた。


「お前の名前の由来は、私が羅生門が好きだったのと、母さんが河村隆一が好きだったからだ」


 智秋が吹き出した。


「それは酷いな! だったら『リュウ』でよくない?」


 ……え、あ、ああ、そういうことか。羅生門から取るくらいなら、芥川龍之介のリュウと、河村隆一のリュウを取ればいい……と。確かに作品名と、芸能人の名字から取るのはないなぁ……。って思ったけど河村隆一ってどなた?


「あたしはお兄ちゃんが橋の下から拾われて来たから、”河原”から名前をつけたのかと思ってた」


 冬香のその考えは、俺も考えたことがある。だからってそんな名付け方、人としてどうなのかとは思う。


 今度は、母が俺に質問した。


「なんで今更そんなことを聞いたの?」


「え……まあ、いつかは訊いてみたいと思ってたから……」


 智秋はまだ笑っていたが、麦茶を飲んでようやく落ち着いた。


「久々にこんなに笑ったよ。訊いて損もしないが、得もなかったな。”名前は両親から貰う人生で最初の贈り物”なのに、芥川の文才には程遠く、河村隆一のような音楽センスもない」


 智秋の解説は的確な分、気付きたくないことまで知ることになりダメージを受ける。


「いいよ、もう。河原から拾われた説でなければ」


 俺はため息をついて、今や大した美味しさも感じない夕飯を口に詰め込んだ。


「……まあ、せっかくこうして河羅の名前の由来まで出たんだ。父さんが前から考えていたことを話してもいいだろうか」


 父が神妙な顔つきで言ったので、食卓に緊張が走った。両親が箸を置き、それを見習って俺たちも箸を置いた。


「家族を解体したいと思う」


 解体? 家族を解体って何だ?


「私たちは、父の役割、母の役割を降りる。お前たちも、私たちが”必要なら”頼りなさい」


 急な話で頭は追いつかないのに、父の本気が伝わって、ズキリと胸が痛んだ。それって、見捨てられるってことだろうか。


 母の顔を見ると驚いていないようだ。両親はこれまでも話し合ってきたのかもしれない。智秋を見たが、いつもと表情は変わらなかった。どんな時も智秋は狼狽えたことがない。冬香はムスッとしている……ように見えた。


 智秋が口を挟んだ。


「僕は構わないよ。別に養育を放棄するわけじゃなさそうだし。勝手に産んどいて勝手に育て、というほどの無責任な人達だとは思わない。でも二点質問したい。どうして解体の結論に至ったのか、あとは従来の家族の在り方と何が違うのかを」


 こいつ、政治家か弁護士になるべきだなと改めて俺は思った。


「これからも、私たちがお前たちを我が子として育てること、応援することには変わりない。私たちの精神的なものの話なのだ。父親ぶる、母親ぶることに疲れたのだよ。もちろん、人生の先輩として教えてあげたいことはたくさんある。一方で、自分の人生すらままならないのに、親だからと立派を期待されるのは息苦しくてね。できれば、私たちの未熟なところ我儘なところをお前たちに許してほしいのだよ」


 父の言わんとすることは理解できなくはなかった。でもそんなこと、わざわざ宣言することだろうか? 父も母も、割と自然体で生きているように見えた分、驚いた。


 今度は母が話し始めた。


「私はね、あまり家事が好きじゃないのよ。生活自体には満足だけど、もう少し自分の時間がほしいなとは思ってるの」


 全ての家事を淡々とこなす母。確かになんら問題なく家は保たれていたが、母が嬉しそうに家事をしているイメージはない。好きでもないことを一日中、365日やらなくてはいけないのは、やっぱり辛いかもしれない。


 冬香が母の方に身を乗り出した。


「お母さんは、自分の時間ができたら何をしたいの?」


 母はぼんやりと空を見つめた。


「まだわからないわ。今まで自由に使える時間が無さすぎて。どうしたらいいかわかんなくなっちゃった」


 母は儚く笑った。


「……ごめんね、お母さん、あたしたちのせいだよね……」


「違うんだ、冬香」


 冬香の言葉に父が口を挟んだ。


「私たちはお前たちと暮らせて幸せなんだ。だが、私たちが気負い過ぎたんだ。自分たちは親として頑張らなくてはいけないと。その重荷を下ろして、もう一度、家族をやり直したいんだ」


 父の声は重々しかった。父母がそう考えるほど、家庭は危機的だったのだろうか?


「それとこれとは別ってわけだろ」


 智秋が腕を組みながら言った。


「母さんが僕たちに献身的に世話をしてくれたのは愛ゆえで間違いはないし、僕たちも感謝している。けど、母親業が優先しすぎて夏子さん自身が健全じゃなくなってるってことでしょ? 一人の人間としての夏子に戻るには時間がかかりそう……って話かなと思ったけど、どう?」


 母は「そうなの」と答えた。俺も「なるほど」と思い、冬香も納得したような表情だった。


 母はチラリと父を見た。父は小さくうなずき、母は意を決したように自分の左腕をめくって俺たちに見せてきた。そこにはおそらく、傷痕があった。おそらく、というのは、あまりに数が多く、パッと見ると火傷の痕のように見えたからだ。


「私はいわゆる少女の時代にすごく不安定で、こうして腕を切りつけながらではないと、生きていけなかったの。だから、こんな私が子どもを育てられるか不安だったし、まして冬香に同じ思いをさせたくないと思っていて……」


 母の視線が冬香をとらえた。冬香も母の顔を見ている。女にしかわからない悩みなんだろうか。


「今はね、そんな衝動には駆られないから大丈夫。でも、必要ないとわかっていても心配してしまうの、冬香のことを。それは冬香が頼りないからではなくて、私がただ不安なだけなのよ。それはきっと、母親をやり過ぎだからだと思うのよね。もっと自分を信じれないと、冬香のことも信じられないなと思うの」


「……お母さん、私は大丈夫だよ。お兄ちゃんたちもいるし。だからお母さんも好きなことしてよ」


 冬香はそう言ったが、なんだからしくなかった。普段ならもう少し勢いよく、あっけらかんと言いそうだが。


 智秋が口を開いた。


「僕は全面的に父さんと母さんの提案に乗るよ。河羅はどうなんだ」


「俺は……母さんの気持ちは、わかるようなわかんないようなだけど……。母さんの好きにしてほしいなと思うよ。それが結局家族のためだし」


 うまく言えないが、嘘ではなかった。俺たちの言葉を聞いて、母はホッとしたのか少し微笑んだように見えた。


「母さんは……いや、夏子は、若い頃、精神的に酷く苦しんでいたが、結婚して、出産して、子育てをして、本当によくやったと思う。私が夏子に惹かれたのも、そういうひたむきさに胸をうたれたからだ」


 父の本当の気持ちだろう。


「私も、お前たちに正直に言わなくてはならないことがある。私は夏子を支えたかったが、私ももちろん夏子に支えられた。私はね、本来ゲイなのだ。若い頃は男しか好きではなかった。が、夏子に出会い、夏子だからこそ好きになり、結婚した」


 智秋の表情が急に険しくなった。いかにも嫌悪している。こういう時の智秋はわかりやすい。


「それだけでもお前たちにはショックかもしれないが、私には今、年下の付き合っている男がいる。夏子の公認だ。彼も、私の家庭事情を踏まえてのお付き合いだ」


 父は唇を一文字に結び、食べかけの料理に視線を落としている。どんな気持ちなのだろう。恥なのか。罪悪感なのか。


 智秋が小さくため息をついた。


「わかったよ。自分に遺伝していないことを願うばかりだけど、母さんがいいならそれでいい」


 俺も続けて言った。


「父さんは父さんの自由でいいと思う……。そういう時代だし……」


 友人の話なら応援できるが、父親が……というのはなかなかパンチが重い……が、受け入れるしかないだろう。


「お母さんは、いいんだよね?」


 冬香が母の顔を覗き込んで言った。


「ええ。そういうものは変えられないことだし。一生の間に本当に大切な人と出会えるなんて、奇跡だからね」


 母からは落胆を感じなかった。おそらく本当にそう考えているのだろう。


 父が口を開いた。


「私も、夏子と同じように辛い時期が長かった。自分を認められず、愛し合える人にも簡単には出会えない。夏子に惹かれたのは、夏子の中にある孤独が自分に似ていたからだよ。わかってもらえない悲しみと、わずかな希望にすがってもがくことへの疲れ。夏子とお互いの苦しみを分かち合ったとき、まるで離れた敵地で共に戦う戦友のような信頼を感じたんだ。だから、夏子を幸せにしたかったし、家族として一緒に幸せになりたかった」


 俺は、両親は両親なりにそれでいいと思った。複雑だけど、結局は家族の話。俺たちさえ良ければいいのだ。


「すまないね、急にたくさん話してしまって。私たちは今まで通りお前たちを愛していくつもりだ。だが、そんな私たちの弱さをどうかわかってほしい……。いや、わかってもらえなくてもいいんだ。うん。ただ、私たちが”正直に生きていくと決めた"ということを、伝えたかったのだ」


 父はお世辞にも感情豊かな人ではなかったが、誠実で、こちらを子ども扱いして誤魔化すことはしなかった。


 智秋はじっと何かを考えているようだった。冬香は居心地悪そうにそわそわしていて、まごついている俺と目が合った。何か言えよ、と冬香が催促の目線を送ってくる。


「……わかった、よ。俺だって、父さんと母さんのことは大事に思っているから……それで、いい……」


 俺の言葉を聞いて、冬香も勇気を出したらしい。


「あたしも、お父さんとお母さんにも幸せになってほしいから、それでいいんじゃないかな、って思う。でも、どこかに行ったりはしないでね……」


「それは大丈夫。私たちはどこにも行かないわ」


 母の声は優しかった。そして、冬香の頭をなでた。冬香も安心したように息を吐いた。


「僕は新たな秘密が後から出るのは嫌だから、ここで膿は出し切りたいな。他に隠していることはないの?」


 智秋は鋭い眼差しのまま言った。


「……そうだな、今日この話をしようと思ったのは、冬香に生理が来たからだ。冬香は、生物的には子どもが産める。もう、大人の仲間入りをしたということだ」


 父の言葉を、俺はすぐに理解できなかった。理屈はそうだけど冬香はまだ小学生だ。冬香が今子どもを産んだら、子どもが二人いるみたいになる。想像して気味が悪くなった。


「冬香には、もっと少女時代を楽しんでほしいと思うわよ。でも、わからないじゃない。本当に好きな人ができたり、事件に巻き込まれて望まない妊娠をしたら。相手が誰であろうと、生命を宿すのは女なのよ。真剣に考えなくてはならないのも女。自分の体と命をかけるのも女。だから冬香には自分を大切にしてほしいの。相手が誰であろうと、自分の命と体を一番に考えてほしいの」


 母と冬香は見つめ合った。冬香は無表情だった。


 智秋がジロリと母を睨む。


「わからなくはないよ、冬香を心配する気持ちは。今どきどこもかしこも性的に乱れてるから、誰が性犯罪者かもわからない。だとしても極端じゃない? なんで冬香の妊娠の可能性がこんな家族会議に繋がるんだよ」


「智秋、河羅……。私たちは、お前たち兄妹三人が、いつまでも兄妹として仲良くしてほしいと思っている」


「こう見えて、そのつもりだけど」


 父に答えた智秋の言葉に、俺と冬香は顔を見合わせた。


「智兄は、あたしたちのことバカだと思ってると思ってた」


「思ってるよ。でも、バカという事実と平和な人間関係は両立するだろ」


 まったく、智秋の辞書に”思いやり”という言葉は無いのだろうか?


「話は戻すけど、僕たちの兄妹愛の何が心配なの?」


「……河羅は、私の子ではない」


 父の言葉を聞いて、俺は「え」と声を漏らした。


「そして、河羅はおそらく人間ではない」


 母は俺を静かに見つめ、冬香は驚きの表情をこちらに向けて、智秋は父を睨むように見ていた。


「十六年前、私たちは当時三歳の智秋と海に行った。少し目を離した隙に、智秋が波にさらわれて、助けに行った夏子も流された。私は二人とはぐれてしまい、捜索の連絡をするくらいしかできなかった。一夜経ち、ニ夜経ち、絶望感が増した頃、お前たちは帰ってきた……」


 父はそう言って、グラスの麦茶を飲んだ。


「ここからは、私が話すわ。智秋を掴んだのは良かったけど、もうだいぶ沖に流されてしまって。体がどんどん沈んで意識を失ったの。そして気づいた時、私たちは洞窟にいたわ。そこに一人の男がいた。体は鱗に覆われていて、顔は魚の目や歯がついていて、手と足には水掻きがあって……。いわゆる、半魚人よ……」


 父と母は狂っているのだろうか。半魚人だなんて。


「”彼"は、私たちを見つけて洞窟に引き上げた後、自分の肉を私に食べさせて、私を半人半魚にしたの。だから生きてるしお互いに脳内で会話ができるのだ、と彼は言ったわ。そして瀕死の智秋もそうできるがどうする、と言われて……。私は……お願いしたわ……。智秋を……死なせたくなかったから……」


 母の目から涙がこぼれた。智秋の顔も、さっきまでの険しさは消えていた。


「さらに彼は、私のお腹の中にもう一人子どもがいる、と言ったわ。助けたければ自分の体と融合させろ、とも。なぜ彼が私たちを助けたがるかを聞くと、彼は、”新しい生き方をしてみたい”と言ったわ。彼らの社会は、たとえるなら人間の体のように役割があるらしいの。足の役割に生まれたら足として生きる。みんな、テレパシーのように意識が共有されているから、個々に意思や考えは無い。だから、別の生き方をするには別の生物と融合して、別の生物になるしかないのだと……」


「……それで生まれたのが、俺ってこと……?」


「……そうよ。彼の名前が”カワラ”なの。名前もそうつけてほしいと頼まれたわ。恐ろしかったけれど、本当に子どもがお腹にいると思ったら、諦めることはできなくて……。それに……カワラが……なんとなく可哀想だったの。みんなは同じことを考えてさえいればそれで幸せなのに、自分だけ違っていて、孤独で、行き場がないカワラが……」


 父の母を見る眼差しは優しかった。父も母も、カワラと同じ苦しみの中を生きてきたから、わかるのかもしれない。


「半人半魚の私や智秋、カワラの細胞が融合した河羅、私から生まれた冬香がこれからどうなるかは全くわからない。……私のせいでみんなに迷惑をかけるかもしれないことは、申し訳なく思っているわ……」


 さすがの智秋も何も言わなかった。


 今度は父が口を開いた。


「繰り返すが、私はそれでも夏子が好きだし、お前たちとも家族として一緒にいたい。が、なにぶん、事情が複雑すぎる。すまないが……お前たちにも自立してほしいのだ。親だから、兄妹だから、世間がこうだからと成り行きに任せるのではなく、自分というものを追求してほしいのだよ」


 ”自分”を”追求”する……。心臓が、ドクンと鳴った。今までも、学校でそんなことを言われ続けてきた。ぶっちゃけ、自分が半魚人だとかなんかは、実感が湧かない。けれど、父がゲイで、母は精神的に辛いことがたくさんあって、妹は妊娠できる体になって、兄は実は弟妹想いだったというのは事実だ。俺は……何が事実なんだろうか。


 手を見てみた。水掻きはない。俺がスイミングを習い、水泳の成績のおかげで高校に進学できるのは必然だったんだろう。じゃあ、これまでの俺の努力ってなに? スポーツの世界では性別が問題になっているが、まさか人外が参加するとは想定されていないだろう。これからは頑張らなくても世界レベルの選手になってしまうかもしれない。俺は、それでいいんだろうか。


♢♢♢


 不意に湧いたカオスな家族会議を終え、自分の部屋に戻った。部屋は智秋と一緒だ。冬香は昔から両親の部屋で寝ている。


「母さんの言い方から察するに、僕たちが冬香を性的に見ないように引き離してるんじゃないかな」


「まさか! あんなのに欲情するなんて、ないないない!」


「人間ならそうだけど、僕たちは違うからわかんない……と、思われてるんじゃないか?」


「……智はそんな風にアイツのこと見たことあるの……?」


「ないよ。なんで世の中、こんなに女がいるのにわざわざ妹なんだよ」


 それもそうだ、と言って、ベッドに寝転がった。


「あ。まさかゲイってことは……?」


「それもない。むしろ、女も男も好きじゃない。恋愛も性的な話も煩わしいくらいだ。だったら半魚人伝説の方がそそられる。僕は肉を食ったらしいけど、影響は感じてないな。お前は?」


「俺もないよ。まあ、泳ぎが得意なのはそのせいなのかもしれないけど……」


 水の中の方が自由を感じる。そんな気持ちを思い出した。カワラはどうなんだろう。故郷に帰りたいと思うことはないんだろうか。


♢♢♢


 それから、俺たち家族は普通に暮らした。わざわざあの話題を出したりはしなかった。興味や不安がないわけじゃないけど、口に出したら誰かを傷つけるんじゃないかという気もした。いつかはまたちゃんと話さなきゃならないけど、今じゃない。


 父は、度々家を空けた。たぶん、彼氏(?)のところに行っているんだろう。母は、冬香とお菓子を作るようになった。二人とも楽しそうだ。冬香は生理になる都度寝込むほど苦しそうで、今度病院に行くらしい。智秋は淡々と受験勉強をしている。俺も相変わらず学校と水泳を行き来する生活をしていた。


 夏休みに入り、智秋が俺と冬香を海に誘った。


「高校の課外に出なくていいの?」


「一日休んで不合格になるくらいなら、その大学ははなから無理だったってことさ」


 そんな会話をしながら、三人で電車に乗った。田舎の二両列車。この車両には俺たちしか乗っていない。冬香はあえて俺たちの並びには座らず、向かい側の席に座り、後ろの窓から外の風景をずっと見つめていた。智秋はイヤホンをつけて動画を見ている。一緒にいるのに話さないってどういうこと? 俺は居心地が悪くてそわそわしたが、諦めて冬香の横顔のある車窓をボーッと眺めていた。


 駅に着いて、バスに乗る。目的地のバス停に着いて、海を目指して歩いた。磯の香りが漂ってきて、海が見えてきた。目の前に、太陽の光をきらきらと反射させた広々とした海が現れた……とはならなかった。


 漁村の一部としての海。生活の一部としての海。せり出した森と住宅地に視界を遮られた海。汚い海藻が打ち上げられている浜辺と共にある海。


「なんか、感動がないんだけど」


 冬香が言った。冬香は一度も海に来たことがない。両親が海水浴に懲り懲りしているからだ。


「キレイな海だと、故郷が恋しくて泳ぎ出すかもしれないからな、お前らが」


 智秋が鼻で笑って言った。


「智は違うの?」


「僕はならないよ。自信がある。たかだか食い物でそんな影響は受けないだろう。鶏肉を食べても鶏にならないのと同じで。その点お前らは直に半人半魚の母から産まれてるんだ。レベルが違う」


「智兄は、お母さんたちの話を信じるの……?」


「信じた方が面白いだろ」


 智秋が実に楽しそうに笑った。こんなに素直に笑った兄の顔を見たのは、久しぶりだった。


「あたしだって影響ないよ!」


 冬香は一人、浜辺に続く階段を降り、ビーチサンダルに履き替えて海に入った。ショートパンツから生えている肉付きの良い足に、波がぶつかる。冬香は水を蹴りながらしばらく歩いたが、飽きて浜辺に戻ると今度は貝拾いをはじめた。


「冬香も人間なんじゃないか? もう海に興味を失って、採集を始めた。人間の本能だ」


 智秋は階段に座った。俺もつられて隣に座った。


「何より、僕と冬香は大して泳ぎが上手くない」


「……母さんが嘘をついているってこと?」


「母さんは確かに変わった性格ではあるが、普段、病的な妄想はない。海に流されたあの晩、僕は洞窟の中で母に抱かれていたことを覚えている。次に目を覚ましたときには病院にいて、地元の人たちが無事に戻ってきたのは奇跡だと喜んでいたことも記憶している。半魚人伝説は、本当だと思うよ。僕は半魚人そのものは見れなかったけど、沖に流されて、水着姿で、数日後にあんな場所から無事に帰ってこれたなんて普通じゃ考えられないから」


 現実主義の智秋らしからぬ結論だと思った。だとしたら、智秋は俺を半人半魚だと見ていることになる。俺は海を眺めた。冬香はしゃがみ込んで、貝を吟味している。


――ザザァザザァという波の音は永遠に思えたが、急に海は三人から遠ざかった。冬香は白いレースのような波の端を目で追った。足を掴まれ、引きずられる女が伸ばした手のようにも見えた。冬香は呆然とそれを見送った。


 曇天が低くなって、空気は抜き取られた。命の気配がなくなった。皆、逃げてしまったのだろうか。


「……河羅?」


 智秋が河羅に声をかけた。


「来るよ、地震が。遠くの国から」


 河羅は海の先を見たまま言った。


 両手で貝を包んで二人の元に駆けてきた冬香は、河羅の目を見た。蒼い、ビー玉のようだった。あるいは宇宙の中で心細く震えている一滴の地球。


「……帰ろうか」


 智秋は立ち上がった。智秋にもわかった。大地震が来るのはおよそ二週間後。


 智秋が歩き始めたので、河羅も立ち上がってゆっくり後を追った。冬香は手の中の貝殻を一瞬眺めたが、すぐに目の前に投げた。靴を手に取り、走って二人に追いついた。



(第一話 終)

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