カンニング
直治
カンニング
人生最後の夏休み。一般的に大学生活はそう比喩されているのだという。サークルにアルバイト。趣味に没頭したり、テスト前は友達とオールをしたり、単位をかけては一喜一憂する。
だけどここ私立医学部には、そんな楽し気な大学生活など欠片の一つもない。朝から晩まである授業。教養科目ですら一つでも落とせば留年が確定する上に、医学系の科目は覚えることも膨大で難解なものが多い。その上テストは記述式が当たり前。そんな高難易度の科目は他大学ではなかなか見ることのないものばかり。
高学年になれば病院実習まで追加され、あまりの忙しさに挫折して大学を去る者だっている。一度も留年せずにストレートで卒業できる者は全体の約6割。残りの4割は去らずとも一度か二度の絶望を味わうはめになるのだ。
私、相原詩織は私立医学部に通う一回生だ。四月には念願の医学部へと入学出来たことにはしゃいでいたものの、一か月も立てばその熱はすっかりと冷めてしまった。
度重なるグループワークとその成果発表、あまりにしょぼ過ぎる部活動、下手すると夜まで帰れない実験講義。他の大学よりも一か月ぐらい遅れてやってきた夏休みは西医体(医学部所属サークル専用の大会)への遠征合宿で容赦なく削られ、高校のときよりも夏休みは短かった。
夏休み前の試験に落ちた人たちは再試験を受けるためにもっと短くなると聞いた時は、落ちた人たちが不憫でならなかった。
後期ともなれば、教養科目の難易度は前期よりも一段階高くなり代々の先輩が作ってくれた資料が無ければ付いていけなくなる。私は他人と話すのが得意なタイプだったから、先輩や留年生の友達から資料や過去問を貰って要領よく勉強を進めていた。それでも試験前の二週間は殆ど遊ぶことは出来ず、大学が終わったらすぐに家へ帰って机に向かう日々。
試験が終わった一週間はまさに天国だ。何も気にせずに遊ぶことが出来る。まだ二十歳では無いからお酒は飲めないけど、好きなところに行って好きなことをして遊んだ。
教養科目が終わり、代わりに始まったのは基礎医学の授業。筋肉・神経・骨・消化器・呼吸器・泌尿器etc.人体の構造を細胞レベルから臓器レベルまで隅々まで学ぶ授業。覚えることは膨大。ただの丸暗記ではダメで、理解を伴った深い記憶が要求される。
一度も授業に欠席することはなくノートもしっかりと纏めて、資料や過去問への対策も万全だった。一か月前からは遊びも止めて試験に本腰を入れていたが、一科目も落としてしまった。
私はどちらかというと数学脳だ。暗記が苦手なタイプだというのは重々承知している。受験のときも暗記に頼らない数学の点数で合格を果たした。
それでも努力をすれば試験に落ちることは無い、そう思っていた。確かに先輩からはどんなに努力していても全部を完璧にして試験に臨むことはできない、と。そんなことが出来るのは一部の天才だけで、まずは進級することを目標にして、たとえ落ちたとしても再試験で回収すれば何も問題は無い、と何度も言われてはいた。
その言葉を頭では理解していたつもりになっていた。でも心のどこかで自分は違うと思いたかったのかもしれない。かなり落ち込んだが、数日も経てば無理やりにでもメンタルを立ち直した。そうしないとあと二科目の本試験と一科目の再試験そして進級試験に受からない。ここで挫けたら今までの努力が水泡に帰してしまう。
それに一科目ぐらいで挫折するのはコスパが悪い。中には勉強したのに全ての試験で不合格、いわゆる全落ちになってしまった人もいる。私の友達にも一人、全落ちの人がいる。もっぱら彼女は全然勉強しないタイプだけども。
その友達というのは西原美羽という子で、正直言って地味なタイプ。高校のときの私なら絶対に友達にならなかっただろう。でも話しかけてみると妙に波長が合った。キラキラとした人たちと遊ぶよりも疲れないのだ。だからよく二人きりでご飯を食べに行ったり、美羽の家で一緒に勉強したりしていた。美羽は大学近くのアパートで一人暮らしをしており、良い自習スポットになっていた。
美羽は内向的な性格で、自分の意見をはっきりと言うタイプではない。友達も大学では私しかおらず、昼食の時間になるとひっそりとどこかへ消えてしまう。勉強に対してもどこかやる気がなく。成績は下から五本指入る程で、留年の筆頭候補となっていた。
ある日の再試験前、いつものように私は美羽の家で勉強していた。彼女は言っても中々勉強しないので、半ば強引に美羽の家に押しかけた感じだ。
昼食後に勉強を始めて、外が大分暗くなってきたあたりだ。美羽が不意にポツリと言葉を漏らした。
「詩織ってなんだか良いよね」
普段の美羽なら口にしないような棘を感じさせるような口調だった。でもまだ普通の範疇のようにも思える。空気を悪くしないように出来るだけ感情を押し殺す。
「良いって何が?」
「なんていうか。自分の思い通りになるじゃん?大抵の事は」
一瞬の静寂が室内を支配した。今、口を開けば美羽に対して怒っていることが伝わってしまう。
同じ教室で同じメンバーと同じ授業を受ける医学部では、噂の広まり具合は小中高で経験したものの比ではない。誰かと喧嘩をすれば、その日中には格好の噂の的になり、名前も知らないない教室の隅にいるような人にまで伝わってしまう。たとえここが美羽の部屋で他の人に絶対にバレないとしても、感情のままに怒声を挙げて噂になるリスクを取ることは賢明でない。
「そんなことないよ」
しばらく時間が経ってから私はそっけなくそう返した。私ながら見事に感情を殺して、冷静に返せたと思う。でもそれで心の中に宿った怒りのようなものを消すには至らなかった。
そこからしばらく経った頃再試験を受けに大学へ行くと、ラーニングスペースに美羽の荷物を見つけた。美羽本人はどこかへ出掛けているのか姿は見えない。
椅子に掛かっている美羽の上着を見つめて、ふと悪戯を仕掛けてみたくなった。先日の仕返しだ。
私は適当にメモ用紙に再試験科目のレジュメの内容を書き写した。いわゆるカンニングペーパーというやつだ。もしこれで美羽が怒られたら、鬱蒼としたこの大学ではいいネタになる。
そして一時間後。試験中に美羽は教授に連れられて別室へと連れてかれていった。
美羽が退学したと知ったのは、私が二回生へと進級したときだった。
西原美羽、それが私の名前。
自分で言うのも悲しいけどこの大学では落ちこぼれの部類に入る。それもがっつりと。
入学してから一か月経ったころにあった最初の試験では、一夜漬けで勉強したみたもののあと三点といったところで落ちてしまった。そのあとの前期の試験は全滅。夏休みも再試験とその勉強に殆ど消えて、後期に入ってからはやる気を無くしてまたもや全滅。医学系科目に関しては、授業を聞いているだけでなーにも頭に入っていない。
しかし、私にとって大学で落ちこぼれることは他の人よりもあまり気にはならない。なぜなら没頭できる趣味があるから。
昔から絵を描くのが好きで、暇さえあればノートの片隅にアニメのキャラクターを書いていた。中学生になって親のパソコンをお下がりに貰ってからは、絵を描くのと並行してCGを作ることにもはまり始めた。
だんだんとイラストを描く機会は減ってゆき、大学受験を考える頃にはほぼ毎日CG制作に時間を当てるようになった。作り上げたアニメーションは週一ぐらいの頻度で動画サイトに投稿をしている。それなりの良い反応を毎回得ており、我ながらちょっとしたネット有名人だ。
だからたとえ学校で喋る友達がいなくても、全く気にはならない。むしろ、次に投稿するアニメのアイデアを練るのに学校で独りというのは時間が出来てとても都合が良かった。
しかし、それでも将来のことを考えなくてならない。このままダラダラと趣味を続けていればニートになることは間違いない。
漠然とした焦りを抱えていた私の進路希望のアンケート用紙には二つの学部の名前が並んでいた。一つは専門学校のCG学科。もう一つは医学部。
本当は大学でCGについて学びたかったが、趣味ではなく勉学としてCGの勉強をしたとき、私は好きで居続けられるか不安だったのだ。
前にこんな言葉を聞いたことがある。『好きを仕事にするべきでない』至極真っ当な言葉だと思う。趣味は趣味だから楽しいのだ。特に創造的な仕事において、自分の作りたいものとは違うものを作って楽しいわけがない。それに私の親が医者で私立医学部だろうと経済面では援助すると言ってくれた。
結局、私は一年間の浪人を経て私立医大へと合格を果たした。現役時代での受験生活も浪人生活もあまり苦では無かった。時間の隙間を見つけてはCG制作には取り掛かっていた。それに何より今まで勉強をしてこなかった分、成績が努力に正比例していくのは痛快な気分だった。
なにはともあれこれでしっかりとした社会的地位を得ることが出来た。これから思う存分趣味のCGに時間を割こう。そう決めていたがそう上手くはいかない。
入学してからは地獄の連続だった。
入部の強制。資料を貰うためだけの人間関係。度重なるグループワーク。
今まで一人で生きてきた私が苦手なものばかりで、大学へ行くのに苦痛を感じるようになるまでにそう時間は掛からなかった。
不思議なことにそんな私でも友達は出来る。これもまた医学部の異常なところだと思う。独りで勉強をすれば絶対に留年するという強迫感に駆られた人たちが誰振り構わず話しかけてくるのだ。こちらが拒絶しない限りは友達の一人ぐらい簡単に出来てしまう。
相原詩織も誰振り構わないその一人だった。
どうして彼女が私の元に残ったかは分からない。でも友達作り合戦が終わっても残ってくれた唯一の友達だった。
でもこれが間違いだった。今までまともな人間関係を築いてこなかった私は拒否するという行為に対して異常なまでの恐怖感を抱いている。
詩織の言われるままに一緒の部活に入り、一緒にご飯を食べに行き、一緒に遊んだりもした。本当は趣味のCG制作をしたかったけど、拒絶する恐怖感に負けてズルズル彼女に付き合った。
べつに詩織から特別高圧的な態度を取られていたわけではない。単純に私が異常なんだ。今まで、他人とのコミュニケーションから逃げてきた私が悪い。自分でもうんざりするほど意思疎通が下手くそ。頷くだけが私に出来る唯一の社交手段。
こんな私の無能ぶりを察してくれ、と詩織に願うつもりはまったく無い。それでも彼女との人間関係にはストレスが溜まっていた。
そんなある日、私のストレスが爆発した事件いや事件ですらない小さな出来事が起きた。
せっかくの休日に詩織が私の家へと押しかけてきたのだ。テスト前とはいえ休日だ。仕上げたいCGアニメのアイデアがたくさん溜まっていたというのに、彼女の襲撃で全て台無しになってしまった。
昼過ぎから始まった勉強会。私は数時間もタブレットに表示されているレジュメをスクロールしては次のファイルへとを繰り返していた。あまりに無意味な時間が過ぎていく。
するとだんだんと詩織に対して腹が立ってきた。もしかすると拒絶できない自分にも腹が立っていたのかもしれない。気が付くと気持ちを言葉に載せて声に出していた。
「詩織ってなんだか良いよね」
しまった、と思うのも束の間。彼女から言葉が返ってくる。
「良いって何が?」
「なんていうか。自分の思い通りになるじゃん?大抵の事は」
私は感情のままに口にした。怒気を孕んだ口調では無いものの、明らか棘のある言葉を使っている。言い放った直後には、まるで大作アニメを投稿したばかりの動悸が胸を打った。
「そんなことないよ」
そんな私とは対照的に詩織は冷静に答えた。それが何だかとても悔しい。
その日はもう二時間ほど勉強して詩織が帰った後、夜が明けるまでCG制作に取り掛かった。
再試験が近づくと、ストレスからか吐き気を催すことが多くなった。それなのに、私は勉強なんかせずにより一層CGアニメの制作に没頭した。
決して勉強から逃げていたわけじゃない。精神的に追い詰められるとアイデアが溢れてくる。日常の何もない光景を見て思いついてしまう。頭の中で小さな爆発が起きたらすぐにPCへと向かう日々。
再試験の日が徐々に迫って来るのは胃痛だったが、追い詰められながら作品を作り上げるのは一種の麻薬的快楽だ。私は自分に酔いしれていた。
ここまでCGに没頭すると退学を考え始めていた。今からでも遅くはない。CG制作の道を歩もう、そう決心が固まりつつあった。そうでもしないと再試験をノー勉で挑むことなんかできない。
でも私には医学部を辞めて、引いては学歴のレールから外れて趣味を追う決心をつけることができなかった。案の定、親も退学に関しては否定的だ。
誰かが私の背を押してくれれば歩き出せる。そんなありもしない幻想を抱きながら午後からの再試験の勉強をしに、午前から大学のラーニングスぺースでタブレットとにらめっこをしている。
家で独りだとストレスで壊れてしまいそうな気がしたから、とにかく大学へ来たもののいまさら勉強する気にはなれない。
再試験まであと三十分ぐらい、ネットニュース巡りにも飽きて売店へと足を運んだ。少し歩きたい気分だった。
帰ると遠くのブースに詩織の姿を見つけた。どうせ私は留年か退学だ。優等生の彼女は進級するだろう。こちらから話すことは何も無いし、話しかけるだけの勇気も無い。
そして再試験十五分前になり、椅子に掛けておいた上着を纏った。
ラーニングスペースから講義室へのエレベーターの中で私は上着のポケットの中へと手を入れた。理由はなんとなく寒かったから。
かさっ、という音と共に紙の感触が指に伝わる。おそるおそるポケットからその紙を取り出すと誰かのカンニングペーパーだった。びっしりとレジュメの内容が書き記されている。
私はそれをポケットの奥へと押し込むと、興奮が冷めやらぬまま講義室の中へと入った。
試験の説明が始り、不正行為に対する注意と処罰を教授が話している。
あのカンニングペーパーはおそらく詩織が入れたものだろう。私に字を似せているけど一目瞭然だ。彼女のことを恨んでなどいない、むしろ感謝している。
試験が始まった。ポケットの奥に潜ませているカンニングペーパーはなかなかバレない。
テストも半ばに迫った頃、私は手を挙げて教授を呼んだ。
「上着を脱ぎたいです」
教授はそれを了承し、私は脱いだ上着を教授に渡す。
教授は私の上着を裏返したりひっくり返したりして、入念に調査した。するとポケットの中から一枚の紙が、目論見通りに落ちた。あとは全て予想通りの顛末だ。
カンニングがバレて留年処分となった私はすぐさま退学届を申請し受理された。
親に怒られることを覚悟していたが、医学部での勉強に私がしんどい思いをしていることを知ってくれていたおかげか、ほんのちょっとしか怒られずむしろ心配された。
三月の半ば春休み。引っ越しが終わって何もなくなり、音がよく反響する部屋に独り私は立っていた。丁度一年前、この部屋に入居したときは何が必要なのか分からなくて大きな荷物を持ってきた。それがつい先週のように思える。
もうここに帰って来ることは無い、という寂しさに思いを馳せつつアパートを後にして最寄りの駅へと歩き出した。
通過する電車の音も、春の暖かな空気も、雲一つない青空も、全てが爽快に感じられる。駅から見える医大はもはや過去のものだ。
実家へと帰る電車の揺られ具合は一年前よりも遥かに心地が良かった。もう二度と経験することの無いだろう揺れに身を任せながら耳にイヤホンを付けて静かな曲を流した。
新学期が始まれば、カンニングの噂が瞬く間に拡散されるだろう。でも渦中の私はあいつらの声の届かないところにいる。その渦の中で、ただ一人真実を知る詩織はどれほどの重圧を背負うのだろう?もしかしたら何も感じないのかもしれない。
だけどそれでいい。これは私にできるせめてもの仕返しなのだから。それに詩織には感謝している。
「ありがとう。背中を押してくれて」
車窓に向かって呟いた小さな声は電車の音にかき消され、私の心の中で何度も反響した。
カンニング 直治 @Naochi-Yot
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
日々徒然カクヨム日記/にゃべ♪
★317 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1,077話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます