レ・ミゼラブルとプリンセスが定めた貴婦人の涙という名の毒

六角堂なのころな典碌

第一章 ──消しゴムが落ちた──

 プリンセスは葉についた雫を唇に運んだ。若々しい青い葉から零れ落ちる新鮮な雫は、葉を伝って唇に届くと、そのままプリンセスの奥深くに飲み込まれる。

「おいしい」

 これで、終わりね。

 麗しい微笑みで、プリンセスは華奢な身体を包む若草色のドレスを揺らして、愛しいお父様に駆け寄った。

「どうしたんだい? プリンセス」

 恰幅のいいとお父様は言うけれど、逞しいと言ったほうが適切だわ。

 プリンセスはお父様を見ながら、聡明な眼差しを向ける。

「ううん、何でもないわ。お父様」

 くるくるとよく回る子だ。

 お父様は難しい顔をなさっているわ。

 プリンセスはお父様が何を考えているかなど考えもせずに、振り返った。

 お父様はお足が悪いのよ。

 嫌味な音楽家に火傷をしてね。

 まったく、いい加減なお年頃なのだから。

 プリンセスのお父様は中庭のゴブレスティ製の椅子に腰をかけて、ゆったりと景色を眺めているようだった。

 プリンセスは、中庭に転がった黄色いビニールのボールを拾い上げる。

「たくさんお遊びしましょ」

 ふふっと麗しく笑って、プリンセスはボールで遊んだ。

 しかし、言うことを聞かないボールは、中庭の街灯にあたって、跳ね返った。

「あっ」

 プリンセスは過失に声を上げた。

「もう」

 プリンセスはむくれて、街灯に近付き、黄色のワビサビ色のボールを拾い上げる。

 お父様は闇色に染まっているわ。

 もう少しね。魔女狩りに捧げるのは。

 しばらく、時が経ち、プリンセスは美しく成長した。

 麗しい美男子に囲まれた生活かと思いきや、プリンセスの恋人は身分に合った上等だった。

 プリンセスは羽根扇を開き、顔に風を送ると、恋人が目配せをする。

「やられたよ」

 恋人の突然の密談に、プリンセスは美しい眼を見開いた。

「賊が来た」

「そんなことは知っているわ」

 プリンセスは、気高く声を張った。

 賊というのは国を荒らすモンスターなどではなく、近隣の下賤な民のことだった。

 やめればいいのに、世間を騒がす悪党だ。

 近隣に住んでいるだけで、何故、悪党になるかって?

 身分が低いからよ、と、彼女は言うだろう。

 しかし、目論見が違った。

 羊毛が高騰しているから、少し、いじわるをしてやろうと思ったのだ。

 教会ではキリシタンが迷える子羊として信者を気取っているが、暖かい羊毛は高貴な存在が得るもので、安っぽいフェルトとは違う。

 だから、キリシタンなど毛織物を纏うには、まだ、若い。

 だから、それを反対する貴族のトリスタンの息子に、アブを送ったら、やましい考えが見え見えで安っぽいのはプリンセスだと返される始末。

 アブというのはスラングで、本当はルビーだった。

 戦士の血が流れて固まるとルビーになる逸話があるが、優しいプリンセスは野蛮なことはしないから、戦士が優しくなりたいのなら、チラシを手折って贈り物にすれば角笛になると教えたら、

「さすがプリンセス様のお国はお心が広い」

と、世辞を出され、

「戦に出る回数が減りました」

と、下々の者に賛辞された。

 これはプリンセスの栄華の一節だ。

 話を戻すが、毛織物の話となる。

 何故、賊が現れたかというと、魔女狩りだった。

 戦士が戦に出る回数が減って、働かなくなると、付近の住民が代わりに戦に出ると決起し、芸術品を荒らしまわった。

 プリンセスの国の美しい街並みは芸術品だ。

 戦場の汚い戦士が集う場所ではない。

 それなのに、下卑た連中がさしでがましく口をはさむとは。

「失礼ながら申し上げます。近隣には火事が多く、ヤニが飛びません。しばらくおヒマをいただけるなら、戦場に馳せ参じましょう」

 文官のサカキが言った。

 サカキとは神職のネキで、戦仕事など仕事ではないのに。

 ヤニというのは、人間だった。

 醜く死に絶えるのは、愚鈍な人間で、儚く砕け散るのなら、麻薬から出る汚れのヤニでいい。

 しかし、ヤニが飛ばないとは困った。

 お父様に叱られてしまうわ。

 偉大なお父様は醜く千切れ飛んだ人間を食べて下さることを贖罪とし、国民は人間ではなく神なのだと定め、物欲から解き放たれた崇高な存在となるために繰り返し生まれるけれど、国を運営するために、つぶてが必要で、儚い命はつぶてなのだとして、世界は続いていた。

 麗しい自分に罪は無いのだと。

 万人に降り注ぐ愛は尊いのだと。

 人々に説くために万人となる。

 そのつぶての中で、悪いつぶてが出たのなら、等しく裁かれるべきなのだ。

 高貴なプリンセスは広場の火刑など無縁の存在。

「やがて散りゆく命に頼りましょう」

と、毒を飲んだ。

 些細な言い訳だった。

 お父様の遠縁の領主が焼け死ねば、血縁によって父親が裁かれる。

 そのために間者を送ったのだけど、音信は途絶えた。

「忌々しい」

 それでもかと、音楽家の目を焼くために、ルネの絵画を飾った。

 落ち穂拾いの踊り子の絵画に、ワイングラスが良く似合う。

 すると、国に公害が起きた。

 公害を嫌がるつぶてが魔女狩りを引き起こし、戦となった。

 皆が神なのだから全てを知る。

 優雅な暮らしに、突然、切り込まれた惨事に立ち上がる者はいなかった。

 身分を捨ててまで、世界を救うなど愚かなこと。

 つぶての迷いをなだめるキリシタンも、やがては病に果てるだろう。

 プリンセスはすっくと立ち上がり、父親の寝室に向かった。

 立派な広間に寝ているのね。

 優しくしてあげるわ。お父様。

 寝室には初老の老紳士が安らかな寝息を立て、時折、いびきをこぼしていた。

 ぐっすりね。

 プリンセスは懐から短剣を取り出すと、一思いに父親の胸に短剣を突き立てた。

「うがあ」

 醜い悲鳴。

 プリンセスはもっていたマシンガンを優雅に構え、微笑んだ。

「かなしいわ、お父様。地獄の嘆きが聞こえそう」

 儚い溜め息だった。

 プリンセスは日頃の重責によって、今にも倒れそうなほど疲弊していた。

 ああ…どうして私がこんな目に…

 プリンセスに降りかかるのは厄災であってはならないのに。

「こんなことになったのは、プリンセスというつぶてを生み出したお父様なのよ」

 プリンセスは、絶叫した。

 プリンセスが撃鉄を起こすとやかましい金属ががなり立て、引き金に重く罪がかかる。

 勇敢なプリンセスは、そんなことにはひるまない。

 麗しく美しい微笑みで、波紋を吹き飛ばすつもりなのだ。

 しばしの銃声の後、プリンセスはマシンガンを下ろした。

 厄介な子だね。

 つぶての罪はお父様となることで、贖われる。

 プリンセスは薄紅色のドレスのボタンを外し、外を眺めた。

「枯らしてくれて、どうもありがとう」

 誰ともなく呟いて、プリンセスは屋敷の外に出た。

 放火の手筈は整っている。

 プリンセスはただ気高くあればいい。

「放火魔よ」

 プリンセスは大声で叫んだ。

 どうせ叫んでも聞こえやしない。

「放火魔よ」

 プリンセスは回るように揺らめいて馬車に乗った。

 ほうと、苦悩の吐息に悩まされていると、同行者が言った。

「宿足りるかな」

「不吉なこと言わないで」

 プリンセスは咎めた。

 プリンセスは知り合いのおじ様の御用命で、お世話になることになった。

「屋敷が火事になるなんて、かわいそうなプリンセス。私が育ててあげよう」

 おじ様はプリンセスのことを、可愛がってくれた。

 頭の足りないおじ様は、プリンセスが緩いと言った。

 訳の分からない関係にこじれそうよ。

 おじ様の屋敷のメイドって、随分、頭が固いのね。

「やぶさかならぬ御用命ですね。当分、来ないで下さい」

 なんて、追い出す時に言うんだもの。

 ああ、眠いわ。

 星の原で眠りましょう。

「厄介なご要件に裁きが下るでしょう」

 星の原の入口で、インケンな乙女が静かに言った。

「まあ」

 私は、お父様なのよ。

 世界のことばかり考えるワールドは暗いのよね。そこの棒読みのブスに咎められるようなことは、プリンセスではないわ。

 プリンセスは、身体の糸を引っ張った。

 突っ張り棒のような糸だ。

「それぞれの闇に届くように」

 プリンセスはささやかな祈りを捧げて、目蓋を閉じた。

「世間体が悪いというのなら、エサになればいいのよ」

 栄華を誇る快楽に欲が飛ぶ。

 千切れ飛んだエサはやがて快楽となり、ヤニとなる。

 人を食べているのではない。つぶてが出す汚れを食べる贖いだ。

 貝柱が焼けて膿となれば、それはやがて星空となり、全てを超越した無へと導く。

 間に地獄をはさむ必要性など無いのだ。

「エサというのは、犬のエサですか?」

 インケンな乙女が問うので、プリンセスは答えた。

「いいえ、ヤニよ」

 プリンセスの麗しい唇が、上弦の弧を描く。赤く引き千切った微笑みはやがて毒を生み、悦となるのだ。

「ヤニ?」

 インケンな乙女が怪訝な顔をする。

「怖がるな」

 美男子の悲鳴を男だと思うなど愚かな…

「まあ、いいわ。やがて、溶けましょう」

 プリンセスは回るように揺らめいて、絵画を待った。

 星屑が千切れ飛んで踊るなら、永遠の舞踏とでも思えばいい。

 悲鳴は悦楽。

 闇は絵画だ。

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