第10話 わたしには勿体ないものなんて何もない
「あなたが写真部の物好きな1年生かな?」
後ろから、やや低めの大人っぽい女性の声がした。
振り向くと、ジャージ姿の女性。たしか体育の先生で、このサッカー部の顧問兼監督だ。と考えた瞬間に無意識に体が反応するように、わたしは立ち上がってビシッと気を付けの姿勢を取り、その女性に向かって腰でぴったり90度折れるように頭を下げていた。ぶんっと音がしそうな勢いで。
「写真部1年、長谷川
頭を下げたまま大きな声で挨拶をすると、女性がくくっと笑った。
「長谷川、軍隊の挨拶みたい、それ」
恥ずかしい。普通の女子高生っぽい、可愛い挨拶をしたいのだけれど、中学校時代に監督や先輩には、こうやって挨拶するのが普通だと教え込まれてきたため、咄嗟にはその癖が抜けない。
ふーっと息を吐いて、ゆっくりと顔を上げる。先生と目が合って一気に緊張した。
「大きいね」
「はい!」
「声も大きい」
「はい!」
「いいから力を抜いて」
「はい!!」
力を抜けって言ってるのに、と言って、ぷはっと先生が笑った。
「女子サッカー部の監督の大久保だよ。写真部の顧問の先生から話は聞いてる。長谷川は西澤の友達で、西澤とか女子サッカー部の写真を撮りたいんだって?」
「はい!頑張ります。まだ超初心者なので、下手くそな写真しか撮れないと思いますが、練習させて下さい!!」
わたしは気を付けの姿勢を取ったまま大声で一気に言った。かなり緊張していたが、大久保先生の笑った目と目尻のこじわが優しそうで、内心では少しほっとしていた。ニシザーは、この先生のこと、ちゃんと練習していれば優しいって言ってたっけ。
「いい写真ができたら、私にも分けて」
「はい!!」
「……バスケ部の顧問の先生が、とても長谷川のことを残念がっていたよ。勿体ないって」
静かな声で大久保先生が言った。頬が少しだけひきつったのを感じた。 `
もったいないかあ。
「先生、質問してよろしいですか?」
直立不動のまま質問すると先生は頷いた。
「何が、勿体ないのでしょうか?」
「長谷川?」
先生が目を丸くした。そして頭を掻いた。
「いや、気を悪くしたのなら謝るよ」
「あ、怒ってるわけでも謝ってほしいわけでもないです。すみません」
そう言って、また、ぶんっと音がしそうなくらい思い切り直角に頭を下げた。
「自分がバスケをやめると言い出してから、何人もの方から勿体ないと言っていただきました。でも、自分には何が勿体ないのか、ちゃんと理解できないんです」
「顔上げて、長谷川」
「はい!!」
またまた、ぶんっと音がしそうなくらい、思い切り顔を上げて気を付けの姿勢に戻った。
一人称が「自分」になってしまっている。
「長谷川はバスケに未練がないの?」
「ありません!」
その断言に先生は苦笑する。
「長谷川がそのままバスケを続けていたら全国大会でも活躍した可能性が高い。そして、プロになったりオリンピックに出たりしたかもしれない。誰もが得られるわけではない栄誉を得られる可能性を長谷川が捨てたように見える、それが勿体ない。みんなそういう意味で言っているだろうね」
「それは頭では理解できます」
そう言うと、先生はわたしの心臓辺りを指差した。
「そこ、心では理解できない、いや、したくないんだな」
「はい!自分の中では何一つ勿体なくありません」
「潔すぎる」
「お金持ちがお金を捨てるみたいに勿体ないと言われているのは理解できます。でも、自分にとっては何もかも全財産を遣い切って何も残っていないんです。何も持ってないのに捨てたとか勿体ないとか言われているような感じがずっとして気持ちが悪いんです。分かっていただけるでしょうか」
先生は両腕を胸の前で組み、首を曲げて少し顔をしかめた。
「あー、んんん、私なんかには分かるような分からないような、だなあ、少し考えさせてくれる?」
安易に「分かる」と同意されても信じられないし、「分からない」と言われたら拒否されたように感じる。簡単には口に出せないという先生の答は、自分の質問を大事に考えようとしてもらえたようで納得できた。
「いえ、先生を煩わせるような話ではないです。聞いていただいてありがとうございました!!」
礼を言って、またぶんっと頭を下げた。
「長谷川って面白い子だね」
語尾に微かに笑い声が滲んだ。
「ありがとうございます!」
お礼を言ってから、褒められてないことに気付いて、90度に腰を曲げて頭を下げたまま先生に見えないように苦笑いした。
「さっき何を先生に謝ってたん?」
練習後、1年生たちは河川敷グラウンドに残って片付けや整備をしている。1年生は8人いて、わたしと同じクラスの子も一人いる。グラウンドに空いた穴を埋めて地面をならしているニシザーに近付きながらシャッターを切ると、ニシザーの方から話し掛けられた。
「え、謝ってないよ」
そう答えると、ニシザーがベンチを指差して言う。
「さっき、ベンチのとこで大久保先生にペコペコしてた」
「ペコペコ?」
「こんな感じ」
ニシザーは、直立不動からぶんぶんっと2、3回直角に腰を曲げて見せる。
うわあ、わたし、そんな感じで先生と話してたのか。
「それさ、そのぺこぺこ、わたしが中学ん時いたバスケ部の普通の挨拶だったんだけど」
「……うそ」
そんな反応に、はははっと笑った。この学校の運動部にはそんな風に頭を下げる文化はないらしい。
「ニシザー、一緒に帰れる?」
そう尋ねると軽く首を振られた。
「ちょっとだけ自主練する」
断られてしまったが、食い下がってみることにした。
「見てっていい?」
「ほんと物好きだね、ハセガー」
ニシザーはくすりと鼻を鳴らした。
好きなのは物じゃなくて
そこで思考を停止する。それ以上は考えちゃ駄目だと思う。
でも、その視線の先にいるのは西澤雅だ。
部員で残って居残り練習するのはニシザーだけだった。他の子達は受験が終わって高校生になったばかりで体力が付いていかないらしい。
「あたしは帰る♪」
視界にゴトゥーが飛び込んで、三回くるくるっと回って消えていった。
「ゴトゥーって、とにかくキャラ立ってるなあ」
体力が余ってるというより脳の構造が違うんじゃないか。
「あれは、人間とか女子高生じゃなくて、ああいう生き物だと思ってた方がいいん。サッカーは上手いから、もう、それ以上を求めちゃダメ」
ニシザーは達観しているようだった。
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