掬われない
恂
掬われない
思い出話をするのは得意ではなかった。出番のない記憶は、ふとした時に思い出しては泥底へ溶けていく。その内パタリと浮かび上がってこなくなるものだから、なんとなく掬いにいってみれば、そこにあるのは誰のかも分からない記憶。自分のものだったのに自分のものではなくなって、なのに自分を飾るために使いたくなってしまう泥塊だった。しかし、それを身につけたときの心地良さが妙に癖となって、体に塗ってしまいたくなって、共に漠然とした虚無を感じる。それがどうにも怖くて仕方がなくて、思い出を掬いに行くことさえも、最近はできなくなっていた。
「浮き輪?」
覚醒して一番に飛び込んできたものだった。赤と白のストライプ。浮き輪、フリー素材で検索すれば真っ先にでてくるであろう典型的な輪っか。それがトタンの壁にかけられていた。次に意識がいったのは、視界の半分を占める青い空だった。外だ。ふと視線を巡らせると、ヒビ割れたアスファルト、大きな溝がある路地、ザリガニみたいな機械……多分農業のなんかの乗り物、とにかく見慣れた景色が飛び込んできた。
「ヤマベ?」
その三文字を口にだしたのはいつぶりだっただろう。住所には使われていない地名だったから、県から出ていってしまえば使う機会などない。それこそ『ヤマベ』を使ったのは卒業式以来だ。ここへ帰るのはいつぶりだろうか。いや、帰省する予定なんてあっただろうか?
「そもそも、なんで浮き輪があるんだ?」
再び浮き輪に視線を移す。小さな納屋の壁に浮き輪が二つ、吊るされている。海外の海沿いにある家とか、あと海の家とか、こんな風に浮き輪が吊るされていた気がする。けれどヤマベは山に囲まれた地域だ。確かに近くに海はあるが一つ山の向こうの話で、壁に浮き輪をかけるほどじゃない。
「夏だからじゃないの?」
「ウチの人は季節を理由に浮き輪を買う浮かれポンチじゃないですね」
「君の家なんだ」
「多分」
納屋の壁。青色のトタンをなぞって、途中でコンクリートの塀に変わって、数秒足らずで入口に辿り着く。この先、花壇と生け垣を曲がればいつもの玄関がある。あったはず。それがない。そもそも、家自体が丸々なかった。踏みなれた土が広がっている。庭の内に何故かあったブロック塀とか、星や花が彫られたガラスの窓とか、黒光りする瓦とか、何もない。そりゃあ家がなくなったんだから、ないのは当たり前なのだけれど。ウチの土地、こんなに広かったんだなぁと思う。田舎によくあるような、何の変哲もない家だった。なんでないのだろうか。
「そういえば、どちら様でいらっしゃるのでしょうか?」
「家がないことには何も思わないの?」
「いや、なんか。ないなーって」
「そう」
なんとなく納屋に入る。中は何もなかった。床はコンクリートがしかれていたはずなのに、庭と同じ砂が広がっている。ロフトがあったはずなのに、今は天井も低くなっている。骨格がむき出しで――それは元からだった。米専用の巨大冷蔵庫は見る影もない。そもそも、この天井の低さだと入らない。
「こっちの方が秘密基地っぽいですね」
「前の方がロフトもあってよかったんじゃない?」
「物置の天井をハシゴで登っていただけです。泥と埃で汚れた機械とかクルマの座席とか簾とか、そーゆーのしかありません」
「物置だね」
「物置の天井でしたから。ところで、あなたはどちら様で?」
「答えが用意されていないね」
「どうして」
「どうでもいいじゃん」
「どうでもよくはないんですけど、確かに、どうでもいいですね」
右隣に視線を落とす。小さな女の子、白飛びしたような真っ白い子が、ぼうっと納屋を見つめていた。波の音が意識を外側に引っ張った。納屋から出てみると庭には海砂が広がっていた。いつもの固い土も、さっきまであった塀もなくなっている。庭にはもう納屋しかない。いや、この納屋も自分の知っている納屋なのだろうか。ざざ、ざざ。引いては寄せる波の音が、空っぽな庭に響いている。
「とりあえずどっか行きましょうか」
「どっかって、どこに?」
「そういえば、ヤマベって何もないんでした」
塀がなくなってできた段差を飛ぶ。アスファルトに着地して、違和感。海砂が散らばっている。ふと顔を上げると、そこには青が広がっていた。そういえば、視界の半分を青色が占めていただなんて、そこからおかしかったのだ。ヤマベには山と田んぼしかない。視界の七割を緑が占める土地。青が入る隙などないのだから。家の庭からは本来、田園風景が広がっていたはずだった。この季節であれば、その景色はまさに緑の海。風によって稲が撫でられるその様子は波のようだった――ということに、今初めて気が付いた。田んぼと海を繋げて考えることなんて今の今までなかったのだから。そう、今の今まで。
「これ、海であっているのでしょうか」
「なんでもいいんじゃないかな」
「それもそうですね」
田園が海に沈んでいた。波が引いては寄せる砂浜には稲の残骸が散らばる。浅瀬には波に打ち勝った稲がポツポツと生えている。砂浜の稲を拾って、靴を脱いで、靴下を放って、海に入ってみる。指のあいだを砂が通る。サラサラとした感触が心地いい。海砂に根ざした稲。その隣に稲を植えてみる。反射的にねっとりした土を思い出す。底が見えない泥水と腰の痛む感覚、目の前の景色とは正反対だ。記憶している感覚との差で、頭がおかしくなってしまいそうだ。植えた稲はあっさりと流されてしまった。
「この砂と波だもの」
「じゃあ、この稲たちはどうして流されないのでしょう」
「さあ」
強かに陽の光を浴びる稲。青々しいそれを掴み、もいで、噛んでみる。硬いし青臭いしチクチクする。そういえば、夏の稲は固くなっているから害虫に食べられないんだったっけ。
「若い稲の方を食べればよかったのでしょうか」
「それ、意味あるの? 食べる意味。農家らしい意味」
「いえ。強いていえば、穂をつけるはずだった稲の未来が一本、波に消えました」
固い葉を歯ですり潰して、飲み込めそうになった稲を海に吐いた。根からむしり取った稲も海に流した。
「あと、自分は百姓の家に生まれはしましたが農業はさっぱりです」
「嫌いなの?」
「いえ? 好きでも嫌いでもないし、なんとも思っていませんよ」
「どうして食べたの?」
「食べてませんよ。吐き出しました」
「答えになってないよ」
「……答えなんてあるんでしょうか」
「君が作ったらあるよ」
「作れと?」
「そこまでして欲しい訳じゃない。めんどくさいでしょ」
「どうでもいいですしね」
海が広がっていた。水底には見慣れたあぜ道が張り巡らされている。昔、あの道が犬の散歩コースだった。海は奥の方まで続いていて、そっちの方にある山を越えると、本当の海が広がっているはずだ。海面上昇によって呑まれたヤマベ。そう考えると、ファンタジックな景色が途端にSF的世界に思えた。海から離れて靴下を履く。足は濡れていたはずなのに、なぜか気持ち悪い感覚はしなかった。そこでふと、背景に溶け込んでいた喧騒に意識が向いたのは、蝉の声が転調したからだった。そも、喧騒だと思っていた音は、ただ蝉の鳴き声だけだった。木が目に留まる。コンクリートと砂浜の間、ウチの隣にある畑にある木。腰まである段差を飛び越えてそれを見あげた。頭上には木の色に溶け込んで、一個ホコリのような何かがある。
「要る?」
少女が差し出してきた虫網を貰って、ホコリを捕まえた。途端に世界が静かになった。手元にはジジッと寂しそうに、可哀想に、可愛らしく音を漏らすセミがいる。喧騒とさえ思っていた蝉の声は、たった一匹によって作られていた。捕まえた達成感を覚えれば、蝉には何も思わなくなった。ぽん、と放れば蝉はどっかへ行った。アレはなんていうんだっけか。ヒグラシか、ツクツクボウシか。鳴き声と蝉の名前が結びつかない。どっちでもいいか。
「この木、切られたんです」
立ち上がって、再び見上げる。
「いつ?」
「ヤマベを出る二年前」
「なんの木だったの?」
「分かりません。確認のしようもありません」
だって、葉があるところまで視線をあげたって、あるのは白飛びした景色だけだから。景色そのものがないのだから。
「イチジクは覚えてるのにね」
少女が言って、足元に目を向ける。同様に切られたはずのイチジクが生えている。その向こうにはキウイ。イチジクはおすそ分けで貰ったことがあるけれど、キウイは食べたことがなかった。美味しかったのだろうか。いや、キウイはまだ今もあるのか。
「今が昔なのか今なのか分からなくなってきますね」
「アレとか?」
どれだ。少女の視線をなぞった先は山の麓だった。墓とお宮さんがあるところだ。そこも海に沈んでいた。山の手前には川があるはずだった。そこも沈んでいて、まるで別の島を眺めているようだった。麓には十人程度、人がいた。小さい子供が八人、黄色い帽子を被っている。残りの二人は大人で、片方は頭を下げて、片方は寡黙に九人を見つめていた。
「ウチの制服ですね」
「何やってるのかな」
「そういえば、昔先輩が秘密基地を作ったんです。そこ、私有地だったので学年全員で謝りに行ったって聞きました」
「八人ぐらいしかいないけど?」
「それで学年全員です」
確か女の子が一人しかいない学年だった。連帯責任で謝りに行ったというから、関係のなかった人は不憫だなと、何故か記憶に残っていた。自分もこの一件がなければ先輩と同じことをしていたかもしれない。だからだろうか。
「ところで、自分は家の前にいたはずなんですよね」
ここから家までは遠くない。しかし、他にも家があるから少し歩かないと、この景色は見えないはずだ。
「どうでもいいじゃん」
「確かに、そうですね」
海を見た。沈んでいる稲や雑草が輝いて、海は緑色に見えた。ヤマベも港町となってしまうのだろうか。山の向こうにあった港町は沈んでしまったのだろうか。海沿いにある道の駅のソフトクリームが好きだったのに。併設されてた牡蠣食べ放題とかバーベキューとかにも行きたかったのになぁ。懐かしさに異物を押し込んだような景色が右から左へと流れていく。ガードレールの向こうに見える海、緑色の影が揺らめいている。その景色は家の前とは打って変わって、海沿いの道路から見えるような世界そのままだった。窓から顔を出すと風が気持ちいい。
「ところで、自分はいつ車に乗ったのでしょうか」
「どんな答えがいい?」
「……ない方がいいかもしれません」
そこは家の前ではなかった。本来ならば家から自転車で十五分ぐらいのところだ。山の真横にある道路、その隣には一面の田んぼ――じゃなくて海。地形は見慣れたヤマベなのに、知らない街のような爽やかさがある。山の方を見ると一つの家が目に入る。露出した山肌に寄り添っているような青い屋根の家が建っている。庭にはヤギが一匹つながれていた。
「畜産農家?」
「いえ、趣味で飼われているらしいです。他にも猫が数え切れないほどいて、犬もいました」
「よく知ってるね」
「お邪魔したことがあるんです。同級生の家なので」
そういえば、ヤギはもう居なかったはず。小学四年生のとき、寿命を迎えたから山に埋めたと言っていた。ヤギを飼っている家なんて珍しかったから、皆は興味津々に、そして寂しそうに聞いていた。
「あ、信号」
青黄赤が横に並んでいる。
「こればかりはただの信号でしょ」
「今までおかしい認識はあったんですね、安心しました。この信号、ヤマベに一つしかないものなので」
「もっとつけてあげたらいいのに。登校とか危ないのにね」
「それよりも歩道の狭さの方が問題です。場所によっては大きな溝がむき出しになっています」
「豪雪地帯じゃなくて良かったね」
「雪が降るところだったら、もっと整備されていたのではないでしょうか」
大きな鳥居が現れた。さっきまで車に乗っていたのに、自分は棒立ちで鳥居を見上げている。けれど今更何もいうまい。初めからなにも言ってなかった気がするけれど。鳥居の向こうは山の中で、祭囃子に染まっている。田舎の山なのに、ここの神社は坂がない平面で羨ましい。家の近くにあるお宮さんは坂がキツイのに。60度はある。言い過ぎた。多分40度ぐらい。それでも辛い。
「今は夏なんですね」
「稲も緑で、大きかったしね。見て、スーパーボールすくいがある」
少女は自分の手を引っ張って、屋台の前にしゃがみ込んだ。そこは虹色が流れていた。小さい丸、中くらいの丸、犬やクマの形をしたモノ、あとカラフルなウンコがグルグルと回っている。
「ほら見て、ドラゴンボールがあるよ」
「しっかり七つですね」
作品はよく知らないが、七つ集めればなんでも願いが叶うドラゴンボールという存在は知っている。そのドラゴンボールのスーパーボールは、他より一回り大きかった。少女はポイを貰ってドラゴンボールに挑むが、呆気なく破れてしまった。勝負にも敗れた。自分もポイを貰ってドラゴンボールに挑む。紙で掬おうとするからいけないのだ。丸い方を鷲掴みにして、柄の方をドラゴンボールに引っ掛ける。そのまま持ち上げるとドラゴンボールが跳ねるので、すかさず器を差し込んで、捕獲。
「それズルじゃない?」
「都会の祭りではまず通じないでしょう」
「ここでは通じるの?」
「許されました。なるべく在庫を残したくなかったんじゃないでしょうか。ただ、自分がこの方法を編み出してから流行ってしまって、翌年は掬った重さで貰う量が決まってしましましたが」
「やっぱダメだったんじゃない?」
「ダメだったのかもしれません」
結局、ここでもドラゴンボールは貰えた。少女に渡すと、彼女は嬉しそうに遊びはじめた。跳ね方が普通のより大きい! とはしゃいでいる。神社なのに、どうやってスーパーボールで遊ぶのだろう。分からないが、少女がスーパーボールで遊んでいるという事実が何故か頭に流れ込んできた。遠くの少女が見え辛くなる。どうしてだろうと空を見上げれば、もう夕暮れだった。
「帰りましょう」
「でも家ないじゃん」
「確かに。ですが、少なくともここからは離れましょう」
「どうして」
「野生動物と鉢合わせたら怖いですから。イノシシとか」
「そっか」
でも田畑は海に沈んでしまったのだから、動物は町に降りてこないのではないか。ふと思ったが、怖さが払拭されることはなかったから言わないことにした。鳥居を出たら、横に大きな道路がある。ここからさっきの信号、同級生の家と順に行けば家に着く。歩いて四十分はかかるだろうか。今までのように気が付かないうちにワープしてくれればいいのに、と期待したが、一向にそんな気配はしなかった。道路はくるぶしぐらいまで海水に浸かっていた。水の重さを鬱陶しく思いながら、ざぷ、ざぷ、と歩を進める。右を見れば田んぼが沈んでいて、向こうには砂浜と自分の家が見える。左を見れば空が広がっていた。元々あった山はごっそり消え去って、地平線の向こうまで海が広がっている。火傷するような、紅い、紅い空。海の底には向日葵畑が沈んでいて、揺ら揺らと黄色が瞬いていた。顔を上げれば飛び込んでくる、空を支配するような異常に大きな太陽。紅い光を滲ませて空との境界線がない。ただ、その中央だけは色がなく、自然が作り出す純白は目を焦がすようだった。
「あ、観覧車」
「そんな一番星みたいに……」
第一、こんな田舎に観覧車などあるはずがない。だがあってもおかしくないのがこの世界だ。海の真ん中には観覧車が沈んでいた。ギィ、と錆びた鉄が擦り合う音。くすんだ赤色のゴンドラが僅かに揺れていた。他にも錆びたトタン、古民家、壊れたバスや車なんかが沈んでいた。紅い光で見えていないだけで、底にはもっとあるのだろうか。海面上昇と大きな太陽、沈む文明、なんだか終末モノみたいな景色だ。
「私もいつか沈むよ」
少女が立ち止まって、水平線をぼうっと眺めている。白飛びしたような少女は服も顔も形がない。人間というより人型と呼んだ方が正しい姿だった。思ったより人間離れした姿だったことに、今更ながら驚いてしまう。それじゃあ、どうして自分は彼女を少女だと思ったのだろうか。少女の白は、炎のように風に揺られる。頭から伸びる長い白は髪のように見えて、少女のままでいいかなんて思った。
「ヤマベもいつか沈むよ」
「ここ、ちょっと心地よかったんですけどね。残念です」
「でも安心するでしょ」
「安心します。けど、不安にもなります」
「全部沈んだら不安もなくなる」
「沈むまでは不安です。どうしたら不安じゃなくなりますか?」
「沈めたらいいよ」
「沈むまで不安であることには変わらないんですね」
「でも、今の君が沈むことはないよ」
「今までの自分は沢山沈みました」
「今の君が沈まないだけだから」
「沈むのは嫌ですか?」
「好きとか嫌とか、そういうのとはまた違う」
いつの間にか海水が胸の下にまでやってきていた。波に身を任せて、前に押され、後ろに押され。
「自分も沈めたらいいのに」
「もう沈んだよ。今までの君が」
「今の自分は沈めませんから」
「掬ってくれたら会いに行くよ」
「嫌ですよ、気持ち悪い」
「どうして。ちょっとショックだよ」
「気持ち悪いと思う感覚に、理由なんてないんじゃないんでしょうか」
「それもそうだ。じゃあ、私も沈めば君に嫌われてしまうのかな」
「貴方を嫌うことはありませんよ」
「でも気持ち悪いんでしょ?」
「まあ、不快ではあります」
「私が?」
「貴方が……貴方が? 貴方は、全然。嫌に思わない」
「この空も、太陽も、ヤマベも沈めば、気持ち悪い?」
「いいえ。でも、気持ち悪いです」
「不思議なこというね。沈んだものは本当に気持ち悪いの?」
「沈んだものは気持ち悪くないのかもしれません。では、私は何が気持ち悪いのでしょうか」
海水は口元までやってくる。真っ赤な真っ赤な世界、かつての故郷はどこにも見えない。少女は自分に向いた。目も鼻も口もない、のっぺらぼうな面に見つめられて、そして指が立てられる。まっすぐ、自分の眉間をさして、じり、じりと、額が、焼ける、感覚。
「気持ち悪いのは、君だよ」
途端、空気が爆竹のように破裂して空へ空へと押し込まれていった。赤が自分を押し潰すように渦巻いて、ゴポゴポ、泡が頭上へ舞い上がる。一瞬のうちに海に沈んでいた。
「苦しい……」
息はできる。
「気持ち悪い……」
波に揉まれて体が回っている。けれど酔うことはなかった。
「嫌だ……嫌だ……」
水に濡れるような不快感はない。優しく包み込んでくれる、どこまでも心地いい海だった。
「いや、いやぁ……いやだぁ……! やだぁあっ!」
真っ黒な波に挟まれて、押し潰されて、上も下も分からなくなって。けれどちっとも冷たくなくて、優しい光みたいな暖かさ。
「いやぁ! 助けて! 助けてぇ! なぁ、なんで、なんで! 自分はぁ! どうしたら、どうすれば、なあ! 誰かぁ!」
ずっと気持ち悪いんだって。懐かしい記憶も、幸せな思い出も、心地いい海の中でも、ずっと、ずっと。だって自分が気持ち悪いんだもの。これからもずっと、気持ち悪いね。苦しいね。どうしようもないね。可哀想だね。
――でも、どうでもいいんでしょう?
「――次はミナミリュウザキ、ミナミリュウザキ〜」
心地いいベールがストンと落ちた感じだった。
ゆっくり目を開くと赤い座席が目に入る。リュウザキ、聞きなれた言葉だった。
「ここどこ?」
途端に寒気が回って顔を上げた。
窓の外を見てみれば、そこには黄金の田園が広がっていた。
頭上には高速道路が通っていて、知らない家が立ち並んでいる。
知らない景色。
けれど知っている景色。
リュウザキ市の隅っこにある田舎町、ヤマベ。ついには駅名にもならなかった。
電車から降りて改札でICOCAを叩く。駅を出たら小さな噴水と、ヤマベ唯一“だった”信号があった。
柵の向こうには金色が広がっていて、ぽつぽつとコンバインが見える。
そして高い高速道路と東横イン。ヤマベもすっかり都会となってしまった。世間的にはこれでもまだ田舎の括りに入るのだろうが。
自分が知っているヤマベは、もうどこにもない。思い出すこともできない。
「ここもいつか沈んでしまう」
ミナミリュウザキもなくなってしまうのだろう。今の自分以外は全部全部、沈んで浮かび上がってこないのだ。
貨物列車が黄金の中を突っ切っていった。蝉の声よりも痛いバークアウトが撒き散らされる。それは通り過ぎてもしばらく、ガウンガウンとやまびこする。
余韻にほう、と浸って、浸っている自分がいることを知る。喉奥からなにか這い上がってくる感覚がして、それが何だか分からないまま飲み込んでしまった。
あの少女が再び、この世界に掬いあげられることはないのだろう。
掬われない 恂 @trash_december
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