第2話
想像できるだろうか。俺の痛みは常に、俺につきまとっていたということを。
一日に七、八回は直面しなければならない痛みだ。俺の痛みには形がある。物理的な実体のある痛みだ。それは傷跡の形をしており、醜い肉の切れ端で、生々しい縫い痕で、惨めな欠落だ。忘れる隙間もなく見せつけられる。そうだろう? よそ見運転は危険だ。以前よりコントロールしにくいとなればなおさらだ。ノーハンドの代償は適切な目視での確認だ。女も立ってできると知って、どれだけ俺が傷つけられたことか。
俺は猫背になり、踵に体重をかけた妙な立ち方になった。腰のひけたジジくさい姿勢だ。丈の長い上着を好むようになった。道行く男の膨らみに目をやる機会が増え、いつバレやしないかと怯えるようになった。男性用トイレに羞恥心がつきまとい、俺は堂々と立っていることさえはばかられた。わかるだろうか、俺は完全に自信をなくしていた。
俺は俺というアイデンティティから、ごっそりと俺の塊を切り離してしまったのだ。もとの6割、7割の俺で、どうやって張り切れというのだろう。
俺を苦しめたのはプライドの欠損ばかりではない。
さらなる悲劇はコーヒーショップで起こった。
痩せぎすの、格好ばかりが派手な女が目の前をよぎった。鮮やかなブルースカイの毛束が耳元から垂れ、穴だらけの耳朶は黒ずみ、赤く膿んでいるものもあった。かすれた声で女はコーヒーのサイズを問うた。かろうじて聞き取れる程度の無愛想な女。隈が濃いのか、赤く腫れぼったいのか、そういうメイクなのか。長袖の下に、スキニを履いた下に、白や赤のラインが刻まれていたってなんの不思議もない。そういう傾いた女だ。こんな不健康な女がほんとうに店員なのか?
あの夜を思い出させる。不安定で、傾いだ、穴だらけの不完全な女。
まったくモーニングに不釣り合いだ。
「……トールで、」
コーヒーの利尿作用が頭をかすめたが、どうしたってショートと口にすることはプライドが許さなかった。
代金を支払い、コーヒーを待つ間、俺はあの夜の熱い滾りがフラッシュバックしてきた。鼓動が太く近くなり、理性が揺るがされる夜の熱病だ。俺のモノはそこにはない。肝心の、股下から突き上げてくる期待がない。興奮に隔たりがある。分厚い防音壁越しのライブに聞き耳を立てているようなものだ。
代わりに与えられたのは痛みだ。
俺は下腹部を抑えて、身体を折り曲げる。
興奮はない。期待もない。そこに隆起を感じる。切ってしまえば性欲を思い出すことも難しいなんて嘘だ。俺は今後一切、インターネットの体験談を信じないだろう。
俺には性欲があった。
欲の実体があった。
切り取られたはずの、肉体の影が焼き付いていた。
俺の、小さな俺自身に、脳に残った肉体の影があって、その影が股間に焼け付いていた。
目を瞑ると、はっきり感じるのだ。はち切れんばかりにジーンズの布地を押し上げる性欲の塊が。テストステロンが張り切りすぎてしまった、十代の若さを思い出したような張りだ。ボクサーパンツの布地越しに押し付けられる、邪魔くさいファスナーの硬ささえ感じるほどに。
目を開ける。ジーンズの股間に膨らみはない。当然だ、平坦ですらある。最近では尻周りの筋肉が落ち、レディースだって違和感がないだろう。
そいつは過去の幻影で、俺がどういう女が好みで、どういうシチュエーションや、仕草、角度に興奮を覚えるのか、すべてを記憶している。俺よりも遥かにまめで勤勉な俺の脳は、性欲の既視感に囚われ、逐一股間に隆起する幻となってリマインダする。設定変更のやり方を忘れた俺は、時間を問わずかき鳴らされるアラームに悩まされる。そんな状況だ。
幻というものは本当に厄介だ。擦ろうと手を伸ばしても、指先は空を切る。フラストレーションは高まりこそすれ、解消されることはない。はけ口を失って暴発寸前まで膨らむが、けして弾けることはない。それは幻で、妄想で、頭蓋骨の内側にしか存在しないものだからだ。
頭蓋を内側から圧迫する幻はひどく痛みだした。頭痛じゃない。痛みは股間からやってくる。握ることのできない、はち切れんばかりに怒張した、生き別れた俺の幽霊が、寂しがって痛むのだ。
「肉体の妄想を離れて」
女が耳元で囁いた。
正直、俺はこのときまともに話を聞ける状態になかった。ホットかアイスかを聞き直されたのかと思って、「アツアツだ」と答えた。その言葉を聞いて、意識に留めたのは俺の中で俺だけだった。
女の指先が、視界をひらひらと舞った。
象形文字の連なったようなシルバーのリング。青痣と蒙古斑をコラージュしたような不気味な爪がコーヒーの紙コップを掴んでいる。深い焙煎の香りが、脳内にカフェインを想起させた。落ち着けよ、と背中をさする湯気に、いきり立った俺の痛みも多少の柔和さを取り戻す。女は目線でトイレを示し、カップを押し付けた。
カフェのトイレは狭苦しいコンクリートブロックに囲まれた、穴蔵を思わせる場所だった。地下にあるライブハウスのような、若気と夜の収蔵庫だった。乱痴気騒ぎとスピーカーの低音の振動と雑多な息がそっくりそのまま保存されていた。壁は落書きだらけで汚く、酸っぱい匂いが閉じ込められ、掃除されていないバスタブの、黒や赤や緑のカビが繁栄して王国を築いている。チクショウ、なんて不潔さだ。
扉を叩き開け、個室に転がり込んだ。ファスナーを下ろすことももどかしく、ベルトを緩めジーンズをずり落とす。取り乱した猿は、閉じられたボックスのなかでシェイクする。俺は混乱して叫んだ。俺の股間にいきり立っていた痛みは、まさに矛盾の塊だった。俺は隆起するあべこべに手を伸ばし、いつものように擦り上げようとした。はち切れんばかりに血液を溜め込んだ、パンパンの性欲にはけ口を与え逃がしてやるのだ。手に馴染んだ、いつものやり方だ。
右手は空を切る。右手のやつが、俺の最も信頼するやつが、俺を裏切ったのは生まれて初めてのことだった。今や、俺は自分の五感に欺かれている。とんでもない欺瞞だ。生まれてこの方、信じてきた現実世界の地盤が揺れている。
俺はいつもヤッているように、犬のように興奮する俺を鎮めたいだけだ。
よだれを垂らし、息を荒げ、目を血走らせた俺。
ない。俺にはもうついていない。切り取られた。理解している。皮膚を突っ張る痛みが、尻の下から突き上げる滾りが、俺自身の五感が、否定している。
個室には俺の痛みが満ち満ちていた。排水口は目詰まりを起こし、飲み込みかけた汚物までも逆流していた。
硬い蕾のような、海綿体の切り株に指先を這わせる。
擦る。こすりつける。まるで女の、小さな芽みたいになってしまった俺の切り株を。摩擦し、つねり、刺激する。次第に皮膚はあかぎれ、血が滲み、手術の傷跡が別の痛みを訴えはじめる。痛みはメロディとベースに分かれ、脳を左右から打ち付ける。二重奏か。デンプシーだ。俺にはどちらが本物の痛みなのか、判別することはできない。
痛みで萎えさせようとも無駄だった。俺の幻の陰茎は、実体を持たない幽霊だ。握ることもできなければ、精子を吐き出す口も持たない。
俺は苦しみ抜いた挙げ句、先ほど買ったばかりのアツアツのコーヒーを股間にぶちまけた。術後できれいに剃り上げられていたおかげで陰毛はなく、素肌を爛れさせただけだった。不幸中の幸いともいうべきか、コーヒーの焙煎された香りが個室に充満し、混乱していた脳内をわずかながらにリラックスさせた。幻の勃起により、混沌としていた脳が冷静さを取り戻した。
カフェインは母親の乳のように包んだ。ミルクたっぷりだ。
俺はどっかりと便座に腰をおろし、じっと耐えた。
息を吐き、馬鹿な自傷行為をやめ、嵐が過ぎ去るのを待った。
目を閉じ、男にとって最大のおまじないである母親の顔を思い浮かべた。
五分、十分。砂時計の砂が落ちるように、痛みが流れ落ちていく。じんわりと体内から波が引いていくのを感じる。収まってくれてよかったと、息を吐く。幻が本物の性欲と変わらないものだったことは、唯一マシな発見だった。俺はそんなことにも気がついていなかった。本物と同じであってくれと祈っていただけだ。
俺は頭を抱えた。考えられる原因はいくつかあった。医者の腕が悪かったせいで、神経の根っこが障っているのだとか。抗生物質の効きが甘く、組織が再び化膿しているのだとか。意識せずにはいられなかった。自分の身体が、俺自身が誤っているのだと。
俺は不完全な男だった。
頭を抱えた手の中に、握りつぶした紙コップが残されていた。
コップには油性ペンでメッセージが書き残されている。店員の女のものだろう。
『肉体を解放せよ』
短いメッセージから視線をあげる。まるで意味不明だ。
そのメッセージが呼び水になって、些細なことが気にかかる。普段なら気にもしない壁の落書き。無意識的に無視しているメッセージの洪水から、俺は的確に読み上げてしまう。キーワードが目に付く。俺にしか、俺のような奴にしか読み取れない暗号たち。
個室の壁にはいくつもの落書きが残されている。陰謀論の熾火、革新者たちの夕べ、夜に泳がされた息子たちの嘆き。マスターピースも、落書きも、懐かしのピンクビラも。すべてが混沌となり、磔にされていた。
『あなたを解放せよ』
失ったあなたへ。欠落者の集い。身体改造のすべて。穴塞ぎのジョニー・ベイン。
目の覚める文体で、詳細な集合場所が記されていた。
また、夜に逢いましょう。
疼きは身を潜めただけだ。再び目を覚ますだろう。俺が治ってしまわない限り。俺にはわかっていた。手酷い別れ方をした女とはまた出会う。それも最悪な形で。それと同じこと。
俺にはわかりきっていたことだ。
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